元禄怪奇余話~千年の復讐

仮面の雪影

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前世の因果

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 安子にとり大奥での将軍との夜の営みは、まさに地獄だった。
なにしろ将軍は幼子ほどの背丈しかない。抱かれているというより、まるで大人のなりをした子供に弄ばれているようである。それだけで安子に強い羞恥心をいだかせた。
 将軍の攻めは時に執拗であり、なにやら親の仇でも、いたぶっているようにさえ思えた。ついには安子は息を荒くし、意識が朦朧として、口を開けてよだれを垂らす。また時として安子は将軍の上に馬乗りになり、激しく腰をふることさえあった。それがまた将軍を喜ばせた。
 ある夜のことだった。安子はしばし、じっと将軍の寝顔を見つめていた。
 父の成貞は将軍に毒を盛ったといったが、安子が見たところ、将軍は以前と何一つ変わったところがない。よく見ると、この大人のなりをした子供のような人物が、この国の最高権力者とはとても思えなかった。
 将軍と閨を共にする側室は、事前に厳しいボディーチェックを受け、寝所への刃物等の持ちこみは厳禁となっていた。しかし刃物がなくとも、正直この将軍なら、女の安子の方がはるかに腕力で勝る。素手で絞殺することは十分に可能である。
「いっそ将軍を殺して、己も舌でも切ってしまおうか……」
 もちろん牧野の家は取りつぶしである。しかしこの時の安子は半ばノイローゼ気味であり、冷静な判断能力を欠いていた。すっと将軍の首に手を回した時である。
「私を殺すつもりか?」
 将軍が突如として目を見ひらいた。それだけでも安子は背筋に冷たいものが走る。しかしさらに驚くべきことは、男である将軍が明らかに女の声でしゃべったことだった。
「一体これは、どういうことなのだろう?」
 次に将軍と目があった瞬間、安子の脳裏に前世の記憶とでもいうべきものが、瞬時にして走りぬけた。

 ……生霊騒動の後も、家里は由希をそばに置き続ける。しかし決定的に由希の立場を悪くする事件が、七夕の夜におきた。この日、由希はあらかじめ幸も七夕に参加することを、人を介して聞かされていた。ところが幸は、いかほど探しても姿が見えない。
「義母様、幸は……幸はいずこに?」
 由希の問いに、達は少し底意地の悪い目をした。
「幸なら、風邪をこじらせて寝こんでいるわ」
 と平然といった。
 この時、突如として由希が切れた。その場を立ち去ろうとする達に、背後から体当たりして首をしめた。
「わらわの子供を返せ! この婆! 殺してやる!」
 座が騒然とする中、由希は取り押さえられ牢に入れられた。そして誰しもが、やはり達の病は由希の生霊の仕業だと信じた。

 安子の額を汗がつたった。それは幼いころから、幾度も夢に見た光景そのものだった。果たして、これが前世というものなのだろうか? それでは今、目の前にいる将軍は何者であろう? よもや由希が、取り憑いているとでもいうのだろうか?
「あの後、汝と汝の母は、家里がまだ私に未練があることを察した。そして人を牢に潜入させ、わらわの顔に熱湯をかけたのだ。そもそも何故、わらわがあの七夕の夜に乱心したか? そなた存じておろう。わらわの食事を調理する者の中に、そなたの息のかかった者が密かにまぎれこみ、毒をまぜたのじゃ。その毒を幾度も口にすると、徐々に平常心をたもつことが難しくなる。そう! まさにそなた達が、この将軍に毒を盛ったように」
 最後の一言は衝撃的だった。これで自分も牧野の家もおしまいだと思った。その時、突如として将軍は懐から刃物を取りだした。
「お許しを! どうか命ばかりは!」
 安子は思わず命乞いした。
「案ずるな殺しはせぬ。まだいたぶり足りないのでな」
 将軍は安子ではなく、己の肩のあたりに刃物を突きさした。鮮血がゆっくりと滴り落ちる。
「誰かある! 安子が乱心した!」
 この大音声で、大奥女中たちが集まってきて、ただならぬ様子に驚愕した。
「安子殿! なんということを! これは一大事じゃ」
 次の瞬間、将軍はその場にゆっくりと倒れ意識を失った。そして十日ほどして目を覚ます。しかし由希の魂はすでに去り、何があったかまるで覚えていなかった。

 ……薄霧の中、絹の小袖を身にまとった安子は、何者かの影におびえるかのように、背後を気にしながら必死に走っていた。やがて寛永寺が見えてきた。寛永寺は徳川の菩提寺として、寛永二年(一六二五)に建立された。
「この寛永寺には徳川歴代将軍や、その子女、それぞれの人生そして運命が刻まれている。そして徳川の世が続くかぎり、永遠に刻まれ続けてゆく。私もいずれ……」
ふと感傷的になった時、背後で安子の肩を叩く者がいた。
「誰!」
 振り向くと、なんとそれは許嫁の成時だった。
「成時様! 生きておいでで……」
 安子は思わず、成時に抱きついた。
「私のことを覚えていてくれたのですか? もう忘れたものとばかり……」
「忘れるものか? 例えどのようなことがあろうと、俺が心から愛したのは安子だけだ」
「それより逃げよう! ここにいたら直ぐにでもまた、将軍の手の者がやってくる」
 と成時は真剣な表情でいった。
 二人は山をおりて不忍池の近くまで逃げるも、はたして背後から軍勢が迫ってきた。
「安子逃げろ! 早く!」
 その時、無数の矢が成時の胸をつらぬいた。

「成時様!」
 悲鳴と共に、ようやく安子は悪夢から目を覚ました。安子が入れられたのは、城の本丸の地下牢だった。周囲は糞尿のにおいがする。近くを鼠が走り去った。時折、他の囚人らしいうめき声が聞こえてくる。
 安子はこの数日、出された食事にも手をだしていなかった。死んだように、かすかに藁が敷きつめられた牢の中で、横になる日々をおくっていた。周囲は薄暗い。昼であるのか、夜であるのかさえはっきりとしなかった。
「もういっそ、このまま死んでしまえば楽になれる」
 そう己にいい聞かせ、牢に入れられてから四日ほどがたった。ふと廊下を伝わってくる足音を安子は聞いた。その足音は、安子のいる牢の前でピタリとやんだ。
「上様、上様ではありませぬか!」
 安子の眼前に立つ小男は、まぎれもなく将軍綱吉だった。
「どうして上様が、かような場所に?」
 まず安子の脳裏をよぎったのは、そのことに対する疑問だった。
 地下牢の安子のもとには、時おり幕府の役人が事情聴取のためやってくる。その際、安子がかすかに耳にした情報では、将軍は人事不肖の状態が続いているという。しかし他にも安子には疑問があった。
「何故、上様は私をおとしいれたのですか?」
 どの道命なきものと思い、安子は相手が将軍であろうと遠慮なくたずねた。しかし返事がない。
「もしや上様は牧野の家にうらみでも? 私を苦しめるだけでなく、牧野の家も潰すつもりで、あのような狂言をなされたのですか?」
 しかし将軍は首を横に振った。
「案ずるな。そなた一人が乱心しておこした騒動ということで、牧野の家は取り潰しになどしておらん。成貞も、今までどおり余のもとへ出仕しておる」
 安子は胸中密かに安堵した。しかし疑念は広がる一方だった。
「それでは、何故私をおとしいれたのですか?」
「それは、己の胸に今一度問うてみるがよい」
 すでにそれは将軍の声ではなく、女の声だった。見上げると十二単に身を包んだ何者かが立っていた。
「どうじゃ牢に入れられる気分は? わらわが味わった苦しみと絶望感、そなたも少しは思い知ったか?」
 由希は、まるで勝ち誇ったかのように言った。
「そうですか? 私が前世で犯した罪の報いだというのですね?」
 しかし世に、まことかような事がありうるのだろうか?
「そなたが信じようと、信じまいと、罪の清算をしてもらうぞ」
 と由希は、安子の胸中を察していった。
「先ほどの話しは真でございますか? 私一人の乱心故のこととして、牧野の家にとがめはなかったと? ならばもう思い残すことはありませぬ。そなたの好きなように、前世の恨みとやらを晴らすがよろしいでしょう」
 安子は投げやりにいう。
「そう焦るな。牧野の家は確かに救われた。なれど一人だけ命を捨てた者がおる。そなたの許嫁の成時殿がのう、そなたが大奥に連れていかれてから数日の後に、腹を切って果てたそうじゃ」
「成時様が!」
 この時、安子はまるで、固い物で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「後の始末は己でつけるがよい」
 由希は去っていった。安子はそれから数日、時折、意味不明の言葉を繰り返す以外は虚脱状態となった。そして牢に入れられてからひと月もたたぬうちに、完全に食を絶って、やせ衰えた姿で餓死していた。
 その知らせが届いてからほどなく、母のお久里もまた、懐剣で喉をついて自害。牧野成貞は将軍綱吉に隠居願いをだし受理される。その後の人生を、怒るわけでも笑うわけでもなしに、まるで廃人のように過ごしたという。
 しかし、これで由希の復讐が終わったわけではなかった。
 





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