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誦文歌
白狐
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河内家の止まない雪の一件から五日が過ぎた。
慣れない真似をしてくたくたになり、初めの二日は人に化けることさえままならなかった美葛も、今ではすっかり元気を取り戻していた。寝てばかりいてなまった身体を、庭で働く男たちに混じって動かしたいくらいだった。
妙泉尼の庵の庭には今、昼の市町もかくやと思われるほど大勢の人が詰めかけていた。
片肌脱いだ者がいる。諸肌脱いだ者もいる。とかくその逞しい身体を見せがちな男たちが額に汗して働いている。鑿と槌でほぞを穿ったり、畑でも耕すように繰り返し手斧を振り下ろしたり、幾人かで声を合わせて重たい棟木を持ち上げたりと、実に賑やかで忙しない。
夜明けと共に始まった雪世の新しい住まいの造作は、前の日に材を運び入れていたこともあってか、たいへん首尾よく進んで見えた。美葛には耳慣れない節回しで鼻唄を歌う髭の匠たちも、白木の杖を携えた狩衣姿の棟梁も、誰も彼も、春らしい日差しの下で気持ち良さそうに腕を振るっている。
ただ一点、安倍家の式と思しい、人ならざるものの気配もいくつか混じっていることが、美葛には気になると言えば気になったが。
「本当に、私、妙泉尼様には何と御礼を申し上げればいいか分かりません」
濡縁に座って匠たちの働きぶりを眺めるともなく眺めながら、雪世は恐縮しきりだった。妙泉尼がいる奥の間を肩越しに振り返り、手を合わせて頭を下げた。似たような思いの美葛も苦笑いで応えた。
「妙泉尼様って本当、太っ腹っていうか、無頓着っていうか……。びっくりしましたよね。『この庭に屋敷を構えればいい』だなんて」
大雪と茨のせいでひしゃげた上、美葛の力で草木が生え放題に生えてしまった土地と屋敷を、思い切って手放す。そう決断した雪世に対して、ならばと妙泉尼が庭の隅を譲ってくれたのだ。振るったことをするものだと美葛は関心しきりだった。
いやそれにしても、と隣に座る真咲が同情たっぷりに首を振った。
「お辛かったでしょう。生まれ育った屋敷を手放してしまうのは」
「辛くなかったといえば嘘になります。ただ、これはいつか父も話していた事ですけれど、そもそも身の丈に合わない持ち物でしたし、私一人にはあんまり広すぎて」
雪世の微笑みは、切なくはあっても朗らかだった。
「きっとこれで良かったのです。何だかさっぱりいたしました。それに、できあがったらお二人と一緒に住めるのだと思うと、今からとても楽しみです」
「縁の下に私の寝床を拵えてくださるんですよね」
「いえ、その、縁の下はちょっと……。できれば美葛殿は私と同じ一間で……」
「住まわせてもらうんだから、わがままを言うなよ美葛」
今は妙泉尼の庵で起き伏しする美葛と真咲も、屋敷が建ち次第、そちらへ移ることになっているのだった。まったくありがたいことだと美葛はつくづく思う。
「妙泉尼様もそうだけど、安倍家の皆様もすごいよね。人を集めるのから何から、ぜんぶ引き受けてくださって」
「まったくだ。俺たちのことも勘定に入れて、少し広めに建ててくださるというんだからな」
「おやおや。いいんですか、そんなふうに浮かれていて」
屋敷の陰からひょいと半眼の顔を覗かせたのは、遣いに出ていたもゆらだった。
「不知也と名乗る例の鬼は朝敵と定められました」
妙泉尼の居間に会した一同の前で、もゆらがきっぱりと言い放った。
「安倍家からの直奏を御上が容れたかたちです。いずれ、鎮護国家、悪鬼調伏の祈祷が執り行われて、彼とその一味は滅ぼされることになるでしょう。あの酒呑童子と同じように」
美葛は思わず安堵の溜息を漏らした。この上もなく心強い味方を得た気分だった。あの日、一時の昂りに任せて鬼の若君を向こうに回したことを、彼女は眠れないほど悔やみ、三日経っても恐ろしがっていたのだ。暗がりが怖かったし夢見も悪かった。それもきっと今日で終わりだろう。
もゆらが、ただし、と付け加えた。
「儀式が執り行われるのは、どんなに早くても神無月のこと。何しろ安倍家の忌明けを待たなければなりませんからね」
「じゃあそれまでは……」
言いかけた美葛を、もゆらが手の平で制した。
「先にもう一つお伝えしておきます。安倍家の当主、吉平様から、美葛殿へお言葉をお預かりしてきたのです」
「え……! わ、私に? 直々に?」
おおお、と真咲が隣で早くも感嘆の声を漏らした。
もゆらは懐から畳んだ料紙を取り出し、慣れた手つきでさっと広げた。
何か芳しい香りまで漂わせているその文には、直に会うことのできない非礼を詫びる挨拶がまずあって、次いで雪世の一件を見事に収め、もって都の脅威を退けたことに対する謝辞が記されていた。
「『世に並びなき霊力無尽の白狐、美葛殿の類稀なる神通力に、今後ともお縋りしたいと願う所存』、とまあそんなふうに結んであります」
「……よ、ようするに?」
「『こちらが忌籠りをしている間、もしまた不知也が何かするようなら、そのときもぜひ何とかして事を収めてくれ』ですね」
青褪めた美葛の頭の中を『丸投げ』という言葉がよぎった。
至れり尽くせりな待遇の裏を知った気分で、素直に喜べなくなってしまった。
庵を出て少し歩き、美葛と真咲は六角堂の前までやってきた。
互いにそうしようと言うでもなく、当たり前のように門前に腰を下ろした。
「美葛、安倍家を訪ねるときは俺も一緒に行くからな」
「だから、行くなんて言ってないってば」
美葛は唇を尖らせてそっぽを向いた。
恐ろしい鬼たちの相手など金輪際したくない。煽てられようと囃されようと、自ら進んで命を捨てるような真似ができるはずはない。
「それとも真咲は、私が鬼に食べられてもいいって言うの?」
「まさか」
真咲は浮かれた調子を引っ込めて、歌のことを語るときと同じ真剣な顔をした。
「安倍吉平様が望んでいらっしゃるのは、美葛に、鬼の方には付かずに人の方に付いていてほしいってことだと思うぞ、俺は」
「付く? 味方するってこと?」
「ああ。今回これだけの力を見せた美葛が、もしも不知也たち鬼の側に付いてしまったらと、きっと安倍家は気にしてる。家の名が、素直にそうは言わせないんだろうけどな」
「……真咲は?」
「うん?」
「真咲は、私に、どっちに付いてほしい?」
「そりゃあもちろん」
言いかけて、真咲は口を噤んだ。
よくよく考えてみた様子で、たっぷり間を置いて言った。
「『雪世様は渡さない』だったか、あの時、不知也を向こうに回した美葛を見て、俺は、何ていうかこう、綺麗だなあと思った」
「え、ええ?」
たちまち耳の先まで真っ赤になった美葛に、真咲はなおも続ける。
「怖かっただろうに、美葛はそれでも立ち向かったわけだろう。ああいうのを俺は、綺麗だと思う。綺麗なものはいい。人だからとか、鬼だからとか、狐だからとか、そういう垣根をひょいと越えたもんがある。何が言いたいか分かるか」
「ええと……、よく分からない」
「だよな。俺もだ」
真咲は白い歯を見せて笑った。
いいだけ笑った後で一つ咳払いをすると、いつになく真面目な顔をした。
「鬼の側に付いた美葛なんて、とてもじゃないが思い浮かばない。今のまま、これからも、俺と一緒にいてほしい」
飛び跳ねて喜びたいのをどうにか堪えて、そうだね、と美葛は笑った。
「真咲には、歌のことをたくさん教わらないといけないし」
「そうだった。すっかり忘れてた」
きつく眉を寄せた真咲が鼻息も荒く立ち上がった。庵の方へと歩き出した。
「戻って、美葛が詠んだあの歌のおさらいをしよう。言いたいことがたくさんあるんだった。まず初句の『君が世に』からして俺は納得いかない。詠んだ美葛の気持ちはどうあれ、あんなんじゃ聞いた側は帝の世をお祝い申し上げる歌かと思うぞ。あと結句の『花吹雪なり』。あんなに強く言い切る歌があっていいもんか、妙泉尼様のお考えも伺わないと。美葛の歌は型破りすぎる」
「あ、あの……、真咲? お手柔らかにね?」
引きつり笑いを浮かべた美葛は慌てて真咲の後を追いかけた。
都の春を言祝ぐように、雲の切れ間から柔らかな日の光が差してきた。 了
慣れない真似をしてくたくたになり、初めの二日は人に化けることさえままならなかった美葛も、今ではすっかり元気を取り戻していた。寝てばかりいてなまった身体を、庭で働く男たちに混じって動かしたいくらいだった。
妙泉尼の庵の庭には今、昼の市町もかくやと思われるほど大勢の人が詰めかけていた。
片肌脱いだ者がいる。諸肌脱いだ者もいる。とかくその逞しい身体を見せがちな男たちが額に汗して働いている。鑿と槌でほぞを穿ったり、畑でも耕すように繰り返し手斧を振り下ろしたり、幾人かで声を合わせて重たい棟木を持ち上げたりと、実に賑やかで忙しない。
夜明けと共に始まった雪世の新しい住まいの造作は、前の日に材を運び入れていたこともあってか、たいへん首尾よく進んで見えた。美葛には耳慣れない節回しで鼻唄を歌う髭の匠たちも、白木の杖を携えた狩衣姿の棟梁も、誰も彼も、春らしい日差しの下で気持ち良さそうに腕を振るっている。
ただ一点、安倍家の式と思しい、人ならざるものの気配もいくつか混じっていることが、美葛には気になると言えば気になったが。
「本当に、私、妙泉尼様には何と御礼を申し上げればいいか分かりません」
濡縁に座って匠たちの働きぶりを眺めるともなく眺めながら、雪世は恐縮しきりだった。妙泉尼がいる奥の間を肩越しに振り返り、手を合わせて頭を下げた。似たような思いの美葛も苦笑いで応えた。
「妙泉尼様って本当、太っ腹っていうか、無頓着っていうか……。びっくりしましたよね。『この庭に屋敷を構えればいい』だなんて」
大雪と茨のせいでひしゃげた上、美葛の力で草木が生え放題に生えてしまった土地と屋敷を、思い切って手放す。そう決断した雪世に対して、ならばと妙泉尼が庭の隅を譲ってくれたのだ。振るったことをするものだと美葛は関心しきりだった。
いやそれにしても、と隣に座る真咲が同情たっぷりに首を振った。
「お辛かったでしょう。生まれ育った屋敷を手放してしまうのは」
「辛くなかったといえば嘘になります。ただ、これはいつか父も話していた事ですけれど、そもそも身の丈に合わない持ち物でしたし、私一人にはあんまり広すぎて」
雪世の微笑みは、切なくはあっても朗らかだった。
「きっとこれで良かったのです。何だかさっぱりいたしました。それに、できあがったらお二人と一緒に住めるのだと思うと、今からとても楽しみです」
「縁の下に私の寝床を拵えてくださるんですよね」
「いえ、その、縁の下はちょっと……。できれば美葛殿は私と同じ一間で……」
「住まわせてもらうんだから、わがままを言うなよ美葛」
今は妙泉尼の庵で起き伏しする美葛と真咲も、屋敷が建ち次第、そちらへ移ることになっているのだった。まったくありがたいことだと美葛はつくづく思う。
「妙泉尼様もそうだけど、安倍家の皆様もすごいよね。人を集めるのから何から、ぜんぶ引き受けてくださって」
「まったくだ。俺たちのことも勘定に入れて、少し広めに建ててくださるというんだからな」
「おやおや。いいんですか、そんなふうに浮かれていて」
屋敷の陰からひょいと半眼の顔を覗かせたのは、遣いに出ていたもゆらだった。
「不知也と名乗る例の鬼は朝敵と定められました」
妙泉尼の居間に会した一同の前で、もゆらがきっぱりと言い放った。
「安倍家からの直奏を御上が容れたかたちです。いずれ、鎮護国家、悪鬼調伏の祈祷が執り行われて、彼とその一味は滅ぼされることになるでしょう。あの酒呑童子と同じように」
美葛は思わず安堵の溜息を漏らした。この上もなく心強い味方を得た気分だった。あの日、一時の昂りに任せて鬼の若君を向こうに回したことを、彼女は眠れないほど悔やみ、三日経っても恐ろしがっていたのだ。暗がりが怖かったし夢見も悪かった。それもきっと今日で終わりだろう。
もゆらが、ただし、と付け加えた。
「儀式が執り行われるのは、どんなに早くても神無月のこと。何しろ安倍家の忌明けを待たなければなりませんからね」
「じゃあそれまでは……」
言いかけた美葛を、もゆらが手の平で制した。
「先にもう一つお伝えしておきます。安倍家の当主、吉平様から、美葛殿へお言葉をお預かりしてきたのです」
「え……! わ、私に? 直々に?」
おおお、と真咲が隣で早くも感嘆の声を漏らした。
もゆらは懐から畳んだ料紙を取り出し、慣れた手つきでさっと広げた。
何か芳しい香りまで漂わせているその文には、直に会うことのできない非礼を詫びる挨拶がまずあって、次いで雪世の一件を見事に収め、もって都の脅威を退けたことに対する謝辞が記されていた。
「『世に並びなき霊力無尽の白狐、美葛殿の類稀なる神通力に、今後ともお縋りしたいと願う所存』、とまあそんなふうに結んであります」
「……よ、ようするに?」
「『こちらが忌籠りをしている間、もしまた不知也が何かするようなら、そのときもぜひ何とかして事を収めてくれ』ですね」
青褪めた美葛の頭の中を『丸投げ』という言葉がよぎった。
至れり尽くせりな待遇の裏を知った気分で、素直に喜べなくなってしまった。
庵を出て少し歩き、美葛と真咲は六角堂の前までやってきた。
互いにそうしようと言うでもなく、当たり前のように門前に腰を下ろした。
「美葛、安倍家を訪ねるときは俺も一緒に行くからな」
「だから、行くなんて言ってないってば」
美葛は唇を尖らせてそっぽを向いた。
恐ろしい鬼たちの相手など金輪際したくない。煽てられようと囃されようと、自ら進んで命を捨てるような真似ができるはずはない。
「それとも真咲は、私が鬼に食べられてもいいって言うの?」
「まさか」
真咲は浮かれた調子を引っ込めて、歌のことを語るときと同じ真剣な顔をした。
「安倍吉平様が望んでいらっしゃるのは、美葛に、鬼の方には付かずに人の方に付いていてほしいってことだと思うぞ、俺は」
「付く? 味方するってこと?」
「ああ。今回これだけの力を見せた美葛が、もしも不知也たち鬼の側に付いてしまったらと、きっと安倍家は気にしてる。家の名が、素直にそうは言わせないんだろうけどな」
「……真咲は?」
「うん?」
「真咲は、私に、どっちに付いてほしい?」
「そりゃあもちろん」
言いかけて、真咲は口を噤んだ。
よくよく考えてみた様子で、たっぷり間を置いて言った。
「『雪世様は渡さない』だったか、あの時、不知也を向こうに回した美葛を見て、俺は、何ていうかこう、綺麗だなあと思った」
「え、ええ?」
たちまち耳の先まで真っ赤になった美葛に、真咲はなおも続ける。
「怖かっただろうに、美葛はそれでも立ち向かったわけだろう。ああいうのを俺は、綺麗だと思う。綺麗なものはいい。人だからとか、鬼だからとか、狐だからとか、そういう垣根をひょいと越えたもんがある。何が言いたいか分かるか」
「ええと……、よく分からない」
「だよな。俺もだ」
真咲は白い歯を見せて笑った。
いいだけ笑った後で一つ咳払いをすると、いつになく真面目な顔をした。
「鬼の側に付いた美葛なんて、とてもじゃないが思い浮かばない。今のまま、これからも、俺と一緒にいてほしい」
飛び跳ねて喜びたいのをどうにか堪えて、そうだね、と美葛は笑った。
「真咲には、歌のことをたくさん教わらないといけないし」
「そうだった。すっかり忘れてた」
きつく眉を寄せた真咲が鼻息も荒く立ち上がった。庵の方へと歩き出した。
「戻って、美葛が詠んだあの歌のおさらいをしよう。言いたいことがたくさんあるんだった。まず初句の『君が世に』からして俺は納得いかない。詠んだ美葛の気持ちはどうあれ、あんなんじゃ聞いた側は帝の世をお祝い申し上げる歌かと思うぞ。あと結句の『花吹雪なり』。あんなに強く言い切る歌があっていいもんか、妙泉尼様のお考えも伺わないと。美葛の歌は型破りすぎる」
「あ、あの……、真咲? お手柔らかにね?」
引きつり笑いを浮かべた美葛は慌てて真咲の後を追いかけた。
都の春を言祝ぐように、雲の切れ間から柔らかな日の光が差してきた。 了
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