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物名歌
幻術
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美葛は、庵の縁に妙泉尼から借りた文机を持ち出した。
たまに吹く風はまだ冬のものだが、日差しはうららかな春の明るさ。流れるような墨書きの文字が細かいところまでよく見えた。広げているのは、これもまた妙泉尼からの借り物である『古今和歌六帖』だった。歌を学びたければ六帖すべて声に出して読み通すように、と言われていた。愚直に書に向かい続けてきた美葛は、早くも四帖目『恋』にまつわる歌のまとまりに取りかかっていた。
「……『恋ひ死なむ 後は何せむ 生ける日の ためこそ人は 見まくほしけれ』『世の中の 苦しきものに ありけらし 恋に堪えずて 命死ぬべし』……」
歌の中で、恋する者は死にがちなようだと美葛は思う。死ぬまでは行かなくても死にそうなほど辛いと思っている。恋する思いの切実なことを、それとは真逆にあると言ってもいいだろう死というものを引き合いに出すことによって、より強く言い表すようだった。
美葛はまだ恋を知らない。冬から春先にかけて、つまり今頃はまさに狐にとって盛りの時季だが、まだ一歳半だからだろう、ちっともそういう気分にならない。ただ、それだけに興味は尽きなかった。疑わしさと怖い物見たさが半々だった。生きていると、こんなに辛いなら死んだ方がましだ、と思うほど誰かを好きになることもあるらしい。それは本当だろうか。
「ぼんやりしていないで先を読んだらいかがですか」
美葛は飛び上がりそうなほど驚いた。もゆらが、いつの間にか後ろから覗き込んでいたのだ。
夢中になるとこれだから、と我ながら嫌になる。狐にあるまじき失態。こんなに側に近付かれるまで人に気付かないとは。
もゆらは、胸を押さえて目を瞬く美葛をいつもの冷やかな半眼で見下ろしていた。耳の上に挿した椿の花を、今日は白から赤に変えていた。だからという訳でもないだろうが、心なしか当たりが柔らかくなっているように感じられた。
「それとも、今日の分は済んだのですか。だったらまた用事を頼まれてほしいのですけれど」
美葛は人が西市と称する辺りから真っ直ぐ南へと向かった。
春まだき、都を囲う山々は痩せた木々の幹や枝の色をそのままに晒していた。町行く人々の衣もどことなく色褪せて見えた。辻で出くわすたび犬に吠えかかられることを除けば、いたって気分の良い道行きだった。
五条を過ぎた辺りからは、大路と呼ぶにはあまりに野っ原じみた、疎らな枯れ草ばかり目立つでこぼこ道になっていた。そこかしこに牛や馬が放してあった。葱畑や、水浸しの一帯にまだ短い芹が茂った所もあった。歩くにつれて人の姿はなくなり、熔け崩れた土塀さえ蔓草に覆われて消えた。
更に進むと、行く手は山裾めいていよいよ木立が深くなった。鬱蒼と茂る木々の苔生した裸根がごろごろしている上に、形も様々な落ち葉が赤に黄色に散り乱れていた。
寂しくなってきた、と人なら零す所かもしれない。が、美葛にはまったく気にならなかった。
乾いた風の冷たい今の時季だというのに、踏み締めた土からは湿った泥の匂いがする。一見すると立ち枯れたような木々は、その実、どれも芽吹くための力を密かに蓄えている。冬から春へ、季節はまだおずおずと変わり始めたばかり。密に交わされた枝葉の先に一回り肥えたような緑の峰々が透いて見られるのは、まだもう少し先のことになりそうだった。
美葛は大きく伸びをして、隠していた狐の耳を跳ね上げた。はたと気が付いた。誰かと一緒でない、己だけの道行きは久しぶりだ。この半年あまり、ずっと真咲といたからだった。
「上手くやれてるのかな、真咲」
二日前から、真咲は河内忠親の屋敷に住み込んで家人のように立ち働いている。これまでに頂いたたくさんの下され物の礼をさせてほしいと、真咲の方から頼み込んだのだった。
「真咲なら大丈夫かな。あれで優しいし、物怖じしないし、歌だって詠めちゃうし」
真咲なら、このまま都に腰を落ち着けることもありだろう。
じゃあそのとき私は? と美葛は考えた。真咲と都に留まるか、来た道を戻って常陸国に帰るか、それとも思い切って他の土地を旅してみるか。立派な妖狐として相応しい力を備えたいという、かねてからの望みに最も資する道はどれだろう――。
立ち腐れた門柱の名残が目に止まった。美葛は立ち止まった。ついさっきも同じ物を見たはずだ、と思ったからだった。門の脇で葉を茂らせた鈴生りの南天の鮮やかな赤をよく覚えていた。
庵を出てからここまで、道を折れたのは二度だけで、あとはひたすら真っ直ぐ来た。ぐるりと同じ場所を巡ったはずはない。怪しい、と思いつつそのまま行き過ぎると、しばらくしてまた同じ門柱の名残が現れた。辺りの緑に映える真っ赤な南天の実。
「……ひょっとして、化かされている?」
美葛は愕然とした。狐の己が化かされている。焦るな落ち着け、と己に言い聞かせた。どきどきし始めた胸を押さえ、深く息を吸った。目を伏せた。身の周り、あちこちにある小暗い草木の茂みを、見えない手で探るようにして一つ一つ確かめる。誰もいない。何にも狙われてはいない。
ただ、やはり見えはしないが、目の前で何かの呪いが働き続けているらしいことも気配からして明らかだった。
思い付いて、美葛は四つ浮かべた狐火を東西南北にそれぞれ飛ばしてみた。すると、真っ直ぐ南へ行ったはずの一つがふよふよと北から戻ってきた。
「南の方角にだけ、行けなくなってる」
行けないどころか、同じ場所を廻り続けるというややこしい術がかけられている。
かなりできる者の仕業だ、と思ったその時だった。火の玉が! と遠くで男の叫ぶ声がした。今しがた飛ばしたうちの一つを、消し去る前に見られたらしい。西の方だった。探ると気配は二つ感じられた。もう一人が、小さく、しかし聞き間違えようのない声で、美葛? と言った。
美葛は駆け出した。狐の耳を隠し、名も知らない草たちが絡まり縺れた叢を、うら若い娘の姿で軽々と飛び越えた。
しばらく行くと草木が途切れた。明らかに人の手の加わった、均された道に出た。土塀に沿うようにして黒牛の曳く車が一台止まっており、気を失っているらしい狩衣姿の男が、別の男二人の手で中に横たえられる所だった。巻き上げられていた簾が降ろされた。
世話していた二人のうち一人が振り向いた。やはり真咲だった。藪から現れた美葛の姿を見て、顔には驚きと微笑みが一緒に浮かんだ。
もう一人は、真咲と同じ十八、九と思しい、生真面目そうな太い眉をした丸顔の青年だった。歩み寄る美葛に気付くと、こちらは眉間に深い皺を寄せて怯え混じりの怒声を発した。
「な、何奴? まさかその林から来たのか。分かった。今の火の玉の主だな!」
先程の叫び声の主はこの男だったらしい。真咲がにこやかに間に立ってくれた。
「犬丸殿、平気です。怪しい者じゃありません」
「何だと? ま、真咲の知り合いか」
「ええまあ。同じ里の、身内みたいなもんです」
いや、しかし、と犬丸はまだまだきつく寄せた眉を開かない。目は泳ぎっぱなしで腰は引けていて、裏返り気味な口振りからしても、役目さえなければ一目散に逃げ出しているといった様子に見えた。
「真咲の知り合いが、なぜその林から出てくる。あの女の手先か何かが、ば、化けているのではあるまいな!」
あの女――。もしかして、と美葛は真咲に尋ねた。
「ねえ真咲、そっちの車には、藤原喜斉様がお乗りになっていたりする?」
「いたりするも何も……。どうして美葛がそれを知ってるんだ?」
「やっぱり」
この近辺にあって恐れ混じりにあの女呼ばわりされる者などそう何人もいないだろうという、美葛の読みは当たったのだった。
「私、もゆらに頼まれて、そちらの喜斉様に取り憑いているという女人の霊を訪ねるところだったの」
たまに吹く風はまだ冬のものだが、日差しはうららかな春の明るさ。流れるような墨書きの文字が細かいところまでよく見えた。広げているのは、これもまた妙泉尼からの借り物である『古今和歌六帖』だった。歌を学びたければ六帖すべて声に出して読み通すように、と言われていた。愚直に書に向かい続けてきた美葛は、早くも四帖目『恋』にまつわる歌のまとまりに取りかかっていた。
「……『恋ひ死なむ 後は何せむ 生ける日の ためこそ人は 見まくほしけれ』『世の中の 苦しきものに ありけらし 恋に堪えずて 命死ぬべし』……」
歌の中で、恋する者は死にがちなようだと美葛は思う。死ぬまでは行かなくても死にそうなほど辛いと思っている。恋する思いの切実なことを、それとは真逆にあると言ってもいいだろう死というものを引き合いに出すことによって、より強く言い表すようだった。
美葛はまだ恋を知らない。冬から春先にかけて、つまり今頃はまさに狐にとって盛りの時季だが、まだ一歳半だからだろう、ちっともそういう気分にならない。ただ、それだけに興味は尽きなかった。疑わしさと怖い物見たさが半々だった。生きていると、こんなに辛いなら死んだ方がましだ、と思うほど誰かを好きになることもあるらしい。それは本当だろうか。
「ぼんやりしていないで先を読んだらいかがですか」
美葛は飛び上がりそうなほど驚いた。もゆらが、いつの間にか後ろから覗き込んでいたのだ。
夢中になるとこれだから、と我ながら嫌になる。狐にあるまじき失態。こんなに側に近付かれるまで人に気付かないとは。
もゆらは、胸を押さえて目を瞬く美葛をいつもの冷やかな半眼で見下ろしていた。耳の上に挿した椿の花を、今日は白から赤に変えていた。だからという訳でもないだろうが、心なしか当たりが柔らかくなっているように感じられた。
「それとも、今日の分は済んだのですか。だったらまた用事を頼まれてほしいのですけれど」
美葛は人が西市と称する辺りから真っ直ぐ南へと向かった。
春まだき、都を囲う山々は痩せた木々の幹や枝の色をそのままに晒していた。町行く人々の衣もどことなく色褪せて見えた。辻で出くわすたび犬に吠えかかられることを除けば、いたって気分の良い道行きだった。
五条を過ぎた辺りからは、大路と呼ぶにはあまりに野っ原じみた、疎らな枯れ草ばかり目立つでこぼこ道になっていた。そこかしこに牛や馬が放してあった。葱畑や、水浸しの一帯にまだ短い芹が茂った所もあった。歩くにつれて人の姿はなくなり、熔け崩れた土塀さえ蔓草に覆われて消えた。
更に進むと、行く手は山裾めいていよいよ木立が深くなった。鬱蒼と茂る木々の苔生した裸根がごろごろしている上に、形も様々な落ち葉が赤に黄色に散り乱れていた。
寂しくなってきた、と人なら零す所かもしれない。が、美葛にはまったく気にならなかった。
乾いた風の冷たい今の時季だというのに、踏み締めた土からは湿った泥の匂いがする。一見すると立ち枯れたような木々は、その実、どれも芽吹くための力を密かに蓄えている。冬から春へ、季節はまだおずおずと変わり始めたばかり。密に交わされた枝葉の先に一回り肥えたような緑の峰々が透いて見られるのは、まだもう少し先のことになりそうだった。
美葛は大きく伸びをして、隠していた狐の耳を跳ね上げた。はたと気が付いた。誰かと一緒でない、己だけの道行きは久しぶりだ。この半年あまり、ずっと真咲といたからだった。
「上手くやれてるのかな、真咲」
二日前から、真咲は河内忠親の屋敷に住み込んで家人のように立ち働いている。これまでに頂いたたくさんの下され物の礼をさせてほしいと、真咲の方から頼み込んだのだった。
「真咲なら大丈夫かな。あれで優しいし、物怖じしないし、歌だって詠めちゃうし」
真咲なら、このまま都に腰を落ち着けることもありだろう。
じゃあそのとき私は? と美葛は考えた。真咲と都に留まるか、来た道を戻って常陸国に帰るか、それとも思い切って他の土地を旅してみるか。立派な妖狐として相応しい力を備えたいという、かねてからの望みに最も資する道はどれだろう――。
立ち腐れた門柱の名残が目に止まった。美葛は立ち止まった。ついさっきも同じ物を見たはずだ、と思ったからだった。門の脇で葉を茂らせた鈴生りの南天の鮮やかな赤をよく覚えていた。
庵を出てからここまで、道を折れたのは二度だけで、あとはひたすら真っ直ぐ来た。ぐるりと同じ場所を巡ったはずはない。怪しい、と思いつつそのまま行き過ぎると、しばらくしてまた同じ門柱の名残が現れた。辺りの緑に映える真っ赤な南天の実。
「……ひょっとして、化かされている?」
美葛は愕然とした。狐の己が化かされている。焦るな落ち着け、と己に言い聞かせた。どきどきし始めた胸を押さえ、深く息を吸った。目を伏せた。身の周り、あちこちにある小暗い草木の茂みを、見えない手で探るようにして一つ一つ確かめる。誰もいない。何にも狙われてはいない。
ただ、やはり見えはしないが、目の前で何かの呪いが働き続けているらしいことも気配からして明らかだった。
思い付いて、美葛は四つ浮かべた狐火を東西南北にそれぞれ飛ばしてみた。すると、真っ直ぐ南へ行ったはずの一つがふよふよと北から戻ってきた。
「南の方角にだけ、行けなくなってる」
行けないどころか、同じ場所を廻り続けるというややこしい術がかけられている。
かなりできる者の仕業だ、と思ったその時だった。火の玉が! と遠くで男の叫ぶ声がした。今しがた飛ばしたうちの一つを、消し去る前に見られたらしい。西の方だった。探ると気配は二つ感じられた。もう一人が、小さく、しかし聞き間違えようのない声で、美葛? と言った。
美葛は駆け出した。狐の耳を隠し、名も知らない草たちが絡まり縺れた叢を、うら若い娘の姿で軽々と飛び越えた。
しばらく行くと草木が途切れた。明らかに人の手の加わった、均された道に出た。土塀に沿うようにして黒牛の曳く車が一台止まっており、気を失っているらしい狩衣姿の男が、別の男二人の手で中に横たえられる所だった。巻き上げられていた簾が降ろされた。
世話していた二人のうち一人が振り向いた。やはり真咲だった。藪から現れた美葛の姿を見て、顔には驚きと微笑みが一緒に浮かんだ。
もう一人は、真咲と同じ十八、九と思しい、生真面目そうな太い眉をした丸顔の青年だった。歩み寄る美葛に気付くと、こちらは眉間に深い皺を寄せて怯え混じりの怒声を発した。
「な、何奴? まさかその林から来たのか。分かった。今の火の玉の主だな!」
先程の叫び声の主はこの男だったらしい。真咲がにこやかに間に立ってくれた。
「犬丸殿、平気です。怪しい者じゃありません」
「何だと? ま、真咲の知り合いか」
「ええまあ。同じ里の、身内みたいなもんです」
いや、しかし、と犬丸はまだまだきつく寄せた眉を開かない。目は泳ぎっぱなしで腰は引けていて、裏返り気味な口振りからしても、役目さえなければ一目散に逃げ出しているといった様子に見えた。
「真咲の知り合いが、なぜその林から出てくる。あの女の手先か何かが、ば、化けているのではあるまいな!」
あの女――。もしかして、と美葛は真咲に尋ねた。
「ねえ真咲、そっちの車には、藤原喜斉様がお乗りになっていたりする?」
「いたりするも何も……。どうして美葛がそれを知ってるんだ?」
「やっぱり」
この近辺にあって恐れ混じりにあの女呼ばわりされる者などそう何人もいないだろうという、美葛の読みは当たったのだった。
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