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第一部
5:新しい婚約者(1)
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ただただ威圧感しかない謁見の間の重厚な内扉が開くと、深紅の絨毯が奥にある玉座へと繋がっている。
モニカはゆっくりとその絨毯を進んだ。そしてキラキラと言うよりギラギラという表現が似合いそうな豪奢な椅子に座る父の前に跪くと、首を垂れて名を名乗った。
チラリと前髪の隙間から見える父の様子を伺うと、到底娘に向けるような表情ではないほどの険しい顔でこちらを見下ろしている。
ヘマをすれば殺されそうだ。
「バートン公爵家のジョシュアは廃嫡となったそうだ。バートンの名は弟が継ぐらしい」
「左様でございますか」
「ただ、バートン公は息子が可愛いらしくてな、卒業までは学園に通うそうだ。問題は起こすなよ」
「かしこまりました」
「どこの男爵家か忘れたが、浮気相手への制裁は特に考えていないが、必要か?」
「いいえ。もう十分、罰は受けていることでしょう」
皇族へ楯突いた罰として彼女は一生後ろ指を刺されながら生きて行かねばならないはずだ。それ以上を制裁は必要ないだろうとモニカは進言した。
皇帝は淡々とそう話す彼女を、椅子にふんぞり返えるように座り、長く伸ばした髭を触りながらこちらの様子を伺う。
威圧感で心臓が押し潰されそうだが、モニカはなんとか耐えた。
「…三度も婚約をダメにしてしまい、申し訳ございません」
「気にするな、お前のせいではない」
眉間に皺を寄せ、鋭い眼光を向けながらも、皇帝の言葉は思っていたよりも優しかった。
(…機嫌がいいのか?)
いつもはモニカが悪くないことでも大体モニカのせいにするのに、今日はなぜか怒られない。
この穏やかさは逆に怖いと、モニカはブルっと体を振るわせた。
「正式に婚約破棄の書類を作成しておいた。サインを」
「かしこまりました」
皇帝はそばに控えていた補佐官に合図すると、彼は書類とペンを持ってモニカのところまでやってきた。
モニカは立ち上がりそれにサインする。
「サインいたしました」
「ご苦労、では2枚目だ」
「…2枚目?」
婚約破棄の書類は一枚で済むはず。2枚目とはなんぞやと彼女が怪訝な顔をすると、皇帝はニヤリと口角を上げた。
「ついでに次の婚約誓約書にもサインしておいてくれ」
「次…ですか…」
一昨日婚約を破棄されてもう次とは、本当に皇帝にとっての娘はただの政治の道具でしかないらしい。
モニカは言われるがままに誓約書にサインした。
「あちらにおられる方がお前の新しい婚約者だ」
サインし終えたモニカが皇帝に紹介されたのは、真っ直ぐな黒髪を後ろで一つに束ね、長い前髪で顔を隠している男だった。
見たことのある顔に、彼女は険しい顔をする。
「…皇帝陛下、何かの間違いでは?」
「いいや、間違いではない。あちらがお前の新しい婚約者、隣国ギルマン国王の弟君、グロスター公ノア・アルダートン殿下だ」
モニカは『嘘だろ』と叫びたい衝動を必死に抑えた。
これには流石に、謁見の間の後ろの方で控えているジャスパーも目玉が飛び出しそうなほど驚いていることだろう。
モニカはチラリと入り口の方へ視線をやる。すると、ジャスパーは船を漕いでいた。
(不敬罪で首を切られてしまえ)
モニカは小さくため息をつくと、今度はノアの方へと視線を移した。
皇帝に促され、モニカの前に立った彼は俯いたまま前髪を触り顔を隠す。
(どこからどう見ても、ノア様だ。なんで今更?)
モニカの頭の中は大パニックだった。
それもそのはず。この男はグロスター公ノア・アルダートン・ド・ギルマンは彼女の一人目の婚約者だった男であり、一度婚約を解消した男だからだ。
あれはモニカが10歳になった頃。
ギルマン王国と友好的な関係を築くためにモニカは10も年上の彼と婚約した。だがそこから3年後、ギルマン王国の内政が悪化し、婚約は白紙撤回されている。
今は彼の兄君である現国王が即位し、何とか国も安定してきたらしいけれど、このタイミングでの婚約とは何が理由なのだろうか。
モニカは目を閉じてしばらく思考をめぐらせた。
いろいろなことが考えられるが、まだまだ内政に不安が残る中。周辺諸国より軍事力に不安があるギルマンは他国からの侵略に対する牽制のために、帝国との強いつながりが欲しいところ。
そして帝国はそろそろ豊かな王国の資源が欲しいのだろう。近年の異常気象で作物の育ちが悪い今、民から税を巻き上げるのも限界だ。新しい事業に手を出したいのかもしれない。
(表向きはそう言う理由かしらね…)
モニカはこれ以上は考えても仕方のないことかと、誰にも気付かれないように小さく息を吐き出した。
そして、スッとスカートを摘むと優雅に膝を折る。
「お久しぶりでございます、ノア様」
「…お久しぶりです」
「これからまた、よろしくお願いいたしますね?」
「…こちら、こそ。お願いします」
「…」
「…」
会話が続かない。ボソボソと俯いたまま返事をするノアに、モニカは懐かしさを覚えた。
(…相変わらずの挙動不審)
ノアは心優しい青年だったが人見知りで、何より自分に自信がない男だ。
自分が何か粗相を起こしてしまわないか不安で、このような厳かな場所や人目の多いパーティなどが苦手らしい。
モニカは顔面蒼白な彼に、小声で『大丈夫。もう少しで終わりますよ』と告げた。
ノアはゆっくりと顔を上げ、ジャスパーのものと似た色の瞳でジッとモニカを見つめる。
そして小声で『ありがとう』と返した彼は、ピンと背筋を正した。
「グロスター公はお前が学園を卒業するまでこの城にとどまることになっている」
「はい」
「その後、お前はギルマン王国に嫁ぐ。良いな?」
「…仰せのままに」
ああ、早く部屋に帰って甘いお菓子を摂取したい。
この言葉以降、謁見が終わるまでの間。モニカも、そしておそらくノアも、内心ずっとそんなことばかり考えていた。
モニカはゆっくりとその絨毯を進んだ。そしてキラキラと言うよりギラギラという表現が似合いそうな豪奢な椅子に座る父の前に跪くと、首を垂れて名を名乗った。
チラリと前髪の隙間から見える父の様子を伺うと、到底娘に向けるような表情ではないほどの険しい顔でこちらを見下ろしている。
ヘマをすれば殺されそうだ。
「バートン公爵家のジョシュアは廃嫡となったそうだ。バートンの名は弟が継ぐらしい」
「左様でございますか」
「ただ、バートン公は息子が可愛いらしくてな、卒業までは学園に通うそうだ。問題は起こすなよ」
「かしこまりました」
「どこの男爵家か忘れたが、浮気相手への制裁は特に考えていないが、必要か?」
「いいえ。もう十分、罰は受けていることでしょう」
皇族へ楯突いた罰として彼女は一生後ろ指を刺されながら生きて行かねばならないはずだ。それ以上を制裁は必要ないだろうとモニカは進言した。
皇帝は淡々とそう話す彼女を、椅子にふんぞり返えるように座り、長く伸ばした髭を触りながらこちらの様子を伺う。
威圧感で心臓が押し潰されそうだが、モニカはなんとか耐えた。
「…三度も婚約をダメにしてしまい、申し訳ございません」
「気にするな、お前のせいではない」
眉間に皺を寄せ、鋭い眼光を向けながらも、皇帝の言葉は思っていたよりも優しかった。
(…機嫌がいいのか?)
いつもはモニカが悪くないことでも大体モニカのせいにするのに、今日はなぜか怒られない。
この穏やかさは逆に怖いと、モニカはブルっと体を振るわせた。
「正式に婚約破棄の書類を作成しておいた。サインを」
「かしこまりました」
皇帝はそばに控えていた補佐官に合図すると、彼は書類とペンを持ってモニカのところまでやってきた。
モニカは立ち上がりそれにサインする。
「サインいたしました」
「ご苦労、では2枚目だ」
「…2枚目?」
婚約破棄の書類は一枚で済むはず。2枚目とはなんぞやと彼女が怪訝な顔をすると、皇帝はニヤリと口角を上げた。
「ついでに次の婚約誓約書にもサインしておいてくれ」
「次…ですか…」
一昨日婚約を破棄されてもう次とは、本当に皇帝にとっての娘はただの政治の道具でしかないらしい。
モニカは言われるがままに誓約書にサインした。
「あちらにおられる方がお前の新しい婚約者だ」
サインし終えたモニカが皇帝に紹介されたのは、真っ直ぐな黒髪を後ろで一つに束ね、長い前髪で顔を隠している男だった。
見たことのある顔に、彼女は険しい顔をする。
「…皇帝陛下、何かの間違いでは?」
「いいや、間違いではない。あちらがお前の新しい婚約者、隣国ギルマン国王の弟君、グロスター公ノア・アルダートン殿下だ」
モニカは『嘘だろ』と叫びたい衝動を必死に抑えた。
これには流石に、謁見の間の後ろの方で控えているジャスパーも目玉が飛び出しそうなほど驚いていることだろう。
モニカはチラリと入り口の方へ視線をやる。すると、ジャスパーは船を漕いでいた。
(不敬罪で首を切られてしまえ)
モニカは小さくため息をつくと、今度はノアの方へと視線を移した。
皇帝に促され、モニカの前に立った彼は俯いたまま前髪を触り顔を隠す。
(どこからどう見ても、ノア様だ。なんで今更?)
モニカの頭の中は大パニックだった。
それもそのはず。この男はグロスター公ノア・アルダートン・ド・ギルマンは彼女の一人目の婚約者だった男であり、一度婚約を解消した男だからだ。
あれはモニカが10歳になった頃。
ギルマン王国と友好的な関係を築くためにモニカは10も年上の彼と婚約した。だがそこから3年後、ギルマン王国の内政が悪化し、婚約は白紙撤回されている。
今は彼の兄君である現国王が即位し、何とか国も安定してきたらしいけれど、このタイミングでの婚約とは何が理由なのだろうか。
モニカは目を閉じてしばらく思考をめぐらせた。
いろいろなことが考えられるが、まだまだ内政に不安が残る中。周辺諸国より軍事力に不安があるギルマンは他国からの侵略に対する牽制のために、帝国との強いつながりが欲しいところ。
そして帝国はそろそろ豊かな王国の資源が欲しいのだろう。近年の異常気象で作物の育ちが悪い今、民から税を巻き上げるのも限界だ。新しい事業に手を出したいのかもしれない。
(表向きはそう言う理由かしらね…)
モニカはこれ以上は考えても仕方のないことかと、誰にも気付かれないように小さく息を吐き出した。
そして、スッとスカートを摘むと優雅に膝を折る。
「お久しぶりでございます、ノア様」
「…お久しぶりです」
「これからまた、よろしくお願いいたしますね?」
「…こちら、こそ。お願いします」
「…」
「…」
会話が続かない。ボソボソと俯いたまま返事をするノアに、モニカは懐かしさを覚えた。
(…相変わらずの挙動不審)
ノアは心優しい青年だったが人見知りで、何より自分に自信がない男だ。
自分が何か粗相を起こしてしまわないか不安で、このような厳かな場所や人目の多いパーティなどが苦手らしい。
モニカは顔面蒼白な彼に、小声で『大丈夫。もう少しで終わりますよ』と告げた。
ノアはゆっくりと顔を上げ、ジャスパーのものと似た色の瞳でジッとモニカを見つめる。
そして小声で『ありがとう』と返した彼は、ピンと背筋を正した。
「グロスター公はお前が学園を卒業するまでこの城にとどまることになっている」
「はい」
「その後、お前はギルマン王国に嫁ぐ。良いな?」
「…仰せのままに」
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