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物名歌
告白
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辿り着いた例の小屋では、昨夜と同じかそれにも勝るようなもてなしが待っていた。
喜斉一人のために支度されたものだとは、美葛にはとても思えなかった。何しろ四脚ある台盤にも載り切らないほどの鉢や皿が並べてある。団子虫やら蚯蚓やら、相変わらず人の口には合わないだろうものばかり盛られているが、そうでさえなければ、貴人の宴もかくやと称えられるべき支度ぶりだった。
虚ろな目をした半笑いの喜斉が薫里に勧められるまま虫を食べ始めた。うええ、と隣で真咲が舌を出した。狐には御馳走攻めでしかないものが、人にとっては拷問にも等しい。美葛は何やら切ないような気持ちになった。
『本当の薫里は……』
ふいにすぐ後ろで声が聞こえた。美葛は、昨日のように驚いて飛び退ったりはしなかった。真咲も同じだった。揃って振り向くと、闇の中、ぼんやりと光るように薫里の姿が浮かび上がった。俯き加減の彼女は訥々と語り出した。
『薫里は、良くしてくれた喜斉の栄達を、心の底から願っていたんだ。その妨げになってはならないと、きつく己を戒めていた』
「……とても、強い方だったんだね」
『強くて優しい女だった』
そう淋しそうに目を遣った屋敷の中では、薄ら笑いの喜斉が微笑む薫里から酌をされていた。瓶子の口から緑色に濁った草の汁のようなものが糸を引いた。
今夜は美葛にもはっきりと分かった。これは幻術だ。小屋の中の薫里も、目の前にいる薫里が操る幻。恐ろしく巧みと言うほかない術の冴えだった。
『……なあ、これまで俺のしてきたことは、間違いだったのか? 喜斉の中の薫里との思い出を、汚してしまったのか? 薫里のため薫里のためと言いながら、詰まる所、俺は俺の満足のことしか考えちゃいなかったのか?』
美葛にはどう応えることもできなかった。真咲が咳払いをした。
「夜毎のもてなしを、喜斉様が迷惑に思っていらっしゃるのは確かだ。聞かせてもらってもいいか。喜斉様は、あの歌に詠み込まれた『心葉』と『火取』と『伏籠』を、一体どうしたんだ?」
たのもしき こころばえかな はなのよに ひとりまつわれ とひたまふせこ
真咲が例の歌に詠み込まれた物の名を知っていることに、薫里は驚かなかった。長い睫毛を伏せて、ひどく辛そうに応えた。
『薫里が死んだことを知って、あの小屋から下人に盗み出させたんだ。そして売り払ってしまった。どれもこれも、薫里が我が身より大切にしていた物だったのに』
「盗んで、売った?」
『博奕のかたさ。古びてはいても、まだ使えそうな三品だったからな』
事実を知らされた真咲が片手で目を覆った。唇を噛んで俯いた。知らなければ良かった、と美葛も思った。屋敷で不知也と繰り広げたやり取りからこちら、喜斉という男は美葛と真咲を失望させ通しだ。
小屋の中の薫里を見つめて、薫里が深い溜息を漏らした。
『俺に、もっと力があれば、何かを変えることができたのかな』
たとえば貴人の娘であっても、暮らしが立ち行かないなど様々な理由から、進んで遊女となる者は少なくないという。薫里もそれと似たような口だったらしい、と薫里は語った。
父母をはじめ身内を残らず時疫に奪われた薫里は、何とかして一人で生きていかなければならなかった。山城国、与野津から淀川を西へ向かった彼女は、まず摂津国は江口で遊女としての暮らしを始めた。
もちろん初めから上手く行くはずもなかった。若いばかりで何の芸も持たない者に客は付かない。
改めて、今度は同じ摂津国の神崎へ向かい、まずは先達が乗る小端舟の艪を漕がせてもらう所から始めた。親しくなったその先達から鼓や笛を習い、遊女宿を転々としながら腕を磨いた。
やがて薫里は雑芸よりも歌を能くすることで評判を取るようになり、都に住まう貴人の一人から歌合の席に招かれた。貴人は薫里のことをいたく気に入り、住まいやら衣やら、暮らしに要るものは何から何まで与えて都に留めたのだった。
『その住まいというのが、今は朽ち果てたこの板屋。売らずに最後まで手元に残した頂戴物が、香道具一式だった。その貴人の足が遠のいてしまってからも、薫里はずっと都を離れなかった。そうして、喜斉が、薫里が父母と同じ病に倒れる前の最後の男になったんだ』
あれは本当に優しい女だった、と薫里はしみじみ呟いた。
『都で一人前になろうとして、でも躓いて、いいだけ落ちぶれた俺を、あいつは拾ってくれた。高望みをしない、あるがままの暮らしだって悪くはないと、初めてそう思わせてくれた。俺と同じように世話になってた犬どもや鳥たちも、口を揃えて言ったもんさ。人ってのは身分や血筋なんかにはよらないものらしいってな。なあ、お仲間さん』
薫里は美葛にそう語りかけてきた。
『あんたも、何か思う所あって都に出てきたのなら、忘れないようにした方がいいぜ。何をしたくてここにいるのか。本当に求めているのは何か。ただ、間違っても獣と人の境目を越えようなんて思わないようにな。どんなに姿形を似せてみたって、その一線を越えられるなんて勘違い。思い込みだ。何をどうしてみたって相容れない。痛い目に遭うのが落ちなんだから』
美葛は応えに窮した。
母との約束通り都で修行して立派な狐になる。白狐の姿に相応しいだけの力と術を身に付ける。人の世と心を深く知るため、また誦文歌として扱うために歌を学ぶ。それら心に強く抱いてきた思いの根っ子にあたる所に、何か強い一撃を加えられたような気がした。
何をしたくてここにいるのか、その本当の所――。
ああ、と薫里がまた深い溜息を漏らした。
『薫里が大切にしていた物、本当に、何とかして取り戻してやりたかったなあ……』
『ならば更なる力を貸そう』
暗闇に、遠雷を聞くような低い声が響いた。
喜斉一人のために支度されたものだとは、美葛にはとても思えなかった。何しろ四脚ある台盤にも載り切らないほどの鉢や皿が並べてある。団子虫やら蚯蚓やら、相変わらず人の口には合わないだろうものばかり盛られているが、そうでさえなければ、貴人の宴もかくやと称えられるべき支度ぶりだった。
虚ろな目をした半笑いの喜斉が薫里に勧められるまま虫を食べ始めた。うええ、と隣で真咲が舌を出した。狐には御馳走攻めでしかないものが、人にとっては拷問にも等しい。美葛は何やら切ないような気持ちになった。
『本当の薫里は……』
ふいにすぐ後ろで声が聞こえた。美葛は、昨日のように驚いて飛び退ったりはしなかった。真咲も同じだった。揃って振り向くと、闇の中、ぼんやりと光るように薫里の姿が浮かび上がった。俯き加減の彼女は訥々と語り出した。
『薫里は、良くしてくれた喜斉の栄達を、心の底から願っていたんだ。その妨げになってはならないと、きつく己を戒めていた』
「……とても、強い方だったんだね」
『強くて優しい女だった』
そう淋しそうに目を遣った屋敷の中では、薄ら笑いの喜斉が微笑む薫里から酌をされていた。瓶子の口から緑色に濁った草の汁のようなものが糸を引いた。
今夜は美葛にもはっきりと分かった。これは幻術だ。小屋の中の薫里も、目の前にいる薫里が操る幻。恐ろしく巧みと言うほかない術の冴えだった。
『……なあ、これまで俺のしてきたことは、間違いだったのか? 喜斉の中の薫里との思い出を、汚してしまったのか? 薫里のため薫里のためと言いながら、詰まる所、俺は俺の満足のことしか考えちゃいなかったのか?』
美葛にはどう応えることもできなかった。真咲が咳払いをした。
「夜毎のもてなしを、喜斉様が迷惑に思っていらっしゃるのは確かだ。聞かせてもらってもいいか。喜斉様は、あの歌に詠み込まれた『心葉』と『火取』と『伏籠』を、一体どうしたんだ?」
たのもしき こころばえかな はなのよに ひとりまつわれ とひたまふせこ
真咲が例の歌に詠み込まれた物の名を知っていることに、薫里は驚かなかった。長い睫毛を伏せて、ひどく辛そうに応えた。
『薫里が死んだことを知って、あの小屋から下人に盗み出させたんだ。そして売り払ってしまった。どれもこれも、薫里が我が身より大切にしていた物だったのに』
「盗んで、売った?」
『博奕のかたさ。古びてはいても、まだ使えそうな三品だったからな』
事実を知らされた真咲が片手で目を覆った。唇を噛んで俯いた。知らなければ良かった、と美葛も思った。屋敷で不知也と繰り広げたやり取りからこちら、喜斉という男は美葛と真咲を失望させ通しだ。
小屋の中の薫里を見つめて、薫里が深い溜息を漏らした。
『俺に、もっと力があれば、何かを変えることができたのかな』
たとえば貴人の娘であっても、暮らしが立ち行かないなど様々な理由から、進んで遊女となる者は少なくないという。薫里もそれと似たような口だったらしい、と薫里は語った。
父母をはじめ身内を残らず時疫に奪われた薫里は、何とかして一人で生きていかなければならなかった。山城国、与野津から淀川を西へ向かった彼女は、まず摂津国は江口で遊女としての暮らしを始めた。
もちろん初めから上手く行くはずもなかった。若いばかりで何の芸も持たない者に客は付かない。
改めて、今度は同じ摂津国の神崎へ向かい、まずは先達が乗る小端舟の艪を漕がせてもらう所から始めた。親しくなったその先達から鼓や笛を習い、遊女宿を転々としながら腕を磨いた。
やがて薫里は雑芸よりも歌を能くすることで評判を取るようになり、都に住まう貴人の一人から歌合の席に招かれた。貴人は薫里のことをいたく気に入り、住まいやら衣やら、暮らしに要るものは何から何まで与えて都に留めたのだった。
『その住まいというのが、今は朽ち果てたこの板屋。売らずに最後まで手元に残した頂戴物が、香道具一式だった。その貴人の足が遠のいてしまってからも、薫里はずっと都を離れなかった。そうして、喜斉が、薫里が父母と同じ病に倒れる前の最後の男になったんだ』
あれは本当に優しい女だった、と薫里はしみじみ呟いた。
『都で一人前になろうとして、でも躓いて、いいだけ落ちぶれた俺を、あいつは拾ってくれた。高望みをしない、あるがままの暮らしだって悪くはないと、初めてそう思わせてくれた。俺と同じように世話になってた犬どもや鳥たちも、口を揃えて言ったもんさ。人ってのは身分や血筋なんかにはよらないものらしいってな。なあ、お仲間さん』
薫里は美葛にそう語りかけてきた。
『あんたも、何か思う所あって都に出てきたのなら、忘れないようにした方がいいぜ。何をしたくてここにいるのか。本当に求めているのは何か。ただ、間違っても獣と人の境目を越えようなんて思わないようにな。どんなに姿形を似せてみたって、その一線を越えられるなんて勘違い。思い込みだ。何をどうしてみたって相容れない。痛い目に遭うのが落ちなんだから』
美葛は応えに窮した。
母との約束通り都で修行して立派な狐になる。白狐の姿に相応しいだけの力と術を身に付ける。人の世と心を深く知るため、また誦文歌として扱うために歌を学ぶ。それら心に強く抱いてきた思いの根っ子にあたる所に、何か強い一撃を加えられたような気がした。
何をしたくてここにいるのか、その本当の所――。
ああ、と薫里がまた深い溜息を漏らした。
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