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17.寧日の底にある無意識
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日常へ帰還したサラージュは、驚くほど監禁以前と変わらぬ日々を送っていた。
王太子妃としての教育は勿論、すでに割り振られている公務や生家との連絡役、昼の社交の場であるお茶会のホストなどなど。
彼に監禁されるまで当たり前に行われていた日々の営みは、まるで変らぬ顔でサラージュを迎え入れた。
あの甘く重い閉ざされた夜など一抹の夢であったかのように。
(母上に感謝しなくちゃ。……あんなものが役立つ日が来るとは、さすがに思っていなかったのだけれど)
サラージュの母は今でこそ辺境伯夫人だが、若かりし頃はため息ひとつで老若男女問わず篭絡した傾国の麗人と名高い人であったのだという。
父と出会うまではそこそこの頻度で誘拐・監禁されたり崇め奉られていたらしく、よく似た顔をしているサラージュにも「監禁攻略マニュアル」という名の護身ならぬ護心術を教え込んでくれた。監禁中だけでなく監禁から解放された後の快復法も含まれており、こんなにもスムーズに日常へ回帰できたのは間違いなくそのおかげだろう。
なお、アレクシスの凶行は城内のごく限られたものの間でのみ共有するに留められることとなった。
王自身が発案した婚約破棄の示唆がきっかけとなったうえに、サラージュ自身もその共謀であったこと。発現種族の生態差に端を発するトラブルを事件化するかは実質的な加害行為に見舞われた側――今回であればサラージュ側――の権利であることなど、様々な条件が加味された結果である。
(さすが、陛下の御世と言うべきかしらね)
人の口には戸を立てられないとはよく言ったもので、本来であれば日々宮殿内を動き回っているサラージュの姿が見えないとなれば噂は枯野に火をつけたが如く広まってもおかしくはなかったはずだ。
だが、そうはならなかった。
それは、従僕の速やかな報告と王による判断が火種が落ちる前に為されたことを意味する。
この城の主であるのだから当然と言えば当然なのだが、――ある種の不祥事を目の当たりにした人間が迷いなく上役に報告できるというのは、腐敗が蔓延していないことの証左だろう。目の前での行いを止められなかったことを過剰に罰するような場所であれば、隠蔽や偽装などの保身に走るものが現れるのが世の常というものである。
仮にそのような事態になっていれば、事実が発覚するのが遅れる間に姿を見せないサラージュについて流言飛語が蔓延し、結果的に国に大なり小なりの波が立っていたことは想像に難くない。少なくとも、辺境伯領にそうした歪んだ情報が先行して伝われば、どれほど親交があるといえど信頼関係に陰りが生じかねないのは確かである。
正確な情報が伝えられてサラージュの無事が確認できた今でさえ、ひっきりなしに便りが届くのだから。
ともすれば軽薄にも見える王の築いてきた『平穏』。それを保つのが自分の仕事なのだと、サラージュはきゅっと眉を吊り上げ改めて気合を入れる。
余計なことを気にしている暇はない。
暇はない――はずなのに。
(……殿下)
瞼の裏から、アレクシスの痛みを噛み潰すような笑顔が焼き付いて離れない。
(殿下が心穏やかに過ごされることは、国のためにもなる。だから、気になるだけ)
きっとそうだ。――そう自分に言い聞かせる少女は気づかない。
婚約者を気に掛けることはなにも悪いことではないというのに、彼を個人的に気に掛けようとする自分を殺している――その歪さに。
自分が何から目を逸らそうとしているのか。
サラージュ・ネクタルは、気づかない。
***
解放されて以降、サラージュはアレクシスと顔を合わせていない。
加害者と被害者という立場が成立する以上、当然の対応だ。いくらサラージュ本人が許すと言ったところで、まったくのお咎めなしとはいかない。よって、アレクシスにはサラージュが回復するまでの期間、サラージュを想起させる一切を断つことが命じられた。
本来ならば謹慎処分が妥当だ。
しかし、彼の凶行自体が機密事項になったこと、獣人種にとって最も重い刑罰は『運命』を傍に置けなくなることなどを鑑みて、傍から見れば冗談のようなこの処罰が下された……らしい。サラージュ自身に公式に渡される情報はどれも「処罰が決まった」程度の最低限の結果ばかりで、細かなことは精霊の噂などから推測するしかないのだが。
(わたくしはどうとも思っていないのに……変な話ね)
サラージュが生来動じない気質であることが裏目に出た。
あまりにも動じず、それどころかアレクシスの精神状態を気に掛けるものだから、ストレスからくる精神障害やなにかしらの洗脳魔法にかけられているのではないかと疑われたのだ。
洗脳状態に陥っていないか、精神が健常な状態か、獣人種から見て発情を誘発するフェロモンが分泌されていないか、あるいは避妊魔術を例外的に突破して子を宿した反作用ではないか。様々な精密検査を施され、心から細胞の一つ一つまで解剖された気分になったのは言うまでもない。
どっと疲れはしたものの、傍から見れば「なぜそのような横暴を許すのか」と問われるのも、わからないわけではない。
サラージュ自身、仮に友人や兄弟が同じように監禁されたならば同じような反応を返すし、似たような検査を勧めるだろう。だが、まあ。
(初恋だもの。この程度の事は許してしまうものよね)
呪文のようにその言葉を繰り返すサラージュの検査結果は、本人の予想通りの全検査問題ナシ。
かくして、許婚たちは久方ぶりの逢瀬を許される運びとなった。
王太子妃としての教育は勿論、すでに割り振られている公務や生家との連絡役、昼の社交の場であるお茶会のホストなどなど。
彼に監禁されるまで当たり前に行われていた日々の営みは、まるで変らぬ顔でサラージュを迎え入れた。
あの甘く重い閉ざされた夜など一抹の夢であったかのように。
(母上に感謝しなくちゃ。……あんなものが役立つ日が来るとは、さすがに思っていなかったのだけれど)
サラージュの母は今でこそ辺境伯夫人だが、若かりし頃はため息ひとつで老若男女問わず篭絡した傾国の麗人と名高い人であったのだという。
父と出会うまではそこそこの頻度で誘拐・監禁されたり崇め奉られていたらしく、よく似た顔をしているサラージュにも「監禁攻略マニュアル」という名の護身ならぬ護心術を教え込んでくれた。監禁中だけでなく監禁から解放された後の快復法も含まれており、こんなにもスムーズに日常へ回帰できたのは間違いなくそのおかげだろう。
なお、アレクシスの凶行は城内のごく限られたものの間でのみ共有するに留められることとなった。
王自身が発案した婚約破棄の示唆がきっかけとなったうえに、サラージュ自身もその共謀であったこと。発現種族の生態差に端を発するトラブルを事件化するかは実質的な加害行為に見舞われた側――今回であればサラージュ側――の権利であることなど、様々な条件が加味された結果である。
(さすが、陛下の御世と言うべきかしらね)
人の口には戸を立てられないとはよく言ったもので、本来であれば日々宮殿内を動き回っているサラージュの姿が見えないとなれば噂は枯野に火をつけたが如く広まってもおかしくはなかったはずだ。
だが、そうはならなかった。
それは、従僕の速やかな報告と王による判断が火種が落ちる前に為されたことを意味する。
この城の主であるのだから当然と言えば当然なのだが、――ある種の不祥事を目の当たりにした人間が迷いなく上役に報告できるというのは、腐敗が蔓延していないことの証左だろう。目の前での行いを止められなかったことを過剰に罰するような場所であれば、隠蔽や偽装などの保身に走るものが現れるのが世の常というものである。
仮にそのような事態になっていれば、事実が発覚するのが遅れる間に姿を見せないサラージュについて流言飛語が蔓延し、結果的に国に大なり小なりの波が立っていたことは想像に難くない。少なくとも、辺境伯領にそうした歪んだ情報が先行して伝われば、どれほど親交があるといえど信頼関係に陰りが生じかねないのは確かである。
正確な情報が伝えられてサラージュの無事が確認できた今でさえ、ひっきりなしに便りが届くのだから。
ともすれば軽薄にも見える王の築いてきた『平穏』。それを保つのが自分の仕事なのだと、サラージュはきゅっと眉を吊り上げ改めて気合を入れる。
余計なことを気にしている暇はない。
暇はない――はずなのに。
(……殿下)
瞼の裏から、アレクシスの痛みを噛み潰すような笑顔が焼き付いて離れない。
(殿下が心穏やかに過ごされることは、国のためにもなる。だから、気になるだけ)
きっとそうだ。――そう自分に言い聞かせる少女は気づかない。
婚約者を気に掛けることはなにも悪いことではないというのに、彼を個人的に気に掛けようとする自分を殺している――その歪さに。
自分が何から目を逸らそうとしているのか。
サラージュ・ネクタルは、気づかない。
***
解放されて以降、サラージュはアレクシスと顔を合わせていない。
加害者と被害者という立場が成立する以上、当然の対応だ。いくらサラージュ本人が許すと言ったところで、まったくのお咎めなしとはいかない。よって、アレクシスにはサラージュが回復するまでの期間、サラージュを想起させる一切を断つことが命じられた。
本来ならば謹慎処分が妥当だ。
しかし、彼の凶行自体が機密事項になったこと、獣人種にとって最も重い刑罰は『運命』を傍に置けなくなることなどを鑑みて、傍から見れば冗談のようなこの処罰が下された……らしい。サラージュ自身に公式に渡される情報はどれも「処罰が決まった」程度の最低限の結果ばかりで、細かなことは精霊の噂などから推測するしかないのだが。
(わたくしはどうとも思っていないのに……変な話ね)
サラージュが生来動じない気質であることが裏目に出た。
あまりにも動じず、それどころかアレクシスの精神状態を気に掛けるものだから、ストレスからくる精神障害やなにかしらの洗脳魔法にかけられているのではないかと疑われたのだ。
洗脳状態に陥っていないか、精神が健常な状態か、獣人種から見て発情を誘発するフェロモンが分泌されていないか、あるいは避妊魔術を例外的に突破して子を宿した反作用ではないか。様々な精密検査を施され、心から細胞の一つ一つまで解剖された気分になったのは言うまでもない。
どっと疲れはしたものの、傍から見れば「なぜそのような横暴を許すのか」と問われるのも、わからないわけではない。
サラージュ自身、仮に友人や兄弟が同じように監禁されたならば同じような反応を返すし、似たような検査を勧めるだろう。だが、まあ。
(初恋だもの。この程度の事は許してしまうものよね)
呪文のようにその言葉を繰り返すサラージュの検査結果は、本人の予想通りの全検査問題ナシ。
かくして、許婚たちは久方ぶりの逢瀬を許される運びとなった。
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