26 / 49
物名歌
嫡子
しおりを挟む
《指すの御子》とまで呼ばれた吉平の霊感をもってしても、その尼僧の訪れを予期することはできなかった。そこかしこに潜んだまま落ち着かなげな式たちの、哀れなほど浮き足立った気配が何とも煩わしい。
黒い狩衣と指貫袴――、凶服の裾を蹴立てて屋敷の中を行く。やはり黒いものに改めた几帳や御簾たちは、吉平が近付くと自ずから道を開けた。尼僧と二人きりで会うのは初めてのこと。主上の前に罷り出るよりも気が張った。
濡縁にほっそりした女の後ろ姿があった。父晴明の代からそうしている、手入れ不足と思われかねないほど野原めいた庭のどこかを、じっと見つめているらしかった。肩まである尼削ぎの髪と青鈍色の小袿の肩を、まだ浅い春の薄ら日が照らしていた。最高の匠が何百年物の材から彫り上げた、世に二つとない観音像でも見ているような心地がした。
斜め後ろに正座した吉平のことを、相手は肩越しにちらりと見た。若い頃の父晴明も強く憧れたという話は、きっと嘘ではない。尼僧にしてはあまりにも艶と言いたいような流し目だった。吉平は顔を伏せた。五十路を越えた身からすれば孫娘ほどにも年の離れて見える、小娘としか呼びようのない相手が秘めた底知れなさ、それが今は素直に恐ろしかった。
「妙泉尼様におかれましては、わざわざのご足労、まことにもったいなく存じます。庵の中で、一言『来い』と呟いてくだされば、いつだろうとどこだろうと、すぐにこちらから参りましたものを」
「先の《影法師》の件に絡んで、例の隻腕が現れた」
無駄なやりとりをするつもりはないと言わんばかりだった。
はい、と吉平は応えた。
「聞いております。源次の殿もお喜びになりましょう。次に会うことがあれば残った腕だけでは済まさない、首と胴を離してみせると、前々から息巻いておられるそうですから」
「白い方のことも?」
「存じております。その者こそ、新たに担がれた長。次代の大将。連中の王に他ならないかと」
「確かなことか」
「嫡子です。太乙、遁甲、六壬、雷公、いずれの式盤もそのように示しました。更によく調べてみようと放った式は、面目ありません、どれも気配を絶ってしまいましたが」
妙泉尼は深々と溜息をついた。厄介事が増えるに違いないことを今から厭わしく思う者のそれだった。立ち上がった彼女に、吉平は縋るような声をかけた。
「あれらは、恐らく仲間を集めているのです。我が父の死を受けてその動きをいよいよ早めたものかと。私どもの喪が明けるまで、どうかご辛抱とご助力を、改めてお願い申し上げます」
「晴明との約定を違える訳にはいくまい。幸い、今は手駒もある」
「失礼ながら、畜生を使うことには、私は賛成しかねます。あれらは皆、どれも陽気なようでいて実は陰気に親しみやすい。情に脆くて絆されやすいのです。どうかすれば寝返るようなことも……」
「向こうに回せば、確かに厄介かもしれない。何しろ歌を学んでいる」
「狐が、……歌を? それはまたどうして」
「さて、な」
妙泉尼は微かに笑ったようだった。何気ない様子で空を見上げた。
吉平もつられて遠い山並みに目を向けた。春とは名ばかりの空に雪がちらつき始めていた。
黒い狩衣と指貫袴――、凶服の裾を蹴立てて屋敷の中を行く。やはり黒いものに改めた几帳や御簾たちは、吉平が近付くと自ずから道を開けた。尼僧と二人きりで会うのは初めてのこと。主上の前に罷り出るよりも気が張った。
濡縁にほっそりした女の後ろ姿があった。父晴明の代からそうしている、手入れ不足と思われかねないほど野原めいた庭のどこかを、じっと見つめているらしかった。肩まである尼削ぎの髪と青鈍色の小袿の肩を、まだ浅い春の薄ら日が照らしていた。最高の匠が何百年物の材から彫り上げた、世に二つとない観音像でも見ているような心地がした。
斜め後ろに正座した吉平のことを、相手は肩越しにちらりと見た。若い頃の父晴明も強く憧れたという話は、きっと嘘ではない。尼僧にしてはあまりにも艶と言いたいような流し目だった。吉平は顔を伏せた。五十路を越えた身からすれば孫娘ほどにも年の離れて見える、小娘としか呼びようのない相手が秘めた底知れなさ、それが今は素直に恐ろしかった。
「妙泉尼様におかれましては、わざわざのご足労、まことにもったいなく存じます。庵の中で、一言『来い』と呟いてくだされば、いつだろうとどこだろうと、すぐにこちらから参りましたものを」
「先の《影法師》の件に絡んで、例の隻腕が現れた」
無駄なやりとりをするつもりはないと言わんばかりだった。
はい、と吉平は応えた。
「聞いております。源次の殿もお喜びになりましょう。次に会うことがあれば残った腕だけでは済まさない、首と胴を離してみせると、前々から息巻いておられるそうですから」
「白い方のことも?」
「存じております。その者こそ、新たに担がれた長。次代の大将。連中の王に他ならないかと」
「確かなことか」
「嫡子です。太乙、遁甲、六壬、雷公、いずれの式盤もそのように示しました。更によく調べてみようと放った式は、面目ありません、どれも気配を絶ってしまいましたが」
妙泉尼は深々と溜息をついた。厄介事が増えるに違いないことを今から厭わしく思う者のそれだった。立ち上がった彼女に、吉平は縋るような声をかけた。
「あれらは、恐らく仲間を集めているのです。我が父の死を受けてその動きをいよいよ早めたものかと。私どもの喪が明けるまで、どうかご辛抱とご助力を、改めてお願い申し上げます」
「晴明との約定を違える訳にはいくまい。幸い、今は手駒もある」
「失礼ながら、畜生を使うことには、私は賛成しかねます。あれらは皆、どれも陽気なようでいて実は陰気に親しみやすい。情に脆くて絆されやすいのです。どうかすれば寝返るようなことも……」
「向こうに回せば、確かに厄介かもしれない。何しろ歌を学んでいる」
「狐が、……歌を? それはまたどうして」
「さて、な」
妙泉尼は微かに笑ったようだった。何気ない様子で空を見上げた。
吉平もつられて遠い山並みに目を向けた。春とは名ばかりの空に雪がちらつき始めていた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
200万年後 軽トラで未来にやってきた勇者たち
半道海豚
SF
本稿は、生きていくために、文明の痕跡さえない200万年後の未来に旅立ったヒトたちの奮闘を描いています。
最近は温暖化による環境の悪化が話題になっています。温暖化が進行すれば、多くの生物種が絶滅するでしょう。実際、新生代第四紀完新世(現在の地質年代)は生物の大量絶滅の真っ最中だとされています。生物の大量絶滅は地球史上何度も起きていますが、特に大規模なものが“ビッグファイブ”と呼ばれています。5番目が皆さんよくご存じの恐竜絶滅です。そして、現在が6番目で絶賛進行中。しかも理由はヒトの存在。それも産業革命以後とかではなく、何万年も前から。
本稿は、2015年に書き始めましたが、温暖化よりはスーパープルームのほうが衝撃的だろうと考えて北米でのマントル噴出を破局的環境破壊の惹起としました。
第1章と第2章は未来での生き残りをかけた挑戦、第3章以降は競争排除則(ガウゼの法則)がテーマに加わります。第6章以降は大量絶滅は収束したのかがテーマになっています。
どうぞ、お楽しみください。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる