歌と狐と春の雪

夕辺歩

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物名歌

薫里

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 小屋の周りは草木が生え放題の伸び放題。枯れ葉も積もっていて、足音を盗むことはとても難しかった。美葛と真咲は、できるだけこっそりと、より近くから中の様子をうかがった。
 壁板の隙間から光が漏れていた。真咲が美葛に手招きをした。肩が触れるほど側に寄ると、一際ひときわ大きな板の裂け目から火影姿ほかげすがたが見て取れた。
 うるしげた灯台に明々と火が灯されていた。酒杯を片手に胡座あぐらをかいた喜斉よしただ。そんな彼にしなだれかかる薫里くゆりと思しい女。二人は何やら楽しそうに話をしていた。どちらも笑っていた。
 見たところ薫里は、小屋そのものとは違って、決して見苦しくない姿をした若い女だった。地味なはかまひとえの上からうちきを一枚羽織っていた。喜斉から聞かされた通りの恐ろしくて意地悪な相手には、美葛にはどうしても見えなかった。大人しいふりをしているのだろうか。分からないが、それとは別に、一つ気になるのは――。

「他人の逢瀬を覗き見たのは初めてだ。面白くはないし、やっぱり気がとがめるもんだな」

 難しい顔の真咲にそうだねと応える声も、知らず上の空になってしまった。先程から、美葛は何か引っかかりを覚えているのだ。例の『頼もしき』の歌を見た真咲がぎくしゃくした感じを受けると評したように、美葛もまた、この場に対して、何やらしっくり来ないものを感じていた。それは言葉に移しがたい何かだった。よく知っているはずなのに思い出せない何かだった。
 何だありゃ、と真咲が急に嫌そうな顔をした。喜斉が泥水めいた何かを、少なくとも美葛の目には泥水以外の何ものにも見えない何かを、さかずきで飲む所だった。彼の前には折敷おしきえてあり、いくつかの小皿が並んでいる。美葛は気付いてはっとした。たくさん並べられた酒肴しゅこうのどれもが、とてもとても人の食いそうなものではないのだった。
 蚯蚓みみず螻蛄けら、団子虫、蝸牛かたつむり等々。茸のたぐいや山菜たちは泥付きのまま千切っただけに見えた。薫里に勧められるまま次々とそれらを口にする喜斉は、分かっているのかいないのか、気持ちの悪い薄笑いの口許から何かの汁を垂らしている。

「ご馳走だね」
「狐にはそうかもな。助けてやらないと。あれじゃ気持ち悪くなって当然だ」
「待って真咲。人が迂闊うかつに飛び込んじゃ駄目。危ないよ」

 何しろ相手は恐ろしい死霊という触れ込みなのだから。

「けど、だったらどうする。このまま黙って見てられないだろう」
「怖いけど、私、行ってみる。真咲はここで」
『待ってくれ』

 声は美葛たちのすぐ後ろから聞こえた。美葛も真咲も飛び退すさった。
 喜斉の相手をしているはずの薫里が、ぼんやりと青白い光に包まれて、そこに立っていた。
 小屋の方をうかがう真咲につられて美葛もちらりとそちらを確かめた。やはり薫里は中にもいて、喜斉と楽しげにやり取りをしている。

不知也いさや殿の眷属から聞いている。頼む、どうか今日はこのまま帰ってくれ』
「……でも、喜斉様を見捨てては帰れません」

 美葛が応えると、は、朝にはきちんと送り届けるから、と真面目な顔で返してきた。

『これまでだって夜明けには必ず帰した。知っているんだろう?』
「薫里殿、と呼んでいいのか」

 真咲が身を乗り出した。

「あんた、喜斉様をどうしたいんだ。あんなものばかり食わされていたら、喜斉様は死ぬかもしれない。今だってもうかなり具合を悪くしていなさるんだぞ」
『……そう、なのか? 今の俺にできる、心尽くしのもてなしなんだが』
「何?」
『ともあれ、何もかも喜斉次第だ』

 薫里はきっぱりと言った。

『俺にはこうして、それとなく水を向けることしかできない。あの男が、すべきことをするのを待つのみだ。招かれるのが迷惑だというのなら、するべきことをきちんとして、早く楽になればいいのに』
「喜斉様、次第?」
「教えて薫里殿。何をどうすれば良いっていうの?」
『俺の口からは何も言えない。どうか分かってくれ。これは喜斉のためでもあるんだ』

 聞いた話とはまったく違う、恐ろしい死霊とはとても思えない相手だった。そして何よりこの言葉遣い。男勝りという以上のものが感じられて、とても遊女として生きた女人のものとは思えない。目の前の薫里と小屋の中の薫里とは、いったいどのような間柄なのだろう。同じ者なのか、それとも――。
 待って、と美葛が呼びかける前に、薫里の姿は薄らぐようにして消えてしまった。
 やがて屋敷の明かりも消えた。林は静かな闇に包まれた。



 明け方になると、喜斉が一人で起き出して来た。相も変わらず朦朧もうろうとしたまま、まだ薄暗い林の中の道なき道を、美葛と真咲のことになどまったく気が付かないまま戻って行く。藪を出た所には、迎えの牛車と、犬丸をはじめとする数名の下人が待っていた。
 美葛が昨晩起きたことを話すと、犬丸は盛大に舌打ちをした。気弱そうな見た目に似ない怒鳴り声を上げた。

「あんた安倍家からされてきたんじゃなかったのか。そんな女、さっさと祓《はら》っちまえ。そのために呼ばれたんだろうが!」

 まあまあ、と真咲が犬丸をなだめた。

「頼むからそう怒るな。何も先に進まなかった訳じゃないんだ」
「ちゃんと働けと、この連れに良く言っておけ真咲。喜斉様をさいなむ恐ろしい霊の住処すみかの前で、こうして一晩待っている俺の身にもなれ」

 主が主なら従者も従者と言うべきか、この犬丸という男も相当に自分勝手な所があるよで、美葛は呆れてしまった。林の中で喜斉がひどい目にっていることを知りながら、助けに向かおうとはしないのだった。

「あとあれだ、忘れているようだから言うけどな、真咲お前、とやらを俺に教えてくれるはずじゃなかったか、え?」
「ああ、あの話か。すっかり忘れていた」

 どうやら誦文歌を教えることになっていたらしい。屋敷に戻ったら必ず教える、と真咲が請け負った。

「ねえ犬丸殿、何もかも喜斉様次第だ、と薫里殿は言っていたのだけれど」

 美葛は一歩前に出て尋ねた。

「何か思い当たることはない?」
「ないない。ある訳がない。細かいことはいいから、とにかく祓えと言われたら祓え。今晩だぞ。分かったな」

 強く言い置いて、犬丸は喜斉を乗せた牛車と共に朝ぼらけの道を帰って行った。
 途方に暮れて、美葛は藪の向こうを振り返った。
 腕組みの真咲が溜息を漏らした。

「もう一度、さっきの小屋に行ってみるか」
「あそこに、もう一度?」
「何か手がかりがあるかもしれない」
「でもきっと……」

 美葛が懸念けねんした通りだった。どれだけ藪を漕いでみても、あの小屋に辿たどり着くことができない。不知也いさやくさぶき、あるいはその眷属たちの力によるものだろう、途中で戻って来てしまうという厄介な術がかけられているのだ。彼らに呼び出された喜斉その人の後を付いていくのでもなければ、きっと日暮れまで林の中をさまようことになる。

「これを何とかする術なんか、美葛は知らないよな?」
「……うん、分からない。ごめんね」

 しおれた美葛を励ますように、真咲が声を大きくした。

「だったらあれを試してみよう。良い機会だ」
「試す?」
「道に迷わずに済むための誦文歌ってのがあるんだ。教えるから歌ってみてくれ。小さかった俺が、たとえば隣の里まで使いに出るときなんかには、毎度毎度、お袋が必ず歌いかけてくれたもんだ」

 母が我が子の身を案じて――。
 そういう気持ちで教わったその歌は、確かに、何やら思い遣り深い響きだと思えなくもない一首だった。
 美葛は気持ちを新たにした。出来ることはなんでもやってみるしかない。そんな前向きな思いが湧いてきた。はやる心を落ち着けて、歌のことばに己の心を重ねた。黒雲よ晴れろと祈りを籠めたあの時と同じように、胸の内に高まる力を感じ取り、強く願いながらその歌を声にした。

「『八衢やちまたや 守れやちまた 吾子あこの行く ゆめ八衢や 吾子な隠しそ』」

 何か、行く手をふさいでいたものがゆっくりと薄らいで姿を消すような、いわく言いがたい感じがあった。
 美葛は先に立って歩き出した。ほどなくして、朽ちるままに捨て置かれたみじめな小屋へと辿り着いた。ほら見ろ、と真咲が顔をほころばせた。

「やったな! 美葛はきっと、ただ術を知らないってだけなんだな。学びさえすれば何だってできるんだ」
「そ、そうかなあ?」
「そうさ。いやあ凄い。本当に凄い」
「もういいよ真咲」
「よ! 信太しだの白狐!」
「真咲!」

 褒められ慣れていない美葛は耳まで真っ赤になってしまった。真咲をいい加減にあしらって小屋へと近付いた。浮かれ調子はすぐに引っ込んだ。昨晩は夜目遠目よめとおめではっきりと分からなかったが、日の光の下で見る屋敷は思った以上にすたれていたのだ。美葛と真咲は真剣な目を見交わし、がたつく引き戸をって小屋へと入った。

「ごめんください」

 屋根は半ば崩れ落ち、板壁は破れ、半分だけ張られた床板も見るからに腐っていた。虫食いの柱を蔓草つるくさが這い回り、下草もこれでもかと生えている。かびもひどい。あちこち苔生こけむしてもいる。とても人の住む所とは思えない有様だ。
 薫里の気配はなかった。人の骨のようなものも落ちてはいない。どこかに不知也の眷属たちが潜んでいるということもないようだった。藪の中と変わらない、湿った緑の臭いが立ち込めている。

「美葛」

 真咲が床を指し示した。
 器や皿にされたと思しいほおかしわの葉のすぐ側に、美葛には見慣れない道具がいくつか落ちていた。材が腐ったりびたりしていて、どの品も、もう使うことはできなさそうだった。
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