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1巻
1-2
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「あのさ。……俺、昨日バース性の検査を受けてきたんだ。正式にΩであることが判明したよ」
「……そうか」
案の定だった。鈴木は小柄で、女と見違えるくらいに可愛らしい見た目だから、納得しかない。……俺と、違って。
鈴木は男にしては襟足の長い髪をかき上げて、その白いうなじを晒した。
「だから、畑仲くんにここを噛んでほしくて。……どうか、俺を畑仲くんの番にしてください」
「番」――それはαとΩにおいて、絶対的な性行為のパートナーのことだ。
αは、Ωを「番」にしたい時――否、ヒート期間のΩが自分に抱かれなければ満足できなくなるような、強制縛りプレイを望む時、性交中にΩのうなじを噛む。
うなじに存在するΩ特有の器官が、αの唾液に含まれる特殊な成分を受け取ることで生殖器官に特別な働きかけをし、唾液の主と同じ遺伝子を察知した時にしか「イけなく」させるのだ。
そのため、番ができたΩは番以外のαとはどれだけ性行為をしても満たされることがなくなる。
番の匂いがついて他のαへの牽制にはなるが、それでもΩにとってデメリットが多い行為だ。
αにとっては番のΩを縛りつけられるうえに、他のΩの匂いにあてられにくくなるという、メリットばかりの行為ではあるが。
そんな行為を自ら望む鈴木の気持ちが理解できなかった。
そもそも俺たちはまだバース性が判明したばかりの学生だ。仮に俺がαだったとしても、誰かを一生縛る契約を結ぶだなんて重すぎる。
「番契約だなんて、俺たちにはまだ早いだろ。もっと自分の体を大事にしろよ、鈴木。……悪いけど、俺は学園在学中、誰とも番になる気はねぇから」
さすがに現時点で特別親しいわけでもない鈴木に、自分がΩであったことを打ち明けるわけにはいかない。俺を好きだと言ってくれた鈴木を、できるだけ傷つけないように言葉を選んで、続ける。
「ただ……気持ちはうれしかった。よかったら、これからはダチとして……」
「っ友達なんていやだ!」
「っ!?」
次の瞬間。タックルをするように抱き着いてきた鈴木によって、俺は床に押し倒されていた。
本来だったら、小柄で華奢な鈴木にぶつかられたところで、簡単に跳ねのけられた自信がある。だけど俺は自分のバース性のことで思い悩むあまり寝不足だったし油断していた。
後頭部と背中をしたたかに打ちつけ、痛みに呻く俺の上に、鈴木は馬乗りになってきた。
「お前、何を考え……」
「友達なんかじゃ我慢できないっ! 好き、なんだ! ずっと、畑仲くん……翔くんのことが好きだったんだ!」
泣きながら自分の上着を脱ぎはじめた鈴木を、俺は唖然として見上げた。
「他のΩに取られるくらいなら、いっそ無理やりでも子どもを作って……」
目に涙を溜めながらも、鈴木は蠱惑的に笑った。
見せつけるように、嫣然とその白い肌を晒していくその姿に、ぶわりと鳥肌が立つ。
――これが、Ωなのか。
こんな風にαを求めることが……抱かれ、孕まされるのが当然だと考えるのがΩの本質で、俺もそうならなければいけないのか。
鈴木と同じ行動を取る自分の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、あまりのおぞましさに目の前が真っ白になった。
「……っやめろぉぉぉおおお!!!」
口から出た拒絶の言葉は、絶叫に近かった。鈴木本人ではなく、俺はただひたすらΩ性そのものに恐怖していた。
「――っおい、翔に何やってんだ!」
告白される俺の様子を興味本意に覗きにやってきた猛と、心配してそれについてきた清二郎がいなければ、俺はそのまま鈴木を突き飛ばして大怪我をさせていたかもしれない。
それくらいその時の俺は取り乱し、怯えていた。
◆
「……おい。本当に、なんのおとがめもなしでよかったのかよ」
ひどく不服そうにそう口にした猛に、俺は黙ってうなずいた。
「いいんだ。もう二度と近づかないって約束してくれたし……俺にした行為が広まることこそが、鈴木には一番堪えるだろうから」
俺の叫びを聞きつけてあの場に駆けつけたのは、猛と清二郎だけではなかった。
好奇心で目を輝かせていた野次馬たちは、俺と鈴木の事件をあることないこと尾ひれをつけて広めるだろう。
清二郎のような奨学生でなければ、この学園に通う生徒の実家は大抵が裕福な富裕層ばかりだ。学園における生徒の評判は、下手をすれば親の事業にすら影響を与えかねない。
俺が学園に処分を求めずとも、きっと鈴木は親に自主退学させられるだろう。……そうでなくても、俺に拒絶されたことで鈴木はひどく憔悴して、あれ以来ずっと部屋に閉じこもっているようだし。これ以上の制裁は、どう考えても過剰だ。
「……お前がいいなら、いいんだけどよ」
ちっともいいと思っていない様子で、猛は忌々しげに舌打ちをした。
「バース性が判明した時は、これからは可愛いΩ食いまくりだって浮かれてたけど……今回のことで、認識改めたわ」
「…………」
「Ωってのは、αに寄生するしか能がない、最低な奴らだよな。既成事実を作るためにこんな汚いことまで平気でしてくるんだからよ。子孫を残すためには仕方ないけど、番以外の相手とは極力関わらないで、α同士でつるんでよーぜ。な?」
猛の言葉は、憔悴する俺への思いやりから来ているものだとは、わかっていた。それでもその言葉は、まっすぐ俺に突き刺さった。
「猛……今回の件の加害者がΩだったというだけで、Ωを一緒くたに悪く言うなよ。何が悪いかは個人を見て判断するべき部分であって、バース性は関係ねぇだろ」
口から出た言葉は……猛に向けたものというよりもむしろ、俺自身に向けたものだったのかもしれない。
「っな、なんだよ! 実際あいつがΩじゃなかったら、翔は襲われてねぇだろ!」
俺からそんなことを言われるのを想定していなかったのか、動揺を露わにする猛に、内心の葛藤を押し殺して諭すような視線を向ける。
「それでも……バース性だけで人をけなすのは間違ってんだろ。お前の将来の嫁さんが同じ言葉聞いたら、きっと悲しむぞ」
綺麗事を口にしたが、胸に抱く本当の気持ちは、もっとどろどろした醜いものだった。
俺は、違う。同じΩであっても、俺は鈴木とは違うんだ。
あんな風に……抱かれて孕まされるのが当然だなんて、思っている奴とは。
たとえ、Ω性に脳まで侵されたとしても――俺は絶対にあんな風にはならない……!
「――んだよっ……そんなにかばうくらいΩが好きなら、抱いてやりゃあよかっただろ!」
すっかり暗い思考に浸っていた俺は、猛が顔を真っ赤にして吼えたことで我に返った。
いまにも泣きそうな顔でこちらを睨む猛に、自分の言い方が悪かったことに気がつく。
「……いや、それとこれとは話が……」
「結局、お前がそうやって誰にでもいい顔してっから、勘違いしてつけ上がるんだろうが! 痛い目遭ってんだから、懲りろよ、馬鹿!」
目元をぐいと腕で拭いながら、猛は俺に背を向けた。
「馬鹿翔! お前なんか、ヒート中のΩに無理やり咥えこまれて、責任取らされちまえばいいんだ!」
最後にそう吐き捨てると、猛はそのまま走って教室を出ていってしまった。
追いかけなければ、と思った。
直情型で意地っ張りな幼馴染は、俺が謝らなければ、いつだって自分から歩み寄ることができないことを知っている。いつだって俺たちの喧嘩は、俺が折れなければ終わらない。物心ついた時から、ずっと。
追いかけて、謝って。お前の気持ちはうれしかったよ。だけど、やっぱりΩを一くくりにするのは間違ってるとちゃんと伝えれば、猛はわかってくれる。なんだかんだで、根はいい奴だから。だから……
「……だけど、猛。俺は、Ωなんだよ」
踏みだしかけた足は、それ以上は動かないままで。俺はそのまま、その場に立ち尽くした。
在学中どれほどひた隠しにしたところで、卒業すれば、俺がΩであることはいずれみんなに知られることになるだろう。
たとえあいつ自身が気にしなかったとしても、全国に系列医院や施設を展開している里見グループの総本家、里見総合クリニックの跡取り息子のあいつには立場がある。どう考えても、いままで通りでいられるはずがない。
「いずれそうなるなら……いまでも一緒だよな」
むしろ、幼馴染離れをするなら、早いうちのほうがいいのかもしれない。
あと二か月もすればクラス替えがあるし、高等部に上がればさらに環境が変わって、新たな友人もできるだろうから。
『おとなになっても、おれたちはずっといっしょだよな』
幼い頃にした約束が脳裏に過ぎって胸が痛んだが、それ以上は深く考えないことにした。
◆
それから、俺が猛とつるむことはなくなった。
清二郎はあからさまに仲違いした俺たちのことを気にしていたが、俺が人を遠ざけたがっていることを察して敢えてよけいな口は挟まず、代わりに猛のほうを構ってくれた。
気遣い屋の清二郎らしい行動が、ありがたかった。……俺は、一人になりたかったから。
バース性を伝えたことがきっかけで、家族とも疎遠になった。
特に慶との関係は最悪で、かつて俺を慕ってくれた可愛い弟の面影は、もはやない。必然的に実家に帰ることもなくなり、俺が人と関わる機会は減っていった。
これでいい。……これが、いい。
人と関われば……自分がΩであることを、どうしたって思い知らされるから。だったら、一人でいるほうがずっといい。
翌年に猛と清二郎とクラスが別になったことで、俺の環境はますます一人になるのに都合がいいものになった。
高等部に進学してもこのまま一人で卒業までやりすごすつもりだったし、そうなるものだと信じて疑ってもいなかった。
――あの男に、再会するまでは。
◆
まだ慣れない高等部の教室。少しだけ顔ぶれが変わったクラスメイトの中には、猛と清二郎の姿もあった。
「よ。翔。……なんだか一年クラスが違っただけで、かなり久しぶりな気がするな」
遠巻きに俺を睨みつけている猛と違って、清二郎は以前通り気さくに話しかけてきたが、「ああ」とだけ返して黙りこくった俺に、すぐ苦笑いを浮かべた。
「来年成績維持できたら三年間一緒だし、まあ、そのなんだ? ……またよろしくな」
それだけ言うと、俺がよく知らない別のクラスメイトに呼ばれて、清二郎は行ってしまった。
高等部のクラスは中等部と違って成績順で、しかも二年から三年に進級する際のクラス替えはない。つまり順当にいけば三年間、猛と清二郎と同じクラスで顔を合わせ続けることになるのだ。その事実が、ひどく心苦しかった。
俺を睨んでいた猛を昨年同じクラスだったのだろう生徒がからかい、キレた猛を清二郎があわてて宥める。けれど、からかった奴と猛は元々仲が悪くないのだろう。最終的に笑顔で肩を組まれ、猛は拗ねたように唇を尖らせていた。
――一昨年までは、俺があそこにいたのに。俺がΩでさえなければ、たとえクラス替えで別れた期間があっても、いまもまたあそこにいられたかもしれないのに。
未練がましい自分の思考に小さくため息を吐き、貼り出された座席表を見て自分の席へ向かう。
隣の席の男は、栗色の髪をした背の高い大柄な男だった。
座っていても大きいのだから、一九〇近くあるのではないだろうか。これだけ背が高いのなら目立つはずなのに、中等部で見た覚えはない。
外部生だろうか? 珍しいな。
――まあ、関わるつもりなんかさらさらねぇから、俺には関係ないけど。
そのうち担任教師がやってきてお決まりの挨拶をしたあと、それぞれが自己紹介をする流れになった。自己紹介と言っても、ほとんどが中等部からの持ち上がり組だ。それこそ、外部生らしき隣の男くらいしか、目新しい奴はいないだろう。
「……畑仲翔だ」
自分の番が回ってきた時は、ただそれだけ言って腰をおろし、あとはただぼんやりと時が過ぎるのを待った。
「――公立から進学してきた、宮本雄大です。町ですれ違った運命のΩを探しに、この学園に入学しました。もし心当たりがあるΩの方がいましたら、名乗りでてください。宮本の名にかけて、必ず幸せにします」
だから、隣の男がそう自己紹介した時、思わず椅子からずり落ちそうになった。
あわてて姿勢を正して、平静を装う。
口の中がどうしようもなく渇き、心臓がうるさいほどに脈打っていた。
いや、もしかしたら、偶然。偶然、お互いに同じような状況で運命の番と出会ったというだけで、こいつはあの時のαではないのかもしれない。そんな一縷の望みにかけて、隣の男を横目で観察する。
背は……やっぱり高い。がたいも、いい。顔は、くっきりと彫りが深くて、垂れ目の下に泣きぼくろがある。
評するなら、セクシーな男前ってところだ。少しカールがかった柔らかそうな栗色の髪が、危なげな雰囲気を和らげて親しみやすい印象にしている。
――こんな、顔だったろうか。そうだった気もするし、違ったような気もする。遠目で一度見ただけの相手だ。よく覚えていない。
仲良くなるつもりはなかったからろくに聞いていなかったが、ミヤモトの名がどうのこうの言っていた。ミヤモトと言えば、大手電子機器メーカーが有名だが、こいつはそのミヤモトだろうか。
ふと、隣の男の視線がこちらに向いて、どきりと心臓がはねた。
「翔君だっけ? 俺、わからないことばかりだから、いろいろ教えてくれるとうれしいな」
『――待って! 俺の運命!』
真正面から見た、その顔が。
改めて聞いた、その声が。
パズルのピースがはまるように、あの時の記憶と重なった。
「……ああ。よろしくな。宮本」
向けられた人懐っこい笑みに、声が裏返ることもなく、まっすぐ視線を返すことができたのは奇跡だった。
――落ちつけ。俺。挙動不審だと、かえって怪しまれるぞ。
心配せずとも、この学園のシステムは完璧だ。
現にこいつを前にしても俺の体はちっとも反応していない。こいつだってわからない……はずだ。
何故かじっと見つめてくる宮本の視線が痛くて、数秒のはずの時間がひたすら長く感じた。
「……翔君って、さあ」
――まさか、バレたか? この一瞬で? 運命の番って、匂いなしで感知できるほど強烈なのか?
焦る俺とは裏腹に、宮本が口にしたのは意外な言葉だった。
「俺と同じαだよね?」
「……っ」
普段から言われ慣れている言葉ではあったが、まさか運命の番からまで言われるとは想定しておらず、思わず言葉に詰まった。
「……あ、ごめん。もしかして翔君、自分がαってこと秘密にしてた? 寄ってくるΩ対策に。だとしたら、俺、デリカシーがないこと言っちゃったね」
俺の動揺の理由を露とも察する様子もなく、決まりの悪そうな笑みを浮かべる宮本に、安堵で口元が緩んだ。
「……いや。別に公言もしてないけど、秘密にしているわけでもないから気にしなくてもいいぞ」
その時俺が宮本に向けた笑顔は、きっと心からのものだっただろう。
――なんだ。「運命」だなんて、大層な言い方をしても、しょせんはただ身体的相性がいいだけの関係。バースを感知できなくしてしまえば、この程度のものなのか。焦って馬鹿をみた。
「『同じαとして』、これからよろしくな。宮本」
ああ、やっぱり。「運命の番」なんて、くだらない。
◆
よろしくとは言ったが、当然ながら本当によろしくするつもりなんかなかった。
隣の席として話しかけられたら、適当に返事して、そのまま席替えまでやりすごすつもりだった。そのつもりだったのに。
「ねえねえ、翔君。聞きたいことがあるんだけど」
「……お前さ。空気読めねぇってよく言われるだろ?」
「え?」
いつもそっけなく適当にあしらっているはずなのに、宮本は何故か俺に話しかけるのをやめない。
これも全て本能的に俺が運命の番だと察しているがゆえの行動だろうか? ……いや、ねぇな。
まだ数日しか接してないが、もはや疑いの余地もない。
「? 何、翔君。俺、なんか変なこと言った?」
むだに可愛いらしい、きょとんとした表情で首をかしげる宮本の姿に内心げんなりする。
こいつは、成績はいいかもしれないが相当のアホだ。そのうえおそらく、かなりのコミュ障だ。俺があからさまに話しかけられたくない態度をとっているのに、さっぱり気づいていない。
「……なんでもねぇよ。それで、何が聞きたいんだ?」
苛立ちを露わに舌打ちしてみせても、宮本はまったく意に介する様子もなく、安心したように笑みを浮かべた。
「あのさ、セントラルディスタービングシステムの室外機ってどこにあるか知ってる?」
「……お前、それを知ってどうするつもりなんだよ」
「運命のΩ探しに役に立たないかなと思ってさ」
――絶対こいつにバレたくない俺からすれば、あまり協力したくない話だ。
こいつ、室外機を破壊して、セントラルディスタービングシステムを止める気じゃねぇだろうな。高価なものだけにかなり厳重に管理されているから、絶対に無理だろうけど。
下手に隠して怪しまれても困るし、意図を探るために教えてやるのも手かもしれないが……
「……室外機があるのは、セントラルディスタービング効果が薄い屋外だ。お前とは同じαだから問題ないにしても、Ωの生徒が通りかかったら困るから案内はしない。勝手に一人で探せ」
宮本と初めて出くわした時、ヒートでない状態で、しかもあんなに距離があってなお、あれだけ効果があったんだ。どんなに薄かろうが、少しでも匂いがすれば絶対に俺が運命の番だとバレる。それだけは絶対に避けたい。
取りつく島もない俺の言葉に、宮本は苦笑いを漏らした。
「……いや、翔君、ちょっと過剰反応しすぎじゃない? ヒート中ならともかく、ただΩってだけじゃあ、そうそう反応しないって。そんなこと気にしてたら、学園の外じゃ生きていけないよ」
自意識過剰とでもいうようなその言い草に、心の底からイラついた。
「うっせえ。外部生のお前と違って、俺は慎重なんだよ。万が一だろうが億が一だろうが、不測の事態は避けたいんだ。他をあたれ」
「……ご、ごめん。翔君、怒った?」
「あのー、宮本君。よかったら、ぼくが代わりに案内するよ? セントラルディスタービングシステムの室外機でしょ?」
焦る宮本に向かって、上目遣いで話しかけてきたのは、愛らしいと評判の小柄なクラスメイトだった。
「いや、俺は翔君に……」
「畑仲君は、ちょっと屋外出られない事情があるからさ。もうすぐ休憩終わるし、放課後はどう? ね?」
俺にとっては渡りに船の提案だった。
――まさか俺の事情を知っていて、かばってくれているのか?
心の中で感謝しかけてから、朝にその生徒と友人の会話を耳に挟んだことを思い出す。
『実はさー。ぼく、いまヒート中なんだよね』
『ええ⁉ 大丈夫なの、体きつくない⁉ それともヒート抑制剤飲んでるの?』
『大丈夫、大丈夫。ぼくさあ、まだバース性が未発達とかで、抑制剤飲まなくても、ものすごくヒート軽いんだよね。ちょっと微熱っぽいくらい』
『ええ、いーなー。おれ、ヒート中とか立っているのもきついのに。抑制剤飲んでも副作用で気持ち悪くなるしさ』
『まあ、いまだけだろうけどね。……でもさあ、ヒートの症状が軽くても、匂いは十分なんだって』
『それって、最高じゃん! じゃあ、もしかしなくても。今日来たのって……』
『そ。αの生徒システムの外に誘い出して、食べちゃおうかなって。在学中に優秀なα捕まえてくるように親からもきつく言われてるし、手段選んでられないんだよね。まずは既成事実作って、体から落としていくのが一番手っ取り早いから』
――なるほど。そこで白羽の矢が立ったのが宮本だったというわけか。
感謝しかけたことを少しだけ後悔したが、逆にそのほうが変に恩を着せられなくてちょうどいいと思い直す。
名前も知らんΩのクラスメイトよ。そのまま宮本と番になって、こいつに運命の番云々の幻想を忘れさせてやってくれ。絶対に振り向くことがない俺を追いかけ続けるより、番になりたいと思ってくれるΩといたほうが、こいつにとっても幸せだ。きっかけは親に言われたからという不純なものかもしれんが、一緒にいるうちに芽生える情もあるだろ。
「……ありがとう。でも、ごめんね。やっぱり、俺は翔君に案内してもらいたいなーって」
――だから、頼むから、俺を巻きこまないでくれ。
何断ってんだよ。勝手によろしくしてろよ。
そんな気持ちを込めて、宮本を睨む。
「……なんでだよ。そいつに案内してもらえばいいだろうが」
「いや……だって、ほら。やっぱり、翔君はこの学園に入学して最初にできた友達だから。やっぱり俺、こういうのは友達に頼みたいなって」
――おい。いつ、俺とお前が友達になったんだ。たまたま隣の席で、少し話しただけだろうが。お前の友達のハードル低いな。
俺がそう吐き捨てるよりも、Ωのクラスメイトの反応のほうが早かった。
「じゃあ、ぼくとも友達になろうよ。それならいいでしょ。ね?」
「あ……その、えっと。やっぱり同じαだからこそわかり合えることもあるし……違うバース性だと、不純な気持ちが芽生えかねないというか……」
もごもごと宮本の口から発せられた拒絶の言葉に、内心舌打ちをする。
――失敗したな。同じαだからと近づいてくるなら、βを自称すればよかった。猛たちにαと言っちまった時点で周囲に広まってるから、いまさらにもほどがあるが。
「あー。宮本君、そうやってΩ差別するんだ。ひどい。ぼくは純粋に友達になりたいと思っているのに」
「ご、ごめん。……だけど、やっぱり運命の番に誤解されるようなことは避けたいというか……」
「ぼくが運命の番じゃないって保証はどこにあるの? ねぇ。外で匂い嗅いで確かめてみてよ」
運命の番じゃないかって主張している時点で、純粋に友達になりたいって理論は崩れてる気がするんだが、まあいい。
涙目で頬をふくらませながら上目遣いに訴えるΩの生徒から顔を背けて、俺に助けを求めてくる宮本の視線を無視する。
――俺には関係ない。俺には関係ない。
そもそも、別に、こいつはダチじゃねぇし。幻滅して離れてくれたほうが、いろいろ都合がいいし。既成事実作って番になってくれれば、なお結構なわけだし。
――だから、そんな目で俺を見るな。宮本。俺にお前を救ってやる義理なんかないんだ。
「……翔君」
「っっっ……」
まるで捨てられた大型犬が訴えかけるような声に、とうとう耐えられなくなった。
突然立ち上がった俺に、Ωの生徒がぎょっとしたように目を見開く。
「……校舎の中からでいいなら、場所だけ教えてやる。あとは勝手に行け」
――馬鹿か。俺は
「……いやあ、翔君、本当ありがとうね! 助かったよ」
にこにこ笑いながら俺の背中をついてくる宮本の姿は、さながら散歩されている大型犬のようで、げんなりする。
ステイ。ゴーホーム。……そんな風に言えたら、どんなにいいだろうか。
このアホな大型犬が、今後も懐いてまとわりつくだろうきっかけを自ら与えてしまったことに後悔しながら、窓から室外機が見える場所を目指す。
――よくよく考えれば、俺も高等部に入りたてで、高等部の校舎はそこまで把握していない。それを理由に断ればよかったじゃねぇか。アホか、俺は。いや、正真正銘のアホの大馬鹿者だ。宮本のことを馬鹿にできない。
「……そういや、なんであいつが運命の番じゃないって思ったんだ? 匂いも嗅いでねぇのに」
せっかくだから少しでも情報収集をしておくかと問いかけた言葉に、宮本は得意げに口元を緩めた。
「いや見た目がさ。一度遠目で見ただけだけど、あそこまで身長低くなかったから、俺の運命の番。ぱっと見Ωだと思えないくらいの背の高さだったんだよね。顔見てないからたぶんだけど、おそらくβよりの見た目なんじゃないかな」
――さすがにあの距離でも体格はわかったか。明らかにΩには見えない身長だったとまではバレていないだけ、まだましだが。
「……そうか」
案の定だった。鈴木は小柄で、女と見違えるくらいに可愛らしい見た目だから、納得しかない。……俺と、違って。
鈴木は男にしては襟足の長い髪をかき上げて、その白いうなじを晒した。
「だから、畑仲くんにここを噛んでほしくて。……どうか、俺を畑仲くんの番にしてください」
「番」――それはαとΩにおいて、絶対的な性行為のパートナーのことだ。
αは、Ωを「番」にしたい時――否、ヒート期間のΩが自分に抱かれなければ満足できなくなるような、強制縛りプレイを望む時、性交中にΩのうなじを噛む。
うなじに存在するΩ特有の器官が、αの唾液に含まれる特殊な成分を受け取ることで生殖器官に特別な働きかけをし、唾液の主と同じ遺伝子を察知した時にしか「イけなく」させるのだ。
そのため、番ができたΩは番以外のαとはどれだけ性行為をしても満たされることがなくなる。
番の匂いがついて他のαへの牽制にはなるが、それでもΩにとってデメリットが多い行為だ。
αにとっては番のΩを縛りつけられるうえに、他のΩの匂いにあてられにくくなるという、メリットばかりの行為ではあるが。
そんな行為を自ら望む鈴木の気持ちが理解できなかった。
そもそも俺たちはまだバース性が判明したばかりの学生だ。仮に俺がαだったとしても、誰かを一生縛る契約を結ぶだなんて重すぎる。
「番契約だなんて、俺たちにはまだ早いだろ。もっと自分の体を大事にしろよ、鈴木。……悪いけど、俺は学園在学中、誰とも番になる気はねぇから」
さすがに現時点で特別親しいわけでもない鈴木に、自分がΩであったことを打ち明けるわけにはいかない。俺を好きだと言ってくれた鈴木を、できるだけ傷つけないように言葉を選んで、続ける。
「ただ……気持ちはうれしかった。よかったら、これからはダチとして……」
「っ友達なんていやだ!」
「っ!?」
次の瞬間。タックルをするように抱き着いてきた鈴木によって、俺は床に押し倒されていた。
本来だったら、小柄で華奢な鈴木にぶつかられたところで、簡単に跳ねのけられた自信がある。だけど俺は自分のバース性のことで思い悩むあまり寝不足だったし油断していた。
後頭部と背中をしたたかに打ちつけ、痛みに呻く俺の上に、鈴木は馬乗りになってきた。
「お前、何を考え……」
「友達なんかじゃ我慢できないっ! 好き、なんだ! ずっと、畑仲くん……翔くんのことが好きだったんだ!」
泣きながら自分の上着を脱ぎはじめた鈴木を、俺は唖然として見上げた。
「他のΩに取られるくらいなら、いっそ無理やりでも子どもを作って……」
目に涙を溜めながらも、鈴木は蠱惑的に笑った。
見せつけるように、嫣然とその白い肌を晒していくその姿に、ぶわりと鳥肌が立つ。
――これが、Ωなのか。
こんな風にαを求めることが……抱かれ、孕まされるのが当然だと考えるのがΩの本質で、俺もそうならなければいけないのか。
鈴木と同じ行動を取る自分の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、あまりのおぞましさに目の前が真っ白になった。
「……っやめろぉぉぉおおお!!!」
口から出た拒絶の言葉は、絶叫に近かった。鈴木本人ではなく、俺はただひたすらΩ性そのものに恐怖していた。
「――っおい、翔に何やってんだ!」
告白される俺の様子を興味本意に覗きにやってきた猛と、心配してそれについてきた清二郎がいなければ、俺はそのまま鈴木を突き飛ばして大怪我をさせていたかもしれない。
それくらいその時の俺は取り乱し、怯えていた。
◆
「……おい。本当に、なんのおとがめもなしでよかったのかよ」
ひどく不服そうにそう口にした猛に、俺は黙ってうなずいた。
「いいんだ。もう二度と近づかないって約束してくれたし……俺にした行為が広まることこそが、鈴木には一番堪えるだろうから」
俺の叫びを聞きつけてあの場に駆けつけたのは、猛と清二郎だけではなかった。
好奇心で目を輝かせていた野次馬たちは、俺と鈴木の事件をあることないこと尾ひれをつけて広めるだろう。
清二郎のような奨学生でなければ、この学園に通う生徒の実家は大抵が裕福な富裕層ばかりだ。学園における生徒の評判は、下手をすれば親の事業にすら影響を与えかねない。
俺が学園に処分を求めずとも、きっと鈴木は親に自主退学させられるだろう。……そうでなくても、俺に拒絶されたことで鈴木はひどく憔悴して、あれ以来ずっと部屋に閉じこもっているようだし。これ以上の制裁は、どう考えても過剰だ。
「……お前がいいなら、いいんだけどよ」
ちっともいいと思っていない様子で、猛は忌々しげに舌打ちをした。
「バース性が判明した時は、これからは可愛いΩ食いまくりだって浮かれてたけど……今回のことで、認識改めたわ」
「…………」
「Ωってのは、αに寄生するしか能がない、最低な奴らだよな。既成事実を作るためにこんな汚いことまで平気でしてくるんだからよ。子孫を残すためには仕方ないけど、番以外の相手とは極力関わらないで、α同士でつるんでよーぜ。な?」
猛の言葉は、憔悴する俺への思いやりから来ているものだとは、わかっていた。それでもその言葉は、まっすぐ俺に突き刺さった。
「猛……今回の件の加害者がΩだったというだけで、Ωを一緒くたに悪く言うなよ。何が悪いかは個人を見て判断するべき部分であって、バース性は関係ねぇだろ」
口から出た言葉は……猛に向けたものというよりもむしろ、俺自身に向けたものだったのかもしれない。
「っな、なんだよ! 実際あいつがΩじゃなかったら、翔は襲われてねぇだろ!」
俺からそんなことを言われるのを想定していなかったのか、動揺を露わにする猛に、内心の葛藤を押し殺して諭すような視線を向ける。
「それでも……バース性だけで人をけなすのは間違ってんだろ。お前の将来の嫁さんが同じ言葉聞いたら、きっと悲しむぞ」
綺麗事を口にしたが、胸に抱く本当の気持ちは、もっとどろどろした醜いものだった。
俺は、違う。同じΩであっても、俺は鈴木とは違うんだ。
あんな風に……抱かれて孕まされるのが当然だなんて、思っている奴とは。
たとえ、Ω性に脳まで侵されたとしても――俺は絶対にあんな風にはならない……!
「――んだよっ……そんなにかばうくらいΩが好きなら、抱いてやりゃあよかっただろ!」
すっかり暗い思考に浸っていた俺は、猛が顔を真っ赤にして吼えたことで我に返った。
いまにも泣きそうな顔でこちらを睨む猛に、自分の言い方が悪かったことに気がつく。
「……いや、それとこれとは話が……」
「結局、お前がそうやって誰にでもいい顔してっから、勘違いしてつけ上がるんだろうが! 痛い目遭ってんだから、懲りろよ、馬鹿!」
目元をぐいと腕で拭いながら、猛は俺に背を向けた。
「馬鹿翔! お前なんか、ヒート中のΩに無理やり咥えこまれて、責任取らされちまえばいいんだ!」
最後にそう吐き捨てると、猛はそのまま走って教室を出ていってしまった。
追いかけなければ、と思った。
直情型で意地っ張りな幼馴染は、俺が謝らなければ、いつだって自分から歩み寄ることができないことを知っている。いつだって俺たちの喧嘩は、俺が折れなければ終わらない。物心ついた時から、ずっと。
追いかけて、謝って。お前の気持ちはうれしかったよ。だけど、やっぱりΩを一くくりにするのは間違ってるとちゃんと伝えれば、猛はわかってくれる。なんだかんだで、根はいい奴だから。だから……
「……だけど、猛。俺は、Ωなんだよ」
踏みだしかけた足は、それ以上は動かないままで。俺はそのまま、その場に立ち尽くした。
在学中どれほどひた隠しにしたところで、卒業すれば、俺がΩであることはいずれみんなに知られることになるだろう。
たとえあいつ自身が気にしなかったとしても、全国に系列医院や施設を展開している里見グループの総本家、里見総合クリニックの跡取り息子のあいつには立場がある。どう考えても、いままで通りでいられるはずがない。
「いずれそうなるなら……いまでも一緒だよな」
むしろ、幼馴染離れをするなら、早いうちのほうがいいのかもしれない。
あと二か月もすればクラス替えがあるし、高等部に上がればさらに環境が変わって、新たな友人もできるだろうから。
『おとなになっても、おれたちはずっといっしょだよな』
幼い頃にした約束が脳裏に過ぎって胸が痛んだが、それ以上は深く考えないことにした。
◆
それから、俺が猛とつるむことはなくなった。
清二郎はあからさまに仲違いした俺たちのことを気にしていたが、俺が人を遠ざけたがっていることを察して敢えてよけいな口は挟まず、代わりに猛のほうを構ってくれた。
気遣い屋の清二郎らしい行動が、ありがたかった。……俺は、一人になりたかったから。
バース性を伝えたことがきっかけで、家族とも疎遠になった。
特に慶との関係は最悪で、かつて俺を慕ってくれた可愛い弟の面影は、もはやない。必然的に実家に帰ることもなくなり、俺が人と関わる機会は減っていった。
これでいい。……これが、いい。
人と関われば……自分がΩであることを、どうしたって思い知らされるから。だったら、一人でいるほうがずっといい。
翌年に猛と清二郎とクラスが別になったことで、俺の環境はますます一人になるのに都合がいいものになった。
高等部に進学してもこのまま一人で卒業までやりすごすつもりだったし、そうなるものだと信じて疑ってもいなかった。
――あの男に、再会するまでは。
◆
まだ慣れない高等部の教室。少しだけ顔ぶれが変わったクラスメイトの中には、猛と清二郎の姿もあった。
「よ。翔。……なんだか一年クラスが違っただけで、かなり久しぶりな気がするな」
遠巻きに俺を睨みつけている猛と違って、清二郎は以前通り気さくに話しかけてきたが、「ああ」とだけ返して黙りこくった俺に、すぐ苦笑いを浮かべた。
「来年成績維持できたら三年間一緒だし、まあ、そのなんだ? ……またよろしくな」
それだけ言うと、俺がよく知らない別のクラスメイトに呼ばれて、清二郎は行ってしまった。
高等部のクラスは中等部と違って成績順で、しかも二年から三年に進級する際のクラス替えはない。つまり順当にいけば三年間、猛と清二郎と同じクラスで顔を合わせ続けることになるのだ。その事実が、ひどく心苦しかった。
俺を睨んでいた猛を昨年同じクラスだったのだろう生徒がからかい、キレた猛を清二郎があわてて宥める。けれど、からかった奴と猛は元々仲が悪くないのだろう。最終的に笑顔で肩を組まれ、猛は拗ねたように唇を尖らせていた。
――一昨年までは、俺があそこにいたのに。俺がΩでさえなければ、たとえクラス替えで別れた期間があっても、いまもまたあそこにいられたかもしれないのに。
未練がましい自分の思考に小さくため息を吐き、貼り出された座席表を見て自分の席へ向かう。
隣の席の男は、栗色の髪をした背の高い大柄な男だった。
座っていても大きいのだから、一九〇近くあるのではないだろうか。これだけ背が高いのなら目立つはずなのに、中等部で見た覚えはない。
外部生だろうか? 珍しいな。
――まあ、関わるつもりなんかさらさらねぇから、俺には関係ないけど。
そのうち担任教師がやってきてお決まりの挨拶をしたあと、それぞれが自己紹介をする流れになった。自己紹介と言っても、ほとんどが中等部からの持ち上がり組だ。それこそ、外部生らしき隣の男くらいしか、目新しい奴はいないだろう。
「……畑仲翔だ」
自分の番が回ってきた時は、ただそれだけ言って腰をおろし、あとはただぼんやりと時が過ぎるのを待った。
「――公立から進学してきた、宮本雄大です。町ですれ違った運命のΩを探しに、この学園に入学しました。もし心当たりがあるΩの方がいましたら、名乗りでてください。宮本の名にかけて、必ず幸せにします」
だから、隣の男がそう自己紹介した時、思わず椅子からずり落ちそうになった。
あわてて姿勢を正して、平静を装う。
口の中がどうしようもなく渇き、心臓がうるさいほどに脈打っていた。
いや、もしかしたら、偶然。偶然、お互いに同じような状況で運命の番と出会ったというだけで、こいつはあの時のαではないのかもしれない。そんな一縷の望みにかけて、隣の男を横目で観察する。
背は……やっぱり高い。がたいも、いい。顔は、くっきりと彫りが深くて、垂れ目の下に泣きぼくろがある。
評するなら、セクシーな男前ってところだ。少しカールがかった柔らかそうな栗色の髪が、危なげな雰囲気を和らげて親しみやすい印象にしている。
――こんな、顔だったろうか。そうだった気もするし、違ったような気もする。遠目で一度見ただけの相手だ。よく覚えていない。
仲良くなるつもりはなかったからろくに聞いていなかったが、ミヤモトの名がどうのこうの言っていた。ミヤモトと言えば、大手電子機器メーカーが有名だが、こいつはそのミヤモトだろうか。
ふと、隣の男の視線がこちらに向いて、どきりと心臓がはねた。
「翔君だっけ? 俺、わからないことばかりだから、いろいろ教えてくれるとうれしいな」
『――待って! 俺の運命!』
真正面から見た、その顔が。
改めて聞いた、その声が。
パズルのピースがはまるように、あの時の記憶と重なった。
「……ああ。よろしくな。宮本」
向けられた人懐っこい笑みに、声が裏返ることもなく、まっすぐ視線を返すことができたのは奇跡だった。
――落ちつけ。俺。挙動不審だと、かえって怪しまれるぞ。
心配せずとも、この学園のシステムは完璧だ。
現にこいつを前にしても俺の体はちっとも反応していない。こいつだってわからない……はずだ。
何故かじっと見つめてくる宮本の視線が痛くて、数秒のはずの時間がひたすら長く感じた。
「……翔君って、さあ」
――まさか、バレたか? この一瞬で? 運命の番って、匂いなしで感知できるほど強烈なのか?
焦る俺とは裏腹に、宮本が口にしたのは意外な言葉だった。
「俺と同じαだよね?」
「……っ」
普段から言われ慣れている言葉ではあったが、まさか運命の番からまで言われるとは想定しておらず、思わず言葉に詰まった。
「……あ、ごめん。もしかして翔君、自分がαってこと秘密にしてた? 寄ってくるΩ対策に。だとしたら、俺、デリカシーがないこと言っちゃったね」
俺の動揺の理由を露とも察する様子もなく、決まりの悪そうな笑みを浮かべる宮本に、安堵で口元が緩んだ。
「……いや。別に公言もしてないけど、秘密にしているわけでもないから気にしなくてもいいぞ」
その時俺が宮本に向けた笑顔は、きっと心からのものだっただろう。
――なんだ。「運命」だなんて、大層な言い方をしても、しょせんはただ身体的相性がいいだけの関係。バースを感知できなくしてしまえば、この程度のものなのか。焦って馬鹿をみた。
「『同じαとして』、これからよろしくな。宮本」
ああ、やっぱり。「運命の番」なんて、くだらない。
◆
よろしくとは言ったが、当然ながら本当によろしくするつもりなんかなかった。
隣の席として話しかけられたら、適当に返事して、そのまま席替えまでやりすごすつもりだった。そのつもりだったのに。
「ねえねえ、翔君。聞きたいことがあるんだけど」
「……お前さ。空気読めねぇってよく言われるだろ?」
「え?」
いつもそっけなく適当にあしらっているはずなのに、宮本は何故か俺に話しかけるのをやめない。
これも全て本能的に俺が運命の番だと察しているがゆえの行動だろうか? ……いや、ねぇな。
まだ数日しか接してないが、もはや疑いの余地もない。
「? 何、翔君。俺、なんか変なこと言った?」
むだに可愛いらしい、きょとんとした表情で首をかしげる宮本の姿に内心げんなりする。
こいつは、成績はいいかもしれないが相当のアホだ。そのうえおそらく、かなりのコミュ障だ。俺があからさまに話しかけられたくない態度をとっているのに、さっぱり気づいていない。
「……なんでもねぇよ。それで、何が聞きたいんだ?」
苛立ちを露わに舌打ちしてみせても、宮本はまったく意に介する様子もなく、安心したように笑みを浮かべた。
「あのさ、セントラルディスタービングシステムの室外機ってどこにあるか知ってる?」
「……お前、それを知ってどうするつもりなんだよ」
「運命のΩ探しに役に立たないかなと思ってさ」
――絶対こいつにバレたくない俺からすれば、あまり協力したくない話だ。
こいつ、室外機を破壊して、セントラルディスタービングシステムを止める気じゃねぇだろうな。高価なものだけにかなり厳重に管理されているから、絶対に無理だろうけど。
下手に隠して怪しまれても困るし、意図を探るために教えてやるのも手かもしれないが……
「……室外機があるのは、セントラルディスタービング効果が薄い屋外だ。お前とは同じαだから問題ないにしても、Ωの生徒が通りかかったら困るから案内はしない。勝手に一人で探せ」
宮本と初めて出くわした時、ヒートでない状態で、しかもあんなに距離があってなお、あれだけ効果があったんだ。どんなに薄かろうが、少しでも匂いがすれば絶対に俺が運命の番だとバレる。それだけは絶対に避けたい。
取りつく島もない俺の言葉に、宮本は苦笑いを漏らした。
「……いや、翔君、ちょっと過剰反応しすぎじゃない? ヒート中ならともかく、ただΩってだけじゃあ、そうそう反応しないって。そんなこと気にしてたら、学園の外じゃ生きていけないよ」
自意識過剰とでもいうようなその言い草に、心の底からイラついた。
「うっせえ。外部生のお前と違って、俺は慎重なんだよ。万が一だろうが億が一だろうが、不測の事態は避けたいんだ。他をあたれ」
「……ご、ごめん。翔君、怒った?」
「あのー、宮本君。よかったら、ぼくが代わりに案内するよ? セントラルディスタービングシステムの室外機でしょ?」
焦る宮本に向かって、上目遣いで話しかけてきたのは、愛らしいと評判の小柄なクラスメイトだった。
「いや、俺は翔君に……」
「畑仲君は、ちょっと屋外出られない事情があるからさ。もうすぐ休憩終わるし、放課後はどう? ね?」
俺にとっては渡りに船の提案だった。
――まさか俺の事情を知っていて、かばってくれているのか?
心の中で感謝しかけてから、朝にその生徒と友人の会話を耳に挟んだことを思い出す。
『実はさー。ぼく、いまヒート中なんだよね』
『ええ⁉ 大丈夫なの、体きつくない⁉ それともヒート抑制剤飲んでるの?』
『大丈夫、大丈夫。ぼくさあ、まだバース性が未発達とかで、抑制剤飲まなくても、ものすごくヒート軽いんだよね。ちょっと微熱っぽいくらい』
『ええ、いーなー。おれ、ヒート中とか立っているのもきついのに。抑制剤飲んでも副作用で気持ち悪くなるしさ』
『まあ、いまだけだろうけどね。……でもさあ、ヒートの症状が軽くても、匂いは十分なんだって』
『それって、最高じゃん! じゃあ、もしかしなくても。今日来たのって……』
『そ。αの生徒システムの外に誘い出して、食べちゃおうかなって。在学中に優秀なα捕まえてくるように親からもきつく言われてるし、手段選んでられないんだよね。まずは既成事実作って、体から落としていくのが一番手っ取り早いから』
――なるほど。そこで白羽の矢が立ったのが宮本だったというわけか。
感謝しかけたことを少しだけ後悔したが、逆にそのほうが変に恩を着せられなくてちょうどいいと思い直す。
名前も知らんΩのクラスメイトよ。そのまま宮本と番になって、こいつに運命の番云々の幻想を忘れさせてやってくれ。絶対に振り向くことがない俺を追いかけ続けるより、番になりたいと思ってくれるΩといたほうが、こいつにとっても幸せだ。きっかけは親に言われたからという不純なものかもしれんが、一緒にいるうちに芽生える情もあるだろ。
「……ありがとう。でも、ごめんね。やっぱり、俺は翔君に案内してもらいたいなーって」
――だから、頼むから、俺を巻きこまないでくれ。
何断ってんだよ。勝手によろしくしてろよ。
そんな気持ちを込めて、宮本を睨む。
「……なんでだよ。そいつに案内してもらえばいいだろうが」
「いや……だって、ほら。やっぱり、翔君はこの学園に入学して最初にできた友達だから。やっぱり俺、こういうのは友達に頼みたいなって」
――おい。いつ、俺とお前が友達になったんだ。たまたま隣の席で、少し話しただけだろうが。お前の友達のハードル低いな。
俺がそう吐き捨てるよりも、Ωのクラスメイトの反応のほうが早かった。
「じゃあ、ぼくとも友達になろうよ。それならいいでしょ。ね?」
「あ……その、えっと。やっぱり同じαだからこそわかり合えることもあるし……違うバース性だと、不純な気持ちが芽生えかねないというか……」
もごもごと宮本の口から発せられた拒絶の言葉に、内心舌打ちをする。
――失敗したな。同じαだからと近づいてくるなら、βを自称すればよかった。猛たちにαと言っちまった時点で周囲に広まってるから、いまさらにもほどがあるが。
「あー。宮本君、そうやってΩ差別するんだ。ひどい。ぼくは純粋に友達になりたいと思っているのに」
「ご、ごめん。……だけど、やっぱり運命の番に誤解されるようなことは避けたいというか……」
「ぼくが運命の番じゃないって保証はどこにあるの? ねぇ。外で匂い嗅いで確かめてみてよ」
運命の番じゃないかって主張している時点で、純粋に友達になりたいって理論は崩れてる気がするんだが、まあいい。
涙目で頬をふくらませながら上目遣いに訴えるΩの生徒から顔を背けて、俺に助けを求めてくる宮本の視線を無視する。
――俺には関係ない。俺には関係ない。
そもそも、別に、こいつはダチじゃねぇし。幻滅して離れてくれたほうが、いろいろ都合がいいし。既成事実作って番になってくれれば、なお結構なわけだし。
――だから、そんな目で俺を見るな。宮本。俺にお前を救ってやる義理なんかないんだ。
「……翔君」
「っっっ……」
まるで捨てられた大型犬が訴えかけるような声に、とうとう耐えられなくなった。
突然立ち上がった俺に、Ωの生徒がぎょっとしたように目を見開く。
「……校舎の中からでいいなら、場所だけ教えてやる。あとは勝手に行け」
――馬鹿か。俺は
「……いやあ、翔君、本当ありがとうね! 助かったよ」
にこにこ笑いながら俺の背中をついてくる宮本の姿は、さながら散歩されている大型犬のようで、げんなりする。
ステイ。ゴーホーム。……そんな風に言えたら、どんなにいいだろうか。
このアホな大型犬が、今後も懐いてまとわりつくだろうきっかけを自ら与えてしまったことに後悔しながら、窓から室外機が見える場所を目指す。
――よくよく考えれば、俺も高等部に入りたてで、高等部の校舎はそこまで把握していない。それを理由に断ればよかったじゃねぇか。アホか、俺は。いや、正真正銘のアホの大馬鹿者だ。宮本のことを馬鹿にできない。
「……そういや、なんであいつが運命の番じゃないって思ったんだ? 匂いも嗅いでねぇのに」
せっかくだから少しでも情報収集をしておくかと問いかけた言葉に、宮本は得意げに口元を緩めた。
「いや見た目がさ。一度遠目で見ただけだけど、あそこまで身長低くなかったから、俺の運命の番。ぱっと見Ωだと思えないくらいの背の高さだったんだよね。顔見てないからたぶんだけど、おそらくβよりの見た目なんじゃないかな」
――さすがにあの距離でも体格はわかったか。明らかにΩには見えない身長だったとまではバレていないだけ、まだましだが。
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