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影法師
千種
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その文月の出会いを境に、忠親と千種は人目を忍んで度々会うようになった。
里のあぶれ者同士、馬が合ったから、というだけではない。互いに同好の士であることが分かったからでもあった。若い二人はどちらも歌の道に大きな関心を抱いていたのだ。
何度目かの夜だった。千種が小屋の隅から一抱えもある行李を重そうに持ち出してきた。
促されるまま中を覗いて、忠親は我が目を疑った。
河内の里では抜きん出た物持ちである忠親の家にさえ数えるほどしかない、巻子本やら冊子本やら、珍しい書物たちがぎっしり詰め込まれていたからだ。
「『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『古今和歌六帖』も全巻ある。『伊勢物語』、『大和物語』。おう、『万葉集』まである。どうして炭焼き小屋にこんな、得難い書物ばかり……」
「誰からのだか知らないけど、預かり物なんだってさ。死んだ父ちゃんに代わって、娘の私はこれを守らなきゃいけない。……あんた、好きに読んで良いよ。ただし、くれぐれも秘密にしておいてよね。こんなものがここにあるってこと」
「秘密も何も、こんなこと里の誰が信じるというんだ。ひょっとしてあれか、炭焼き娘は世を忍ぶ仮の姿、実はどこぞの姫君で……」
「まさか。止してよ。ただの炭焼きだってば」
「だったら、初めて会った雨の夜、これの中身を知っているふうだったのはどうしてだ」
忠親が『伊勢物語』の冊子を示すと、どうしても何も、と千種は形の良い眉を上げた。
「そりゃ知ってるさ。どれも一度は目を通したんだから」
「読めるというのか。誰に字を教わった」
「死んだ父ちゃん。父ちゃんが誰に習ったのかは知らないけどね」
千種の話のすべてを鵜呑みにはできない。忠親は、彼女との付き合いが長くなるにつれてそう考えるようになった。朗らかさも気性の激しい所もすべて、何かを隠しておくための装いであるかのように感じられる時が、稀にだが確かにあったからだ。
ともあれ、歌を解する者、それも貴重なことこの上もない書物の数々を蔵する者と知り合えたことは、いずれ都へ打って出ようと志す忠親にしてみればまたとない幸運だった。
「都にあって、歌の一つも詠めないのでは恥をかくだろうからな」
「詠めない輩だってごろごろいるだろうと私は思うけどね」
二人が会うのは多く雨や曇りの夜だった。
ちょっとした土産を手に、人目を憚って訪ねてくる忠親を、千種は必ずささやかな酒肴でもてなした。
彼らは共に書を紐解き、読み交わし、歌について語らい、また詠み交わした。
「あんた本当に好きだよね『常ならぬ』。詠む歌の三つに二つは『常ならぬ』だね」
「だったらどうした。当たり前のことを言うだけだろうに」
「抹香臭くてかなわないよ」
「世は無常だ」
言い切った忠親は一息に酒杯を干した。酒で何かを薄めるような飲み方だった。
「……そっちこそ、人の事が言えるのか。『宿世とて』だの『さだめなりけり』だの、初めからすべて諦めたようなつまらない文句ばかり持ち出すくせに」
「そりゃあそうさ。そうでも思わないとやってられないことばかりだもの」
歯に衣着せない二人だったので、ちょっとした言い合いはほとんど毎度のことだった。
ある時、都なんか行って何すんの、と千種が問いかけた。忠親は即座に答えた。
「検非違使になる。田舎郡司の倅にも、そのための道は開かれていると聞くからな」
「そんなもん、なってどうするのさ」
「知れたこと。都の非違を検するのだ」
「非違を検する。止せばいいのに河内の里で荒っぽい真似を繰り返してんのは、そのための修練か何かかい。ご苦労なことだね」
「どうとでも好きに言え」
忠親は酒杯を呷った。杯を折敷の上に、置くというよりは叩き付けた。目が座っていた。
「郡衙に持ち込まれる里人の不平不満を知っているか? 末法だ何だと世を嘆く声は日増しに高くなっている。俺は坊主ではないから、そうした民の心を救ってやることはできん。だが、その末法とやらを口実に悪事を働く者を誅することならきっとできる」
「そんな奴らがいるのかい?」
「いるとも。これまでどれだけそういう輩を凝らしめてやったことか」
忠親は座ったまま、姿のない誰かを殴り付け、組み伏せる真似をした。
「里人の不安を煽って不和を招いてみたり、破落戸どもを唆して盗っ人働きに加担させてみたり……。里にさえいるのだ、都にはもっといることだろう。何もしない己のことは棚に上げて、すべてを世の中のせいにして、それでいて好き放題やりたい放題をして恥じないという連中がな」
若者らしい猛々しさが忠親の瞳に閃いた。
千種、と彼はその勢いのままに呼びかけてきた。
「俺が都に行く時には、どうだ、お前も一緒に行ってみないか」
「何を言い出すんだか」
「本気だ。もう筋道は付けている。じきに俺は都の衛士になる」
忠親は膝でにじって囲炉裏を回り込んだ。
思い詰めた様子で千種の両肩を掴んだ。
「頼む。俺と一緒に来てくれ」
「無理を言わない。ほら、話しただろう? 私は父ちゃんの代わりに、ここであの行李を守らないと」
「誰の持ち物とも知れない、取りに来るかどうかも分からない書物のために、この小屋で一生を送るというのか」
「それが私の運命って奴なのさ」
「そんなもの……!」
忠親は、行李から出して床に積んでいたうちの一冊、『伊勢物語』を手に取った。力任せに引き裂いた。料紙が千々に破れ、綴じてあった糸も無残に千切れた。はらはらと紙片が舞った。
千種は眉一つ動かさなかった。慌てるようでも悲しがるふうでもなかった。
随分経ってから、溜息交じりに彼女は言った。
「……これっきりにした方が、きっとお互いのためだね。この小屋には、もう来ないでおくれ」
忠親の荒い息がいくらか静まるのを待って、千種は裂かれた紙切れを集め出した。
「あと、最後にもう一つ。世の中きっと、あんたみたいに強い人ばっかりじゃないよ。いろんなのがいるはずさ。変わりたいのに変われないのとか、変わらずにいる覚悟をしたのとか。泣く泣く罪を犯すのとか、ただただ周りに流されるしかないのとか。そのこと、都に行っても忘れない方が良いと思うよ」
その日を境に、二人が会うことは二度となかった。
しんみりした調子で語り終えた真咲に、もゆらが我に返って憤然と意見した。
「《影法師》と忠親様との関わりは? まったく分からないじゃないですか」
「あの、真咲ごめん、私も分からなかった」
美葛も素直に打ち明けた。妙泉尼は相変わらず黙っている。
すると真咲は懐を探り、一葉の短冊を取り出した。河内家の門衛に差し戻された、あの短冊だった。
「お袋がしてくれた今の思い出話の中には、一つ大きな嘘があっただろうと俺は思ってる。そうでもなきゃこんな歌を忠親様に贈ったりはしないだろうってな」
短冊の表には、美葛から見れば達者すぎるほど達者な筆運びで一首の歌が記されていた。
《影法師》の歌、その乱暴狼藉、真咲の母千種と忠親の昔話、そして真咲が持つ短冊の一首。
すべてが一つに繋がって、ある事実を指し示そうとしていた。
里のあぶれ者同士、馬が合ったから、というだけではない。互いに同好の士であることが分かったからでもあった。若い二人はどちらも歌の道に大きな関心を抱いていたのだ。
何度目かの夜だった。千種が小屋の隅から一抱えもある行李を重そうに持ち出してきた。
促されるまま中を覗いて、忠親は我が目を疑った。
河内の里では抜きん出た物持ちである忠親の家にさえ数えるほどしかない、巻子本やら冊子本やら、珍しい書物たちがぎっしり詰め込まれていたからだ。
「『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『古今和歌六帖』も全巻ある。『伊勢物語』、『大和物語』。おう、『万葉集』まである。どうして炭焼き小屋にこんな、得難い書物ばかり……」
「誰からのだか知らないけど、預かり物なんだってさ。死んだ父ちゃんに代わって、娘の私はこれを守らなきゃいけない。……あんた、好きに読んで良いよ。ただし、くれぐれも秘密にしておいてよね。こんなものがここにあるってこと」
「秘密も何も、こんなこと里の誰が信じるというんだ。ひょっとしてあれか、炭焼き娘は世を忍ぶ仮の姿、実はどこぞの姫君で……」
「まさか。止してよ。ただの炭焼きだってば」
「だったら、初めて会った雨の夜、これの中身を知っているふうだったのはどうしてだ」
忠親が『伊勢物語』の冊子を示すと、どうしても何も、と千種は形の良い眉を上げた。
「そりゃ知ってるさ。どれも一度は目を通したんだから」
「読めるというのか。誰に字を教わった」
「死んだ父ちゃん。父ちゃんが誰に習ったのかは知らないけどね」
千種の話のすべてを鵜呑みにはできない。忠親は、彼女との付き合いが長くなるにつれてそう考えるようになった。朗らかさも気性の激しい所もすべて、何かを隠しておくための装いであるかのように感じられる時が、稀にだが確かにあったからだ。
ともあれ、歌を解する者、それも貴重なことこの上もない書物の数々を蔵する者と知り合えたことは、いずれ都へ打って出ようと志す忠親にしてみればまたとない幸運だった。
「都にあって、歌の一つも詠めないのでは恥をかくだろうからな」
「詠めない輩だってごろごろいるだろうと私は思うけどね」
二人が会うのは多く雨や曇りの夜だった。
ちょっとした土産を手に、人目を憚って訪ねてくる忠親を、千種は必ずささやかな酒肴でもてなした。
彼らは共に書を紐解き、読み交わし、歌について語らい、また詠み交わした。
「あんた本当に好きだよね『常ならぬ』。詠む歌の三つに二つは『常ならぬ』だね」
「だったらどうした。当たり前のことを言うだけだろうに」
「抹香臭くてかなわないよ」
「世は無常だ」
言い切った忠親は一息に酒杯を干した。酒で何かを薄めるような飲み方だった。
「……そっちこそ、人の事が言えるのか。『宿世とて』だの『さだめなりけり』だの、初めからすべて諦めたようなつまらない文句ばかり持ち出すくせに」
「そりゃあそうさ。そうでも思わないとやってられないことばかりだもの」
歯に衣着せない二人だったので、ちょっとした言い合いはほとんど毎度のことだった。
ある時、都なんか行って何すんの、と千種が問いかけた。忠親は即座に答えた。
「検非違使になる。田舎郡司の倅にも、そのための道は開かれていると聞くからな」
「そんなもん、なってどうするのさ」
「知れたこと。都の非違を検するのだ」
「非違を検する。止せばいいのに河内の里で荒っぽい真似を繰り返してんのは、そのための修練か何かかい。ご苦労なことだね」
「どうとでも好きに言え」
忠親は酒杯を呷った。杯を折敷の上に、置くというよりは叩き付けた。目が座っていた。
「郡衙に持ち込まれる里人の不平不満を知っているか? 末法だ何だと世を嘆く声は日増しに高くなっている。俺は坊主ではないから、そうした民の心を救ってやることはできん。だが、その末法とやらを口実に悪事を働く者を誅することならきっとできる」
「そんな奴らがいるのかい?」
「いるとも。これまでどれだけそういう輩を凝らしめてやったことか」
忠親は座ったまま、姿のない誰かを殴り付け、組み伏せる真似をした。
「里人の不安を煽って不和を招いてみたり、破落戸どもを唆して盗っ人働きに加担させてみたり……。里にさえいるのだ、都にはもっといることだろう。何もしない己のことは棚に上げて、すべてを世の中のせいにして、それでいて好き放題やりたい放題をして恥じないという連中がな」
若者らしい猛々しさが忠親の瞳に閃いた。
千種、と彼はその勢いのままに呼びかけてきた。
「俺が都に行く時には、どうだ、お前も一緒に行ってみないか」
「何を言い出すんだか」
「本気だ。もう筋道は付けている。じきに俺は都の衛士になる」
忠親は膝でにじって囲炉裏を回り込んだ。
思い詰めた様子で千種の両肩を掴んだ。
「頼む。俺と一緒に来てくれ」
「無理を言わない。ほら、話しただろう? 私は父ちゃんの代わりに、ここであの行李を守らないと」
「誰の持ち物とも知れない、取りに来るかどうかも分からない書物のために、この小屋で一生を送るというのか」
「それが私の運命って奴なのさ」
「そんなもの……!」
忠親は、行李から出して床に積んでいたうちの一冊、『伊勢物語』を手に取った。力任せに引き裂いた。料紙が千々に破れ、綴じてあった糸も無残に千切れた。はらはらと紙片が舞った。
千種は眉一つ動かさなかった。慌てるようでも悲しがるふうでもなかった。
随分経ってから、溜息交じりに彼女は言った。
「……これっきりにした方が、きっとお互いのためだね。この小屋には、もう来ないでおくれ」
忠親の荒い息がいくらか静まるのを待って、千種は裂かれた紙切れを集め出した。
「あと、最後にもう一つ。世の中きっと、あんたみたいに強い人ばっかりじゃないよ。いろんなのがいるはずさ。変わりたいのに変われないのとか、変わらずにいる覚悟をしたのとか。泣く泣く罪を犯すのとか、ただただ周りに流されるしかないのとか。そのこと、都に行っても忘れない方が良いと思うよ」
その日を境に、二人が会うことは二度となかった。
しんみりした調子で語り終えた真咲に、もゆらが我に返って憤然と意見した。
「《影法師》と忠親様との関わりは? まったく分からないじゃないですか」
「あの、真咲ごめん、私も分からなかった」
美葛も素直に打ち明けた。妙泉尼は相変わらず黙っている。
すると真咲は懐を探り、一葉の短冊を取り出した。河内家の門衛に差し戻された、あの短冊だった。
「お袋がしてくれた今の思い出話の中には、一つ大きな嘘があっただろうと俺は思ってる。そうでもなきゃこんな歌を忠親様に贈ったりはしないだろうってな」
短冊の表には、美葛から見れば達者すぎるほど達者な筆運びで一首の歌が記されていた。
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