元禄怪奇余話~千年の復讐

仮面の雪影

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遠い都

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 桂昌院を失った将軍綱吉は、明らかに情緒不安定となる。ささいなことで幕閣の者たちや、あれいは近習の者たちに怒りをぶつけることが多くなった。同じ頃、日本国中で地震や火山の噴火などが相次ぐ。政情不安が、よけいに綱吉をいらただせることとなった。
 そのような幕府を、不安な思いで見守る一人の老人がいた。老人は齢七十をすでに越していた。しかし眼光異様に鋭い。頭脳の回転もまた、その年齢とは思えないほどに早い。徳川御三家の一つ水戸徳川家の二代目当主で水戸光圀、後の世に、水戸黄門として知られることになる老人である。
 もちろん光圀公は諸国漫遊などしていない。水戸徳川家の主は他の三百諸侯と異なり、江戸常駐が許されていた。そのため生涯のほとんどを、駒込にある水戸徳川家の江戸屋敷ですごした。そして光圀公の史実での功績はなんといっても、大日本史の編纂事業すなわち、日本史を初めて体系的に書物にしたことだった。
「桂昌院様におかれては、みまかられたか!」
 腹心の角兵衛からの報告に、光圀公は筆をもつ手をしばし休めた。
「桂昌院様は、もともと聡明な方であった。なれどやはり我が子はかわいいもの、それがために心くもらせたは残念なことよのう。わしは古今の歴史を学んできたが、いつの世でも、まことかような女人ほど面倒なものはない。時として天下大乱の元凶ともなり、一国の破滅すらありうる。して、上様におかれては乱心の様子とな?」
「まだ詳しいことはわかりませぬ。なれど噂によると、綱吉公は小姓の一人が目の前で蚊をはたいたことに激怒して、その場で打ち首を申しつけたとか」
「何とそれがまことなら、それがしが将軍綱吉公に仕える身なら、日に四度は打ち首になるやもしれませぬなあ」
 苦笑したのは、やはり光圀の側近くに仕える助三郎という者だった。すると光圀公は、何事かを憂えるような表情をうかべた。
「後の世の者は、今の企方様を何と思うであろうのう。昨今の乱行ぶり、まるで上様におかれては狐にでも憑かれたかのようじゃ。今でも犬企方などと揶揄する者もおるしのう。わしとてまつりごとの一端をになっておる。お諫めしなければなるまいて」
 一瞬光圀公は底意地の悪い顔をする。一月ほどして、光圀公から将軍綱吉のもとに犬の毛皮が送りとどけられた。幕閣の者たちは、この嫌がらせに顔をしかめ、綱吉自身も激高したのはいうまでもない。

 さて染子は、あいかわらず右衛門佐の部屋で療養を続けていた。頭を打った衝撃からであろう、周囲の景色すべてが染子には、薄ぼんやりとして見えるようである。
「今日も、あまり飯あがってないようでありますなあ……」
 かっての染子の主だった右衛門佐は、染子の様子を気遣いながらいう。
「不思議でございます。ここのところ庭の景色をあおぎ見ても、全てが淡く思えるのです」
 と染子は憂いに満ちた目でいった。
「やはり今でも恋したっておいでですか? 吉保殿のこと……」
 染子はしばし沈黙する。
「吉保殿のことよりも、昨今よく都のことを夢に見るのです」
「左様であらっしゃいますか……都はよいところでありましたなあ」
「春の暁、夏にトンボが飛びかう光景、秋の鈴虫も今となってはなつかしい。祇園祭りに葵祭り。美しく着飾った芸子たちが、夜もふける頃、神社の裏手で密かに愛人と密会する様を目撃した時は、不覚にも胸が高鳴りました」
 そこまで一息にいうと、染子はかすかに涙をうかべた。
「染子殿!」
 思わず、右衛門佐は染子の細い体を抱きしめた。
「お互いに都の生まれ、共に帰りましょう」
「かようなこと今となっては……」
 何故か、染子より右衛門佐の方が都が恋しくなった様子である。
「いいえ必ず戻りましょう。その前に今はゆっくりとお休みあれ」
 右衛門佐は、染子を半ば無理やり布団に寝かせた。
「ここにこうしていると退屈でなりませぬ。また物語をしてくれませぬか? そう、この前の王朝時代の由希とかいうおなごの話でも、語ってくださいませ」
 染子が是非にと頼むので、右衛門佐は、物語の続きを始めるのだった……。



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