歌と狐と春の雪

夕辺歩

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影法師

美童

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 場の皆が揃って息を呑んだ。得難えがたい書物の数々を灰に――。
 抱えたものの重さに耐えかねた様子で、忠親がいっそう項垂うなだれた。
 こちらも泣きそうな顔の雪世が、父親の骨の浮いた背中にそっと手を添えた。

「行李を燃やした後、我に返って平謝りに謝る私を、千種は責めなかった。ただ、これもまた運命さだめだろう、このことは忘れていいからもう来ないでくれと言って、ぴしゃりと戸を閉めた」
「その後、お袋と会ったりは」
「それっきりだ。びのつもりで、人をってあれこれ物を届けさせたりはしていたがな。時期が来て、私は都へ向かった。……思うに、千種は真実、何かの役目を負っていたのだろう。ただの炭焼きの娘ではなかった。何かを守り、隠していた。あの書物もその中の一つだったに違いない。お主は何も聞かされておらんのか」
「……お袋からは、何も」
「そうか……。それもまた千種の意思だろう。語らずに世を去ることで役目を全うしたのだと、私には思わせておいてくれないか」

 忠親は大きな大きな溜息をついた。
 せた肩越しに、彼は衣桁いこうにかけた赤い狩衣かりぎぬを振り仰いだ。

「千種にした仕打ちを、私は恥じて、忘れたいと思った。与えられた役目に打ち込んだ。あっという間の二十年だった。掃いて捨てるほどいる衛士の中から、選び出されて火長になって、もったいなくも看督長かどのおさに任ぜられて……」

 雪世が気遣わしげに病父の肩を抱く。忠親は応えて小さく頷いたようだった。

「がむしゃらに、ひたすらに生きた。上つ方に認められて、古くはあってもこうして屋敷までたまわり、妻をめとって子を成した。やろうと思えば何でもできると、信じて疑わなかった。常ならぬ世、移ろいやすいこの世を、己の才覚で思うままに渡っていけると、そんなふうに思っていた。……傲慢ごうまんだった」

 妻が病を得た辺りから、順風満帆だった暮らしにかげりが見えだしたのだという。

「腹に物が憑いた、というのが医者や加持をさせた山伏たちの見立てだった。前生ぜんしょうの報いだと言う者もあった。思いつく限りの手を打ったが、何の甲斐もなかった」

 雪世が辛そうに顔をうつむけた。母親の、今際いまわきわの苦しみようや変わり果てた姿を思い出したのかもしれない。忠親もゆるゆると首を振った。

「それはそれは無残なものでな。あれの死に様に接してから、私は、死ぬことが恐ろしくて堪らなくなった。今、こうして誰かと共にいても恐ろしい。情けないことだ」
「情けなくなんて」
「情けないとも」

 忠親は真咲をさえぎるように言い被せた。昂ぶりに声は震え、息が荒くなっていた。

往生おうじょうの時を、胸を張って迎えられないことが私は情けない。心許した女が後生大事にしていた品を怒りに任せて燃やした男が、検非違使面けびいしづらで人を追ったり捕えたりし続けたのだ。これは一体どんな罪に当たるのだろう。私はどんな地獄に落とされる? それとも何か畜生にでも生まれ変わるのだろうか」

 美葛は忠親の苦しみの根を見たような気がした。『又の世も憂し』と歌を結んだ心が手に取るように分かった。その働きぶりを広く知られた看督長、配下の放免たちにも慕われる彼が、だからこそ抱くに至った悩みとでも呼ぶべきものがそこにはある。
 誰にも、どう言って慰めることもできず、場が静まり返ったその時だった。庭先に涼やかな声が響いた。

「だからこそ死ぬ前に善行を積もうとした、そんな貴方の真っ直ぐな心根を、御仏はご覧になったはずです」

 美葛は耳を疑った。声に聞き覚えがあったからだ。
 同時に、いつかと同じかそれよりもずっと強い寒気に襲われた。
 一体いつからそうしていたのだろう、梁の上の暗がりに、床下に、狩衣の背に、飾られた太刀や弓の陰に、矢を入れた筒の中に、見えない何かが数限りなくひしめいていた。飢えて分別をなくした狼たちの只中に身一つで放り込まれた感があった。
 外と内とを隔てる蔀戸しとみどすだれが、触れる者もないのに開き、あるいは鴨居かもいから外れて落ちた。
 もゆらと真咲が揃って片膝を立てた。雪世が忠親を庇うように袖で包んだ。
 夕間暮れの庭に二つの影があった。一つはあの大柄な黒衣の薬師、くさぶきのもの。今一つはそれと対をなすようなうるわしい童子のものだった。浄衣じょうえめいた白い衣を茜色に染めてたたずむ、十二、三と思しい美童だ。
 茨の鋭い目つきに気圧されてか、狼狽うろたえ顔の放免たちは誰も彼らに近付けない。
 挑むように遠巻きにされたまま、堂々と物を言うのは童子の方だった。

「そうではありませんか、忠親殿。病を押して、できる限りのことをして、何とか都に尽くそうとした貴方のことを、誰が畜生道になど落としたりするでしょうか」
不知也いさや殿」

 忠親が、まるで貴人あてびとに接するように背筋を伸ばして会釈えしゃくをした。落ちくぼんだその目に妖しいかげりが生じたのを美葛は見逃さなかった。取り憑かれたとまでは言わないが、辺りに満ちた妖気に当てられたように見える。何しろ勝手に開いた蔀戸や落ちた簾のことにもまったく驚いていない。

「しかし、来世を憂う私の心の影は、地金じがねが出たのだろう、あまりにも振る舞いが荒すぎた。ただの乱暴狼藉と見做みなされても仕方がないほどに。お陰で、放免たちにも、こちらのお三方にも迷惑をかけてしまった。殴り付けられた者たちのことも、いくらとはいえ、気を失うほどの打擲ちょうちゃく。今となっては気がとがめる」

 不知也と呼ばれた少年は哀れむような眼差しのまま、黙して応えなかった。
 咳払いをした忠親が庭の二人に向かって手を伸べた。

「真咲、あちらは不知也殿と茨殿。お二人とも薬師だが、様々な秘術にも通じていらっしゃる。私の思いを深く汲んでくださったのみか、歌にまで詠み、浅はかな願いを聞き届けてくださったのは不知也殿だ」
「あの『宿世すくせとて』の歌を詠んだのは、あちらの……? 願いとは」
「私は、都の罪の芽を摘み取り、もって善行を積もうとした」

 忠親は両手を軽く開いて病床の我が身を示した。

「こんな私の代わりに動く分身、不知也殿が歌の力で作り出してくださった、あの《影法師》の力でな。しかし言った通りだ。いざその時になると昂ぶりを抑えきれず、荒っぽい真似ばかりになって……」
「されて当然のことをされた者ばかり。気に病むことなどありますまい」

 不知也が、怪我を負わされた者たちのことを冷やかに切り捨てた。

「ところで、消えた《影法師》の代りをご所望ではないかとこうしてまかしましたが……」
「もう必要ないようだ。お気持ちだけ、受け取らせて頂くとしよう」

 忠親の返事など聞くまでもなく知っていたかのように、不知也は深くうなずいた。おいとまする前に、と続けた。

「よろしければ、《影法師》を止めたというそちらの歌を拝見したい」

 手元の短冊を指差された真咲が立とうとしたのを、美葛は袖を握って押し止めた。

「私が行く」

 真咲から何か問われる前に、短冊を受け取った美葛は庭へ下り立った。
 不知也はうっすらと微笑んで彼女を迎えた。
 不気味に黙り込んだままの茨の眼が恐ろしい。
 美葛は生唾なまつばを飲み込んだ。短冊を差し出した。

『あの時の白い雀さんだね』
『いかにも。どうだろう、都の暗がりを覗き込んで、また少し里に帰りたい気持ちが増したのではないかな』

 それは返事を待つ問いではなかった。
 歌を一読した不知也は、美葛越しに真咲へと呼びかけた。

「こちらは御母堂ごぼどうのお詠みになった歌だとか。この一首が、いわば返歌かえしとなって《影法師》を止めたわけですが、そんな働きをすると思うに至った理由をお聞かせ願いたい」

 言われてみれば確かに、と美葛も思った。真咲の母が歌に託した思いが忠親に届いたからこそ《影法師》は消えた。それは分かるのだが、真咲はいつどのように考えて忠親と《影法師》を結びつけ、母の歌によって狼藉ろうぜきを止められると思い定めたのだろう。
 真咲が無造作に頭を掻いた。美葛には、どう答えたものか苦しむといった顔に見えた。

「……お袋から聞いてた若い頃の忠親様の荒っぽさや、世の中を憂えていらっしゃったこと、あと歌に『常ならぬ』と詠みがちだったことなんかが、俺の中で《影法師》の歌や振る舞いと重なった。殴られたのは不届き者ばかりらしいって話も鍵だった。狼藉を働くことが《影法師》の望みじゃない、と思ったんだ」
「では何が狙いだとお考えになったのです?」
「都の非違を検すること。姿はどうあれ、やってることは検非違使と同じだからな。そこに来て『宿世とて』の歌だ。死ぬことへのうれいってものを強く感じた。そのことが、実は《影法師》は、つまり忠親様は、今のうちに善行を積もうとしていらっしゃるんじゃないかって考えを引き寄せた」

 美葛は、真咲がこうまで整然と物を言うのを初めて見た。不知也という、この不思議な童子が相手だからなのだろうか。

「又の世を恐れる気持ちは、今の世で罪を犯した者なら誰でも分かる。忠親様が抱え込んでいるらしい罪の思いを、お袋の『常ならぬ』の歌なら、少しでも軽くして差し上げられそうだと思った。だから、きっとどうにかなるだろうと思って、美葛に歌ってもらった」
「最後は一か八かだった、と」
「そう言われても仕方ないな」

 真意を探るような眼と面差しはそのままに、なるほど、とだけ不知也は呟いた。思う所は大いにあるがこれ以上は問わないという口振りだった。美葛に目礼して短冊を返した。
 忠親に暇乞いとまごいをした黒白二人の薬師は、退いて道を開ける放免たちの間を悠然と通り抜け、逢魔おうまが時の都へと消え去った。
(二章『影法師』 了)
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