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物名歌
物名
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林を出た美葛と真咲が妙泉尼の庵に着く頃には、日もすっかり高くなっていた。
美葛と真咲の口から事のあらましを聞く間、美貌の尼僧は例の歌を記した短冊から目を離さなかった。
「悪霊だから問答無用で祓えと喜斉様は言うんです。けれどいざ会ってみたら、薫里殿らしき方からは、ちっとも悪い感じを受けなくて……」
そもそも相手を祓ったり成仏させたりする力や術など持たないし――、とまでは言わずにおいた。
聞いているのかいないのか、妙泉尼は、短冊を光に透かしたり、鼻先に揺らして香を嗅いでみたりしている。美葛は続けた。
「現れた薫里殿は薫里殿で、喜斉様がするべきことさえしてくれればいいと言うんです。ただ、ここへ来る前に真咲から犬丸殿に確かめてもらった限りでは、それは言い掛かりだ、と。喜斉様の方から薫里殿に何かしてやる義理はないと、そう怒鳴られるばかりで。手詰まりな感が出て来たものですから、相談に乗っていただきたくて……、その、妙泉尼様、聞いてますか?」
「梅の香」
ぼそりと妙泉尼が呟いた。
美葛は首を傾げた。真咲が一膝にじり寄った。
「その短冊の香り、梅の香だってことですね?」
「この程度で手詰まりとは」
妙泉尼の声には、咎めるような嘲るような、彼女にしては珍しい響きがあった。摘んだ短冊を顔の脇でひらりと一振り。うら若い見た目にはそぐわない、重々しさを感じさせる口調で続けた。
「真咲も同じか。この歌を前にして何一つ気付くことはないか」
真咲がぴんと背筋を伸ばした。唇を引き結び、腕組みをして、懸命に考える様子だが、やはりまとまらないらしい。すぐに項垂れた。
「すんません。これと言って、気付くことは何も……。『予祝』ってやつだろうとは思うんですが」
よしゅく。美葛には聞き慣れない言葉だった。
妙泉尼は小さく頷いた。
「いかにも。詠まれようから見ても、起きていることから考えても、これは予祝の歌と思って間違いなかろう」
「あの」
美葛は思い切って手を挙げた。歌のことをより深く学んで我が物としよう。そう心に決めた身としては、置いて行かれる訳にはいかなかった。
「よしゅく、の意味が分かりません」
「予祝とは、行く末のことを予め祝うの意」
そう言い切る妙泉尼は、自ら進んで知ろうとした美葛の姿勢を良しとしたのだろうか、口元に微かな笑みを浮かべて見えた。
「行く末のことを、予め祝う?」
「真咲」
はい、と妙泉尼に応えた真咲が身体ごと美葛に向き直った。
「前に言霊の話をしたことがあるだろう。良いことを口にすれば良いことが、悪いことを口にすれば悪いことが起きる。予祝も、いわゆる一つの言霊だ。こうなってほしいと思うことがあるときに、そうなって良かった、と先に言ってしまう。すると後から本当にその通りになる」
美葛にも分からなくはない考え方だった。見方を変えれば一種の呪いとも言えそうだ。
「それじゃあ、今度の『頼もしき』の歌で言うと、『訪ねてくれて嬉しい』みたいなことが先に詠まれているものだから、喜斉様としては、訪ねない訳にはいかない、ということ?」
「どうもそういうことが起きているように見えるな」
美葛は思わず感嘆の溜息を漏らした。行く末のことを言葉で御する。三十一文字によって成し得ることの計り知れなさに、素直に驚いた。歌にそんな力さえ持たせてしまう人の心にはもっと驚いた。
歌のことをより深く学んで我が物とする。そんな大それたことが本当にできるのかどうか、さっそく不安になってしまった。
短冊を真咲に返した妙泉尼が、おもむろに手を叩いた。
ややあって、もゆらが柱の陰からいつもの無表情を覗かせた。飯の支度でもしていたのだろう、濡れた指先を弾いていた。
「お呼びでしょうか」
「香の支度を。これらに一揃い見せてやりたい」
しばらくすると、もゆらが奥の一間から何かを持ち出してきた。深い緑色が美しい綾の袱紗で覆われた箱と、一抱えもある籠だった。袱紗には銀の飾りと組紐も付いていた。
箱からは、美葛が見たこともない道具がいくつも出てきた。もゆらが主の前にそれらを手際よく置き並べていく。道具の何をどこにどの向きで並べるか、すべて決まっていると言わんばかりだった。瞬く間に整えてしまうと、童女は一礼して下がった。
「これが、香道具……」
美葛はただただ見とれてしまった。とろんとした淡い緑が目を引く小さな壺。ずんぐりした木の器に籠で蓋をした物。燻されたような深い飴色の竹籠――。どの道具からも、長く大切に使い込まれてきた品々らしい美しさが感じられた。
どこか得意気にも見える妙泉尼が、白い指先で端から順に道具たちを指し示した。
「これらは、あるやんごとない筋からの頂戴物でな。まず、この飾りの付いた袱紗は心葉といって、贈り物に添える心遣いの品。こちらは香壺、その名の通り薫物を入れておく。こちらは火取、香炉と呼ぶ者もいる。衣に香を焚き染めるときなどはこちらの伏籠を使う。他にも色々あるが、お前たちが小屋で見たのは、これらと似た品ではなかったか?」
美葛は驚きながら頷いた。どうして妙泉尼にはそのことが分かったのだろう。
「全部ではないけれど、今そこに並んでいるのと同じようなものが、確かにありました」
「ではなかったものはどれか思い出してみよ。そこから、薫里が何を訴えたいのかが見えてこよう」
「え?」
なかったものはどれか。
きょとんとしてしまった美葛の隣で、あっ、と真咲が声を上げた。
「この歌、もしかして『物名歌』……?」
もののなのうた。美葛には初耳の言葉だった。妙泉尼が深く頷いた。
「もう一度、よくよく考えて事に当たれ。ただし、文使いを務めているという、不知也なる童子にはくれぐれも用心せよ。あれは不逞の輩。安倍家の見立てによれば、彼は言葉を弄して人心に取り入り、もって共に悪道を行く仲間を集めようとしている。何をどう言われようと、決して相手をしてはならん」
美葛と真咲の口から事のあらましを聞く間、美貌の尼僧は例の歌を記した短冊から目を離さなかった。
「悪霊だから問答無用で祓えと喜斉様は言うんです。けれどいざ会ってみたら、薫里殿らしき方からは、ちっとも悪い感じを受けなくて……」
そもそも相手を祓ったり成仏させたりする力や術など持たないし――、とまでは言わずにおいた。
聞いているのかいないのか、妙泉尼は、短冊を光に透かしたり、鼻先に揺らして香を嗅いでみたりしている。美葛は続けた。
「現れた薫里殿は薫里殿で、喜斉様がするべきことさえしてくれればいいと言うんです。ただ、ここへ来る前に真咲から犬丸殿に確かめてもらった限りでは、それは言い掛かりだ、と。喜斉様の方から薫里殿に何かしてやる義理はないと、そう怒鳴られるばかりで。手詰まりな感が出て来たものですから、相談に乗っていただきたくて……、その、妙泉尼様、聞いてますか?」
「梅の香」
ぼそりと妙泉尼が呟いた。
美葛は首を傾げた。真咲が一膝にじり寄った。
「その短冊の香り、梅の香だってことですね?」
「この程度で手詰まりとは」
妙泉尼の声には、咎めるような嘲るような、彼女にしては珍しい響きがあった。摘んだ短冊を顔の脇でひらりと一振り。うら若い見た目にはそぐわない、重々しさを感じさせる口調で続けた。
「真咲も同じか。この歌を前にして何一つ気付くことはないか」
真咲がぴんと背筋を伸ばした。唇を引き結び、腕組みをして、懸命に考える様子だが、やはりまとまらないらしい。すぐに項垂れた。
「すんません。これと言って、気付くことは何も……。『予祝』ってやつだろうとは思うんですが」
よしゅく。美葛には聞き慣れない言葉だった。
妙泉尼は小さく頷いた。
「いかにも。詠まれようから見ても、起きていることから考えても、これは予祝の歌と思って間違いなかろう」
「あの」
美葛は思い切って手を挙げた。歌のことをより深く学んで我が物としよう。そう心に決めた身としては、置いて行かれる訳にはいかなかった。
「よしゅく、の意味が分かりません」
「予祝とは、行く末のことを予め祝うの意」
そう言い切る妙泉尼は、自ら進んで知ろうとした美葛の姿勢を良しとしたのだろうか、口元に微かな笑みを浮かべて見えた。
「行く末のことを、予め祝う?」
「真咲」
はい、と妙泉尼に応えた真咲が身体ごと美葛に向き直った。
「前に言霊の話をしたことがあるだろう。良いことを口にすれば良いことが、悪いことを口にすれば悪いことが起きる。予祝も、いわゆる一つの言霊だ。こうなってほしいと思うことがあるときに、そうなって良かった、と先に言ってしまう。すると後から本当にその通りになる」
美葛にも分からなくはない考え方だった。見方を変えれば一種の呪いとも言えそうだ。
「それじゃあ、今度の『頼もしき』の歌で言うと、『訪ねてくれて嬉しい』みたいなことが先に詠まれているものだから、喜斉様としては、訪ねない訳にはいかない、ということ?」
「どうもそういうことが起きているように見えるな」
美葛は思わず感嘆の溜息を漏らした。行く末のことを言葉で御する。三十一文字によって成し得ることの計り知れなさに、素直に驚いた。歌にそんな力さえ持たせてしまう人の心にはもっと驚いた。
歌のことをより深く学んで我が物とする。そんな大それたことが本当にできるのかどうか、さっそく不安になってしまった。
短冊を真咲に返した妙泉尼が、おもむろに手を叩いた。
ややあって、もゆらが柱の陰からいつもの無表情を覗かせた。飯の支度でもしていたのだろう、濡れた指先を弾いていた。
「お呼びでしょうか」
「香の支度を。これらに一揃い見せてやりたい」
しばらくすると、もゆらが奥の一間から何かを持ち出してきた。深い緑色が美しい綾の袱紗で覆われた箱と、一抱えもある籠だった。袱紗には銀の飾りと組紐も付いていた。
箱からは、美葛が見たこともない道具がいくつも出てきた。もゆらが主の前にそれらを手際よく置き並べていく。道具の何をどこにどの向きで並べるか、すべて決まっていると言わんばかりだった。瞬く間に整えてしまうと、童女は一礼して下がった。
「これが、香道具……」
美葛はただただ見とれてしまった。とろんとした淡い緑が目を引く小さな壺。ずんぐりした木の器に籠で蓋をした物。燻されたような深い飴色の竹籠――。どの道具からも、長く大切に使い込まれてきた品々らしい美しさが感じられた。
どこか得意気にも見える妙泉尼が、白い指先で端から順に道具たちを指し示した。
「これらは、あるやんごとない筋からの頂戴物でな。まず、この飾りの付いた袱紗は心葉といって、贈り物に添える心遣いの品。こちらは香壺、その名の通り薫物を入れておく。こちらは火取、香炉と呼ぶ者もいる。衣に香を焚き染めるときなどはこちらの伏籠を使う。他にも色々あるが、お前たちが小屋で見たのは、これらと似た品ではなかったか?」
美葛は驚きながら頷いた。どうして妙泉尼にはそのことが分かったのだろう。
「全部ではないけれど、今そこに並んでいるのと同じようなものが、確かにありました」
「ではなかったものはどれか思い出してみよ。そこから、薫里が何を訴えたいのかが見えてこよう」
「え?」
なかったものはどれか。
きょとんとしてしまった美葛の隣で、あっ、と真咲が声を上げた。
「この歌、もしかして『物名歌』……?」
もののなのうた。美葛には初耳の言葉だった。妙泉尼が深く頷いた。
「もう一度、よくよく考えて事に当たれ。ただし、文使いを務めているという、不知也なる童子にはくれぐれも用心せよ。あれは不逞の輩。安倍家の見立てによれば、彼は言葉を弄して人心に取り入り、もって共に悪道を行く仲間を集めようとしている。何をどう言われようと、決して相手をしてはならん」
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