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物名歌
妖狐
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夜の林に不穏な気配が満ちた。
美葛は真咲を背に庇って身構えた。狐火を点して辺りを窺った。地鳴りめいた、どこから響くとも知れない低い声が語りかけてくる。
『力を望むがいい。消え去る前に薫里の無念を晴らしたいとは思わんか。死人から物を剥ぐような、そんな恥知らずで性根の腐った男の体裁をさえ、あの心優しい女は気遣った。最期には黙って身を引くことで相手に尽くした。しかしそこに一片の悔いもなかったなどと誰に言える』
薫里が我が身を抱いて俯き、苦しそうに呻き始めた。見開かれた瞳が赤黒く染まり、立ち昇る妖気に長い黒髪が乱れた。
『哀れな薫里の思いに準じたお前のことをも、あのろくでもない男は軽んじた。蔑ろにして憚らなかった。こんな憤ろしいことがあっていいのか。許されていいのか。悔しくはないのか』
薫里、薫里、と繰り返し名を呼びながら薫里が身悶えする。白い頬に血の涙を流していた。真咲が美葛の肩を掴んだ。見ていられないのだろう、物も言わず押し退けて前に出ようとした。美葛は震える腕を広げてそれを押し止めた。
ふいに足元が揺れた。地の底から何かが突き上げてきた。あちこちに亀裂が走り、そこから蛍火のような光が漏れた。底光りする夜の林。妖気の高まりに呼応して地脈が乱れだしたことを、美葛は理屈ではなく身体で感じ取った。
薫里の昂ぶりに応えて大地の力が迸る。おう、と真咲が短く叫んだ。辺りの下草が凄まじい勢いで伸び始めたからだ。蔓や蔦が激しくうねり、土を破って新たな木々さえ生え始めた。美葛も真咲も堪らず後退った。地鳴りの声が大きくなった。
『啼け。怒れ。決して赦すな。理不尽が罷り通るこの世に、お前の嘆きがどれほど深いかを知らしめてやれ』
もはや声にならない薫里の叫びがいいだけ高まった時だった。
突然、辺りが暗くなった。
大地が唐突に鳴りを潜め、草木が動きを止めた。
美葛も真咲も息を呑んだ。薫里の身に宿る妖気の燐光が翳ったかと思うと、その姿が頼りなく揺らめき、そのまま音もなく消えてしまったからだ。あまりにも唐突な最期だった。
「……何ともつまらん終わり方だな。力に耐えきれなかったのか?」
闇の向こうから、草を踏みしめて歩み出て来る者がいた。青白い鬼火に照らされた黒衣の巨漢。茨だった。彼は声もない美葛と真咲に憫笑を向け、いや違うな、と呟いた。暗くなった小屋の方を見た。
「向こうから破れたらしい。……誦文歌か。言霊とは厄介なものだ。只人が用いてさえこれほどの力を見せる」
「茨殿」
美葛が名を呼ぶと、茨はゆっくりとこちらを向いた。
薫里殿をどうしようとしたのですか。そう問いたかったはずだが、美葛はその冷やかな上にも冷やかな目つきに気圧されて何も言えなくなった。そんな美葛を憐れむように、茨は鼻で笑って踵を返した。そのまま暗闇へと帰って行った。
美葛はその場にへたり込んだ。
「……大丈夫か、美葛」
「怖かった……。真咲は、平気? 何ともない?」
「ああ。小屋の中を見に行こう。喜斉様のことが気になる」
いくつか狐火を点した美葛は、真咲と一緒に小屋へと足を踏み入れた。
すでに幻は破れていた。台盤ではなくただの朽ちかけた木の板に、皿や鉢ではなく朴の葉が、剥板が、割竹が、虫や茸も山盛りに並べられていた。
火の消えた囲炉裏の側に喜斉がぐったりと倒れ込んでいた。他には何の気配もなかった。
喜斉の手元に鳥の子紙の短冊が落ちていた。手に取った真咲が、何てこった、と悔しそうに零した。美葛は短冊を覗き込んだ。歌が記されていた。
死々虫よ な来そな鳴きそ 汝が母が 去にし塚戸に 行きて鳴きをれ
「こいつは、俺が犬丸に教えた邪気祓いの誦文歌だ」
邪気祓いの誦文歌。喜斉が犬丸から聞き出したか、注進を受けたかしたのだろう。今しがた茨が呟いた誦文歌とはこれのことだ。初句にある死々虫がどのようなものかを美葛は知らないが、来るな鳴くな他所へ行けと、そう強く命じる辺りに呪い歌らしさが感じられた。薫里はこの歌の力で退けられたのに違いなかった。
何か呼ばれたような気がして、小屋を出た美葛は裏手に回った。
そこには石を乗せた小さな塚が築かれていた。
我知らず、美葛はその場に膝をついた。
塚の前には一匹の狐が半ば骨になって横たわっていた。
真咲が黙って隣に立った。美葛の肩にそっと手を置いた。
薫里のものと思しいその塚の隣に、美葛と真咲は狐の亡骸を葬った。
(三章『物名歌』 了)
美葛は真咲を背に庇って身構えた。狐火を点して辺りを窺った。地鳴りめいた、どこから響くとも知れない低い声が語りかけてくる。
『力を望むがいい。消え去る前に薫里の無念を晴らしたいとは思わんか。死人から物を剥ぐような、そんな恥知らずで性根の腐った男の体裁をさえ、あの心優しい女は気遣った。最期には黙って身を引くことで相手に尽くした。しかしそこに一片の悔いもなかったなどと誰に言える』
薫里が我が身を抱いて俯き、苦しそうに呻き始めた。見開かれた瞳が赤黒く染まり、立ち昇る妖気に長い黒髪が乱れた。
『哀れな薫里の思いに準じたお前のことをも、あのろくでもない男は軽んじた。蔑ろにして憚らなかった。こんな憤ろしいことがあっていいのか。許されていいのか。悔しくはないのか』
薫里、薫里、と繰り返し名を呼びながら薫里が身悶えする。白い頬に血の涙を流していた。真咲が美葛の肩を掴んだ。見ていられないのだろう、物も言わず押し退けて前に出ようとした。美葛は震える腕を広げてそれを押し止めた。
ふいに足元が揺れた。地の底から何かが突き上げてきた。あちこちに亀裂が走り、そこから蛍火のような光が漏れた。底光りする夜の林。妖気の高まりに呼応して地脈が乱れだしたことを、美葛は理屈ではなく身体で感じ取った。
薫里の昂ぶりに応えて大地の力が迸る。おう、と真咲が短く叫んだ。辺りの下草が凄まじい勢いで伸び始めたからだ。蔓や蔦が激しくうねり、土を破って新たな木々さえ生え始めた。美葛も真咲も堪らず後退った。地鳴りの声が大きくなった。
『啼け。怒れ。決して赦すな。理不尽が罷り通るこの世に、お前の嘆きがどれほど深いかを知らしめてやれ』
もはや声にならない薫里の叫びがいいだけ高まった時だった。
突然、辺りが暗くなった。
大地が唐突に鳴りを潜め、草木が動きを止めた。
美葛も真咲も息を呑んだ。薫里の身に宿る妖気の燐光が翳ったかと思うと、その姿が頼りなく揺らめき、そのまま音もなく消えてしまったからだ。あまりにも唐突な最期だった。
「……何ともつまらん終わり方だな。力に耐えきれなかったのか?」
闇の向こうから、草を踏みしめて歩み出て来る者がいた。青白い鬼火に照らされた黒衣の巨漢。茨だった。彼は声もない美葛と真咲に憫笑を向け、いや違うな、と呟いた。暗くなった小屋の方を見た。
「向こうから破れたらしい。……誦文歌か。言霊とは厄介なものだ。只人が用いてさえこれほどの力を見せる」
「茨殿」
美葛が名を呼ぶと、茨はゆっくりとこちらを向いた。
薫里殿をどうしようとしたのですか。そう問いたかったはずだが、美葛はその冷やかな上にも冷やかな目つきに気圧されて何も言えなくなった。そんな美葛を憐れむように、茨は鼻で笑って踵を返した。そのまま暗闇へと帰って行った。
美葛はその場にへたり込んだ。
「……大丈夫か、美葛」
「怖かった……。真咲は、平気? 何ともない?」
「ああ。小屋の中を見に行こう。喜斉様のことが気になる」
いくつか狐火を点した美葛は、真咲と一緒に小屋へと足を踏み入れた。
すでに幻は破れていた。台盤ではなくただの朽ちかけた木の板に、皿や鉢ではなく朴の葉が、剥板が、割竹が、虫や茸も山盛りに並べられていた。
火の消えた囲炉裏の側に喜斉がぐったりと倒れ込んでいた。他には何の気配もなかった。
喜斉の手元に鳥の子紙の短冊が落ちていた。手に取った真咲が、何てこった、と悔しそうに零した。美葛は短冊を覗き込んだ。歌が記されていた。
死々虫よ な来そな鳴きそ 汝が母が 去にし塚戸に 行きて鳴きをれ
「こいつは、俺が犬丸に教えた邪気祓いの誦文歌だ」
邪気祓いの誦文歌。喜斉が犬丸から聞き出したか、注進を受けたかしたのだろう。今しがた茨が呟いた誦文歌とはこれのことだ。初句にある死々虫がどのようなものかを美葛は知らないが、来るな鳴くな他所へ行けと、そう強く命じる辺りに呪い歌らしさが感じられた。薫里はこの歌の力で退けられたのに違いなかった。
何か呼ばれたような気がして、小屋を出た美葛は裏手に回った。
そこには石を乗せた小さな塚が築かれていた。
我知らず、美葛はその場に膝をついた。
塚の前には一匹の狐が半ば骨になって横たわっていた。
真咲が黙って隣に立った。美葛の肩にそっと手を置いた。
薫里のものと思しいその塚の隣に、美葛と真咲は狐の亡骸を葬った。
(三章『物名歌』 了)
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