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誦文歌
桜花
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降りしきる 雪は憂き世を 嘆くらし 埋め隠さぬ 方もなければ
鬼の若君不知也が、悲しみに深く沈んだ雪世の心に寄り添って詠んだ歌。それこそが呪術『ゆきがさね』の要。その術を破るか止めるかしたいのならば返歌を詠んでやればいい。同じ不知也の呪術『かげあがい』――、忠親の心を表わした歌から生まれた《影法師》を、真咲の母千種の一首が鎮めてのけたように。
ただ、それは言うほど容易いことではなかった。
軽々しく返歌を詠んでみせるなどと言ったことを、美葛はたちまち悔いることになった。
「……ええと、ええと、『春過ぎて――』? 『雪解けの――』? 『解くからに――』?」
青白い火が照らす塗籠の中、美葛は、都へやってきてから一番ではないかというくらい歌のことを考えていた。
どのようなものが詠みたいかは決めている。暗く沈んだ雪世の心を上向かせるような一首が望ましい。返歌なので元の歌から一句か二句を取って詠み込みたい。何より、積もった雪を解くか消すような歌意を持たせなければならない。その歌は美葛が真心を込めて詠むことで霊験を現わし、重たい雪に降り籠められた雪世を心身共にここから助け出してくれるのだ。
けどそれってどんな歌? と美葛の中の美葛が首を傾げた。
大いに困ってしまった。そんなにも条件で雁字搦めにされた歌がほいほい詠める訳がない。己の気持ちをそのまま表わしたような、素直で素朴な歌さえまだ一首も詠んだことがないのに。
今も屋敷は軋み続けている。外では真咲と放免たちが喚いている。目の前では正座した雪世が寒さに震えている。それらがいよいよ美葛を追い詰める。
半端な力で事に臨んでしまった――。ふと湧いたそんな思いを、いいや違う、と美葛はすぐさま振り払った。己の弱気を叱った。来る日も来る日も『古今和歌六帖』の中の歌たちに接し続けてきたことを忘れたか。歌をどう詠むかについて、真咲から何度も詳しく教わったことを忘れたか。
例の『水の玉』は真咲だけのものであって美葛の中にはない。それでも、するべきことは変わらないはずだ。時、景、想。それらを強く感じ、深く考え、詞を選んで三十一文字に表わせばいい。考えろ。考えろ。考えろ――。
その時、美葛の膝に、いつの間にか近く寄り添っていた雪世がそっと手を置いた。
「美葛殿」
「諦めないでください、雪世様」
「……ええ。もう諦めません」
美葛ははっとした。とんだ早とちりだった。
真剣な雪世は、その瞳に何か強い思いを湛えているように見えた。初めて微笑んだ。
「私も一緒に考えます。これだけ真剣な姿を前にしていたら、もういいだとか死ぬだとか、言っている己が情けなくなりました。何もかも終わりだなんて諦めないで、私ももう一度、私を生きてみたい。夢中になれるものを見つけたり、誰かと笑ったりしたい」
「雪世様」
そんな心持ちになってもらっただけでも来た甲斐はあった。
天井知らずに高まっていた焦りや不安が、ふっと消え去るのを美葛は感じた。
「ありがとうございます。雪世様。お陰で私、何だか気が楽になりました」
もっと力を抜いて考えてみよう。
こうありたいという己の気持ちと向き合って、飾らない、素直な言葉を選ぼう。
私は真咲じゃない、と美葛の中の美葛が笑い含みに呟いた。彼のする通りにはできない。私にしかできない、私なりの詠み方に出会いたい。
何かに化ける時とまったく同じように、美葛は心を鎮めた。身の内の霊力を高められるだけ高めていく。もうそこまでで良いという所さえ越えて、怖いと思う気持ちを振り捨てて、ひたすらに高めていく。
外からの音は遠ざかり、側にいる雪世の息遣いも消えた。己の手足さえ、どこにあるのか分からなくなった。そのまま際限なく高め続けていくと、まだ踏み出したことのなかった心の中のどこかに、魂がさまよい出て行くような心地がした。
目の前が明るく開けた。
眩暈を覚えるほど大きな桜の木が立っていた。
物心ついたときからそこにありながら、今の今まであるとは知らずにいた。そんな何かにようやく出会えた気分だった。
桜の大樹は、真咲に命を救われたときの、あの満開の桜によく似ていた。近寄るとそうでないような気もした。美葛が知っているすべての桜でありながら、そのどれとも違うような、またとなく立派な桜だった。
美葛は桜の幹に背中を預け、音もなく散る花片を静かな心で眺めた。
舞い散る花片の一枚一枚は、美葛の中の言葉であり、思い出だった。音や匂いや肌触りでもあった。まだ見聞きしたことのない何かや、この世にあろうはずもない何かでさえあった。それら美葛の感じ考え覚えたことと花片であることとが、そこでは何の不思議もなく両立していた。
豊かに膨らんだ花房の中を白い光の筋が閃いて走るように、美葛の中で、事柄と事柄とが結び付いては離れ、離れてはまた別の何かと結び付いた。結び付きの光は輝くたびに新たな花の一輪を咲かせた。咲いては散りゆくことの果てしない連なりが、その満開の桜を満開の桜たらしめていた。
『ゆきがさね』の歌を、美葛は昂ぶりと落ち着きが相半ばする心の中に繰り返した。
時は今。景は一面の雪。想は――、と考えて、その重苦しさに改めて胸が潰れそうになった。
降る雪はこの世を嘆いている。だからすべてを白く覆い隠そうとしている。そう見て取るに至った心の哀しさ寒々しさを、剥き出しの心で強く感じずにはいられなかったからだ。
この哀しみを覆さなければならない。堪えきれないほど辛い今をそれでも堪えて、もう一度前を向く。そんな決意の歌が欲しい。きっとできないことではない。此方の悪事は彼方の吉事。どんな物事も善悪や吉凶の相を併せ備えているものだから。
私だってそうだったじゃないかと美葛は思った。母の死がなければ真咲との出会いはなかった。真咲と出会わなければ憧れの都に辿り着くこともきっとなかった。都にやって来たがために思い煩うことも増えたが、来なければ、人や物との、そして歌との、かけがえのない巡り会いは絶対になかった。
何もかも気持ち次第。あらゆることは捉えよう。
そっと差し出した掌に一片の桜が舞い降りた。
前向きでありたいというひたむきな想が美葛にいくつもの詞を閃かせた。伝えたいことは七七で。そんな真咲の声が耳に蘇り、定められた音の数が詞にしかるべき形を取らせて、たちまち下の句が整った。その中の一語が、庵で嫌というほど学んだ常詞の一つを引き寄せた。元の歌から相応しい詞を持ってきた。初句に置くべき詞を舞い散る花片の中に探して、美葛は雪世の姿を見出した。これは雪世へのはなむけの歌。『君』という詞が、あなた、というくらいの意味で浮かんだ。
結句から逆さに辿るようにして詠み上げたその一首は、心の中の桜の大樹の、とりわけ姿の良い花の一枝のように感じられた。
美葛はその枝を手に取り、心を込めて声にした。
「『君が世に 降りしきる雪は あらたまの 春を言祝ぐ 花吹雪なり』」
鬼の若君不知也が、悲しみに深く沈んだ雪世の心に寄り添って詠んだ歌。それこそが呪術『ゆきがさね』の要。その術を破るか止めるかしたいのならば返歌を詠んでやればいい。同じ不知也の呪術『かげあがい』――、忠親の心を表わした歌から生まれた《影法師》を、真咲の母千種の一首が鎮めてのけたように。
ただ、それは言うほど容易いことではなかった。
軽々しく返歌を詠んでみせるなどと言ったことを、美葛はたちまち悔いることになった。
「……ええと、ええと、『春過ぎて――』? 『雪解けの――』? 『解くからに――』?」
青白い火が照らす塗籠の中、美葛は、都へやってきてから一番ではないかというくらい歌のことを考えていた。
どのようなものが詠みたいかは決めている。暗く沈んだ雪世の心を上向かせるような一首が望ましい。返歌なので元の歌から一句か二句を取って詠み込みたい。何より、積もった雪を解くか消すような歌意を持たせなければならない。その歌は美葛が真心を込めて詠むことで霊験を現わし、重たい雪に降り籠められた雪世を心身共にここから助け出してくれるのだ。
けどそれってどんな歌? と美葛の中の美葛が首を傾げた。
大いに困ってしまった。そんなにも条件で雁字搦めにされた歌がほいほい詠める訳がない。己の気持ちをそのまま表わしたような、素直で素朴な歌さえまだ一首も詠んだことがないのに。
今も屋敷は軋み続けている。外では真咲と放免たちが喚いている。目の前では正座した雪世が寒さに震えている。それらがいよいよ美葛を追い詰める。
半端な力で事に臨んでしまった――。ふと湧いたそんな思いを、いいや違う、と美葛はすぐさま振り払った。己の弱気を叱った。来る日も来る日も『古今和歌六帖』の中の歌たちに接し続けてきたことを忘れたか。歌をどう詠むかについて、真咲から何度も詳しく教わったことを忘れたか。
例の『水の玉』は真咲だけのものであって美葛の中にはない。それでも、するべきことは変わらないはずだ。時、景、想。それらを強く感じ、深く考え、詞を選んで三十一文字に表わせばいい。考えろ。考えろ。考えろ――。
その時、美葛の膝に、いつの間にか近く寄り添っていた雪世がそっと手を置いた。
「美葛殿」
「諦めないでください、雪世様」
「……ええ。もう諦めません」
美葛ははっとした。とんだ早とちりだった。
真剣な雪世は、その瞳に何か強い思いを湛えているように見えた。初めて微笑んだ。
「私も一緒に考えます。これだけ真剣な姿を前にしていたら、もういいだとか死ぬだとか、言っている己が情けなくなりました。何もかも終わりだなんて諦めないで、私ももう一度、私を生きてみたい。夢中になれるものを見つけたり、誰かと笑ったりしたい」
「雪世様」
そんな心持ちになってもらっただけでも来た甲斐はあった。
天井知らずに高まっていた焦りや不安が、ふっと消え去るのを美葛は感じた。
「ありがとうございます。雪世様。お陰で私、何だか気が楽になりました」
もっと力を抜いて考えてみよう。
こうありたいという己の気持ちと向き合って、飾らない、素直な言葉を選ぼう。
私は真咲じゃない、と美葛の中の美葛が笑い含みに呟いた。彼のする通りにはできない。私にしかできない、私なりの詠み方に出会いたい。
何かに化ける時とまったく同じように、美葛は心を鎮めた。身の内の霊力を高められるだけ高めていく。もうそこまでで良いという所さえ越えて、怖いと思う気持ちを振り捨てて、ひたすらに高めていく。
外からの音は遠ざかり、側にいる雪世の息遣いも消えた。己の手足さえ、どこにあるのか分からなくなった。そのまま際限なく高め続けていくと、まだ踏み出したことのなかった心の中のどこかに、魂がさまよい出て行くような心地がした。
目の前が明るく開けた。
眩暈を覚えるほど大きな桜の木が立っていた。
物心ついたときからそこにありながら、今の今まであるとは知らずにいた。そんな何かにようやく出会えた気分だった。
桜の大樹は、真咲に命を救われたときの、あの満開の桜によく似ていた。近寄るとそうでないような気もした。美葛が知っているすべての桜でありながら、そのどれとも違うような、またとなく立派な桜だった。
美葛は桜の幹に背中を預け、音もなく散る花片を静かな心で眺めた。
舞い散る花片の一枚一枚は、美葛の中の言葉であり、思い出だった。音や匂いや肌触りでもあった。まだ見聞きしたことのない何かや、この世にあろうはずもない何かでさえあった。それら美葛の感じ考え覚えたことと花片であることとが、そこでは何の不思議もなく両立していた。
豊かに膨らんだ花房の中を白い光の筋が閃いて走るように、美葛の中で、事柄と事柄とが結び付いては離れ、離れてはまた別の何かと結び付いた。結び付きの光は輝くたびに新たな花の一輪を咲かせた。咲いては散りゆくことの果てしない連なりが、その満開の桜を満開の桜たらしめていた。
『ゆきがさね』の歌を、美葛は昂ぶりと落ち着きが相半ばする心の中に繰り返した。
時は今。景は一面の雪。想は――、と考えて、その重苦しさに改めて胸が潰れそうになった。
降る雪はこの世を嘆いている。だからすべてを白く覆い隠そうとしている。そう見て取るに至った心の哀しさ寒々しさを、剥き出しの心で強く感じずにはいられなかったからだ。
この哀しみを覆さなければならない。堪えきれないほど辛い今をそれでも堪えて、もう一度前を向く。そんな決意の歌が欲しい。きっとできないことではない。此方の悪事は彼方の吉事。どんな物事も善悪や吉凶の相を併せ備えているものだから。
私だってそうだったじゃないかと美葛は思った。母の死がなければ真咲との出会いはなかった。真咲と出会わなければ憧れの都に辿り着くこともきっとなかった。都にやって来たがために思い煩うことも増えたが、来なければ、人や物との、そして歌との、かけがえのない巡り会いは絶対になかった。
何もかも気持ち次第。あらゆることは捉えよう。
そっと差し出した掌に一片の桜が舞い降りた。
前向きでありたいというひたむきな想が美葛にいくつもの詞を閃かせた。伝えたいことは七七で。そんな真咲の声が耳に蘇り、定められた音の数が詞にしかるべき形を取らせて、たちまち下の句が整った。その中の一語が、庵で嫌というほど学んだ常詞の一つを引き寄せた。元の歌から相応しい詞を持ってきた。初句に置くべき詞を舞い散る花片の中に探して、美葛は雪世の姿を見出した。これは雪世へのはなむけの歌。『君』という詞が、あなた、というくらいの意味で浮かんだ。
結句から逆さに辿るようにして詠み上げたその一首は、心の中の桜の大樹の、とりわけ姿の良い花の一枝のように感じられた。
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