歌と狐と春の雪

夕辺歩

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夫婦鼓

敷衍

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「その大きな大きな水の玉の中には、古い事も新しい事も、見聞きした事もしてない事も、言葉も音も、匂いも手触りも、何でもかんでも欠片かけらになって

 真咲の横顔には冗談めかした所などまったくなかった。
 むしろ当たり前のことを何気なく打ち明けるだけのように見える。

「それに、その中じゃ上も下もない。右も左もない。遠いも近いも、今も昔もない」
「ちょ、ちょっと、ちょっとすみません。待ってもらえますか」

 もゆらだった。びたような振る舞いをあっさり止めて、彼女はいつもの冷やかな半眼に戻っていた。

「真咲殿が先ほどの歌をどう詠んだか、という話が始まるのですよね? 何だかちっともそうは聞こえませんけれど」
「どこから話してみたもんだか、俺だって迷ってるんだ。考え考え進むから、とりあえず付いて来てもらうしかない。おい。おーい、聞いてるか美葛」
「う、うん……!」

 話に何とか付いて行こうと、美葛は真咲の袖を握った手に力を籠めた。
 ようは真咲の頭の中の話だ。でなら何でもできることを美葛はよく知っている。例えば冬枯れの野山を瞬く間に緑で染めることも、狐からうるわしい上臈じょうろうの姿に成り変わることもできる。そのように強く思い描いたものを身の内の霊力ちからでもってうつつのものとしてのけること。突き詰めて言えばそれこそが狐の変化へんげの術の極意なのだから。
 真咲は、眼差しからしても口振りからしても例え話を始めた訳ではない。あれこれ思いを巡らせて歌を詠むに当たって、事実、彼はその大きな水の玉の中に立ち返るのに違いなかった。

「何のためにどんな歌を詠むか、水の玉の真ん中にふわふわ浮いている俺はまず考える。今度なんかは、そんなことが本当にできるかどうかは別として、歌で雲を晴らして大鼓おおかわ《望月》を取り戻そうっていう分かりやすい狙いがある」

 できるかどうかは美葛次第。もしも彼女にそれだけの強い意志と霊力があったなら、心に念じて袖を一振りしただけで黒雲は消え去ることだろう。そんなことはまずできない半人前の狐なものだから、歌の力を借りてみようというのだ。

「雲が晴れて《望月》が戻って来ればいいと思う心は、姫様も刀自も下女たちも同じだな。ただ」

 と、真咲は美葛を試すように見つめてきた。

「屋敷の中で取り分け強くそう思ってるのは誰かと言えば……?」
「《夕星》だね」
「そう。《夕星》のことを思うとき、『残された小鼓』だとか、『夫婦鼓めおとつづみの片割れ』だとか、『男の帰りを待つ女』だとか、そういう欠片のいくつかが光って目に付く。水の玉の中で、まずはそれらを集めていく」
「そういう欠片、といいますと」

 もゆらの問いに真咲が唸った。誰に明かしたこともない頭の中を何とか言い表そうと、彼も彼なりに呻吟しんぎんしているらしい。

「見聞きしたものが引き寄せる、似たような言葉や物の姿を、今はそう呼んでみた。言ったように、音や匂いや手触りだったりもする。本当には出会ったことのないような何かでもいい。とにかく、そういう歌の材になる欠片たちをたくさん手元に集めておくんだ」

 夢もうつつも何もかも一緒くたになって浮かぶ水の玉。その中にひらめく欠片たちというのは、どうやら美葛が思い描くよりもずっと手応えのあるはっきりしたものらしい。真咲はまるで集めた木の葉でも数えるように続ける。

「『戻らない夫を思う妻』、『消えた男の身を案じる女』……。涙に濡れて物悲しい、そんな欠片たちが歌のになりそうだと、この時もうどこかで俺は感じてる。美葛はどう感じた? 《夕星》の昔語りを受けて何を思った?」
「え!? えっと、えっと……」

 美葛は真咲の袖を離した。腕組みをしたり、両手を頬に当てたり、こめかみの辺りを指でくりくりしてみたり、睫毛を伏せて真剣に考えた。
 ごちゃごちゃした胸の内を懸命に探って、美葛は《夕星》の悲しそうな様子や取り残されてしまった寂しさをまず思った。好もしい誰かに置いて行かれるなんてたまらなく哀しいことだ。生まれてからずっと共に過ごしてきた《望月》を失いかけている今、《夕星》の心の辛さはいかばかりか。
 巡り始めた思いは止まらなかった。一つの思いはまた新たな思いを引き寄せて際限なく広がった。一夜を泣き明かす《夕星》の心に《望月》との思い出がとめどなく蘇る。もう会えないかもしれないと思えば思うほど懐かしさと慕わしさが増していく。
 その啜り泣きが琴音の耳に届く。
 琴音の辛さもまた一通りではないだろう。悩ましい毎日。消えた鼓が否応なしに思い出させる撥丸ばちまるのこと。りし日の面影おもかげ。二度と戻らない日々。強い後悔。眠れずに見上げた夜空はしかし、雲に覆われて月の姿さえもなく――。
 顔を上げた美葛の涙目を真咲が黙って覗き込んでいた。美葛は首を振った。

「色々思い浮かぶけど、ごちゃごちゃしてて駄目。少しもまとまらないよ」
「ごちゃごちゃでいいんだ。まとめたりすることない。何も間違ってない」
「そ、そうなの?」
「それで? 例えば何を思い描いた」
「……例えば、ええと、眠れない琴音様が、夜の空を見上げてたりとか」
「分かる。似たような様子を俺も考えた。《夕星》と琴音様のどちらにも通じる、『慕わしい誰かに会いたくても会えない』ってところが、そういうけしきを見せるのかもしれないな。女が一人、哀しそうに曇った夜空を見上げてるんだ。ああこのひとの歌になる、と俺は思った。上も下も右も左もなかった水の玉の中に、その時やっと足場ができた」

 曇った夜空を見上げる女。《夕星》や琴音といったふうに言い切ることを真咲はしない。なぜと思うでもなく湧いた美葛の中の問いに、真咲が先回りして答えた。

「歌を詠むってのは、俺に言わせれば選び取ることだ。ときを選ぶ。けしきを選ぶ。おもいを選ぶ。ことばを選ぶ。引き寄せた欠片たちの一つ一つを手に取って、ああでもないこうでもないと組み合わせる。このとき、初めからあんまり色々と決めつけてかからない方がいい。広がりがなくなって歌が縮こまるからな。ごちゃごちゃでいいってのは、つまりそういう理由からだ」
「真咲殿のおっしゃりようは、何だか漠然としすぎていてとても分かりにくいです」
「もゆら、悪いけどな、黙って付いて来てもらうしかない」

 形のないものの話だけにしっかりと掴むことは難しい。それでも何とか物にしようと美葛は気を張った。いつの間にかももが触れ合うまで真咲の側に寄り、篝火を映した瞳をじっと覗き込んでいた。

「足場ができた、と言った。もちろん一つのたとえだ。誰かを思って夜空を見上げてる、その女の身になって歌を詠もうっていう気構えみたいなもんだな。ここからは、目指す場所へ向かうために道を選ぶことによく似てる。上りに下り、右曲がり左曲がり、見通しの良いのや急に折れてるのや脇道が伸びてるのや、坂道抜け道獣道。どの道をどう行ったらいいか考える」

 水の玉の中に道が伸びた。何やら途方もないようなことを真咲はさらりと言う。

ときはもちろん夜だな。雲がちな夜空を一人見上げる女のけしき。美葛、おもいは?」
「想」
「景を受けて、美葛の中に浮かんだ想を聞きたい」
「待って、ええと、ええと……」

 美葛は今しがた胸の中に閃いた欠片たちをもう一度たぐり寄せてみた。眠れずに夜空を見上げる女。真咲の選んだ景に照らして、より相応しいと思われるものたちを躊躇ためらわずに選び出す。

「想は、『一人でいるのが寂しい』とか、『早く帰ってきてほしい』とか『また会いたい』とか、そういうふうなこと……。かなあ」
「だな。『一緒にいるのが当たり前だった頃を思うと眠れない』とか、『一人で過ごす今が辛くて仕方ない』とか。いいぞ。俺が感じて選んだものとほとんど変わりない。さあ、ここまで来てようやくことばを選べる。まずは一番言いたいことを下の句の七七でどう表わしてやるかなんだが」
「え、待って待って」

 められて喜んだのも束の間、美葛は慌てて真咲を止めた。

「下の句から詠むの? 上の句からじゃなくて?」
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