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誦文歌
決意
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塗籠の中に滑り込んだ美葛は、なるほど誰も入れたくなかったわけだと密かに思った。
脱ぎ散らかされた何枚もの衣たち。放られたままの折敷。その上の汚れた椀や皿、箸や匙。行李がいくつか。手箱もいくつか。火の気のない高坏灯台。あちこちに散らばった文や冊子本。蓋をした壺が隅に二つ。そのすぐ脇で今まさに香を薫らせる香道具――。狐火が照らしたのは、そんなあまりにも雑然とした様子だったからだ。
雪世がそもそもずぼらな質で、片付けができない娘なのだろうか。いいや違うと美葛は思った。これはおそらく心の乱れ。歪みの表れ。皆の前では気丈に振る舞う雪世の胸の内が、本当はどれほど傷付き荒んでいるかを示すものに違いない。
散らばった物たちがいっそう狭く見せる塗籠の中、短く叫んで飛び退いたばかりの雪世は隅で小さくなっていた。無理もないことだった。青白い火の玉を連れて躍り込んできた狐に対して、少しも驚かずにいられる若い娘がいるだろうか。我を失って泣いたり喚いたりしないだけ立派というべきだろう。
それにしても、と美葛は我が身を見下ろした。
久し振りの獣姿だった。
毛並みのひどく乱れた所がないか、おかしな所がないか、美葛は座ったままきょろきょろと身体を改めた。狐火に照らされた毛は前足の先から尾の先まで青白く輝くように見えた。
「貴女は……」
雪世が、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「美葛殿、なのですか?」
『はい。ほら、この通り』
尻尾を追いかけるようにしてその場で素早く一回り。
いつもの娘姿に変化してみせると、雪世は大きな目をこれ以上ないほど丸く見開いた。口元を両手で覆って、嘘、と小さく言った。
「今の姿と狐の姿、どちらでお話しするのがいいですか? あ、それとも、やっぱりその……、出て行った方が良いでしょうか。できれば、しばらくこのまま、ご一緒させていただきたいのですけれど」
ぺたりと座って上目遣いでもじもじする、そんな不安そうな美葛を見てどう思ったのだろう、雪世は少しだけ笑ったようだった。今のままでお願いします、と言った。溜息を漏らして項垂れ、まだ小刻みに震えているらしい、白い両手に目を落とした。
「……覚悟の程が、知れるというものですね。私、こんなに怖がっている。何て情けない。雪に埋められてしまってもいい、死んでも構わないと、本気でそう思い定めたのなら、目の前に何が現れたところで、怯えることなんかないはずなのに」
「雪世様、あんまりご自身を追い詰めないでください」
美葛は膝一つ分だけ前に出た。言葉選びにも振る舞いにも、できる限り気を遣わなければならない。
「死んでも構わないなんて、そんな哀しいこと仰らないで、私と一緒にここを出ましょう」
「放っておいてください」
雪世は、今度こそはっきりと笑った。己に対しての蔑み笑いだった。
「その方が私のためでもあるのです。お分かりでしょう、今しがたお話しした通りです。私には何もない。親きょうだいも、職を求める手蔓も、何もない」
「雪世様のお気持ちやお考えに、文句を付けたり、違うと突っぱねたり、そういうことは私はしません。できません、そんな難しいこと」
だけど、と美葛は身を乗り出した。
「このまま凍えて死んだりしていただきたくはないです。私、雪世様を連れて、一緒にここを出ます」
「……どうしてそこまで、気に掛けてくださるのですか」
どうしてそこまで。
同じ問いかけの言葉を、いつか美葛も胸に抱いたことがあった。
美葛を捕えた猟師に向かって、真咲はあのとき、あの満開の桜の下で、いったいどんな気持ちで頭を下げたのか。今ならそれが分かるような気がした。
「きっと、雪世様が、母を亡くした頃の私に似ていらっしゃるからです。来る日も来る日も、泣いて泣いて、何もかもどうでも良くなって、赤かったはずの毛はいつの間にか真っ白になって、行く末に何の望みも持てなくて、死んでしまってもぜんぜん構わないと、そう思っていた私に」
「真っ白に……。そんなことって……」
「そんな時に、私、猟師に捕まったんです。助けてくれたのは真咲でした。もしも真咲がいなかったら、私の毛皮はきっと今頃、誰かの敷物か被り物になっていたと思います。だから」
呆然としている雪世に、美葛は努めて明るく笑ってみせた。
「今度は私の番。救ってみせるだなんて、おこがましくてそんなこと言えませんけれど、ここで雪世様を死なせたりだけはしませんからね、絶対」
雪世が、堪えきれなくなったらしい、両手で顔を覆ってさめざめと泣き出した。
「……でも、でも本当に、今更どうしてみようもありません。こうしてとうとう屋敷も潰れました。せっかく父が残してくれたのに。……ひしゃげてしまえばいいと、私がそう望んだのです。親不孝な、罰当たりな娘です。このまま、この塗籠の中で雪に閉じ込められたまま、凍えて死ぬのが分相応です。自業自得です」
「死なせませんったら」
強く言って、美葛は居住まいを正した。消え入りそうなほど心を弱らせた誰かを精一杯の力で守る。生まれて初めてそんな立場になって、俄然やる気が湧いてきた。
歌を用いた不知也の呪術『ゆきがさね』を真っ向から打ち破り、屋敷を雪の重みから解き放ち、もって雪世の心を安んずる。それらを一度にしてのけるにはどうすればいいか。
美葛が思いつく方法は一つだった。
「あの雪の歌に、私が返歌を詠んでみせます」
脱ぎ散らかされた何枚もの衣たち。放られたままの折敷。その上の汚れた椀や皿、箸や匙。行李がいくつか。手箱もいくつか。火の気のない高坏灯台。あちこちに散らばった文や冊子本。蓋をした壺が隅に二つ。そのすぐ脇で今まさに香を薫らせる香道具――。狐火が照らしたのは、そんなあまりにも雑然とした様子だったからだ。
雪世がそもそもずぼらな質で、片付けができない娘なのだろうか。いいや違うと美葛は思った。これはおそらく心の乱れ。歪みの表れ。皆の前では気丈に振る舞う雪世の胸の内が、本当はどれほど傷付き荒んでいるかを示すものに違いない。
散らばった物たちがいっそう狭く見せる塗籠の中、短く叫んで飛び退いたばかりの雪世は隅で小さくなっていた。無理もないことだった。青白い火の玉を連れて躍り込んできた狐に対して、少しも驚かずにいられる若い娘がいるだろうか。我を失って泣いたり喚いたりしないだけ立派というべきだろう。
それにしても、と美葛は我が身を見下ろした。
久し振りの獣姿だった。
毛並みのひどく乱れた所がないか、おかしな所がないか、美葛は座ったままきょろきょろと身体を改めた。狐火に照らされた毛は前足の先から尾の先まで青白く輝くように見えた。
「貴女は……」
雪世が、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「美葛殿、なのですか?」
『はい。ほら、この通り』
尻尾を追いかけるようにしてその場で素早く一回り。
いつもの娘姿に変化してみせると、雪世は大きな目をこれ以上ないほど丸く見開いた。口元を両手で覆って、嘘、と小さく言った。
「今の姿と狐の姿、どちらでお話しするのがいいですか? あ、それとも、やっぱりその……、出て行った方が良いでしょうか。できれば、しばらくこのまま、ご一緒させていただきたいのですけれど」
ぺたりと座って上目遣いでもじもじする、そんな不安そうな美葛を見てどう思ったのだろう、雪世は少しだけ笑ったようだった。今のままでお願いします、と言った。溜息を漏らして項垂れ、まだ小刻みに震えているらしい、白い両手に目を落とした。
「……覚悟の程が、知れるというものですね。私、こんなに怖がっている。何て情けない。雪に埋められてしまってもいい、死んでも構わないと、本気でそう思い定めたのなら、目の前に何が現れたところで、怯えることなんかないはずなのに」
「雪世様、あんまりご自身を追い詰めないでください」
美葛は膝一つ分だけ前に出た。言葉選びにも振る舞いにも、できる限り気を遣わなければならない。
「死んでも構わないなんて、そんな哀しいこと仰らないで、私と一緒にここを出ましょう」
「放っておいてください」
雪世は、今度こそはっきりと笑った。己に対しての蔑み笑いだった。
「その方が私のためでもあるのです。お分かりでしょう、今しがたお話しした通りです。私には何もない。親きょうだいも、職を求める手蔓も、何もない」
「雪世様のお気持ちやお考えに、文句を付けたり、違うと突っぱねたり、そういうことは私はしません。できません、そんな難しいこと」
だけど、と美葛は身を乗り出した。
「このまま凍えて死んだりしていただきたくはないです。私、雪世様を連れて、一緒にここを出ます」
「……どうしてそこまで、気に掛けてくださるのですか」
どうしてそこまで。
同じ問いかけの言葉を、いつか美葛も胸に抱いたことがあった。
美葛を捕えた猟師に向かって、真咲はあのとき、あの満開の桜の下で、いったいどんな気持ちで頭を下げたのか。今ならそれが分かるような気がした。
「きっと、雪世様が、母を亡くした頃の私に似ていらっしゃるからです。来る日も来る日も、泣いて泣いて、何もかもどうでも良くなって、赤かったはずの毛はいつの間にか真っ白になって、行く末に何の望みも持てなくて、死んでしまってもぜんぜん構わないと、そう思っていた私に」
「真っ白に……。そんなことって……」
「そんな時に、私、猟師に捕まったんです。助けてくれたのは真咲でした。もしも真咲がいなかったら、私の毛皮はきっと今頃、誰かの敷物か被り物になっていたと思います。だから」
呆然としている雪世に、美葛は努めて明るく笑ってみせた。
「今度は私の番。救ってみせるだなんて、おこがましくてそんなこと言えませんけれど、ここで雪世様を死なせたりだけはしませんからね、絶対」
雪世が、堪えきれなくなったらしい、両手で顔を覆ってさめざめと泣き出した。
「……でも、でも本当に、今更どうしてみようもありません。こうしてとうとう屋敷も潰れました。せっかく父が残してくれたのに。……ひしゃげてしまえばいいと、私がそう望んだのです。親不孝な、罰当たりな娘です。このまま、この塗籠の中で雪に閉じ込められたまま、凍えて死ぬのが分相応です。自業自得です」
「死なせませんったら」
強く言って、美葛は居住まいを正した。消え入りそうなほど心を弱らせた誰かを精一杯の力で守る。生まれて初めてそんな立場になって、俄然やる気が湧いてきた。
歌を用いた不知也の呪術『ゆきがさね』を真っ向から打ち破り、屋敷を雪の重みから解き放ち、もって雪世の心を安んずる。それらを一度にしてのけるにはどうすればいいか。
美葛が思いつく方法は一つだった。
「あの雪の歌に、私が返歌を詠んでみせます」
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