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第6章 命の代償
初めての瞬間
しおりを挟む「実君って、お友達を作るのが怖いんだよね。」
唐突に言われた言葉に、俺は内心でひどく狼狽したのを覚えている。
「……何、言ってんの?」
狼狽を隠して刺々しく隣の桜理を見やると、彼女は珍しく真面目な顔をしていた。
「だって、実君は猫さんみたいなんだもん。遊ぼうと思って追いかけると、いっつも逃げていっちゃうの。ママに訊いたらね、猫さんは意地悪されちゃうかもしれないのが怖くて逃げるんだって。」
「…………ふーん。」
そうかもしれない。
そう思った。
どうせ裏切られるなら、初めから信用しないほうがマシだ。
だから誰にも近付かず、誰も近付けなければいい。
でも……―――それは、自分が傷つかないための予防線なのかもしれない。
傷つくのが怖いから、誰からも遠ざかる。
そして、孤独に逃げ込む。
信じた誰かに裏切られて絶望を味わうよりも、孤独の海に浸かっている方が何倍も楽だもの。
誰とも関わらなければ、きっと自分も他人も傷つかない。
だからこそ、桜理ともこうして話しているべきではないのに……
俺がそんなことを考えているとは露知らず、立ち上がった桜理は「でもね。」と俺を見下ろした。
「大丈夫、何もしないよって。何度も何度も優しくすれば、猫さんは逃げないでくれるようになるんだって。」
「……いや、そもそも俺は猫じゃない。」
苦々しく言うと、桜理は一瞬きょとんとまばたきをして、明るく笑い出した。
「そうだよ。実君は、実君だもん。」
笑いながら、桜理は手を差し出してきた。
「あたしは、実君のお友達になりたいの。実君はお友達いらないって言ったけど、あたしは実君のお友達になりたい。だから、あたしをお友達にして? あたしは意地悪も何もしないから。仲良くなろ? お友達、作ろうよ。」
俺は何も言わずに、じっと桜理の手を見つめた。
この手を取ってはいけない。
取ったら、きっと後悔するに決まってる。
いつものように、無視して聞き流せばいい。
頭ではそう思っていた。
だけど……その時の俺は、自分の中に芽生えた微かな期待に勝てなかった。
「……分かった。いいよ。」
気付いたら、そう言っていた。
それを聞いた桜理の顔が、瞬く間に輝く。
「ほんと!? わーい!」
「ごっ、誤解するなよ!」
あまりの喜びように、俺は慌てた。
「?」
桜理が首を傾げる。
まっすぐにこちらを見つめてくる黒曜石のように綺麗な瞳を見つめ返せなくて、俺は顔を背けてしまう。
「他の奴らと仲良くする気は、さらさらないからな。お前はしつこいし、めんどくさいし……お前だけ、特別にだから。間違っても、他の奴らなんか連れてくるなよ。」
まともに桜理の顔を見られなかった。
まさか第一印象最悪だった奴に、こんなことを言う日がくるなんて……
羞恥で逃げ出したい気分だ。
桜理が目の前にしゃがむ。
意地でもそちらを見なかったけど、彼女が黙ったままこちらを観察している気配だけは分かる。
やっぱり、言わなきゃよかった……
早くも後悔が湧いてきた。
「実君。」
桜理が口を開く。
「なんで顔が赤いの?」
「―――っ!! う、うるさい!」
思わず桜理を睨みつけた俺は、驚いて後ろに仰け反ってしまった。
その勢いで、体が木にぶつかる。
桜理の顔が、思ったよりも近くにあったからだ。
桜理は、なんとも言えない微妙な笑顔で俺を見つめてきている。
「う…」
なんとなく、追い詰められたような気分に陥った。
どうして、俺がこんなに慌てなきゃいけないんだ。
こいつといると、本当に調子が狂う。
「あたしだけ?」
桜理は、確かめるように訊ねてきた。
「あたしだけなの? 実君のお友達は、あたしだけ?」
桜理は何度もそう訊いてくる。
桜理だけじゃなく、他の奴らとも仲良くしろと言いたいのだろうか?
たとえそう言われても聞く気はないので、俺はぶっきらぼうに答えた。
「そうだよ。嫌なら取り消―――」
「やったぁー!!」
「わああっ!?」
突然飛びつかれて、一瞬何が起こったのか分からなかった。
状況を把握して桜理を必死に引き剥がそうともがいても、彼女は一向に俺を離そうとしない。
「あたしだけ! 実君のお友達はあたしだけ! やったー♪ 実君は、あたしだけのお友達だよ! 約束ね!?」
「分かったから、離れろおぉーっ!!」
叫んだ勢いで、なんとか桜理を押し返すことに成功した。
何故か、ひどく心臓が高鳴っている。
そして、動揺する心の隅に生まれた感情に激しく戸惑った。
心がくすぐったくて、温かくて、安らかになるような気持ち。
全ては敵だという脅迫概念が、これは知る必要のない感情だと訴える。
だけど、すぐに手放して何もなかったことにするには……この時に感じた気持ちは、あまりにも刺激が強すぎた。
桜理によってもたらされた感情は、あまりにも甘く、優しくて。
忘れるには残酷なほど、胸に心地よくて―――
この感情に、身も心も全て委ねたくなった。
「………っ」
目元が歪む。
一瞬。
どうしてか……ほんの一瞬だけ、泣きたくなった。
「……その代わり。」
無理やり心臓の高鳴りを抑えて、桜理に言葉を投げかける。
そうでもしないと、葛藤に押し潰されそうな心が悲鳴をあげそうだった。
「名前に君ってつけるな。気持ち悪い。……実でいいよ。」
言葉の途中で、恥ずかしくなってうつむいてしまった。
地面を映す視界に、間髪入れずに桜理の手が飛び込んでくる。
見上げると、桜理は嬉しそうに微笑んでいた。
「よろしくね、実。」
その笑顔は、自分でも驚くほど綺麗に見えた。
自分の中の葛藤が、意識してもいないのにごく自然に消えていく。
―――――信じてみよう。
なんの抵抗もなく、そう思えた。
この手だけは、きっと大丈夫。
この手だけは取ってみたい。
後悔してもいい。
この選択の先に、今以上の地獄が待っていてもいいから。
今はただ、この手に触れてみたいんだ……
躊躇いがちにそっと触れた手は、涙が零れそうになるほどに温かかった。
控えめな俺の手を、桜理は強く握る。
「実、あたしたちはお友達だよ。」
初めて自分の意志で取った、差し出された手。
その温かさで、ずっと凍っていた心が優しく溶けていくようだった。
生まれて初めて、他人という存在に安らぎを感じた。
無条件に桜理から注がれる好意が、ただ純粋に嬉しかった。
「うん……桜理。」
そう告げた俺を見る桜理の笑顔が、花を咲かす。
「初めて笑ったね。」
嬉しそうに弾ける彼女の笑顔が、刻印のように脳裏に焼きついた。
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