鵺の泪[アキハル妖怪シリーズ①]

神﨑なおはる

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第46話『周章狼狽③-シュウショウロウバイ-』

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 西澤顕人と滝田晴臣がゴミ集積場に入るが、外の街灯の明るさに目が慣れていたせいか顕人には暗さが視界を覆い、中の様子が全くわからなかった。だけど微かに金属が何かに擦れるような音が耳に入り、顕人は思わず息を飲む。
『彼女』がいる。
 後ろの入口から僅かに入ってくる明るさを頼りに場内を見ようと目を凝らすが何も見えない。
 晴臣はどうかと、顕人が隣りに立つ顕人に視線だけ向けると、晴臣はまるで暗闇に潜む『彼女』の姿が見えているのか、ある一点とじっと見つめていた。今といい、監視カメラの映像といい、夕方の林の中といい、晴臣の目には赤外線でも付いているのかと疑いたくなレベルだ。
 顕人が訝しんでいると晴臣は小声で「アキ、電気」と呟くので慌てて壁際に向かい場内の照明スイッチを探す。持っていた高圧洗浄機も壁際に取り敢えず置いて壁に触れる。確か入ってすぐ右手の方にあると古橋は言っていたのを思い出して、顕人は壁に手を這わす。すぐに指先が壁とは違う凹凸の感触を見つけて、スイッチらしきものを押すと、暗かった場内が一気に明るくなる。
 上からの目を刺すような眩しい光に顕人は目を眩ませながら、晴臣が顔を向けている方向を見ようと耐える。

 そこには影があった。
 顕人の光で眩んだ目は、ゴミ集積場の中央に影だけが取り残されているかのように捉えた。影だけが空間に焼き付いている。
 それは昨晩の図書館からの帰り道に似ていたが、上からの光が強いせいか、昨晩よりもより濃く暗い影が浮いていて思わず顕人は身体が強張る。
 彼女はフードを深く被っていたが、隙間から彼女の表情が少し見えた。その表情は青白く目は虚ろだった。
 そんな彼女に、顕人は恐怖よりも心配が勝つ。きっと、数時間前よりも彼女のことを知ったからだろう。やっぱり夕方からの出来事で、身体が痛むのではないか。救急車を呼ぶべきか。そんな心配が顕人の脳裏を埋めていく。

 彼女はフードの隙間から顕人と晴臣を見ていた。その表情は暗く、唇は真一文字に閉じられている。薄らを見える瞳はまるで泥水のように濁って見えたが、その中には明確な敵意が浮いている。その右手には鉄パイプが握られており、その敵意をより明確なものにしていた。
 やはり彼女にとって顕人と晴臣は紛うことなく『敵』であることがわかる。
 その視線に刺されながらも、顕人は恐る恐る彼女に声をかける。

「あの、鹿嶋かしま美須々みすずさん、ですよね」
 そう顕人が声をかけるが、彼女の表情は全く動かない。まるで顕人の声が届いていないかのような……。それでも負けじと顕人は話し続ける。
「俺とこいつは室江せんぱ、あの、室江崇矢さんの後輩です」
 顕人は晴臣の袖を軽く引っ張って説明する。
 彼女は、室江の名前を出した瞬間、僅かに肩を震わせた。反応はある。聞こえている。彼女に自分の言葉が届いたことに安心しながらも、顕人は続ける。

「室江先輩は自分を助けてくれたメモ用紙の差出人を探してます。お礼が言いたいって……。あれを書いたのは美須々さんですよね?」
 そう言い放った途端、彼女の口元が歪む。彼女がどういう心境かはわからないが、反応があるならばと、顕人は更に続ける。
「『田村八重子』さんや『あんり』さんは美須々さんの変装ですよね? 変装して自分の正体を隠しながら室江先輩を助けていたんじゃないんですか?」
 静かなゴミ集積場に顕人の声が響く。
 顕人の言葉を聞きながら、彼女は左手でフードの上から頭を押さえて表情を歪ませが、何処か苦しそうにも見える。彼女は鉄パイプを握り直しながら、何かを呟いている様子だが、その声は顕人にも晴臣にも届かない。
 まるで呪詛のように彼女のひび割れたように聞き取りにくい声が落とされていく。

 夕方から感じていたが、彼女の様子は明らかにおかしい。
 とてもじゃないが、正常な状態ではない。
 不安定で、先程は確かに顕人達を見据えていた瞳も、今は焦点が合わずに揺れている。

「あの、美須々さん……!」
 顕人が彼女を呼ぶ。
 すると一瞬、彼女は確かに顕人を見た。そして口をゆっくりと開いて呟く。

「私は、もう、自分が誰なのかが、わからない」
 猿なのか、狸なのか、虎なのか、蛇なのか。
 美須々なのか、八重子なのか、あんりなのか。
 化物なのか、人間なのか、そうじゃないのか。
 もうわからない。

 私は一体誰?

 彼女はまるで錯乱しているかのように捲し立てる。それまでぎゅっと握り締めていた鉄パイプが彼女の手から離れ、コンクリートの床にからんと高い音を立てて転がる。彼女は空いた両手で頭を掻き毟るように押さえて、床にうずくまる。
 頭を床のコンクリートに擦りつけるように何度も打ち付ける姿に、顕人と晴臣は衝撃を受ける。
 止めさせなくては。
 彼女の異常に二人は駆け寄ろうと一歩踏み出すが、途端に、彼女の動きはぴたりと止まる。強制終了された後、再起動されたかのように彼女はゆっくりと身体を起こす。その際に被っていたフードは後ろへと落ちていく。
 彼女は振り乱した髪の隙間から、顕人と晴臣を見た。
「美須々さん?」
 顕人が彼女の静けさに慄きながらも声をかける。
 すると彼女は目を剥いて「違う!」と叫ぶ。
 空気を揺らすような声量に二人は驚かされる。
 彼女は壊れた音楽データのように、違う、と繰り返しながら転がっていた鉄パイプに手を伸ばす。
 それに反応するように、晴臣はデッキブラシを構える。その様子に顕人は慌てて後ろに下がり、壁際に置いていた高圧洗浄機を手に持つ。
 彼女は鉄パイプを両手で握ると勢いよく振り回す。手前にいる晴臣を狙っている様子はないものの、乱暴に宛てもなく、空気を裂くように振り回す。
 晴臣は鉄パイプが当たらないような距離を保ちながら、顕人に彼女の背後に回るように指で示す。
 この状況は顕人よりも晴臣の方が断然判断能力が高いのを理解している顕人は示されるまま高圧洗浄機を持って急いで移動する。
 高圧洗浄機の水圧をやや控えめにして、顕人は彼女の背中目掛けて水を噴射する。
 ノズルから飛び出す水はまるでレーザーのように彼女の背中に見事当たる。彼女はその衝撃に前のめりになるが、そのタイミングで晴臣は彼女との間合いを詰めて、デッキブラシを彼女へ突き出す。ブラシ部分を鉄パイプに引っ掛けると力を込めてデッキブラシを引く。鉄パイプは後ろから押してくる水と、前から鉄パイプを引っ張るデッキブラシの力に押され鉄パイプを離してしまう。
 鉄パイプは尚も勢いよく出続ける水に押されて晴臣の方へ流されるが、晴臣はその鉄パイプを踏みつけて彼女から奪う。

 このまま彼女は止まってくれるか。

 そう顕人は願うように気持ちで彼女を見るが、彼女は水に押されるように走り出す。晴臣に向かっていくのか。そう思ったが、彼女は晴臣ではなく、入口の方へ走る。
 逃げる気なのか。
 それは拙い。そうなったら、彼女は警察に連行されてしまう。
 それじゃあきっと、彼女の中では何も変わらない。
 彼女は、今、室江と向き合わないといけないのに。
「美須々さん!」
 行かない。
 そう叫ぼうとしたが、彼女は入口に辿り付きゴミ集積場を出て行く、ことはなかった。

 彼女は、ゴミ集積場にやってきた人物にぶつかってしまい、よろよろと尻餅をついてしまう。
 しまった、別の生徒が来てしまったか。それとも警備部か。
 そう思ったが、顕人は、そして晴臣はやってきた人物を見て言葉を失った。

 彼女がぶつかったのは、室江崇矢だった。
 その後ろには宮准教授もいて、宮准教授はたった今室江にぶつかった彼女と、顕人と晴臣を見て「間に合った」と小さく呟く。

 彼女は硬直していた。
 コンクリートの床に座り込んだまま、彼女は動けないでいた。
 その瞳はまっすぐに目の前にいる室江に向いていて、室江も彼女を見ていた。
 彼女の表情はまるで憑き物が落ちたようで、先程までの暗さが水と一緒に流れていったかのように思えた。
 彼女の前には、ずっと逢いたくて逢いたくて、でももう対面することが適わないと思っていた室江の姿。
 嬉しさ、喜び。だけどこれまでしてきたことを思えば、戸惑いや恐怖も湧き上がっているのかもしれない。
 そんな清濁ごちゃ混ぜになった感情が彼女を動けなくした。
 顕人は固唾を飲んで、状況を見守る。
 二人を対面させたいという気持ちはあったが、いざ、その状況になってどうなるかわからない不安に顕人も動けないでいた。
 晴臣と宮准教授も、黙って二人を見ていた。

 先に動いたのは室江だった。
 彼は、座り込む彼女の前に膝をついてしゃがみこむと、泣きそうな笑みを浮かべてこう言った。

「母さん」

 その瞬間、彼女が『誰』であるか確定したのかもしれない。
 青白かった彼女の顔が急に血色を取り戻したかのように真っ赤になって、彼女はぼろぼろと涙を流しながら両手で顔を隠して泣き出した。
 室江はそんな母に「一人にしてごめん」と言いながら、いつの間にか随分小さくなった母の背中を何度も摩った。
 宮准教授は、小さく息を吐くと先にゴミ集積場の外へと出て行く。
 顕人と晴臣は、大凡おおよそ十年ぶりくらいになる親子の再会に顔を見合わせて少し笑った。

 こうして、鵺は、姿を消した。
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