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1章【明日から本気出す(だから今日は寝させて)】
【10】馬鹿に付けるのは薬ではない。
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やると決めたら即行速攻あるのみ。
幸い? なことに室内は狂乱の坩堝と化しているので、俺の動きを捉えることが出来る奴は居ないだろう。
居ないと思いたい。
いや、居ないでほしい。
「すぅぅぅぅぅぅっ」
深く息を吸い込んで口をつむぎ息を止める。そのまま扉に手を掛けた。
バッと扉を開くとむわっとした生温かい空気と白濁した煙が廊下に垂れ流れた。
「……んぁ……わ……うぇぁ……?」
扉の一番近くで胡座をかいて座り込んで居た30代くらいの髭面の男が振り向き虚ろげな瞳で此方を見た。
言葉にならないような言葉が口から漏れている。
男の隣に座り男の首筋を噛んでいた女が釣られるように俺の方を見る。
その一つ奥で汚物にまみれた男が、その隣に座り込み吐瀉物で前身を濡らす女が、床に仰向けに寝そべり煙を吸っていた男が、その男に股がりずるずると腰を振っていた女が、壁にもたれ手淫に耽っていた男が、燻る茶色い草を頬張りながらぴくぴくと痙攣していた女が、そして部屋の中央、玉座のように構えた無駄に豪奢に飾られた椅子でにやにやと気色の悪い笑みを浮かべていたモリヤが、開いた扉を見た。
が、俺は既にそこには居ない。
クソッ、俺まで吐きそうだ。
なるだけ正視しないよう、目を細め手前の男から後頭部に手刀を叩き込み意識を刈り取る。
恐らく俺の両の掌は無事では済まないだろう。
こいつらを処理し終える頃には汚物まみれだ。
クソッ、クソッ! さすがにこれはモニカに文句言ってやる!
モニカもまさかこんな事になってるだろうとは思いもしないだろうが、こんな目に遭ったんだ。文句の一つくらい言わせてもらわないとやってられん!
一人、また一人と確実に意識を奪う。
うぅ……。汚い。最悪だぁ。
腹を括ったといえど、現在進行形で汚れていく俺の両手が可哀想過ぎる。
引いてはこの俺が可哀想過ぎる。
手を汚すって、こんな文字通りじゃない筈だ。
もっと、苦渋の決断で昔の仲間を殺すとか、街のお偉いさんを殺すとか(例えばリュードの野郎とか。例えばリュードとか。例えばリュードのクソ野郎とか)秘密裏に障害になる敵を消していったりとか、そういうあれこれを手を汚すって言うんじゃないのか。
こんな、下水道業者みたいな単純な『汚れる仕事』のことは手を汚すとは呼ばない筈だ。
ううぅ。早く終われぇぇ。
汚くなった両手を懸命に後頭部に叩き込んでいく。
一人、また一人。
そして、やっと最後の一人。
豪奢で下品に光り輝く椅子に座ったまま、キョロキョロと周囲に転がる街の有力者達を見遣るモリヤの背後に立つ。
何か声掛けたほうが良いのか?
いや、拉致するのが目的なんだから良いか。
こいつと会話するのはモニカと合流した後で良い。
と言うかこいつと会話するのはモニカだけで良い。
モニカの元までこいつを運んだら俺の仕事は終わりだ。交渉事だとか折衝は俺の仕事にはならない筈だ。
背後に立たれてなお俺の存在に気付かない木偶の棒に手刀を叩き込み、遂に部屋には俺以外意識を保った人間は居なくなった。
少し息が苦しくなってきた。
さっさと帰ろう。
そしてモニカに文句を言おう。
それが良い。
きっと何か言い返されるだろうが、その程度の報復は今の俺には屁でもない。
屁よりも汚いもので汚れきった俺にはな。
だらりと椅子にもたれるモリヤを抱え……。
モリヤを抱えようとしたところで気が付いた。
それも、とても重大な事だ。
この部屋に居た連中は、誰一人として、衣類を着ていなかった。
着ていたであろう衣類は辺りに散乱しているが、それらも様々な液体や固形物で汚れきっている。
そんな、混沌としたこの空間でその身を清潔に保てている奴は、誰一人として存在しない。
当然、この空間の主、モリヤ・バンヘルンも同様だ。
身を削る思いで(精神はガリガリ削られたが)両手を犠牲に大仕事をやり遂げたと思い安心していた俺の最後の汚れ仕事は、全裸のモリヤを担いで連れ帰るという、一大汚れ事業だった。
何の罰で俺はこんな目に遭ってるの?
俺が何をしたって言うの?
何が悲しくて肥えきった中年のおっさんを、それも全裸で汗まみれ(幸いそれ以上のものは付着していない)のおっさんを担がなきゃなんないの?
この数十秒で十二分に罰は受けたじゃない。
これ以上俺に汚れろと、この身を削れと、精神を侵されろと、神はそう言っているのか。
あぁ、そうか。分かったぞ。これが、ブラック企業ってやつか。
汚れ仕事がレベルアップして汚れ事業にクラスチェンジして、さらに極まるとブラック企業になるんだな。
一つ、俺は大切なことを学ばせてもらったんだな。
モニカに文句を言うどころか、新しい経験と知識を得る機会を与えてくれた事をモニカ様に感謝しなきゃいけないんだなーー。
クッソ!!!
とっとと帰る! こんな所に居られるか(息も苦しいし、息苦しいし)! 俺は帰るぞ!
ううう! 嫌だぁ!
汚い汚い汚い汚い!
脂まみれ汗まみれのおっさん!
ううううぅぅ。触りたくない触りたくない。
うぅっ! ぬるってした。ぬるって、うぅ。べらべらしてる。何だこれ。うぅ、粘ってるぅ。ううぅ……。
椅子の背垂れにもたれているモリヤの前方から背中に手を回し、肩に担ぐ。肩に担……ぐ。
担ぐ……。担……い、だっ!! ぐうううぅぅ!!
俺は石だ。俺には自我などない。俺は路傍の石ころ。意思などない。意思の無い石なのだ。無私だ。無我だ。この肩に乗っかる物もただの肉だ。肉の塊だ。油の入った少し生温かい革袋だ。そうだ、革の袋なのだ。革袋だから冷たくなく温かいのだ。そうだ。だから気持ち悪くなどないのだ。いや、いっそこれはオリーブオイルか何か、芳醇な薫りを放つ香油を入れた高級な革なのだ。うん、そうなのだ。だから早く持ち帰ろう。早く、一刻も早く。一刻も早く愛しのぼろ宿に帰ろう。早く帰って身体を、心を清らかにしよう。
自身を騙し騙し、誤魔化し誤魔化し、終いには無心に至り真顔で、一切の感情を出さず、淡々と、それでも素早く、誰にも目撃されないように、誰にもこんな姿と担いだ高級革袋を見られたりしないように細心の注意を払い帰路に着いた。
「あら、お帰りなさいハルベルト。ご苦労だったわ……うぅっ?! 臭い! 臭いわ!? 貴方と、貴方が抱えるその肉だるまから異臭が、とてつもない異臭がするわ! 臭い! 臭い臭い!! 汚らわしい! 早く出て行きなさい! 一刻も早くこの部屋から立ち去りなさい! こら! その肉だるまもよ! 何を置こうとしているの! こらハルベルト! ちょっ! ハルベルト何をやって、ま、待って! 待ってって! 待ちなさいって言っているでしょ!? 何を床に置こうとしてるの! そんなの置いちゃ駄目よ! この臭い臭いが取れなくなっちゃうじゃない! 馬鹿! 止めなさいってば! やめっ、止めて、止めて止めて! ちょっ、まっ、ご、ご免なさい! 謝るから! 真顔で此方を見つめるのを止めて頂戴! お願いだから! 謝るから! ご免なさいご免なさい! お願いですからその汚いものを部屋の外に持って行って! あ、ご免なさいご免なさい! もう汚いって言わないから! もう言いませんから! お願いだからそんな顔で私を見ないで! 貴方が凄く大変だったのは察したから! ちゃんと解ったから! すっごく大変だったの私解っちゃったから! ちゃんと、ちゃんと後で労ってあげるから! 今は言うことを聞いてそれを持って外に。お願い。貴方とそれを洗うの私も手伝うから。手伝いますから。ね? お願い。言うこと聞こ? 良い子だから。ね? うん。うんうん。よく頑張ってくれたわ。貴方は偉い。 私の為に頑張ってくれたのよね? すっごくやりたくないのに、私為に頑張ってくれたのよね? 偉い偉い。偉いわハルベルト。ありがとう。私の為に頑張ってくれて、私凄く嬉しい。だから泣かないで? この家にはお風呂は……無いのよね。そう言ってたものね。うん。えっと……あ、確かすぐ近くのギルドに公共の井戸があったわね。うん。それが良いわ。そこまで一緒に行きましょう? 貴方の身体を綺麗にするの、私も手伝うわ」
モニカに優しく撫でられた辺りで(良い子だから。ね? の辺り)俺は泣いてしまった。
何が悲しいって、モニカが、第一声の労いの言葉を言い終える前に鼻を摘まんで眉間に皺を強く寄せて俺自身を汚物を見る目で見たから……。
冷たい井戸水で汚れを落として、漸く心と身体が落ち着いた。
こんなに荒れたのは何時以来だろう……。
幸い? なことに室内は狂乱の坩堝と化しているので、俺の動きを捉えることが出来る奴は居ないだろう。
居ないと思いたい。
いや、居ないでほしい。
「すぅぅぅぅぅぅっ」
深く息を吸い込んで口をつむぎ息を止める。そのまま扉に手を掛けた。
バッと扉を開くとむわっとした生温かい空気と白濁した煙が廊下に垂れ流れた。
「……んぁ……わ……うぇぁ……?」
扉の一番近くで胡座をかいて座り込んで居た30代くらいの髭面の男が振り向き虚ろげな瞳で此方を見た。
言葉にならないような言葉が口から漏れている。
男の隣に座り男の首筋を噛んでいた女が釣られるように俺の方を見る。
その一つ奥で汚物にまみれた男が、その隣に座り込み吐瀉物で前身を濡らす女が、床に仰向けに寝そべり煙を吸っていた男が、その男に股がりずるずると腰を振っていた女が、壁にもたれ手淫に耽っていた男が、燻る茶色い草を頬張りながらぴくぴくと痙攣していた女が、そして部屋の中央、玉座のように構えた無駄に豪奢に飾られた椅子でにやにやと気色の悪い笑みを浮かべていたモリヤが、開いた扉を見た。
が、俺は既にそこには居ない。
クソッ、俺まで吐きそうだ。
なるだけ正視しないよう、目を細め手前の男から後頭部に手刀を叩き込み意識を刈り取る。
恐らく俺の両の掌は無事では済まないだろう。
こいつらを処理し終える頃には汚物まみれだ。
クソッ、クソッ! さすがにこれはモニカに文句言ってやる!
モニカもまさかこんな事になってるだろうとは思いもしないだろうが、こんな目に遭ったんだ。文句の一つくらい言わせてもらわないとやってられん!
一人、また一人と確実に意識を奪う。
うぅ……。汚い。最悪だぁ。
腹を括ったといえど、現在進行形で汚れていく俺の両手が可哀想過ぎる。
引いてはこの俺が可哀想過ぎる。
手を汚すって、こんな文字通りじゃない筈だ。
もっと、苦渋の決断で昔の仲間を殺すとか、街のお偉いさんを殺すとか(例えばリュードの野郎とか。例えばリュードとか。例えばリュードのクソ野郎とか)秘密裏に障害になる敵を消していったりとか、そういうあれこれを手を汚すって言うんじゃないのか。
こんな、下水道業者みたいな単純な『汚れる仕事』のことは手を汚すとは呼ばない筈だ。
ううぅ。早く終われぇぇ。
汚くなった両手を懸命に後頭部に叩き込んでいく。
一人、また一人。
そして、やっと最後の一人。
豪奢で下品に光り輝く椅子に座ったまま、キョロキョロと周囲に転がる街の有力者達を見遣るモリヤの背後に立つ。
何か声掛けたほうが良いのか?
いや、拉致するのが目的なんだから良いか。
こいつと会話するのはモニカと合流した後で良い。
と言うかこいつと会話するのはモニカだけで良い。
モニカの元までこいつを運んだら俺の仕事は終わりだ。交渉事だとか折衝は俺の仕事にはならない筈だ。
背後に立たれてなお俺の存在に気付かない木偶の棒に手刀を叩き込み、遂に部屋には俺以外意識を保った人間は居なくなった。
少し息が苦しくなってきた。
さっさと帰ろう。
そしてモニカに文句を言おう。
それが良い。
きっと何か言い返されるだろうが、その程度の報復は今の俺には屁でもない。
屁よりも汚いもので汚れきった俺にはな。
だらりと椅子にもたれるモリヤを抱え……。
モリヤを抱えようとしたところで気が付いた。
それも、とても重大な事だ。
この部屋に居た連中は、誰一人として、衣類を着ていなかった。
着ていたであろう衣類は辺りに散乱しているが、それらも様々な液体や固形物で汚れきっている。
そんな、混沌としたこの空間でその身を清潔に保てている奴は、誰一人として存在しない。
当然、この空間の主、モリヤ・バンヘルンも同様だ。
身を削る思いで(精神はガリガリ削られたが)両手を犠牲に大仕事をやり遂げたと思い安心していた俺の最後の汚れ仕事は、全裸のモリヤを担いで連れ帰るという、一大汚れ事業だった。
何の罰で俺はこんな目に遭ってるの?
俺が何をしたって言うの?
何が悲しくて肥えきった中年のおっさんを、それも全裸で汗まみれ(幸いそれ以上のものは付着していない)のおっさんを担がなきゃなんないの?
この数十秒で十二分に罰は受けたじゃない。
これ以上俺に汚れろと、この身を削れと、精神を侵されろと、神はそう言っているのか。
あぁ、そうか。分かったぞ。これが、ブラック企業ってやつか。
汚れ仕事がレベルアップして汚れ事業にクラスチェンジして、さらに極まるとブラック企業になるんだな。
一つ、俺は大切なことを学ばせてもらったんだな。
モニカに文句を言うどころか、新しい経験と知識を得る機会を与えてくれた事をモニカ様に感謝しなきゃいけないんだなーー。
クッソ!!!
とっとと帰る! こんな所に居られるか(息も苦しいし、息苦しいし)! 俺は帰るぞ!
ううう! 嫌だぁ!
汚い汚い汚い汚い!
脂まみれ汗まみれのおっさん!
ううううぅぅ。触りたくない触りたくない。
うぅっ! ぬるってした。ぬるって、うぅ。べらべらしてる。何だこれ。うぅ、粘ってるぅ。ううぅ……。
椅子の背垂れにもたれているモリヤの前方から背中に手を回し、肩に担ぐ。肩に担……ぐ。
担ぐ……。担……い、だっ!! ぐうううぅぅ!!
俺は石だ。俺には自我などない。俺は路傍の石ころ。意思などない。意思の無い石なのだ。無私だ。無我だ。この肩に乗っかる物もただの肉だ。肉の塊だ。油の入った少し生温かい革袋だ。そうだ、革の袋なのだ。革袋だから冷たくなく温かいのだ。そうだ。だから気持ち悪くなどないのだ。いや、いっそこれはオリーブオイルか何か、芳醇な薫りを放つ香油を入れた高級な革なのだ。うん、そうなのだ。だから早く持ち帰ろう。早く、一刻も早く。一刻も早く愛しのぼろ宿に帰ろう。早く帰って身体を、心を清らかにしよう。
自身を騙し騙し、誤魔化し誤魔化し、終いには無心に至り真顔で、一切の感情を出さず、淡々と、それでも素早く、誰にも目撃されないように、誰にもこんな姿と担いだ高級革袋を見られたりしないように細心の注意を払い帰路に着いた。
「あら、お帰りなさいハルベルト。ご苦労だったわ……うぅっ?! 臭い! 臭いわ!? 貴方と、貴方が抱えるその肉だるまから異臭が、とてつもない異臭がするわ! 臭い! 臭い臭い!! 汚らわしい! 早く出て行きなさい! 一刻も早くこの部屋から立ち去りなさい! こら! その肉だるまもよ! 何を置こうとしているの! こらハルベルト! ちょっ! ハルベルト何をやって、ま、待って! 待ってって! 待ちなさいって言っているでしょ!? 何を床に置こうとしてるの! そんなの置いちゃ駄目よ! この臭い臭いが取れなくなっちゃうじゃない! 馬鹿! 止めなさいってば! やめっ、止めて、止めて止めて! ちょっ、まっ、ご、ご免なさい! 謝るから! 真顔で此方を見つめるのを止めて頂戴! お願いだから! 謝るから! ご免なさいご免なさい! お願いですからその汚いものを部屋の外に持って行って! あ、ご免なさいご免なさい! もう汚いって言わないから! もう言いませんから! お願いだからそんな顔で私を見ないで! 貴方が凄く大変だったのは察したから! ちゃんと解ったから! すっごく大変だったの私解っちゃったから! ちゃんと、ちゃんと後で労ってあげるから! 今は言うことを聞いてそれを持って外に。お願い。貴方とそれを洗うの私も手伝うから。手伝いますから。ね? お願い。言うこと聞こ? 良い子だから。ね? うん。うんうん。よく頑張ってくれたわ。貴方は偉い。 私の為に頑張ってくれたのよね? すっごくやりたくないのに、私為に頑張ってくれたのよね? 偉い偉い。偉いわハルベルト。ありがとう。私の為に頑張ってくれて、私凄く嬉しい。だから泣かないで? この家にはお風呂は……無いのよね。そう言ってたものね。うん。えっと……あ、確かすぐ近くのギルドに公共の井戸があったわね。うん。それが良いわ。そこまで一緒に行きましょう? 貴方の身体を綺麗にするの、私も手伝うわ」
モニカに優しく撫でられた辺りで(良い子だから。ね? の辺り)俺は泣いてしまった。
何が悲しいって、モニカが、第一声の労いの言葉を言い終える前に鼻を摘まんで眉間に皺を強く寄せて俺自身を汚物を見る目で見たから……。
冷たい井戸水で汚れを落として、漸く心と身体が落ち着いた。
こんなに荒れたのは何時以来だろう……。
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