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誦文歌
雪世
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地響きが静まり、材が割れたり軋んだりする嫌な音も止んだ。
気付けば辺りは暗闇だった。ひどく埃っぽい。顰めっ面の美葛は狐火を点した。途端にぎょっとした。梁と思しいかなり太い木が、斜めになって頭上近くまで迫っていたからだ。下敷きになっていれば助からなかったに違いない。柱と壁で囲われて他よりも作りの頑丈な塗籠が、傾いで落ちて来た天井から美葛を守ってくれたらしかった。
母屋だったその場所に茨の気配はもうなかった。妙泉尼の霊符で痛手を負った彼は、腕を振り回して屋敷を打ち壊すことで溜飲を下げたのだろうか。ともあれ掴み殺されなかったことは幸いだった。もしも茨の手にかかっていれば、美葛の細い首など簡単に捩じ折られてしまっていただろう。
外には真咲の気配。美葛は心底ほっとした。茨の見えない拳にあれだけ強く殴り飛ばされたにも関わらず、どうやら無事のようで、放免たちと声高に屋根を退かす算段などしている。禍福はあざなえる縄のごとし。背中から落ちたに違いない彼を受け止めてくれたと思えば、厚く積もった雪も悪いことばかりではないようだと美葛には思えた。
か細い、消え入りそうな泣き声が塗籠の中から聞こえてきた。
美葛はのしかかる梁で僅かに開いた枢戸の隙間に顔を寄せた。
「雪世様、雪世様、ご無事ですか」
ややあって、美葛殿? と奥から応えがあった。
雪世は鼻を啜って起き直り、戸の裏に手をついたらしかった。
「美葛殿、ご無事なようで何よりです。最前まで、茨殿と揉めていらっしゃった様子。……申し訳ありません。私、ここでただ震えておりました」
「雪世様が謝ることなんか一つもありません」
美葛は努めて明るく言い切った。これ以上思い詰めてほしくはなかったからだ。
「そうやって、ご自身を責めたりなさるのは、あんまり良くないと思います」
「……私、貴女と真咲殿に嘘を吐いておりました。止まない雪など知らないと言った。いっそ降り籠められたまま空しくなりたいと、あの方にそう零したのは私なのに」
「会ったんですね、不知也と」
「親身になって、話を聞いてくださいました。私の父に、そうしていたように」
美葛には、その時の様子が目に浮かぶようだった。
どこからともなく現れて、人知れず泣き伏す雪世の肩をそっと抱いてやる不知也。
共に嘆き、共に悲しみ、共に涙を流すくらいのことはしたかもしれない。言葉巧みに雪世の心情を訊き出した彼は、その思いを歌に詠み表わした。
降りしきる 雪は憂き世を 嘆くらし 埋め隠さぬ 方もなければ
まるでこの憂き世を嘆いて白く染めるかのようだ――。降る雪をそのように眺める人の心こそ、この世を深く憂い、また強く厭うている。不知也は雪世に寄り添ってそうした嘆きを共に感じ、終わりを求める彼女の暗い思いが成就するよう手助けをしたのだろう。『ゆきがさね』、――歌を用いた呪術を施すことによって。
美葛は枢戸に両手で触れ、目を閉じて額を押し当てた。
雪世様、と板一枚向こうに呼びかけた。
「そちらへ行ってもよろしいですか? 私も、雪世様と真っ直ぐ向き合ってお話しがしたいです」
「ありがとうございます。……でも、どうか放っておいてください。本当に、もういいのです」
雪世は声を詰まらせながら続けた。
「父は死んでしまった。母はとうの昔におりませんし、きょうだいなど元よりありません。頼りにできそうな身内もありません。残ったのはろくに世間を知らない私が一人だけ。こんなことで、これから先、都で生きていけましょうか」
後の方の言い方には、大いに自嘲の気が混じって聞こえた。
「頼みの放免たちも、どんどん屋敷を離れていきます。今の私には、一人で生きて行かねばならないということだけが、嫌になるほど明らか。それなのに、他所様のお屋敷に勤めてみようという気持ちも、天秤棒を担いで何かしら売り歩いてみようという考えも、ちっとも湧いてこないのです」
親を亡くしたばかりですぐに元気など出るわけはない。そう伝えたいのに、雪世は美葛が口を挟む隙を与えなかった。
「噂に聞く、江口や神崎の遊女と呼ばれる方々の中にも、天涯孤独の身でいらっしゃる方は多いとか。けれど、私には上臈の気韻などありません。見ず知らずの殿方とやり取りをする勇気がそもそもありません。こんな私がもしもなれるとすれば、そんなものがあるとしてですけれど、せいぜい一番格下、下の下の下の遊女という所でしょう。そうでなければ辻の物貰いか、市の菰被りか」
「雪世様……」
美葛は腹を決めた。四の五の言ってはいられない。
急がなければ、雪世はきっと心の傷を腐らせてしまう。
変化を解いて狐に戻った。枢戸の隙間に鼻先を近付けた。
『お叱り覚悟でそちらへ参ります。雪世様、きっと難しいとは思いますけれど、どうか驚かないでくださいね』
雪世の返事を待たずに、美葛は細い身体を塗籠の中へと滑り込ませた。
気付けば辺りは暗闇だった。ひどく埃っぽい。顰めっ面の美葛は狐火を点した。途端にぎょっとした。梁と思しいかなり太い木が、斜めになって頭上近くまで迫っていたからだ。下敷きになっていれば助からなかったに違いない。柱と壁で囲われて他よりも作りの頑丈な塗籠が、傾いで落ちて来た天井から美葛を守ってくれたらしかった。
母屋だったその場所に茨の気配はもうなかった。妙泉尼の霊符で痛手を負った彼は、腕を振り回して屋敷を打ち壊すことで溜飲を下げたのだろうか。ともあれ掴み殺されなかったことは幸いだった。もしも茨の手にかかっていれば、美葛の細い首など簡単に捩じ折られてしまっていただろう。
外には真咲の気配。美葛は心底ほっとした。茨の見えない拳にあれだけ強く殴り飛ばされたにも関わらず、どうやら無事のようで、放免たちと声高に屋根を退かす算段などしている。禍福はあざなえる縄のごとし。背中から落ちたに違いない彼を受け止めてくれたと思えば、厚く積もった雪も悪いことばかりではないようだと美葛には思えた。
か細い、消え入りそうな泣き声が塗籠の中から聞こえてきた。
美葛はのしかかる梁で僅かに開いた枢戸の隙間に顔を寄せた。
「雪世様、雪世様、ご無事ですか」
ややあって、美葛殿? と奥から応えがあった。
雪世は鼻を啜って起き直り、戸の裏に手をついたらしかった。
「美葛殿、ご無事なようで何よりです。最前まで、茨殿と揉めていらっしゃった様子。……申し訳ありません。私、ここでただ震えておりました」
「雪世様が謝ることなんか一つもありません」
美葛は努めて明るく言い切った。これ以上思い詰めてほしくはなかったからだ。
「そうやって、ご自身を責めたりなさるのは、あんまり良くないと思います」
「……私、貴女と真咲殿に嘘を吐いておりました。止まない雪など知らないと言った。いっそ降り籠められたまま空しくなりたいと、あの方にそう零したのは私なのに」
「会ったんですね、不知也と」
「親身になって、話を聞いてくださいました。私の父に、そうしていたように」
美葛には、その時の様子が目に浮かぶようだった。
どこからともなく現れて、人知れず泣き伏す雪世の肩をそっと抱いてやる不知也。
共に嘆き、共に悲しみ、共に涙を流すくらいのことはしたかもしれない。言葉巧みに雪世の心情を訊き出した彼は、その思いを歌に詠み表わした。
降りしきる 雪は憂き世を 嘆くらし 埋め隠さぬ 方もなければ
まるでこの憂き世を嘆いて白く染めるかのようだ――。降る雪をそのように眺める人の心こそ、この世を深く憂い、また強く厭うている。不知也は雪世に寄り添ってそうした嘆きを共に感じ、終わりを求める彼女の暗い思いが成就するよう手助けをしたのだろう。『ゆきがさね』、――歌を用いた呪術を施すことによって。
美葛は枢戸に両手で触れ、目を閉じて額を押し当てた。
雪世様、と板一枚向こうに呼びかけた。
「そちらへ行ってもよろしいですか? 私も、雪世様と真っ直ぐ向き合ってお話しがしたいです」
「ありがとうございます。……でも、どうか放っておいてください。本当に、もういいのです」
雪世は声を詰まらせながら続けた。
「父は死んでしまった。母はとうの昔におりませんし、きょうだいなど元よりありません。頼りにできそうな身内もありません。残ったのはろくに世間を知らない私が一人だけ。こんなことで、これから先、都で生きていけましょうか」
後の方の言い方には、大いに自嘲の気が混じって聞こえた。
「頼みの放免たちも、どんどん屋敷を離れていきます。今の私には、一人で生きて行かねばならないということだけが、嫌になるほど明らか。それなのに、他所様のお屋敷に勤めてみようという気持ちも、天秤棒を担いで何かしら売り歩いてみようという考えも、ちっとも湧いてこないのです」
親を亡くしたばかりですぐに元気など出るわけはない。そう伝えたいのに、雪世は美葛が口を挟む隙を与えなかった。
「噂に聞く、江口や神崎の遊女と呼ばれる方々の中にも、天涯孤独の身でいらっしゃる方は多いとか。けれど、私には上臈の気韻などありません。見ず知らずの殿方とやり取りをする勇気がそもそもありません。こんな私がもしもなれるとすれば、そんなものがあるとしてですけれど、せいぜい一番格下、下の下の下の遊女という所でしょう。そうでなければ辻の物貰いか、市の菰被りか」
「雪世様……」
美葛は腹を決めた。四の五の言ってはいられない。
急がなければ、雪世はきっと心の傷を腐らせてしまう。
変化を解いて狐に戻った。枢戸の隙間に鼻先を近付けた。
『お叱り覚悟でそちらへ参ります。雪世様、きっと難しいとは思いますけれど、どうか驚かないでくださいね』
雪世の返事を待たずに、美葛は細い身体を塗籠の中へと滑り込ませた。
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