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誦文歌
幻惑
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真咲が母屋へ続く戸に手をかけ、神妙な面持ちで目配せをしてきた。
美葛は頷いてみせた。雪世が塗籠から出てきたのではない。放免の誰かが上がり込んだのでもない。ただでさえ陰気だった所に、今は何とも言えない剣呑さが加わって感じられる。ちょうど暗がりに大きな獣でも蹲っているかのように。美葛はこの雰囲気に嫌というほど覚えがあった。
彼がこの雪の呪いにも関わっているかもしれないのなら、ぜひとも解いてくれるよう強く迫らなければならない。
真咲が一息に戸を開けた。その背に続いて美葛も躍り込んだ。
見覚えのある明るい森が広がっていた。
美葛は面食らって立ちすくんだ。山の中だった。
木立を抜けてきた風の清々しい匂いが鼻先を掠めた。
小鳥たちの楽しそうな囀りが耳を擽った。
木々が差し交わす枝葉の向こうに、遥か遠い霞ヶ浦の、何をいくつちりばめたとも知れない黄金色の瞬きが見えた。
疑いようもなかった。常陸国は信太の里。美葛が生まれた社ヶ森だ。
いつの間にか狐の姿に戻っていた美葛は、心がそうせよと命じるままに駆け出した。
雨上がりのぬかるみをひょいひょいと飛び越えながら走りに走る。青竹の林も蓬ヶ原も、今はしんなりと項垂れて見えた。昨日の晩はまるで嵐だった。一夜を春の冷たい雨風に晒され続けた、あの立派な桜のことが気掛かりだった。見頃を前に、花も蕾も引きちぎられてしまってはいないだろうか。早く母さんと仲良く尻尾を並べて眺めたいものだけれど。
そちらへ行ってはだめ、と心のどこかで叫ぶものがあった。
しかし、どうしてもその声に従うことができなかった。
赤毛をなびかせて駆けるうちに、踏みしだかれた下草の道は葉が葉を覆う深い茂みへと変わった。
暗い緑の隧道を抜けた先で己が何を見ることになるのか、美葛はすでに知っていた。
ふいに目の前が明るくなった。倒れた古木が作った、森の中の広っぱに出たのだ。
美葛は足を止めた。
簑を着た年配の猟師が立っていた。こちらに気付いた。彼は右手に血塗れの短刀を、左手に獣の首を掴んでいた。
かなり抗ったらしい狐の身体は腹から下が真っ赤で、左足はまだ括り罠に縛められていた。きつく掴まれた首から今にも転げ落ちそうな頭。半開きの口元からだらりと舌が伸びていた。
母さん。美葛は声にならない叫びを上げた。
気付いた時にはどこへともなく駆け出していた。
まだ癒えない傷に深く爪を立てられるような、鋭い痛みが胸にあった。母の死を間近に見る、そのあまりの辛さにひきつけを起こした心が白目を剥いて泡を吹きそうだった。
草藪は延々と続いた。無我夢中で走る美葛の耳に地鳴りめいた低い声が聞こえた。
『あれは生計を立てる術。狩った男を恨むは筋違いというもの』
蔓延り茂る草木を越えて飛ぶように走る美葛の中で、殷々と後を引くその声は重なり合いながら響いた。
『己を責めても始まらん。死んだ母者を責めても詮無い。ではどうする。幼子から親を奪う、罪なき者をかくも苦しめる、憂わしいこの世を嘆くより他あるまい。そら、もうじきだ。もうじき見えてくるぞ。現世の無情を象るものが』
突如として目の前が開けた。
見上げるほど大きな満開の桜がそこにあった。
よく知っているはずのその桜の木を、美葛は初めて見るもののように眺めた。
『どうだ、この桜の見事さは。こちらの辛さも知らずに、何とまあ美しく咲き誇って』
美葛は言葉もなくただ桜を眺めた。
あるかなしかの風に舞う幾千幾万の花片。
母の死を受けて引き裂かれた心が千々に砕けていく心地。
『泣いてよい。嘆いてよい。そしてすべてを恨めばよい。この世が何ほどのものだと言うのか。例えば一切を無に帰したとて誰が心から悲しもう。叫べ。滅せよと。悉く滅びよと。この定めなき世と共に灰燼と帰すことこそ我らに残された真の救いの道なれば』
桜を見上げる美葛の毛は、いつしか耳から尾の先まで真っ白になってしまっていた。泣いて泣いて泣いて、身も心も疲れ果てていた。目の前に括り罠が仕掛けられていた。
進んで罠にかかった。白い身体を投げ出すように茂みに横たえた。
下草を踏んで誰かが近付いてきた。蹴られた。首を掴み上げられた。
もういい。皮を剥がれてしまってもいい。これでまた母さんに会えるだろう。何しろ同じ罠にかかって死ぬのだから。
命の終わりを感じた美葛は、しかし、心のどこかでその慕わしい声の響きを覚えていた。
そんな子狐まで剥いだんじゃ夢見が悪くないか?
どんな恐ろしい獣の喉から迸ったものとも知れない絶叫が聞こえた。
間髪入れずに板戸の破れる嫌な音が響いた。美葛はようやく我に返った。
薄暗い母屋の真ん中で真咲が尻餅をついていた。彼は喘ぐように肩で息をしていた。
冷や汗混じりの荒い息は美葛も同じだった。胸が痛い。ずっと吸うことも吐くことも忘れていた気がした。
真咲が見つめる先に闇よりも黒い塊があった。朦朧とする頭のどこかで、やはりそうだったのかと美葛は思った。不知也が叔父上と呼ぶ黒衣の薬師、茨が、その大きな身体で蔀戸を突き破って仰け反り倒れているのだった。
立ち上がる真咲と目が合った。平気か、と訊かれた。
「急にへたりこんでがたがた震え出すから、どうしたかと思ったぞ」
「……あれって、真咲がやったの?」
茨を指差した。真咲は頷いた。
「奥に何かいて、こいつは危ないと思ったから、咄嗟に妙泉尼様の御札を叩き付けたらああなった。やっちまったな。もう一枚持ってたりはしないよな?」
茨の幻術を破って、真咲はまた美葛を救ってくれたのだ。
感極まった美葛がその頼もしい背中に抱きつこうとしたときだった。茨が呻いた。
「おのれ……、何という、失態」
烏帽子は傾き、衣は無残に破れ、胸の辺りには例の札と思しいものが半ば焼け焦げて貼り付いていた。
茨がにわかに怒気を膨れ上がらせた。虫を払うにも似た仕種で無造作に袖を振った。途端に真咲の身体が後ろに飛んだ。恐ろしく大きな見えない拳で思い切り殴られたかのようだった。
「真咲!」
蔀戸を背中で突き破っても止まらず、真咲は勢いのままに外へ転がり出て行った。表で放免たちがどよめいた。加減ができん、と忌々しげに茨がぼやいた。
後を追おうとした美葛に茨が腕を伸ばしてきた。ぎりぎりの所で屈んで避けた。二度、三度、四度と美葛を掴み損ねた茨の大きな手は、古いとはいえ頑丈そうな蔀戸を紙のように裂き、虫食いはあっても立派な柱を葦や芒も同然にへし折った。
まずい逃げろ! と外で叫び声が上がった。
雪の重みも手伝って、柱の一部を失った屋根が軋みながら傾き始めた。
中で逃げることに必死な美葛には止める暇も手立てもなかった。
屋敷は耳を覆いたくなるような厭な音を立てて大きく傾ぎ、最後はもうもうと雪煙を上げて地に倒れ伏した。
美葛は頷いてみせた。雪世が塗籠から出てきたのではない。放免の誰かが上がり込んだのでもない。ただでさえ陰気だった所に、今は何とも言えない剣呑さが加わって感じられる。ちょうど暗がりに大きな獣でも蹲っているかのように。美葛はこの雰囲気に嫌というほど覚えがあった。
彼がこの雪の呪いにも関わっているかもしれないのなら、ぜひとも解いてくれるよう強く迫らなければならない。
真咲が一息に戸を開けた。その背に続いて美葛も躍り込んだ。
見覚えのある明るい森が広がっていた。
美葛は面食らって立ちすくんだ。山の中だった。
木立を抜けてきた風の清々しい匂いが鼻先を掠めた。
小鳥たちの楽しそうな囀りが耳を擽った。
木々が差し交わす枝葉の向こうに、遥か遠い霞ヶ浦の、何をいくつちりばめたとも知れない黄金色の瞬きが見えた。
疑いようもなかった。常陸国は信太の里。美葛が生まれた社ヶ森だ。
いつの間にか狐の姿に戻っていた美葛は、心がそうせよと命じるままに駆け出した。
雨上がりのぬかるみをひょいひょいと飛び越えながら走りに走る。青竹の林も蓬ヶ原も、今はしんなりと項垂れて見えた。昨日の晩はまるで嵐だった。一夜を春の冷たい雨風に晒され続けた、あの立派な桜のことが気掛かりだった。見頃を前に、花も蕾も引きちぎられてしまってはいないだろうか。早く母さんと仲良く尻尾を並べて眺めたいものだけれど。
そちらへ行ってはだめ、と心のどこかで叫ぶものがあった。
しかし、どうしてもその声に従うことができなかった。
赤毛をなびかせて駆けるうちに、踏みしだかれた下草の道は葉が葉を覆う深い茂みへと変わった。
暗い緑の隧道を抜けた先で己が何を見ることになるのか、美葛はすでに知っていた。
ふいに目の前が明るくなった。倒れた古木が作った、森の中の広っぱに出たのだ。
美葛は足を止めた。
簑を着た年配の猟師が立っていた。こちらに気付いた。彼は右手に血塗れの短刀を、左手に獣の首を掴んでいた。
かなり抗ったらしい狐の身体は腹から下が真っ赤で、左足はまだ括り罠に縛められていた。きつく掴まれた首から今にも転げ落ちそうな頭。半開きの口元からだらりと舌が伸びていた。
母さん。美葛は声にならない叫びを上げた。
気付いた時にはどこへともなく駆け出していた。
まだ癒えない傷に深く爪を立てられるような、鋭い痛みが胸にあった。母の死を間近に見る、そのあまりの辛さにひきつけを起こした心が白目を剥いて泡を吹きそうだった。
草藪は延々と続いた。無我夢中で走る美葛の耳に地鳴りめいた低い声が聞こえた。
『あれは生計を立てる術。狩った男を恨むは筋違いというもの』
蔓延り茂る草木を越えて飛ぶように走る美葛の中で、殷々と後を引くその声は重なり合いながら響いた。
『己を責めても始まらん。死んだ母者を責めても詮無い。ではどうする。幼子から親を奪う、罪なき者をかくも苦しめる、憂わしいこの世を嘆くより他あるまい。そら、もうじきだ。もうじき見えてくるぞ。現世の無情を象るものが』
突如として目の前が開けた。
見上げるほど大きな満開の桜がそこにあった。
よく知っているはずのその桜の木を、美葛は初めて見るもののように眺めた。
『どうだ、この桜の見事さは。こちらの辛さも知らずに、何とまあ美しく咲き誇って』
美葛は言葉もなくただ桜を眺めた。
あるかなしかの風に舞う幾千幾万の花片。
母の死を受けて引き裂かれた心が千々に砕けていく心地。
『泣いてよい。嘆いてよい。そしてすべてを恨めばよい。この世が何ほどのものだと言うのか。例えば一切を無に帰したとて誰が心から悲しもう。叫べ。滅せよと。悉く滅びよと。この定めなき世と共に灰燼と帰すことこそ我らに残された真の救いの道なれば』
桜を見上げる美葛の毛は、いつしか耳から尾の先まで真っ白になってしまっていた。泣いて泣いて泣いて、身も心も疲れ果てていた。目の前に括り罠が仕掛けられていた。
進んで罠にかかった。白い身体を投げ出すように茂みに横たえた。
下草を踏んで誰かが近付いてきた。蹴られた。首を掴み上げられた。
もういい。皮を剥がれてしまってもいい。これでまた母さんに会えるだろう。何しろ同じ罠にかかって死ぬのだから。
命の終わりを感じた美葛は、しかし、心のどこかでその慕わしい声の響きを覚えていた。
そんな子狐まで剥いだんじゃ夢見が悪くないか?
どんな恐ろしい獣の喉から迸ったものとも知れない絶叫が聞こえた。
間髪入れずに板戸の破れる嫌な音が響いた。美葛はようやく我に返った。
薄暗い母屋の真ん中で真咲が尻餅をついていた。彼は喘ぐように肩で息をしていた。
冷や汗混じりの荒い息は美葛も同じだった。胸が痛い。ずっと吸うことも吐くことも忘れていた気がした。
真咲が見つめる先に闇よりも黒い塊があった。朦朧とする頭のどこかで、やはりそうだったのかと美葛は思った。不知也が叔父上と呼ぶ黒衣の薬師、茨が、その大きな身体で蔀戸を突き破って仰け反り倒れているのだった。
立ち上がる真咲と目が合った。平気か、と訊かれた。
「急にへたりこんでがたがた震え出すから、どうしたかと思ったぞ」
「……あれって、真咲がやったの?」
茨を指差した。真咲は頷いた。
「奥に何かいて、こいつは危ないと思ったから、咄嗟に妙泉尼様の御札を叩き付けたらああなった。やっちまったな。もう一枚持ってたりはしないよな?」
茨の幻術を破って、真咲はまた美葛を救ってくれたのだ。
感極まった美葛がその頼もしい背中に抱きつこうとしたときだった。茨が呻いた。
「おのれ……、何という、失態」
烏帽子は傾き、衣は無残に破れ、胸の辺りには例の札と思しいものが半ば焼け焦げて貼り付いていた。
茨がにわかに怒気を膨れ上がらせた。虫を払うにも似た仕種で無造作に袖を振った。途端に真咲の身体が後ろに飛んだ。恐ろしく大きな見えない拳で思い切り殴られたかのようだった。
「真咲!」
蔀戸を背中で突き破っても止まらず、真咲は勢いのままに外へ転がり出て行った。表で放免たちがどよめいた。加減ができん、と忌々しげに茨がぼやいた。
後を追おうとした美葛に茨が腕を伸ばしてきた。ぎりぎりの所で屈んで避けた。二度、三度、四度と美葛を掴み損ねた茨の大きな手は、古いとはいえ頑丈そうな蔀戸を紙のように裂き、虫食いはあっても立派な柱を葦や芒も同然にへし折った。
まずい逃げろ! と外で叫び声が上がった。
雪の重みも手伝って、柱の一部を失った屋根が軋みながら傾き始めた。
中で逃げることに必死な美葛には止める暇も手立てもなかった。
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