12 / 19
鬼の微笑
しおりを挟む
成貞の娘安子が、江戸城大奥の人となり早くも半年ほどが過ぎた。将軍は再び牧野邸に姿をあらわし、その際は安子も同伴した。
将軍の特別なはからいにより、安子はしばしの間、父の成貞と親子水入らずの一時を与えられる。成貞には安子が、必死に涙をこらえていることがよくわかった。
無理もない話しである。江戸城大奥には幾つものしきたりがあり、女同士の嫉妬や憎悪、醜い争いが常にあった。新入りの安子に対しての風当たりも強い。
今まで両親のもとで、蝶よ花よで育てられた十六歳の安子にとり、毎日がつらいことの連続である。それよりも何よりも、最大の試練は将軍との夜の営みだったのである。
「そういえば、成時様はいらっしゃらないのですか?」
娘の問いに成貞は、しばし険しい表情をうかべた。
「そうですか……わかりました。私とはもう会いたくないということですね。父上、どうか成時様に伝えてください。私のことは忘れて、他に良い人を探して幸せになってくださいと」
しかし成貞は、この時本当のことを、どうしても言えなかったのである……。
しばし昔話や大奥での話などが続いた後、成貞は思い切って安子におそるべき秘密をうちあけた。
「今しがた将軍の膳に毒を入れた。ここなら毒味はおらぬ。案ずることはない。即効性の毒ではないので、じわじわと効果があり、やがて上様は体が弱って死にいたる。いかに上様とはいえ、これ以上、あの方に振り回されるのはごめんなのでな」
と成貞が恐ろしい形相でいうので、安子もまたしばし沈黙し、青ざめた表情をうかべた。
それから数カ月がすぎ、元禄の世も幾度めかの桃の節句の季節がやってきた。今日の桃の節句は三月三日ときまっているが、これを旧暦になおすと四月三日となる。ようやく春も本番といったところである。
この日、将軍生母桂昌院、御台所の鷹司信子、側室お伝をはじめとして位の高い大奥女中たちは、そろって江戸城中奥へと招かれた。
江戸城本丸はおよそ三つの空間にわかれる。将軍が政務を行う「表」、将軍のプライベートな空間である「中奥」、そして将軍の女たちが居住する「大奥」である。
大奥女中達は打掛をひるがえしながら、普段は訪れることのない中奥御座の間へとおもむく。そこはおよそ百五十畳はあろうかという、広大な空間だった。
中心には将軍がいる。幕閣の面々も勢ぞろいしており、吉保もいれば、牧野成貞もいた。
この日は能の鑑賞会が行われた。「敦盛」、「浮船」、「雨月」などという能のレパートリーが続くも、将軍の隣に座した御台所の信子は、始終口をへの字に結んだまま無表情である。そして能の中で京を連想させる場面にさしかかると、たちまち不機嫌さを表にだした。
やがて「葵上」が曲目として演じられる。これは源氏物語で光源氏によって冷遇された、かっての愛人の六条御息所の物語であった。この時、信子は光源氏に見向きもされなくなった御息所に、自らの境遇を重ねあわせる。そして不快感をあらわにし席を立ってしまった。さすがの将軍も、困惑した様子でこの光景を見守るしかなかった。
思いおこせば将軍は、初めて嫁いできたその日から、めったに御台が笑ったところを見たことがなかった。まるで魂のない氷のようであり、将軍の御渡りも数年は途絶えていた。
容姿は必ずしも悪くはなかったという。当時江戸城を訪れたドイツ人医師のケンペルは「ヨーロッパ人のような黒い瞳をしており、褐色がかった丸みのある、美しい顔……」と信子をほめている。
もっともケンペルは、信子については記録を残しているが、将軍についてはなにも残していない。直に接する際も、簾越しにしか拝謁を許されなかったのである。もしかしたら将軍は、子供ほどの背丈のため己が日本国のトップとして、外国人に侮られることを恐れたのかもしれない。
この信子には、なにかと黒い噂がたえなかった。
数年前のことである。将軍の寵愛を受けていた多喜恵という中臈が懐妊した。
「本来であれば、一度でも上様の手が付いた者は里へ戻ることすら許されん。なれど私が特別に許す。今回だけ父母のもとへ戻るがよいぞ」
信子の言葉に、多喜恵は喜びすぐに準備をととのえ、故郷への旅路についた。しかしこれが罠だった。道中常に、信子の放った間者が付きまとっていたのである。やがて多喜恵と間者は城にもどってきた。
「何か変わったことはないか? 男と密通しておる様子はなかったか?」
「さあ? それといった様子は……」
「ええい! ならば誰でもよい! 関わった男はおらぬのか?」
「そういえば、医者にかかっていた様子」
間者の報告に、信子は不気味なうすら笑いをうかべる。
やがて彼岸の日がおとずれた。信子は自ら餅を作り、お目見え以上の女中達にふるまった。その後は心得のある女中たちが、得意の歌や舞で座を盛り上げた。信子は昼間から酒を飲み、めずらしく上機嫌だった。
「酔ったのう……歌や舞もあきた。多喜恵そなたは武家の家の出身で、弓の心得もあったのう。どうじゃ、この場で得意の腕前を見せてはくれぬかのう?」
「私がですか? あいにくと私はこの通りの身の上で……」
多喜恵は、大きくなった腹をなでながら困惑の色を浮かべる。しかし御台にどうしてもとせがまれ、渋々弓を披露することとなった。すでに弓を放つ的も用意されており、周囲には、幕が張りめぐらされている。多喜恵が放った矢は見事的を射ぬくも、次の瞬間何者かのうめき声がした。
信子が乱暴に周囲の幕を引きはがすと、そこには木に縛りつけられた男の姿があった。なんとそれは、多喜恵が里に帰った際世話になった医者のもので、助手をつとめていた男だった。
「そなたこの者を存じておろう。そなたと情を通じたと、この者がはっきりとそう申したのじゃ」
信子はまるで、勝ち誇ったかのように笑みをうかべながらいった。よくみると、腕にも足にも明らかに拷問されたような痣があるではないか。恐らく拷問のすえに、ありもしない男女の関係を自白させられたに違いなかった。多喜恵は己が罠にはまったことをさとる。
この後、多喜恵も激しい拷問にさらされる。当然、おなかの子は流れてしまった。そして傷心の多喜恵は井戸に身投げしたのである。
そもそも将軍に子がないことも、信子が裏で糸を引いてのことと、女中たちの間でしばしば噂された。そしてその嫉妬と憎悪の炎を、安子も強く感じていたのである。
将軍の特別なはからいにより、安子はしばしの間、父の成貞と親子水入らずの一時を与えられる。成貞には安子が、必死に涙をこらえていることがよくわかった。
無理もない話しである。江戸城大奥には幾つものしきたりがあり、女同士の嫉妬や憎悪、醜い争いが常にあった。新入りの安子に対しての風当たりも強い。
今まで両親のもとで、蝶よ花よで育てられた十六歳の安子にとり、毎日がつらいことの連続である。それよりも何よりも、最大の試練は将軍との夜の営みだったのである。
「そういえば、成時様はいらっしゃらないのですか?」
娘の問いに成貞は、しばし険しい表情をうかべた。
「そうですか……わかりました。私とはもう会いたくないということですね。父上、どうか成時様に伝えてください。私のことは忘れて、他に良い人を探して幸せになってくださいと」
しかし成貞は、この時本当のことを、どうしても言えなかったのである……。
しばし昔話や大奥での話などが続いた後、成貞は思い切って安子におそるべき秘密をうちあけた。
「今しがた将軍の膳に毒を入れた。ここなら毒味はおらぬ。案ずることはない。即効性の毒ではないので、じわじわと効果があり、やがて上様は体が弱って死にいたる。いかに上様とはいえ、これ以上、あの方に振り回されるのはごめんなのでな」
と成貞が恐ろしい形相でいうので、安子もまたしばし沈黙し、青ざめた表情をうかべた。
それから数カ月がすぎ、元禄の世も幾度めかの桃の節句の季節がやってきた。今日の桃の節句は三月三日ときまっているが、これを旧暦になおすと四月三日となる。ようやく春も本番といったところである。
この日、将軍生母桂昌院、御台所の鷹司信子、側室お伝をはじめとして位の高い大奥女中たちは、そろって江戸城中奥へと招かれた。
江戸城本丸はおよそ三つの空間にわかれる。将軍が政務を行う「表」、将軍のプライベートな空間である「中奥」、そして将軍の女たちが居住する「大奥」である。
大奥女中達は打掛をひるがえしながら、普段は訪れることのない中奥御座の間へとおもむく。そこはおよそ百五十畳はあろうかという、広大な空間だった。
中心には将軍がいる。幕閣の面々も勢ぞろいしており、吉保もいれば、牧野成貞もいた。
この日は能の鑑賞会が行われた。「敦盛」、「浮船」、「雨月」などという能のレパートリーが続くも、将軍の隣に座した御台所の信子は、始終口をへの字に結んだまま無表情である。そして能の中で京を連想させる場面にさしかかると、たちまち不機嫌さを表にだした。
やがて「葵上」が曲目として演じられる。これは源氏物語で光源氏によって冷遇された、かっての愛人の六条御息所の物語であった。この時、信子は光源氏に見向きもされなくなった御息所に、自らの境遇を重ねあわせる。そして不快感をあらわにし席を立ってしまった。さすがの将軍も、困惑した様子でこの光景を見守るしかなかった。
思いおこせば将軍は、初めて嫁いできたその日から、めったに御台が笑ったところを見たことがなかった。まるで魂のない氷のようであり、将軍の御渡りも数年は途絶えていた。
容姿は必ずしも悪くはなかったという。当時江戸城を訪れたドイツ人医師のケンペルは「ヨーロッパ人のような黒い瞳をしており、褐色がかった丸みのある、美しい顔……」と信子をほめている。
もっともケンペルは、信子については記録を残しているが、将軍についてはなにも残していない。直に接する際も、簾越しにしか拝謁を許されなかったのである。もしかしたら将軍は、子供ほどの背丈のため己が日本国のトップとして、外国人に侮られることを恐れたのかもしれない。
この信子には、なにかと黒い噂がたえなかった。
数年前のことである。将軍の寵愛を受けていた多喜恵という中臈が懐妊した。
「本来であれば、一度でも上様の手が付いた者は里へ戻ることすら許されん。なれど私が特別に許す。今回だけ父母のもとへ戻るがよいぞ」
信子の言葉に、多喜恵は喜びすぐに準備をととのえ、故郷への旅路についた。しかしこれが罠だった。道中常に、信子の放った間者が付きまとっていたのである。やがて多喜恵と間者は城にもどってきた。
「何か変わったことはないか? 男と密通しておる様子はなかったか?」
「さあ? それといった様子は……」
「ええい! ならば誰でもよい! 関わった男はおらぬのか?」
「そういえば、医者にかかっていた様子」
間者の報告に、信子は不気味なうすら笑いをうかべる。
やがて彼岸の日がおとずれた。信子は自ら餅を作り、お目見え以上の女中達にふるまった。その後は心得のある女中たちが、得意の歌や舞で座を盛り上げた。信子は昼間から酒を飲み、めずらしく上機嫌だった。
「酔ったのう……歌や舞もあきた。多喜恵そなたは武家の家の出身で、弓の心得もあったのう。どうじゃ、この場で得意の腕前を見せてはくれぬかのう?」
「私がですか? あいにくと私はこの通りの身の上で……」
多喜恵は、大きくなった腹をなでながら困惑の色を浮かべる。しかし御台にどうしてもとせがまれ、渋々弓を披露することとなった。すでに弓を放つ的も用意されており、周囲には、幕が張りめぐらされている。多喜恵が放った矢は見事的を射ぬくも、次の瞬間何者かのうめき声がした。
信子が乱暴に周囲の幕を引きはがすと、そこには木に縛りつけられた男の姿があった。なんとそれは、多喜恵が里に帰った際世話になった医者のもので、助手をつとめていた男だった。
「そなたこの者を存じておろう。そなたと情を通じたと、この者がはっきりとそう申したのじゃ」
信子はまるで、勝ち誇ったかのように笑みをうかべながらいった。よくみると、腕にも足にも明らかに拷問されたような痣があるではないか。恐らく拷問のすえに、ありもしない男女の関係を自白させられたに違いなかった。多喜恵は己が罠にはまったことをさとる。
この後、多喜恵も激しい拷問にさらされる。当然、おなかの子は流れてしまった。そして傷心の多喜恵は井戸に身投げしたのである。
そもそも将軍に子がないことも、信子が裏で糸を引いてのことと、女中たちの間でしばしば噂された。そしてその嫉妬と憎悪の炎を、安子も強く感じていたのである。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる