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第一部
10.仄暗い道の先
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酷く冷え込んだ朝だった。
父から呼び出された僕は朝食を終えると足早に父の待つ書斎へと向かった。
重厚なマホガニー製の扉を三回ノックすると返事があり、それに促されるように中へと入る。
「お呼びでしょうか?父上。」
書斎机の横で窓の外を眺めていた父が振り返る。
その場で一礼をすると、自分とよく似た顔立ちの父の近くへと歩みを進めた。
「……アルベルト、王宮から令状がきた。お前も読みなさい。」
差し出された封筒に付いていた封蝋のシンボルは、王冠を被った鷲であった。
この国で王冠、ティアラのシンボルが許されるのは王族血縁者のみだ。
既に切り開かれていた封筒の中から金色に縁取られた便箋を抜き取る。
その便箋を開こうとした時、父は背を向け窓の外を見た。
カサりと開いたその便箋にはたった一文が書かれていた。
『ローズベリル子爵家・嫡女 エステルを魔女と認定し、また当主 グレイスを魔女蔵匿罪として処刑対象とする。』
その一文を何度も何度も読み返す。
五度読んだところで、ようやく自分の脳が理解を始めた。
「ローズ……ベリル……?」
渇いた声でその名を呼び、父へ視線を戻す。父はまだ振り向かない。
「……エステルの母が魔女の血筋だったようだ。既に母親は亡くなっているが、エステルは彼女の血を継いでいる以上紛れもなく『魔女』であり、どうあっても殺さねばならない。」
足元が氷のように固く動かなかった。
エステルが魔女だと今まで感じたことは一度たりとも無い。
当然、魔術など使っているところを見たことも無い。
彼女は普通の女の子だとそう父に詰めよろうにも、重く床へ張り付き一歩も動けなかった。
「……これに……僕も、この魔女狩りに参加せよと?……この僕が…エステルを!!殺せと!!??」
呼吸がままならない。
興奮のあまり父に向かって初めて怒鳴りつけた。
部屋中に響く自分の声が、怒りの矛先を失っている今の自分のように思えた。
「そこまでは言っていない。」
「……では何故!?」
ようやく振り向いた父は、悲しそうな顔で微笑んでいた。
「エステルと共に逃げなさい。」
予想外の父の発言に言葉を失う。
「……父上……?でも……でも、それでは……!」
「これでも私も人の親だ。君達の幸せを取り上げるようなことはしたくは無い。」
ーーこれは王命だ。
エステルを取り逃がせば当然責任を問われる。
ましてやその隊を率いるのは婚約者の家である。
逃亡に関与したと疑われるのは必至で、そこに自分が居なければ間違いなく両親も弟も処分を受けるであろう。
まるで絵踏だ。
「大体……何故このような命令が……。」
本来、身内が関わるような案件は指揮どころか、隊の編成から外される。
元から有り得ない、有り得るはずのない令状を震える手が握り潰していた。
「……アシュリー家の者がどうやら手引きしたようだ。」
溜め息混じりに告げられた名前に愕然とした。
(アシュリー……?クルエラ……!?)
数年前の婚約破棄の復讐のつもりなのかは分からない。
大体、クルエラがあの性格だ。親も親で腹に一物があってもおかしくは無い。
示談の話し合いも滞りなく済んでいた、筈だったのに。
(……甘かった。)
途端に酷い目眩と吐気に襲われた。
ぐらぐらと胃のあたりに黒いものが蠢いているようで、気持ち悪さで今すぐにでも吐き出したかった。
「……選べと言うのですか?この僕に?」
出た声は自分が想像していたよりも怒気を纏っていた。
この魔女狩りはエステルとその父を殺すかだけの問題では無くなっている。
ーー二人を殺すか三人を殺すか
想像しただけで悔しさと怒りが渦巻いていく。
唇を噛んだ時、口の中には鉄の味が広がった。
「……選べません…。僕には…選べない……!」
けれどこの言葉に反して、必然的にエステルを切り捨てた。
その事実を心の隅で理解しているからか『助けるならば二人より三人だ』と、理由にもならない言い訳を何度も何度も自身に繰り返す。
なのに胸の痛みは増すばかりであった。
父はまた窓の外を見やりるとただ静かに呟いた。
「……アルベルト、お前はこの先どんなことがあっても生き延びなさい。」
空を灰色の雲が覆い隠していた。
***
(懐かしい夢だーー)
アルベルトは瞼を開くと、見慣れた天井に安堵する。
起き上がるなり隙間から光を漏らしていたカーテンを開いた。
「今日は……曇りか。」
窓の外に見えた空は灰色の雲に覆われていた。
(よりにもよって、今日の夢と同じ空か……。幸いなのは、もうじきに春ということだな。)
アルベルトは着ていた寝間着に手を掛け脱いでいくと、それらをベッドのシーツの上へと放り投げた。
(……今日は温かい日だといい……)
目を静かに閉じた時、アルベルトの耳に扉をノックする音が聞こえてきた。
扉を叩く人物はこの屋敷には他に一人しかいない。
「おはよう、エステル。もう起きてるよ。入っておいで。」
優しい声でそう告げるとガチャりと扉が開くが、同時に悲鳴が屋敷に響き渡る。
「な、な、な、ななな、何で裸!!??」
「いや、下着は履いてるけど?ほら見てごらん?っていうか、着替えようとしたら君が来たんじゃないか。」
あたふたしたエステルは両手で目を隠すと、素早い動きでアルベルトに背を向けた。
背中から見ても耳まで真っ赤になっているエステルに、つい悪戯をしたくなったアルベルトは気付かれないようにその距離を縮める。
「た、確かにそうだけど、それならそう言って!!恥ずかしいでしょ!!」
「……へぇ?大分、筋肉が落ちてしまったんだけど、まだいけそうだな。エステルはもっと筋肉ついている方が好きだと思ってたんだけど安心したよ。」
背後からするりと抱き締められ、真っ赤になった耳へ息を吹きかけられるように囁く。
その声には存分に色気を纏わせた。
「ひぁあ!?あ、ああアルトなら私はなんでも好きだよ!!!!」
「ははっ、知ってる!」
渾身の愛の告白を悠々と受け止められ、エステルはまた顔を真っ赤にして悶えた。
「はぁ…可愛い。天使か?僕を悶え死にさせる気か?」
わざとらしく熱を帯びた声でエステルの耳元へと迫る。
喋るとその吐息がどうあっても掛かってしまう距離だ。
「耳っ!耳が!!じゃない!!服っ!!とりあえず、服を着てえぇぇっ!!」
「面白いからもうちょっとこのままで。」
「アルトぉーーー!!」
がっちりと抱き締められたまま、朝から戯れ…いや、エステルが一方的に玩具にされていた。
ーーあぁ、なんて愛しい時間なのだろう。
この時アルベルトはただこのひと時を噛み締めていた。
(僕は決して忘れない。この幸せな日々を……。)
***
その後たっぷりとエステルで遊んだアルベルトは、ようやく今日の予定を告げた。
「マダムの所へ行こう。仮縫いが終わったそうだ。」
そう告げると既にヘトヘトだったエステルの表情はパァっと明るくなり着替えに走る。
彼女がお出掛け用に選んだドレスはレモン色である。
エステルが着替えを終えた時、彼女のドレスの色を確認するなり、アルベルトは胸ポケットに似た色のチーフとシトリンのタイピンを付けた。
「よくお似合いですよ、姫。まるで春の妖精のようだ。」
「ふふ、ありがとう。アルトもとっても格好いいよ?」
笑い合って見つめて、軽くキスをして、そうしてからアルベルトは彼女の白い指先を掬いとると手の甲にキスを落とした。
「では参りましょうか。」
「えぇ。」
エステルが珍しく令嬢らしくスカートを摘み腰を落とした。
二人がマダム・フェリーゼの店に着いたのは彼女の店が開いてすぐであった。
「ようこそ!アルベルト!エリー!!」
笑顔で迎えるフェリーゼに、エステルは一瞬たじろいだ。
(そうだった!私、ここじゃエリーだった!!)
隣にいるアルベルトが困った顔で笑っていた。
「エリー早速だけど、試着してくれるかしら?まだ装飾は付けていないのだけど、元になるドレスは今日でサイズを合わせるの。ちなみに今日この日から痩せ過ぎてもダメだし、太るのは言語道断よ??」
フェリーゼに詰め寄られ念を押されたエステルは首を縦にいっぱい振る。
「じゃあ、その間僕は出掛けてくるよ。30分もしたら戻るから。」
アルベルトが踵を返し、ドアノブへと手を掛ける。
「アルト…そういえば前回も何処かに行ってたよね?」
「…君…大事なもの忘れてるだろう?それを取ってくるよ。」
眉をひそめたアルベルトは、呆れ顔のまま店から出て行った。
一方エステルは早速試着室へと案内され、また怒涛の試着タイムが始まったのである。
仮縫いを終えたドレスは豪奢な姿見の隣に佇んでいた。
後付けのレースや宝石類はまだ付いてはいなかったが、その形だけでも十分美しかった。
波のような流線型を描く胴体部分、足元を飾るトレーンは真っ直ぐ歩いても、また振り返っても、その瞬間を最大限美しく足元を飾るように仕立てられていた。
「素敵……!」
エステルは感激のあまり頬を染める。
「では、着てみましょうか?」
果たして子供っぽい見た目の自分に、本当に似合うのだろうかと心配していたが、ドレスを着て、長い髪を軽く結われると、鏡の中に少し大人になった自分が映っていた。
「まぁ、よくお似合いですよ!!」
フェリーゼも他のスタッフ達も笑顔で頷いた。
「……ありがとう…ございます!!」
その一言が精一杯だった。
胸に熱いものが込み上げてきて、それ以上何か言葉を発するとすぐに泣き出してしまいそうだったからである。
勿論その涙は嬉し涙だ。
もう一度鏡に映る自身を見つめる。
(どうか、これからもアルトの傍にいれますように……)
エステルが、試着を終え店内へ戻るとアルベルトが既に店員とお喋りに興じていた。
「アルト!」
「無事終わったかい?」
「うん!とっても素敵だった!!」
「それは良かった。やはりマダムに頼んでよかったよ。」
「そうだ、アルベルト。エリーが可愛いからって帰り道にいっぱいお菓子買ってはダメよ!?今日から彼女は体型維持に専念するんだから!!」
エステルの後ろを付いてきたフェリーゼが忠告していた。
「え……せっかくカヌレでも買っていこうかと思っていたんだが……。」
(えっ、カヌレ……!!??)
エステルはカヌレが好きだ。けれど作り始めてから一晩寝かせるのが基本なため、ふと『食べたい!』と思った瞬間に食べられる菓子ではない。
思わず捨てられた仔犬のような瞳をアルベルトに向けた。
「ゔっ……!!」
瞬間、アルベルトが呻く。
苦しいのか胸を押さえ前屈みになったが、その様子をフェリーゼは冷めた目で釘をさした。
「……ダメよ、アルベルト?あのドレス、コルセット付けないの。いい?付けれないから誤魔化せないの。」
『いいわね?当日、興奮したいでしょう?』と謎の念押しをされ、アルベルトは渋々了承していた。
(わ、私のカヌレがっ!!)
暫しお預け決定になった瞬間であった。
同時刻、マダム・フェリーゼの店の入口からほど近い酒場にて、二人の男が昼間から酒をあおっていた。
「ルイス、ルイス!!おい、聞いてんのか!?」
既に目が据わり始めているハワードにしつこく呼びかけられ、ルイスはようやく視線を上げた。
「え?あぁ…すまない、少し疲れてたみたいだ。」
テーブルの上には食い散らかされた肴の跡と空きジョッキ。
その見た目に潔癖気味のルイスは顔を顰めた。
(昼間から酒を飲むなど…)
真面目過ぎるルイスには初めての経験で、少々気が引けていたのだが今日は風もなく過ごしやすいせいか、二人が居るテラス席も既に満杯になりつつあった。
正直、酒で温もった体には外の気温が丁度いい。
「で、どうだったんだ?」
「何が?」
ルイスは二口分残っていたエールを飲み干す。
「…何がじゃない、この前の女の子の話だよ!!お前の兄さんが連れてた可愛い子!!!!」
あ、という顔をした瞬間、目の前の男の視線が厳しくなりルイスは素直に頭を下げた。
「すまん。失念していた。」
ゴトンと置いた空きジョッキを、給仕が運びやすいように他の空いた皿やジョッキをまとめていく。
「……お前って、本当そういうとこだけは興味がないというか、どうでもいいんだな…。」
ハワードはがっくりと肩を落とすと『こうなりゃ自棄酒だ!』と近くの給仕を呼び止め酒を追加していく。
(どうでも…はよくない。)
先日の兄とのやり取りを思い出す。
(兄上が本当に、子どもが望めないならば、その役目は俺が果たさねばならない。けど、違う。そうではなくて…。)
ルイスとてアルベルトは大事な家族だ。当主だからと一人で責任を負わせるつもりなど毛頭なかった。
まだエステルが生きていた頃、屋敷に遊びに来るエステルといつも幸せそうに過ごしていた。
正直エステルよりも益のある令嬢は他にもいる。
けれどいつも兄はエステルただ一人だった。
エステルの前でだけ無邪気に笑っていた。
(あの時のように笑っていて欲しいだけだ…。)
兄は優しい。
けれど、沢山のものを犠牲にした上での優しさであることをルイス知っている。
聡い分周りの人間が彼に期待を寄せる。
期待された分だけ応えられなかった時の彼への失望は酷く、必死に勉学に励むその背中は子供ながらに痛々しく見えていた。
(ようやく安らげる場所を見つけたと思っていたのに…。)
それなのにエステルは『魔女』だった。
兄の落胆ぶりは当然酷く、またルイス自身もエステルに裏切られたような気分を味わった。
―あの笑顔を見たのは一体いつが最後だった?
(…ただ…俺は兄上に幸せになってほしいだけだ。)
今の兄からは死の匂いがする。
エステルが死んで体調を崩した兄。
丁度その頃、ルイスは寄宿学校へと送られた。
兄がそんな状態で弟のことにまで両親は気が回らないと判断したのであろう。
ルイスはそれでも良かった。
兄さえ元のように元気になってくれるのならば。
けれど、丁度エステルの死から一年経ったあたりで兄は病が治ったものの様子が変わった。
あの日から、兄は婚約者の名を呼ばなくなった。
彼女に供える花の世話もしなくなった。
ほんの些細なこと。
やがて他人とも距離を置くようになり、ルイスが長期休暇で家に戻っても一週間も顔を一瞬も合わせないなどザラだった。
しまいには両親が死んだ時も葬式すら出なかった。
今の兄は淡々と執務をこなし、日々のルーティンは決して狂うことがない。
歩く屍かはたまた人形か。
「あー……ルイスが酷いぃ…俺の幸せを願ってくれない…。」
テーブルに顔を伏せ、ぐちぐちと文句を言っているのは先程の女の件なのだろう。
(…これだけ女に積極的なら相手選びも苦労しないんだろうが…。)
呆れながらも少しだけハワードを羨ましく感じた。
「ハワード、飲み過ぎだ。もう帰ろう。」
ルイスが丁度ハワードを起こそうとした時、その視線の先にある店の扉が開いた。
マダム・フェリーゼの店であった。
ルイスは息を呑んだ。
そこには兄がいた。
しかも傍らには華奢な若い女が手を引かれて出てきたではないか。
(心臓の音が煩い…。)
艶やかに波打つ甘いミルクティー色の髪。
ルイスの記憶にある色にとてもよく似た色。
鼓動の振動すら全身に伝わるような感覚を覚えた瞬間、隣の女性が動きその顔が見えた。
他人の空似であって欲しい。
頭のおかしくなった兄が、婚約者に似た女に入れ込んだだけだと。
――そう信じたかった。
「エス…テル…。」
見間違う訳がない。
ルイス自身も幼少期から何度も会っていたのだから。
兄を見つめるそのローズベリルの瞳も
兄の名をさえずるたびに赤くなる唇も
けれど彼女は死んだはずだ。ならば今、目の前にいるのは彼女ではない。
その刹那、ルイスの心の中で黒いものが溢れた。
――あぁ、そうか…。
ルイスの瞳が仄暗く光った。
「…兄上がおかしくなったのは、魔女のせいか。」
ルイスの中で長年燻っていた不安は怒りへと変貌を遂げた。
父から呼び出された僕は朝食を終えると足早に父の待つ書斎へと向かった。
重厚なマホガニー製の扉を三回ノックすると返事があり、それに促されるように中へと入る。
「お呼びでしょうか?父上。」
書斎机の横で窓の外を眺めていた父が振り返る。
その場で一礼をすると、自分とよく似た顔立ちの父の近くへと歩みを進めた。
「……アルベルト、王宮から令状がきた。お前も読みなさい。」
差し出された封筒に付いていた封蝋のシンボルは、王冠を被った鷲であった。
この国で王冠、ティアラのシンボルが許されるのは王族血縁者のみだ。
既に切り開かれていた封筒の中から金色に縁取られた便箋を抜き取る。
その便箋を開こうとした時、父は背を向け窓の外を見た。
カサりと開いたその便箋にはたった一文が書かれていた。
『ローズベリル子爵家・嫡女 エステルを魔女と認定し、また当主 グレイスを魔女蔵匿罪として処刑対象とする。』
その一文を何度も何度も読み返す。
五度読んだところで、ようやく自分の脳が理解を始めた。
「ローズ……ベリル……?」
渇いた声でその名を呼び、父へ視線を戻す。父はまだ振り向かない。
「……エステルの母が魔女の血筋だったようだ。既に母親は亡くなっているが、エステルは彼女の血を継いでいる以上紛れもなく『魔女』であり、どうあっても殺さねばならない。」
足元が氷のように固く動かなかった。
エステルが魔女だと今まで感じたことは一度たりとも無い。
当然、魔術など使っているところを見たことも無い。
彼女は普通の女の子だとそう父に詰めよろうにも、重く床へ張り付き一歩も動けなかった。
「……これに……僕も、この魔女狩りに参加せよと?……この僕が…エステルを!!殺せと!!??」
呼吸がままならない。
興奮のあまり父に向かって初めて怒鳴りつけた。
部屋中に響く自分の声が、怒りの矛先を失っている今の自分のように思えた。
「そこまでは言っていない。」
「……では何故!?」
ようやく振り向いた父は、悲しそうな顔で微笑んでいた。
「エステルと共に逃げなさい。」
予想外の父の発言に言葉を失う。
「……父上……?でも……でも、それでは……!」
「これでも私も人の親だ。君達の幸せを取り上げるようなことはしたくは無い。」
ーーこれは王命だ。
エステルを取り逃がせば当然責任を問われる。
ましてやその隊を率いるのは婚約者の家である。
逃亡に関与したと疑われるのは必至で、そこに自分が居なければ間違いなく両親も弟も処分を受けるであろう。
まるで絵踏だ。
「大体……何故このような命令が……。」
本来、身内が関わるような案件は指揮どころか、隊の編成から外される。
元から有り得ない、有り得るはずのない令状を震える手が握り潰していた。
「……アシュリー家の者がどうやら手引きしたようだ。」
溜め息混じりに告げられた名前に愕然とした。
(アシュリー……?クルエラ……!?)
数年前の婚約破棄の復讐のつもりなのかは分からない。
大体、クルエラがあの性格だ。親も親で腹に一物があってもおかしくは無い。
示談の話し合いも滞りなく済んでいた、筈だったのに。
(……甘かった。)
途端に酷い目眩と吐気に襲われた。
ぐらぐらと胃のあたりに黒いものが蠢いているようで、気持ち悪さで今すぐにでも吐き出したかった。
「……選べと言うのですか?この僕に?」
出た声は自分が想像していたよりも怒気を纏っていた。
この魔女狩りはエステルとその父を殺すかだけの問題では無くなっている。
ーー二人を殺すか三人を殺すか
想像しただけで悔しさと怒りが渦巻いていく。
唇を噛んだ時、口の中には鉄の味が広がった。
「……選べません…。僕には…選べない……!」
けれどこの言葉に反して、必然的にエステルを切り捨てた。
その事実を心の隅で理解しているからか『助けるならば二人より三人だ』と、理由にもならない言い訳を何度も何度も自身に繰り返す。
なのに胸の痛みは増すばかりであった。
父はまた窓の外を見やりるとただ静かに呟いた。
「……アルベルト、お前はこの先どんなことがあっても生き延びなさい。」
空を灰色の雲が覆い隠していた。
***
(懐かしい夢だーー)
アルベルトは瞼を開くと、見慣れた天井に安堵する。
起き上がるなり隙間から光を漏らしていたカーテンを開いた。
「今日は……曇りか。」
窓の外に見えた空は灰色の雲に覆われていた。
(よりにもよって、今日の夢と同じ空か……。幸いなのは、もうじきに春ということだな。)
アルベルトは着ていた寝間着に手を掛け脱いでいくと、それらをベッドのシーツの上へと放り投げた。
(……今日は温かい日だといい……)
目を静かに閉じた時、アルベルトの耳に扉をノックする音が聞こえてきた。
扉を叩く人物はこの屋敷には他に一人しかいない。
「おはよう、エステル。もう起きてるよ。入っておいで。」
優しい声でそう告げるとガチャりと扉が開くが、同時に悲鳴が屋敷に響き渡る。
「な、な、な、ななな、何で裸!!??」
「いや、下着は履いてるけど?ほら見てごらん?っていうか、着替えようとしたら君が来たんじゃないか。」
あたふたしたエステルは両手で目を隠すと、素早い動きでアルベルトに背を向けた。
背中から見ても耳まで真っ赤になっているエステルに、つい悪戯をしたくなったアルベルトは気付かれないようにその距離を縮める。
「た、確かにそうだけど、それならそう言って!!恥ずかしいでしょ!!」
「……へぇ?大分、筋肉が落ちてしまったんだけど、まだいけそうだな。エステルはもっと筋肉ついている方が好きだと思ってたんだけど安心したよ。」
背後からするりと抱き締められ、真っ赤になった耳へ息を吹きかけられるように囁く。
その声には存分に色気を纏わせた。
「ひぁあ!?あ、ああアルトなら私はなんでも好きだよ!!!!」
「ははっ、知ってる!」
渾身の愛の告白を悠々と受け止められ、エステルはまた顔を真っ赤にして悶えた。
「はぁ…可愛い。天使か?僕を悶え死にさせる気か?」
わざとらしく熱を帯びた声でエステルの耳元へと迫る。
喋るとその吐息がどうあっても掛かってしまう距離だ。
「耳っ!耳が!!じゃない!!服っ!!とりあえず、服を着てえぇぇっ!!」
「面白いからもうちょっとこのままで。」
「アルトぉーーー!!」
がっちりと抱き締められたまま、朝から戯れ…いや、エステルが一方的に玩具にされていた。
ーーあぁ、なんて愛しい時間なのだろう。
この時アルベルトはただこのひと時を噛み締めていた。
(僕は決して忘れない。この幸せな日々を……。)
***
その後たっぷりとエステルで遊んだアルベルトは、ようやく今日の予定を告げた。
「マダムの所へ行こう。仮縫いが終わったそうだ。」
そう告げると既にヘトヘトだったエステルの表情はパァっと明るくなり着替えに走る。
彼女がお出掛け用に選んだドレスはレモン色である。
エステルが着替えを終えた時、彼女のドレスの色を確認するなり、アルベルトは胸ポケットに似た色のチーフとシトリンのタイピンを付けた。
「よくお似合いですよ、姫。まるで春の妖精のようだ。」
「ふふ、ありがとう。アルトもとっても格好いいよ?」
笑い合って見つめて、軽くキスをして、そうしてからアルベルトは彼女の白い指先を掬いとると手の甲にキスを落とした。
「では参りましょうか。」
「えぇ。」
エステルが珍しく令嬢らしくスカートを摘み腰を落とした。
二人がマダム・フェリーゼの店に着いたのは彼女の店が開いてすぐであった。
「ようこそ!アルベルト!エリー!!」
笑顔で迎えるフェリーゼに、エステルは一瞬たじろいだ。
(そうだった!私、ここじゃエリーだった!!)
隣にいるアルベルトが困った顔で笑っていた。
「エリー早速だけど、試着してくれるかしら?まだ装飾は付けていないのだけど、元になるドレスは今日でサイズを合わせるの。ちなみに今日この日から痩せ過ぎてもダメだし、太るのは言語道断よ??」
フェリーゼに詰め寄られ念を押されたエステルは首を縦にいっぱい振る。
「じゃあ、その間僕は出掛けてくるよ。30分もしたら戻るから。」
アルベルトが踵を返し、ドアノブへと手を掛ける。
「アルト…そういえば前回も何処かに行ってたよね?」
「…君…大事なもの忘れてるだろう?それを取ってくるよ。」
眉をひそめたアルベルトは、呆れ顔のまま店から出て行った。
一方エステルは早速試着室へと案内され、また怒涛の試着タイムが始まったのである。
仮縫いを終えたドレスは豪奢な姿見の隣に佇んでいた。
後付けのレースや宝石類はまだ付いてはいなかったが、その形だけでも十分美しかった。
波のような流線型を描く胴体部分、足元を飾るトレーンは真っ直ぐ歩いても、また振り返っても、その瞬間を最大限美しく足元を飾るように仕立てられていた。
「素敵……!」
エステルは感激のあまり頬を染める。
「では、着てみましょうか?」
果たして子供っぽい見た目の自分に、本当に似合うのだろうかと心配していたが、ドレスを着て、長い髪を軽く結われると、鏡の中に少し大人になった自分が映っていた。
「まぁ、よくお似合いですよ!!」
フェリーゼも他のスタッフ達も笑顔で頷いた。
「……ありがとう…ございます!!」
その一言が精一杯だった。
胸に熱いものが込み上げてきて、それ以上何か言葉を発するとすぐに泣き出してしまいそうだったからである。
勿論その涙は嬉し涙だ。
もう一度鏡に映る自身を見つめる。
(どうか、これからもアルトの傍にいれますように……)
エステルが、試着を終え店内へ戻るとアルベルトが既に店員とお喋りに興じていた。
「アルト!」
「無事終わったかい?」
「うん!とっても素敵だった!!」
「それは良かった。やはりマダムに頼んでよかったよ。」
「そうだ、アルベルト。エリーが可愛いからって帰り道にいっぱいお菓子買ってはダメよ!?今日から彼女は体型維持に専念するんだから!!」
エステルの後ろを付いてきたフェリーゼが忠告していた。
「え……せっかくカヌレでも買っていこうかと思っていたんだが……。」
(えっ、カヌレ……!!??)
エステルはカヌレが好きだ。けれど作り始めてから一晩寝かせるのが基本なため、ふと『食べたい!』と思った瞬間に食べられる菓子ではない。
思わず捨てられた仔犬のような瞳をアルベルトに向けた。
「ゔっ……!!」
瞬間、アルベルトが呻く。
苦しいのか胸を押さえ前屈みになったが、その様子をフェリーゼは冷めた目で釘をさした。
「……ダメよ、アルベルト?あのドレス、コルセット付けないの。いい?付けれないから誤魔化せないの。」
『いいわね?当日、興奮したいでしょう?』と謎の念押しをされ、アルベルトは渋々了承していた。
(わ、私のカヌレがっ!!)
暫しお預け決定になった瞬間であった。
同時刻、マダム・フェリーゼの店の入口からほど近い酒場にて、二人の男が昼間から酒をあおっていた。
「ルイス、ルイス!!おい、聞いてんのか!?」
既に目が据わり始めているハワードにしつこく呼びかけられ、ルイスはようやく視線を上げた。
「え?あぁ…すまない、少し疲れてたみたいだ。」
テーブルの上には食い散らかされた肴の跡と空きジョッキ。
その見た目に潔癖気味のルイスは顔を顰めた。
(昼間から酒を飲むなど…)
真面目過ぎるルイスには初めての経験で、少々気が引けていたのだが今日は風もなく過ごしやすいせいか、二人が居るテラス席も既に満杯になりつつあった。
正直、酒で温もった体には外の気温が丁度いい。
「で、どうだったんだ?」
「何が?」
ルイスは二口分残っていたエールを飲み干す。
「…何がじゃない、この前の女の子の話だよ!!お前の兄さんが連れてた可愛い子!!!!」
あ、という顔をした瞬間、目の前の男の視線が厳しくなりルイスは素直に頭を下げた。
「すまん。失念していた。」
ゴトンと置いた空きジョッキを、給仕が運びやすいように他の空いた皿やジョッキをまとめていく。
「……お前って、本当そういうとこだけは興味がないというか、どうでもいいんだな…。」
ハワードはがっくりと肩を落とすと『こうなりゃ自棄酒だ!』と近くの給仕を呼び止め酒を追加していく。
(どうでも…はよくない。)
先日の兄とのやり取りを思い出す。
(兄上が本当に、子どもが望めないならば、その役目は俺が果たさねばならない。けど、違う。そうではなくて…。)
ルイスとてアルベルトは大事な家族だ。当主だからと一人で責任を負わせるつもりなど毛頭なかった。
まだエステルが生きていた頃、屋敷に遊びに来るエステルといつも幸せそうに過ごしていた。
正直エステルよりも益のある令嬢は他にもいる。
けれどいつも兄はエステルただ一人だった。
エステルの前でだけ無邪気に笑っていた。
(あの時のように笑っていて欲しいだけだ…。)
兄は優しい。
けれど、沢山のものを犠牲にした上での優しさであることをルイス知っている。
聡い分周りの人間が彼に期待を寄せる。
期待された分だけ応えられなかった時の彼への失望は酷く、必死に勉学に励むその背中は子供ながらに痛々しく見えていた。
(ようやく安らげる場所を見つけたと思っていたのに…。)
それなのにエステルは『魔女』だった。
兄の落胆ぶりは当然酷く、またルイス自身もエステルに裏切られたような気分を味わった。
―あの笑顔を見たのは一体いつが最後だった?
(…ただ…俺は兄上に幸せになってほしいだけだ。)
今の兄からは死の匂いがする。
エステルが死んで体調を崩した兄。
丁度その頃、ルイスは寄宿学校へと送られた。
兄がそんな状態で弟のことにまで両親は気が回らないと判断したのであろう。
ルイスはそれでも良かった。
兄さえ元のように元気になってくれるのならば。
けれど、丁度エステルの死から一年経ったあたりで兄は病が治ったものの様子が変わった。
あの日から、兄は婚約者の名を呼ばなくなった。
彼女に供える花の世話もしなくなった。
ほんの些細なこと。
やがて他人とも距離を置くようになり、ルイスが長期休暇で家に戻っても一週間も顔を一瞬も合わせないなどザラだった。
しまいには両親が死んだ時も葬式すら出なかった。
今の兄は淡々と執務をこなし、日々のルーティンは決して狂うことがない。
歩く屍かはたまた人形か。
「あー……ルイスが酷いぃ…俺の幸せを願ってくれない…。」
テーブルに顔を伏せ、ぐちぐちと文句を言っているのは先程の女の件なのだろう。
(…これだけ女に積極的なら相手選びも苦労しないんだろうが…。)
呆れながらも少しだけハワードを羨ましく感じた。
「ハワード、飲み過ぎだ。もう帰ろう。」
ルイスが丁度ハワードを起こそうとした時、その視線の先にある店の扉が開いた。
マダム・フェリーゼの店であった。
ルイスは息を呑んだ。
そこには兄がいた。
しかも傍らには華奢な若い女が手を引かれて出てきたではないか。
(心臓の音が煩い…。)
艶やかに波打つ甘いミルクティー色の髪。
ルイスの記憶にある色にとてもよく似た色。
鼓動の振動すら全身に伝わるような感覚を覚えた瞬間、隣の女性が動きその顔が見えた。
他人の空似であって欲しい。
頭のおかしくなった兄が、婚約者に似た女に入れ込んだだけだと。
――そう信じたかった。
「エス…テル…。」
見間違う訳がない。
ルイス自身も幼少期から何度も会っていたのだから。
兄を見つめるそのローズベリルの瞳も
兄の名をさえずるたびに赤くなる唇も
けれど彼女は死んだはずだ。ならば今、目の前にいるのは彼女ではない。
その刹那、ルイスの心の中で黒いものが溢れた。
――あぁ、そうか…。
ルイスの瞳が仄暗く光った。
「…兄上がおかしくなったのは、魔女のせいか。」
ルイスの中で長年燻っていた不安は怒りへと変貌を遂げた。
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