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CASE3:戸村千景
6:代理母
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母は昔から体が弱かった。
私は、よく熱を出しては寝込む母を見て育った。
父は仕事ばかりで家庭を顧みない人で、物心がつく頃には母の看病と家事は私の仕事になっていた。
私は母のために洗濯機の使い方を覚え、炊飯器の使い方を覚え、不器用なりに家事を頑張った。
休日、どこかに遊びに連れて行ってもらった記憶はない。
けれど、それ自体は別に嫌じゃなかった。周りには偉いねと褒められたし、何よりも母がありがとうと言って抱きしめてくれたから。
私は母が大好きだった。だからいろんなものを犠牲にしても平気だった。母が笑ってくれるなら、それでよかった。母がいれば、他には何もいらなかった。
でも母は違ったらしい。
私が6歳の時、母は妹を身籠った。
体の弱い母が、年々弱っていく母が、もう一度子どもを産もうとしている。私は嫌な予感がした。
それは周囲も同じだったようで、母方の親族は皆、出産に反対した。当然、私も反対した。
けれど母も、そして普段はあまり関わることがない父も産むことを選択した。
結果、母は死んだ。
妹を産み落として4日後のことだった。
それからのことはよく覚えていない。
葬儀の席で母方の親族に『だから言ったじゃないか』と罵られた父は、『これは妻の選択だ。俺は妻の意思を尊重しただけだ』と喧嘩腰に言い返していた。
そして最後には『俺一人の力で二人の娘を立派に育てて見せる』と宣言した。
これをキッカケに父と母方の親族は絶縁。私は産まれたばかりの妹を抱きながら、頼れる大人が居なくなっていく様子をただ呆然と眺めていた。
『これからはお前がお母さんの代わりだ。お姉ちゃんなんだから、そのくらいできるよな』
四十九日が明け、妹のおしめを変える私に父は言った。
代わりって何だろう。私の母は、あの穏やかに微笑む優しい母しかいない。代わりなんていない。まして、当時まだ7歳の誕生日を迎えたばかりの私に母の代わりなどできるはずもない。そう思った。
でも言えなかった。子ども心にわかっていたのだ。この人に捨てられたら自分は生きていけない、と。
私はそれまでまともに話したこともなかった父の言う通り、戸村家の母親となった。
母の死から半年後、父は妹の保育園が決まるとすぐに仕事に復帰した。
今までと何一つ変わらず、仕事最優先の生活を送った。
私は父方の祖母の手を借りながら、学校と家を往復するだけの生活を送った。
家事をして、祖母がいない時はたまに赤子の世話をするだけの毎日。
それは以前とさほど変わらない生活だった。
けれど、母がいないだけでこんなにも違う。
どれだけ頑張っても祖母も父も、褒めてくれない。抱きしめてくれない。
彼らが大切にするのは、彼らが抱きしめるのは、母を殺して産まれた小さな生き物だけ。
ーーーこいつ、死ねばいいのに
次第にそう思う瞬間が増えていった。
いけないとわかっているのに無垢な笑顔が、弱々しい鳴き声が私の心を乱す。
私は心の奥底から沸々と湧き出てくる黒い感情を必死に押し殺し、私は今までと変わらぬ日常を送った。
妹は、小学生になる頃には要領の良い子どもに成長していた。
父と祖母に甘やかされて育ったせいだろう。彼女は誰に媚び、どのように振る舞えば自分の要求が通るのかをよく理解していた。
欲しいものがあれば祖母におねだりし、気に入らないことがあれば父に泣きつき、そして
機嫌が悪い時は私に辛くあたった。
私は母の代わりに、妹を躾けようと努力した。けれど妹は私の話など一切聞き入れず、挙句私に暴言を吐いた。
きっと父の態度が原因だろう。母の代わりをしろと言うくせに、躾のためと母の代わりに妹を叱ると『子どものくせに偉そうにするな』と怒っていたから。
当時、家庭の中で尊重されない私のことを、妹はただの家政婦と認識していたに違いない。
私は家庭内カーストの中で最下位の位置にいた。
近所の人は皆、私が妹の世話をする姿を見て『歳の離れた妹が可愛くて仕方がないんだね』と言った。
周りには、私が好き好んで彼女の世話を焼いていると思われていたのだ。もしかすると父がそう吹聴していたのかもしれない。
当時、私の心に気付いてくれる人は一人もいなかった。
妹なんて可愛くない。可愛いと思ったことなんてただの一度もない。むしろ、死ねばいいってずっと思ってる。
本当は褒められるたびに、そう反論したかった。
でも妹は母が残した宝物らしいから、私はこの負の感情を内にしまうしかなかった。必死に笑顔を取り繕い、心を隠して我慢に我慢を重ねた。
そんな私に転機が訪れたのは16歳の春だった。
その日は妹の遠足の日で、私は朝から妹のお弁当を用意した。前日から唐揚げを漬け込み、味玉子を仕込み、可愛いピックも用意して、早起きをしてお弁当を作った。
確かに自分の分のついでだったけど、それでもいつもより数倍は豪華なお弁当を作った。
けれど、遠足から帰宅した妹は怒りながら私に空のお弁当を投げつけた。
『どうしてこんな地味なお弁当を作ったの!?みんなのお弁当は華やかで可愛かったのに!!私、すごく恥ずかしかったんだから!』
鬼の形相で怒り狂う妹。祖母は妹を抱きしめ、可哀想にと慰めた。父は呆れたようにため息をこぼし、
『遠足の日くらいちゃんとしたお弁当を作ってやれよ。別にキャラ弁を作れと言ってるわけじゃないんだから』
と言った。その瞬間、私はハッキリと心が折れる音を聞いた。
妹に悪意はない。これは子どもらしいワガママで、次の日になればまた、あざとく上目遣いをして『昨日はごめんね、お姉ちゃん』とか言ってくるんだ。
わかってる。妹はまだ子どもだもの。仕方がない。わかってる。わかってるけど……
でもふと、思ってしまった。
私はその、子どもらしいワガママさえ言わせてもらえなかったのにって。
私はその日から今まで担っていた家事を放棄した。アルバイトを探し、部活にも入り、家にいる時間を減らした。
当然、家の中は回らなくなった。父は私を怒鳴りつけ、時には殴った。
私はそんな父を睨みつけて言ってやった。
『私はこの家の家政婦じゃない。妹の母親でもない。家事なら親であるお前がすればいい。できないなら妹にさせればいい。私は9歳の時には完璧に家事をこなしていたわ』
初めての反抗だった。父は私の反抗にただ唖然としていた。
その時思った。ああ、この人は本気で私の苦労に気づいていなかったんだと。
私は自分の意思で家庭を支えているのだと、私が家事をするのは家族で助け合っているだけだと、そう思っていたのだ。
私は言われたからやっていただけに過ぎないのに。
父にはすまなかったと謝られた。
けれど私の折れた心は元には戻らなかった。
以降、父は自分で家事をし始めた。妹は不器用な父の不器用なご飯を文句も言わずに食べた。
私が作ったものには散々文句を言っていたくせに。
『お姉ちゃんさぁ、ちゃんとお手伝いしなよ。お父さんがかわいそう』
高ニの冬、妹が言った。漫画を描く私に妹は仁王立ちで、偉そうな態度で言ってきた。
その頃には妹も家事を手伝っていたから、自分だけがお手伝いをしている状況に苛立っていたのだろう。
だから私はそんな妹に言ってやった。お手伝い程度で威張るな、と。
当然、姉妹喧嘩が勃発した。妹は私を口汚く罵った。私も、吐いてはならない言葉をたくさん吐いた。
子ども相手に大人気ないとわかっていた。でも、もう全部がどうでも良かった。
あの日を境に、私は妹と一言を口を聞かなくなった。
その後、高校生活を大いに満喫した私は卒業後、バイトで貯めたお金を使って家を出た。
それからずっと、妹を含めて家族には会っていない。
私は、よく熱を出しては寝込む母を見て育った。
父は仕事ばかりで家庭を顧みない人で、物心がつく頃には母の看病と家事は私の仕事になっていた。
私は母のために洗濯機の使い方を覚え、炊飯器の使い方を覚え、不器用なりに家事を頑張った。
休日、どこかに遊びに連れて行ってもらった記憶はない。
けれど、それ自体は別に嫌じゃなかった。周りには偉いねと褒められたし、何よりも母がありがとうと言って抱きしめてくれたから。
私は母が大好きだった。だからいろんなものを犠牲にしても平気だった。母が笑ってくれるなら、それでよかった。母がいれば、他には何もいらなかった。
でも母は違ったらしい。
私が6歳の時、母は妹を身籠った。
体の弱い母が、年々弱っていく母が、もう一度子どもを産もうとしている。私は嫌な予感がした。
それは周囲も同じだったようで、母方の親族は皆、出産に反対した。当然、私も反対した。
けれど母も、そして普段はあまり関わることがない父も産むことを選択した。
結果、母は死んだ。
妹を産み落として4日後のことだった。
それからのことはよく覚えていない。
葬儀の席で母方の親族に『だから言ったじゃないか』と罵られた父は、『これは妻の選択だ。俺は妻の意思を尊重しただけだ』と喧嘩腰に言い返していた。
そして最後には『俺一人の力で二人の娘を立派に育てて見せる』と宣言した。
これをキッカケに父と母方の親族は絶縁。私は産まれたばかりの妹を抱きながら、頼れる大人が居なくなっていく様子をただ呆然と眺めていた。
『これからはお前がお母さんの代わりだ。お姉ちゃんなんだから、そのくらいできるよな』
四十九日が明け、妹のおしめを変える私に父は言った。
代わりって何だろう。私の母は、あの穏やかに微笑む優しい母しかいない。代わりなんていない。まして、当時まだ7歳の誕生日を迎えたばかりの私に母の代わりなどできるはずもない。そう思った。
でも言えなかった。子ども心にわかっていたのだ。この人に捨てられたら自分は生きていけない、と。
私はそれまでまともに話したこともなかった父の言う通り、戸村家の母親となった。
母の死から半年後、父は妹の保育園が決まるとすぐに仕事に復帰した。
今までと何一つ変わらず、仕事最優先の生活を送った。
私は父方の祖母の手を借りながら、学校と家を往復するだけの生活を送った。
家事をして、祖母がいない時はたまに赤子の世話をするだけの毎日。
それは以前とさほど変わらない生活だった。
けれど、母がいないだけでこんなにも違う。
どれだけ頑張っても祖母も父も、褒めてくれない。抱きしめてくれない。
彼らが大切にするのは、彼らが抱きしめるのは、母を殺して産まれた小さな生き物だけ。
ーーーこいつ、死ねばいいのに
次第にそう思う瞬間が増えていった。
いけないとわかっているのに無垢な笑顔が、弱々しい鳴き声が私の心を乱す。
私は心の奥底から沸々と湧き出てくる黒い感情を必死に押し殺し、私は今までと変わらぬ日常を送った。
妹は、小学生になる頃には要領の良い子どもに成長していた。
父と祖母に甘やかされて育ったせいだろう。彼女は誰に媚び、どのように振る舞えば自分の要求が通るのかをよく理解していた。
欲しいものがあれば祖母におねだりし、気に入らないことがあれば父に泣きつき、そして
機嫌が悪い時は私に辛くあたった。
私は母の代わりに、妹を躾けようと努力した。けれど妹は私の話など一切聞き入れず、挙句私に暴言を吐いた。
きっと父の態度が原因だろう。母の代わりをしろと言うくせに、躾のためと母の代わりに妹を叱ると『子どものくせに偉そうにするな』と怒っていたから。
当時、家庭の中で尊重されない私のことを、妹はただの家政婦と認識していたに違いない。
私は家庭内カーストの中で最下位の位置にいた。
近所の人は皆、私が妹の世話をする姿を見て『歳の離れた妹が可愛くて仕方がないんだね』と言った。
周りには、私が好き好んで彼女の世話を焼いていると思われていたのだ。もしかすると父がそう吹聴していたのかもしれない。
当時、私の心に気付いてくれる人は一人もいなかった。
妹なんて可愛くない。可愛いと思ったことなんてただの一度もない。むしろ、死ねばいいってずっと思ってる。
本当は褒められるたびに、そう反論したかった。
でも妹は母が残した宝物らしいから、私はこの負の感情を内にしまうしかなかった。必死に笑顔を取り繕い、心を隠して我慢に我慢を重ねた。
そんな私に転機が訪れたのは16歳の春だった。
その日は妹の遠足の日で、私は朝から妹のお弁当を用意した。前日から唐揚げを漬け込み、味玉子を仕込み、可愛いピックも用意して、早起きをしてお弁当を作った。
確かに自分の分のついでだったけど、それでもいつもより数倍は豪華なお弁当を作った。
けれど、遠足から帰宅した妹は怒りながら私に空のお弁当を投げつけた。
『どうしてこんな地味なお弁当を作ったの!?みんなのお弁当は華やかで可愛かったのに!!私、すごく恥ずかしかったんだから!』
鬼の形相で怒り狂う妹。祖母は妹を抱きしめ、可哀想にと慰めた。父は呆れたようにため息をこぼし、
『遠足の日くらいちゃんとしたお弁当を作ってやれよ。別にキャラ弁を作れと言ってるわけじゃないんだから』
と言った。その瞬間、私はハッキリと心が折れる音を聞いた。
妹に悪意はない。これは子どもらしいワガママで、次の日になればまた、あざとく上目遣いをして『昨日はごめんね、お姉ちゃん』とか言ってくるんだ。
わかってる。妹はまだ子どもだもの。仕方がない。わかってる。わかってるけど……
でもふと、思ってしまった。
私はその、子どもらしいワガママさえ言わせてもらえなかったのにって。
私はその日から今まで担っていた家事を放棄した。アルバイトを探し、部活にも入り、家にいる時間を減らした。
当然、家の中は回らなくなった。父は私を怒鳴りつけ、時には殴った。
私はそんな父を睨みつけて言ってやった。
『私はこの家の家政婦じゃない。妹の母親でもない。家事なら親であるお前がすればいい。できないなら妹にさせればいい。私は9歳の時には完璧に家事をこなしていたわ』
初めての反抗だった。父は私の反抗にただ唖然としていた。
その時思った。ああ、この人は本気で私の苦労に気づいていなかったんだと。
私は自分の意思で家庭を支えているのだと、私が家事をするのは家族で助け合っているだけだと、そう思っていたのだ。
私は言われたからやっていただけに過ぎないのに。
父にはすまなかったと謝られた。
けれど私の折れた心は元には戻らなかった。
以降、父は自分で家事をし始めた。妹は不器用な父の不器用なご飯を文句も言わずに食べた。
私が作ったものには散々文句を言っていたくせに。
『お姉ちゃんさぁ、ちゃんとお手伝いしなよ。お父さんがかわいそう』
高ニの冬、妹が言った。漫画を描く私に妹は仁王立ちで、偉そうな態度で言ってきた。
その頃には妹も家事を手伝っていたから、自分だけがお手伝いをしている状況に苛立っていたのだろう。
だから私はそんな妹に言ってやった。お手伝い程度で威張るな、と。
当然、姉妹喧嘩が勃発した。妹は私を口汚く罵った。私も、吐いてはならない言葉をたくさん吐いた。
子ども相手に大人気ないとわかっていた。でも、もう全部がどうでも良かった。
あの日を境に、私は妹と一言を口を聞かなくなった。
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