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物名歌
同道
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庭の童子に気が付いた途端、影でも掴まれたような悪寒が美葛の身体を襲った。
現れたのは忠親が不知也と呼んだあの美童だった。黒装束の隻腕薬師、茨の姿はない。その代わりのように、庭木の陰や前栽の裏、屋根の檜皮の細い隙間や階の下に至るまで、あらゆる所に人ならざるものの気配が感じられた。どうしようもない悪寒はそれらが醸す剣呑な雰囲気のせいだった。
動けない美葛と真咲の元へ、不知也は静かに歩み寄ってきた。綺麗な顔には笑みも怒りも嘆きもない。
「薫里の件からは、手を引くことをお勧めします。このまま関わり続ければ、あなた方はきっと後悔することになる」
美葛はごくりと唾を飲み下し、思い切って尋ねた。
「不知也は、喜斉様を苦しめている霊のことを知っているんだね」
「ええ。あれとは、気が済むまで付き合うことを約束しましたので」
不知也が軽く掲げて見せたのは文だった。
蕾もふくよかな梅の折枝に結わえてある、蘇芳と白の薄様を重ねた結び文だ。
「気が済むまでってのは、つまり?」
真咲が尋ねた。辺りに潜むものたちのことになど気付いてはいないだろう彼も、いくらかの不穏さは感じているのかもしれない。問いかける声には張り詰めたものがあった。
「薫里って遊女は、喜斉様のことをどうしようとしてるんだ? 嬲りたいだけ嬲って、取り殺そうっていうのか?」
「男と女の事。周りがあれこれ騒いでも詮ないでしょう。それよりも信太の真咲殿」
名を知られていたことに、真咲は虚を突かれたようだった。
不知也が小さく首を傾げた。
「貴方こそ、どんな狙いがあって都へ? 意趣返しでしょうか」
首を捻るのは、今度は美葛の番だった。意趣返し? 真咲は都へ、むしろ恩返しに来たはずなのに。
意外そうに目を瞬くばかりで何も答えない真咲に、不知也は重ねて問おうとはしなかった。黙って歩み寄ってきた。退いて道を開けた美葛と真咲の間、短い階を登っていく。結わえた文から漂うものらしい、嗅ぎ覚えのある微かな匂いが美葛の鼻をくすぐった。
濡縁に立った不知也は肩越しに振り向いた。
「私で良ければ、いつでも貴方の力になりましょう。『来い』と暗がりに呼びかけて頂ければ結構。すぐに参上いたします」
言うだけ言って迷わず奥へ入って行った。
美葛は詰めていた息を吐いた。真咲の表情を窺った。
「意趣返しって、いったい何の話?」
「さあな。俺には別に、都に恨めしい相手なんかいない。誰かと勘違いしてるんじゃないのか?」
間もなく不知也が戻ってきた。白目を剥いた喜斉がその後ろに続いていた。
美葛には喜斉の姿が、まるで上から糸で吊られているかのように見えた。手足の運びがぎくしゃくして気持ち悪い。不知也の眷属が操っているのに違いなかった。目には映らないものたちの気配に今度こそ堪えきれず、美葛は一歩も二歩も後ずさった。
不知也がそんな美葛をちらりと見て、唇を動かさずに言った。
『この件からは手を引いて、里へ帰りなさい。都にいてはいけない』
『……教えて、不知也。貴方は今、誰のために何をしているの?』
『弱き者の思いに寄り添うこと。私にはそれだけです』
眷属たちの働きによるものか、そうでなければ何かの術が働いているのだろう。主が誘い出されていくというのに、家人たちが屋敷から現れる様子は一切なかった。美葛と真咲が何もできずにいるうちに、不知也と喜斉は悠然と門から外へ出て行った。
赤紫の雲端を黄金色に輝かせながら日が沈んだ。
車は焦れったいほどゆっくりと進んだ。いつの間にか門前に回されていた、不知也と喜斉を乗せた牛車だった。もっとも、車を曳くのが牛なのか何なのか、車の後をつける美葛にはよく分からなかった。琴音姫の屋敷に満ちていたものに勝るとも劣らない黒々とした妖気が、雲のように立ち籠めて隠すせいだ。供人らしい影もあるが、掛け声一つ発することのない彼らが人であるかどうかもまた怪しいものだった。
音もなく伸びてきた青黒い山々の影。その影に深く沈んでいく町筋を、車はごとごとと右京の南へ向かった。そして唐突に止まった。着いたのは、昼間、美葛が真咲と犬丸とやり取りをした辺りだった。
牛車の陰から、とてもこれまで一緒に歩いてきたとは思えないほど大柄な影が三つも現れた。喜斉が降りるのを助けるためだった。相変わらず夢見心地らしい喜斉は抱えられるようにして地に足を付け、一人でふらふらと藪の中へ入って行く。
暗い林の中に喜斉の姿が消えるのを見届けた牛車の一行は、そのまま道の向こうへ去って行った。
不知也はとうとう降りてこなかった。
真咲が大きな溜息をついた。
「妖しさここに極まれり、だな。ああ恐ろしかった」
「本当に恐ろしいのはここからかもしれないよ」
美葛は先に立って歩き出した。もちろん、内心ではびくびくし通しだった。暗いのはあまり好きではないし、この先に女の霊がいるかもしれないと思うとげんなりする。真咲の目がある手前、逃げ出す訳にもいかないから、仕方なく進んでいるようなものだった。
蔓延り茂る草木の中、灯りも持たずに歩いて行く喜斉の背中を、人より夜目の利く美葛は木の間を漏れる微かな月の光だけで見失わずに追うことができた。進むほど藪は深くなっていく。伸び上がろうとする緑と朽ち果てつつある緑とが静けさの中でせめぎ合っていた。
一体どこまで行くつもりなのか、喜斉は一向に止まろうとしない。刺草の茂みさえ避けることなく突き進む。真咲が、せめてもの気晴らしにだろう、嘲るように笑った。
「とても貴人が女の元を訪ねる様子には見えないな」
「だね。そういえば真咲、あの歌のこと、あれから何か分かった?」
喜斉に、きっと先程も不知也が届けただろう『頼もしき心延えかな』の一首。
美葛には気付いたことがあったのだった。一つだけな、と真咲も言った。
「短冊に、何かの香りが焚き染めてあることだけは分かった」
「何だ、私しか気付いてないと思ったのに」
先に喜斉から渡された短冊からも、不知也が梅の枝に結び付けていたものからも、まったく同じ香りがしたのだ。
「俺の鼻でも分かるくらい濃く焚き染めてあった。まあ、だからって、俺にそれ以上の何が知れる訳でもないけどな。あの歌の、どこかぎくしゃくしたような感じの正体は掴めてない。本当に何なんだか」
喜斉の行く手に小さな明かりが見えた。木立の中の一軒家。芝垣を結い回した粗末な板葺きの小屋だった。ひとりでに開いた木戸が喜斉を迎え入れた。
後に続こうとした美葛と真咲は思わず足を止めた。木戸を塞ぐようにして、青白い火の玉を従えた大きな影が立ちはだかったからだ。
野暮は止せ、と影は笑い含みに凄んだ。
「うちの若に、関わるなと言われなかったか」
不知也が叔父上と呼ぶ隻腕の薬師、茨だった。
茨は青く照らされた顔に不敵な笑みを浮かべていた。黙り込む二人に一歩近付いた。
「けしからんなあ。実にけしからん。逢瀬の邪魔なんぞ、してどうする。同じことをされたら、お前らどんな気分になる」
「邪魔するのは本意じゃない。これが当たり前の逢瀬ならな」
真咲が一歩前に出たので美葛はひやりとした。人ならざるものとしての気配を隠そうともしない茨が、どれほど恐ろしくて底知れない力の持ち主か、ひしひしと感じられるからだ。
何も知らない真咲は強気で言い放つ。
「喜斉様は助けを求めてる。俺も美葛も、別に邪魔をしたくてしようとするんじゃない」
「……女の方、薫里も、我らに助けを求めたのだと言ったら?」
弱き者に寄り添う、という不知也の一言が美葛の脳裡をよぎった。
真意を問おうと口を開きかけた美葛を、茨は掌で制した。
「まあいい。お前らを放っておくことを決めた若の意向に、今は俺も従うとしよう。その方が後のためだ。せいぜい悔やんで悩んで苦しんでもらった方が、こちらとしても取り入り易い」
後の方はほとんど独り言だった。呼び止める暇さえ与えず、青白い火の玉と一緒に、茨は掻き消すように消え失せた。
美葛と真咲は揃って大きな息を吐いた。
「あいつ、ようは何が言いたかったんだ」
「分からないけど、何だか嫌な感じだね。……どうする? 真咲」
「どうするもこうするも、行ってみるしかないだろう。少し脅かされたくらいで、はいそうですかと引き返せるか」
どこか捨て鉢な様子で真咲が歩を進めた。
美葛も、勇気を奮い起こしてその後に続いた。
現れたのは忠親が不知也と呼んだあの美童だった。黒装束の隻腕薬師、茨の姿はない。その代わりのように、庭木の陰や前栽の裏、屋根の檜皮の細い隙間や階の下に至るまで、あらゆる所に人ならざるものの気配が感じられた。どうしようもない悪寒はそれらが醸す剣呑な雰囲気のせいだった。
動けない美葛と真咲の元へ、不知也は静かに歩み寄ってきた。綺麗な顔には笑みも怒りも嘆きもない。
「薫里の件からは、手を引くことをお勧めします。このまま関わり続ければ、あなた方はきっと後悔することになる」
美葛はごくりと唾を飲み下し、思い切って尋ねた。
「不知也は、喜斉様を苦しめている霊のことを知っているんだね」
「ええ。あれとは、気が済むまで付き合うことを約束しましたので」
不知也が軽く掲げて見せたのは文だった。
蕾もふくよかな梅の折枝に結わえてある、蘇芳と白の薄様を重ねた結び文だ。
「気が済むまでってのは、つまり?」
真咲が尋ねた。辺りに潜むものたちのことになど気付いてはいないだろう彼も、いくらかの不穏さは感じているのかもしれない。問いかける声には張り詰めたものがあった。
「薫里って遊女は、喜斉様のことをどうしようとしてるんだ? 嬲りたいだけ嬲って、取り殺そうっていうのか?」
「男と女の事。周りがあれこれ騒いでも詮ないでしょう。それよりも信太の真咲殿」
名を知られていたことに、真咲は虚を突かれたようだった。
不知也が小さく首を傾げた。
「貴方こそ、どんな狙いがあって都へ? 意趣返しでしょうか」
首を捻るのは、今度は美葛の番だった。意趣返し? 真咲は都へ、むしろ恩返しに来たはずなのに。
意外そうに目を瞬くばかりで何も答えない真咲に、不知也は重ねて問おうとはしなかった。黙って歩み寄ってきた。退いて道を開けた美葛と真咲の間、短い階を登っていく。結わえた文から漂うものらしい、嗅ぎ覚えのある微かな匂いが美葛の鼻をくすぐった。
濡縁に立った不知也は肩越しに振り向いた。
「私で良ければ、いつでも貴方の力になりましょう。『来い』と暗がりに呼びかけて頂ければ結構。すぐに参上いたします」
言うだけ言って迷わず奥へ入って行った。
美葛は詰めていた息を吐いた。真咲の表情を窺った。
「意趣返しって、いったい何の話?」
「さあな。俺には別に、都に恨めしい相手なんかいない。誰かと勘違いしてるんじゃないのか?」
間もなく不知也が戻ってきた。白目を剥いた喜斉がその後ろに続いていた。
美葛には喜斉の姿が、まるで上から糸で吊られているかのように見えた。手足の運びがぎくしゃくして気持ち悪い。不知也の眷属が操っているのに違いなかった。目には映らないものたちの気配に今度こそ堪えきれず、美葛は一歩も二歩も後ずさった。
不知也がそんな美葛をちらりと見て、唇を動かさずに言った。
『この件からは手を引いて、里へ帰りなさい。都にいてはいけない』
『……教えて、不知也。貴方は今、誰のために何をしているの?』
『弱き者の思いに寄り添うこと。私にはそれだけです』
眷属たちの働きによるものか、そうでなければ何かの術が働いているのだろう。主が誘い出されていくというのに、家人たちが屋敷から現れる様子は一切なかった。美葛と真咲が何もできずにいるうちに、不知也と喜斉は悠然と門から外へ出て行った。
赤紫の雲端を黄金色に輝かせながら日が沈んだ。
車は焦れったいほどゆっくりと進んだ。いつの間にか門前に回されていた、不知也と喜斉を乗せた牛車だった。もっとも、車を曳くのが牛なのか何なのか、車の後をつける美葛にはよく分からなかった。琴音姫の屋敷に満ちていたものに勝るとも劣らない黒々とした妖気が、雲のように立ち籠めて隠すせいだ。供人らしい影もあるが、掛け声一つ発することのない彼らが人であるかどうかもまた怪しいものだった。
音もなく伸びてきた青黒い山々の影。その影に深く沈んでいく町筋を、車はごとごとと右京の南へ向かった。そして唐突に止まった。着いたのは、昼間、美葛が真咲と犬丸とやり取りをした辺りだった。
牛車の陰から、とてもこれまで一緒に歩いてきたとは思えないほど大柄な影が三つも現れた。喜斉が降りるのを助けるためだった。相変わらず夢見心地らしい喜斉は抱えられるようにして地に足を付け、一人でふらふらと藪の中へ入って行く。
暗い林の中に喜斉の姿が消えるのを見届けた牛車の一行は、そのまま道の向こうへ去って行った。
不知也はとうとう降りてこなかった。
真咲が大きな溜息をついた。
「妖しさここに極まれり、だな。ああ恐ろしかった」
「本当に恐ろしいのはここからかもしれないよ」
美葛は先に立って歩き出した。もちろん、内心ではびくびくし通しだった。暗いのはあまり好きではないし、この先に女の霊がいるかもしれないと思うとげんなりする。真咲の目がある手前、逃げ出す訳にもいかないから、仕方なく進んでいるようなものだった。
蔓延り茂る草木の中、灯りも持たずに歩いて行く喜斉の背中を、人より夜目の利く美葛は木の間を漏れる微かな月の光だけで見失わずに追うことができた。進むほど藪は深くなっていく。伸び上がろうとする緑と朽ち果てつつある緑とが静けさの中でせめぎ合っていた。
一体どこまで行くつもりなのか、喜斉は一向に止まろうとしない。刺草の茂みさえ避けることなく突き進む。真咲が、せめてもの気晴らしにだろう、嘲るように笑った。
「とても貴人が女の元を訪ねる様子には見えないな」
「だね。そういえば真咲、あの歌のこと、あれから何か分かった?」
喜斉に、きっと先程も不知也が届けただろう『頼もしき心延えかな』の一首。
美葛には気付いたことがあったのだった。一つだけな、と真咲も言った。
「短冊に、何かの香りが焚き染めてあることだけは分かった」
「何だ、私しか気付いてないと思ったのに」
先に喜斉から渡された短冊からも、不知也が梅の枝に結び付けていたものからも、まったく同じ香りがしたのだ。
「俺の鼻でも分かるくらい濃く焚き染めてあった。まあ、だからって、俺にそれ以上の何が知れる訳でもないけどな。あの歌の、どこかぎくしゃくしたような感じの正体は掴めてない。本当に何なんだか」
喜斉の行く手に小さな明かりが見えた。木立の中の一軒家。芝垣を結い回した粗末な板葺きの小屋だった。ひとりでに開いた木戸が喜斉を迎え入れた。
後に続こうとした美葛と真咲は思わず足を止めた。木戸を塞ぐようにして、青白い火の玉を従えた大きな影が立ちはだかったからだ。
野暮は止せ、と影は笑い含みに凄んだ。
「うちの若に、関わるなと言われなかったか」
不知也が叔父上と呼ぶ隻腕の薬師、茨だった。
茨は青く照らされた顔に不敵な笑みを浮かべていた。黙り込む二人に一歩近付いた。
「けしからんなあ。実にけしからん。逢瀬の邪魔なんぞ、してどうする。同じことをされたら、お前らどんな気分になる」
「邪魔するのは本意じゃない。これが当たり前の逢瀬ならな」
真咲が一歩前に出たので美葛はひやりとした。人ならざるものとしての気配を隠そうともしない茨が、どれほど恐ろしくて底知れない力の持ち主か、ひしひしと感じられるからだ。
何も知らない真咲は強気で言い放つ。
「喜斉様は助けを求めてる。俺も美葛も、別に邪魔をしたくてしようとするんじゃない」
「……女の方、薫里も、我らに助けを求めたのだと言ったら?」
弱き者に寄り添う、という不知也の一言が美葛の脳裡をよぎった。
真意を問おうと口を開きかけた美葛を、茨は掌で制した。
「まあいい。お前らを放っておくことを決めた若の意向に、今は俺も従うとしよう。その方が後のためだ。せいぜい悔やんで悩んで苦しんでもらった方が、こちらとしても取り入り易い」
後の方はほとんど独り言だった。呼び止める暇さえ与えず、青白い火の玉と一緒に、茨は掻き消すように消え失せた。
美葛と真咲は揃って大きな息を吐いた。
「あいつ、ようは何が言いたかったんだ」
「分からないけど、何だか嫌な感じだね。……どうする? 真咲」
「どうするもこうするも、行ってみるしかないだろう。少し脅かされたくらいで、はいそうですかと引き返せるか」
どこか捨て鉢な様子で真咲が歩を進めた。
美葛も、勇気を奮い起こしてその後に続いた。
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