歌と狐と春の雪

夕辺歩

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影法師

覚醒

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《影法師》の正体は何か。
 その答をたずさえた一行は再び河内家の門前へとやってきた。
 真咲の考えが正しいかどうかを確かめたければ、《影法師》にもう一度ぶつかってみるのが一番の近道だった。
 門の脇に隠れてする無駄話も尽きた頃、日暮れ間近な道の向こうから一際冷たい風が吹いてきた。
 美葛のうなじの毛が逆立った。

「来た……!」

 もゆらが短い悲鳴を押し殺した。初めて目にするのだから無理もない。
 《影法師》が連れている者を見て、美葛も思わず口元を覆った。上背も目方も人並み外れて大きな、たいへん大柄な男だ。その男のもとどりをがっちりと掴んで、しかも軽々と、《影法師》は引き摺っているのだった。
 烏帽子も被らない大男は、着た切りらしい短い衣から血と青痣だらけの手足をだらりと伸ばしていた。何しろ図体からして屈強そうな彼なので、影法師に向かって負けじと殴り返すくらいのことはしたのだろう、かえって手酷く痛めつけられて気を失った様子だった。

「待った!」

 真咲が躍り出て声を張り上げた。が、当の《影法師》はぶつぶつと例の『宿世すくせとて』の歌を繰り返すばかり。その上、こちらに気付いているのかいないのか、掴んでいた男を真咲の足元に放り投げた。白目をむいてのびた男は、美葛にはほとんど死人と変わりないように見えた。
 男を避けて、真咲が数歩前に出た。

「どうか、もうお止めください! こんなことをして何の意味があるんです!」

《影法師》は何も応えなかった。
 美葛の胸にまた疑いの念がきざした。信じようにもなかなか信じがたいことだった。
 目の前の《影法師》は、真実、真咲が言う通り看督長かどのおさ河内忠親の生霊なのだろうか。

信太しだの、炭焼きの千種ちぐさを覚えておいででしょうか」

 そこでようやく、《影法師》が真咲の言葉を気にする素振りを見せた。歌を呟くことをやめたのだった。
 美葛は瞳のない目が真咲の顔をじっと見据えるのを感じた。

「俺は千種の息子です。お袋から、忠親様にお渡しするようにと、この短冊を預かって」

 懐に手を伸ばした真咲はしかし、言い切ることができなかった。
 突然、《影法師》が頭を抱える仕種で苦悶くもんの叫びを上げ始めたからだ。
 背を伸ばしたり丸めたり、影は聞き苦しいうめき声を上げながら身悶みもだえする。
 真咲が何とも悲しげな顔を見せた。

「これまで、きっとどんなにか辛かったことでしょう。けれどもう抱え込まなくていいんです」

 吠える影法師が腕を振り回し始めた。忠親様! と真咲は避けながらなおも呼びかける。

「誰だって死ぬのは恐ろしいです。不安なはずです。又の世なんてものが本当にあるならと、どっかで頼みにしたくもなります。けどこんなこと続けたって、罪滅ぼしになんてなりますか。功徳くどくになんてなりますか」

 惑乱わくらんの《影法師》は明らかに真咲を狙っていた。
 振り回す腕に後退あとずさりを強いられて真咲が尻餅をついた。猛然と掴みかかる影。真咲が目を閉じて顔を背けた。

「真咲!」

 美葛は飛び出した。
 咄嗟とっさにかざした手の先でまばゆい光がぜた。
《影法師》が声ならぬ声を上げた。仰け反って真咲から離れた。たじろぐその姿を見て、美葛自身、ようやく気が付いた。
 倒れ込んだ真咲の周りを舞う火の玉。青白い燐火りんかが縦横に飛び回り、影法師を真咲から引き離していく。

「狐火……!」

 もゆらが感嘆かんたんの声を上げた。
 誰よりも美葛が驚いた。真咲を助けたいという強い思いがそうさせたのか、これまでろくに扱えたことのなかった狐火の術を、彼女はこの時ようやく思いのままに操ることができたのだった。
 美葛は狐火で脅すようにして《影法師》を真咲から遠ざけた。側に駆け寄った。倒れたままの真咲は、眉を寄せた切ないような表情で、美葛にあの短冊を手渡してきた。

「頼む。お袋の思いを、届かせてやってくれ」

 美葛は深くうなずいた。
 真咲をかばって前に立ち、預かった短冊を目の前にかざした。
 目を伏せ、今はいない千種の心に思いをせる。
 真咲を守ろうと燃え上がった身の内の霊力を、さらにさらに高めていく。
 ときは今ではないいつか。
 思い悩む男とそれを見守る女、二人きりのけしき
 世の無常を嘆き続けた、血気盛んな若者だった忠親に、叶うなら直に伝えたかっただろう千種のおもい。美葛はそれを歌のことばに籠めた。

「『常ならぬ 暗き浮世を 嘆く身の 罪をも露と なすよしもがな』」

 あらゆるもの、流れる雲や風さえも、一瞬その動きを止めたように感じられた。
 何も起こらないのでは、と美葛が不安を感じた時だった。《影法師》が腹に響くような野太い声を放って泣きだした。
 しかも、泣きながらその姿は次第に薄らいでゆき、やがてすっかり消えてしまった。
 初めから何もいなかったかのような静けさだけが残された。

「……片付いた、と思っていいので?」

 もゆらが、まだおっかなびっくりといった様子で、誰に問うともなく尋ねた。

「やっぱり、真咲殿の言った通り、《影法師》は忠親様の生き霊のようなものだったのでしょうか」

 首を傾げるその足元で、倒れていた大男が目覚めて呻き声を上げた。もゆらは小腰を屈めて声をかけた。

「立てますか? えらく痛めつけられたようですけれど」

 大男がびくりと身を縮めた。もゆらの声はいつにも増して冷ややかだ。

「あの影ならもう消えましたよ。教えて下さい。貴方ひょっとして、何か良からぬことをしでかしましたか? 誰かから何かを盗んだり、力尽くで奪い取ったり、そういうことをしませんでしたか?」
「……した。銭を、巻き上げた。市町の外れで。若い商人あきんどを捕まえて、都の慣いだと嘘で脅して」

 怪我が痛むらしい、ひどくつっかえながらの告白だった。美葛は内心で男を責めた。相手の無知や弱さにつけ込んで、追い剥ぎも同然の真似をしたという訳だ。団栗どんぐりの銭で餅を買った身でなければ、声に出して責め立てた所だった。
 もゆらが大男に、へえそうでしたか、と心の籠らない相槌を打った。

「役人に突き出さない代わりに、助けも呼びません。私どもには何の関わりもありませんからね。どこへなりともお行きなさい」

 どうにかこうにか一人で起き上がった大男が、夕暮れの道をのろのろと歩み去る。
 その姿が辻を折れて見えなくなる頃、唐突に門が開いた。
 先だってあのくさぶきという黒衣の薬師を押し止めてくれた、忠親の一人娘、雪世ゆきよだった。そのただでさえ白い顔を、ひどく驚いている様子の彼女はいよいよ青白くしていた。

「……あの、たった今、目を覚ました父が、屋敷の前にいらっしゃる皆様を、中へお招きせよと」
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