【悪魔喜・天使泣】ソフィアのえにっき――地獄と天国→戦場をダウナー妖精とおでかけ♪【完結済】

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第5話――わっかのまんなか―A面

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……私の名前はソフィア。
……叡智って意味。
……古い言葉ではアイオーン。
……でももう違う。
……いまからそれを証明する。


 再び、夢の世界へ。
 ソフィアはいつも、2つの界面を行き来してしまう。
 半分は本人が望んだこと。
 もう半分はわからない――誰もがそうなるように。
 眠りにつくと、ついつい夢の扉を開いてしまう。


「ねっとりしていってね!」
 ここは地上の人里。
「ねっとりしていってね!」
 子どものような、あるいは女性のような高い声がした。
 発生源はスライムだ。
「ああ――ねっとりしていけよ。ただし、ここじゃ駄目だ」
 悪魔の青年はうんざりしている。
「見えるか? 井戸がある――人間が住んでる場所だってわかるよな」
 彼はスライムの群れに囲まれている。
「いやだよ! スライムが先に見つけたんだから、スライムのだよ!」
「そうだよ!」
「ねっとりしていない人間はしんでね!」
「しんでね! すぐでいいよ!」
「うるせぇえ! 失せろ!」
 ヨハンは1911型の拳銃を抜くなり撃った。
 しかし――弾丸はスライムの身体の中心で、運動エネルギーを使い果たす。
 38口径弾の横軸の左回転が虚しく止まった。
 初速1300フィートで、威力は500フィートポンドに迫る。
 旧式の防弾ベストならば貫通できるが――スライムには無力だった。
 125グレインのJHP弾が、潰れたマッシュルームの形で押し出される。
「きかないもんね!」
「ねっとりしてるもん!」
「くそ人間はばかだね!」
「……」
「お水さんをこれからねっとりさせるんだよ!」
「あっちへ行ってね!」
「それからしんでね!」
 そう言って、スライムの群れは折り重なって自ら同胞の階段を造る。
「わっせ! わっせ!」
「ねっとり踏み台に――」
「していってね!」
 そうして、
「あいきゃんふらーい!」と言って、最初の1匹が井戸に飛び込んだ。
「ひゃっはー!」
 ヨハンの口癖のような嬌声とともに続く別のスライム。
「よし――殺す」
 続々とスライムの群れが井戸へ飛び込んでいく。
「……」
 この井戸はもう駄目だ。
 スライムはある程度は土壌の汚染を分解・除去する性質をもつ。
 そのため、人の暮らす場所に少し侵入してくる分には黙認されてきた。
 しかし――巨大な群れ、群体となったら始末に負えない。
 悪魔の青年はいったん、その場を離れることにした。

   やっとこやっとこ くりだした♪
   あくまのへいきが ラッタッタ♪
   ハーレークイン隊のいきのこり♪
   銃が駄目なら爆弾 ラッタッタ♪

   やっとこやっとこ ひとまわり♪
   巨乳天使を怒らせ ラッタッタ♪
   メスガキの妖精も とびだして♪
   あくまの俺だけ ヒャッハーだ♪

 しばらくして。
 ヨハンは古いドラム缶を転がして戻ってきた。
「おいスライムども!」
 井戸に向かって声をかけた。
「なんなのくそ人間!」
「いまねっとりしてるんだよ!」
「いまいそがしいの!」
「わからないの?」
「バカなの?」
「しんでね! すぐでいいよ!」
「そんなに〝ねっとり〟が好きなら! 俺からプレゼントをやろう!」
「プレゼント!」
「なにそれっ!? おいしいの?」
「はやくちょうだい!」
「そしたらしんでね!」
 スライムたちは喜んでくれた。
「任せろ!」
 そう言って、彼はドラム缶に高圧ポンプをつなぐ。
 中に詰めてあるのは、ガソリンとナフサの混合物。
 それに、ポリエチレンとアルミの粉末を増粘剤として添加したものだ。
 悪魔は軽薄で意地悪そうな笑みを浮かべる。
「ねっとりした〝特別なお水さん〟だぜ!」
 そう言ってヨハンは噴射した。
「俺の奢りで飲み放題だ! ご馳走してやる!」
 スライムたちは、なぜか阿鼻叫喚だ。
「くっさ! なんなのこれぇえええ!」
「ねっとりしてるのにくっさ! まじやべぇえええ!」
「しぬしぬしぬしんじゃう! ねっとりしてるのに!」
「ねっとりしてる特別な水に文句を抜かすなんて、贅沢な奴らだ!」
 そう言いながら、ヨハンは高圧ポンプを介して噴射をつづける。
「さあて――そろそろ頃合いだよな」
 そう言って悪魔は火をつけた。
 彼がポンプで撒いていたのは自家製のナパームだ。
 そこに火をつければ、どうなるかは明白だ。
「ぎょえええええええ!」
「きえてね! めらめら炎さんきえてね!」
「ねっとりしたお水が燃えるなんて!」
「こんなのぜったいおかしいよ!」
「どぼじでごんなごどずるのぉおおお!」
 摂氏900度から1300度に達する、炎の津波がスライムたちを蹂躙した。
 それは水をかけても消えず――高温で燃える。
「ネットリシテイッテネ――ネットリシテイッテネネットリシテイッテネネット……」
 命と尊厳を奪う――立派な非人道的な兵器でもある。
「相手はスライムだ! でも、報道写真家には内緒にしてくれ!」
 ヨハンが誰にともなく言った。
 そこへ。
「なにをしているのですか! 井戸に火を放つなんて!」
 ミリアムが現れた。
「なにって――地獄の業火を絶やさないよう、資源の無駄と温暖化に貢献してるだけだ」
「嘘をついても無駄です! 人里に越境してきたスライムを駆除していると、なぜ言わないのですか? まったくもう」
 どうやら、彼女も一連のやりとりを見ていたらしい。
「あなたのやり方は間違っています!」
「へいへい」
「そんなことをしていては、この世はちっとも良くなりません」
「俺が知るかぎり、この世がパラダイスだったことは一度もないが? あ――美女の集まるヌーディスト・ビーチを除いてな!」
「減らず口をおやめなさい!」
「そのスケベな乳袋を、いつまで勿体ぶってんだ? サービスしろよ!」
「この悪魔!」
 2人が地上にいるのには、実はわけがある。
 取り返しのつかない事情が。


 話はだいぶ遡る。
 あるときのこと。
 妖精の少女は、
「あなたは誰?」と訊いたことがある。
 しかし答えはもらえなかった。
 かつてソフィアは〝ちびドラ〟とともに世界を旅した。
 透明な迷路で、意地悪な謎解きをするずっと前。
 夢から少し覚めて、戦争に関わるもっと前。
 悪魔のヨハンと地獄を観光し、天使のミリアムと出会うちょっと前。
 まだ彼女が無垢な叡智の体現者で。
 世界に無関心なアイオーンだった頃。
 自分のことを〝自由〟だと思い上がって。
 退屈を持て余すことを不幸だと勘違いしていたときだ。

〝ちびドラ〟とともに、世界の端のちょっと先に奇妙な樹木を見つけた。
 妖精の少女は相棒とともに、世界の果てを目指したつもりだった。
 だが、直感的にそれが間違いだとわかった。
……世界の端に住んでいたのは、私たちのほう。
……この樹が世界の中心なの。
 ソフィアはあらためて、世界の真ん中に生えている樹を見た。
 便宜上これを〝真ん中の樹〟と呼ぶ。
 大きいのに、そこには実がひとつしかない。
 よく観察すると、3本の太い木が均等に互いを支えている。
〝真ん中の樹〟は三角錐のような構造だ。
 それぞれの木は10本の幹が絡まり、螺旋状に伸び。
 幹の先から合わせて21本の枝が放射状に広がる。
 その中心から1本の枝が下に伸びて、空中で静止していた。
 3本の木と10本の幹――そして合わせて22本の枝。
……図鑑で見たことがある。
……ずっと前に。
〝生命の樹〟と同じ構造だ。
 さらに近づいてるみると、そこに成っている実の正体がわかった。
 実は樹の実ではない。
……卵?
 半透明のガラス状の殻に覆われた卵。
 その中には、白濁した白身と真っ黒な黄身が中心に浮かぶ。
 中央の黄身と白身は、血のように赤いカラザがバネのようにうねって繋がる。
 大きさは人の頭ほどもあるが、間違いなく卵だ。
……デミウルゴスの卵だっけ?
……これが?
〝あなたは誰?〟
 ソフィアはもう一度、心で尋ねたが答えはない。
「……」
 そっと卵の殻に触れた。
 まだ命の形をなしていないのに、卵は静かに脈動を返した。
 小さな妖精の手のひらに。
 それはほのかに温かい。
……生きてる。
 それだけ確認して、ソフィアは〝ちびドラ〟とともにその場を離れた。
 樹の実を記念に持ち帰ろうとか。
 妖精の本能に負けて悪戯をしようとか、そんな考えはなかった。
 ただ、わからなかったのだ。
 なにをどうしていいのか。
「ん」
 今はそれが変わってしまった。
 原因――きっかけを作ったのは、あの世界旅行から戻って間もなくのことだ。
 悪魔が、
「ヒャッハー!」と言って、ソフィアの家にやってきた。
 それが全ての始まりにして――今、終わりに導こうとしている。
 終わったのは旅。
 はじまりのはじまり?


 ソフィアは〝ちびドラ〟とともに世界を旅した。
 それから、悪魔のヨハンにそそのかされて地獄を見物した。
……ついていったのは、私の意思。
 ヨハンの魔の手から、天使のミリアムが天国に助け出してくれた。
 そのとき知った。
 天国に救いがないと――あそこは、平等を具現化するための魂の牢獄。
 地獄は地獄で、永遠の不夜城にあったのは――虚しい喧騒。
〝ちびドラ〟のおかげで地上に戻れた妖精の少女はお昼寝した。
 そうして少しだけ夢の外に出てみた。
 夢の外側では少しだけ戦争と関わった。
……好奇心に負けちゃったせい。
 そして透明な迷路。
……あそこで大事なことを知った。
 また夢の外に出たときには、辛うじて戦争の再開を止めた。
……みんなで。
 記憶が今や曖昧に溶けたが、透明な迷路の中で戦いを止めた気がする。
 謎解きのことも。
 解決の唯一の手段は天使と悪魔――
 あの2人の戦いを止めて、混沌相克を防いだこと。
 夢の外――戦争のある、あの世界ではまだできてない。
 あそこでは、きっと今でも戦いが続いている。
 悪魔や天使ではないヨハンとミリアムは、向こうでは味方同士だったが。
 しかし、戦いをやめられないのが夢の外の世界。
 魔法がすっかり衰退して、女神の奇跡と信仰が形骸化してしまった。
 機械文明が、自然科学のパワーバランスを乱すのが当たり前の世界。
 貧困と飢餓は減ったのに。
 ひとたび戦いが始まれば、機械の力が猛威を振るう。
 輸送特化の飛竜から、沢山の落下傘が空に花を咲かせて。
 塹壕を戦車が乗り越えたところを、対戦車地雷が待ち構える。
 戦略爆撃飛竜が、2000ポンド爆弾の雨を降らせたら。
 魔族が極大呪文で霧のカーテンを戦場に引き、自軍の軍勢を覆い隠す。
 それを消し飛ばすために、いずれあの国は〝粗悪な太陽〟を生む。
 戦争は際限なく、より大規模でより危機的なものになっていくだろう。
 悪意のインフレーションを無限大に加速させて。
 立場が変わった瞬間――あの2人が戦う未来すらあり得る。
 そうなったら。
 ヨハンは躊躇いなく銃を撃つだろう。
〝シアの切れ味が鈍ったな〟
 そんな強がりを言うのが彼だ。
 ミリアムは迷った末に撃つかもしれない。
〝ごめんなさい――大尉〟
 謝罪かあるいは、礼を言うのが彼女だろう。
 行き着く先はよくて共倒れ。

……仕方ないの?
……そんなの嫌っ!

 それがソフィアの小さな願いとして生まれた。
 夢の世界くらい〝滅びの戦い〟を回避したい。
 そのために。
 まずは天国の光と地獄の闇という、2つの戦いを終わらせる。

……自分でやらないと。
……この世界を壊すの。
……1発カマしに行く。

 家の鏡の前で、ソフィアは青い髪をブラシで梳かす。
 身支度をしている――旅立ちの前の様子を相棒の〝ちびドラ〟が見つめる。
「っ!」
 不意に光が目に入った。
 その双眸、瞳孔が眩しさを受けて縦に長くなる。
「……?」
 次の瞬間――瞬きほどの空白を経て。
 鏡の前からソフィアはいなくなった。
 鏡は一度だけ波打ってから、元通りの鏡像を映す。
 光に目がくらんだ一瞬で、妖精の少女は鏡の水面を越えて向こう側へ。
〝ちびドラ〟からは見えなかった。
「……!」
 相棒を見失った小さな飛竜は家中を探して飛び回る。
 いつものお留守番と違う。
 胸騒ぎがした。
 オヤツを隠してある引き出しを開けて、洗濯物のカゴをひっくり返し。
 ゴミ箱を尻尾で倒してみる。
 物音や家を散らかした気配を立てれば――
 ソフィアが怒って顔を覗かせるかと期待して。
 しかし結果は変わらない。


 ときは流れて。
 鏡を通り抜けて、西日が反射した海の光が岸壁を照らした一瞬をついて。
 妖精の少女は反射の光とともに外へ出てきた。
 再びソフィアは〝生命の樹〟の前にいた。
 手には魔法の金槌を持っている。
「みんなびっくりしちゃう? それでも、やらなきゃ」
 ソフィアは魔法の金槌を振りかぶった。
 こんなとき、ヨハンならなんて言うか。
……やっぱり〝ヒャッハー!〟かな。
 ミリアムは。
……きっと〝そんなことをしては駄目です〟かな。
〝ちびドラ〟はどうか。
……ただ見守ってくれるだけ。
「――っ!」
 妖精の少女、ソフィアは〝世界の卵〟を割った。
 甲高い、耳の痛くなる音。
 卵の殻がガラスのように砕ける。
 殻の1枚1枚に、
「……」といつもの無表情を浮かべた、妖精の顔が色々な角度で映った。
 それらには、あり得たはずの未来を切り取った瞬間が映る。
 中には。
 ヨハンとミリアムが互いに銃を向けている場面があった。
 それこそ、ソフィアがどうしても割りたかったもの。
 ここではないどこかで、彼女は訊いたことがある。
〝銃で人を撃ったら何を感じるの?〟
〝反動だ〟
 素っ気ない、彼らしい答えが返ってきた。
 弾かれるような痺れる嫌な感触が――小さな手に残ったままだ。
……これも反動。
……自分の手を汚したときの。
 殻からこぼれた白身と、真っ黒な黄身が地面に落ちていく。
 落ちた瞬間の、ベチョっというグロテスクな音。
……気持ち悪い。
 それは罪悪感か、それともただの不快感の表明なのか。
 とにかくこのとき、ソフィアは〝世界の卵〟を破壊した。
 なぜ、こんな真似をしたのか。
 誰かに訊かれるたびに、彼女は同じ答えを返す。
〝他になかった〟
 何度も同じことを訊かれ、しまいには妖精の少女は唇を尖らせた。
 そして、
〝だってあれじゃ、ゆで卵しか作れない――そんなのつまらないもん〟と機嫌を損ねたように言った。
 彼女らしい言い草だ。
 一見すると、子どもの我儘のようだが。
 しかしこの妖精の少女は子どもではないし、そもそも人間でもない。
 彼女はソフィアにしてアイオーン。
 いずれ罪を犯して、地上に堕ちる者と同じ名を継いでいる。
 この世界でも闇と光がぶつかり合うことを予期した。
 ヨハンとミリアムを通して。
 それを止めるには、世界の中心で法則を司る存在を破壊しなければ。
 そう考えたのではないか。
 ただし、真意はわからない。
 あるいは深い考えなどないのか。
 妖精らしい奔放さで〝ゆで卵〟を嫌がったとも考えられる。
 ソフィアが食べたいのは目玉焼き?
 それともオムレツ?
 ポーチドエッグかもしれない。
「これが天国と地獄を壊すために必要な犠牲――コラテラル・ダメージ」

……私が壊したのは世界の法則じゃない。
……私を基底した過去の自分自身。
……誰もが出来ないことだから。
……誰にも裁けない。

〝世界の卵〟が割れて地面に染み込んでいく。
 最後の混沌相克が起きた。
 冬至の深夜より暗く、夏至の正午より眩い光の柱がソフィアを包んでいった。
 そして彼女は姿を消す。
 念の為、家の鏡には魔法で伝言を残してあった。
……少し時間が要るかな。


「……?」
 家から姿を消した相棒を探すのに疲れ。
 お昼寝をしていた〝ちびドラ〟が目を開く。
 小さな飛竜の幼体は何かの異変を感じ取ったのか、再び浴室へ。
 洗面台の鏡にはいつのまにか文字が浮かんでいた。
〝待ってるから来て〟
 そう魔法で書きこまれたメッセージがあった。
 鏡文字で。


 同じ頃。
 ここは永遠の夜が続く地獄。
 地獄の住人たちは夜を恐れて、色とりどりの明かりをつけて踊り狂っていた。
 そのはずだった。
 地獄の主人、悪魔のヨハンは瞠目した。
「おいおいおい――」
 珍しく困惑した声を彼は漏らした。
 地獄になぜか朝日が昇る。
 日の出とともに、踊り狂って楽しそうに振る舞っていた住人たちには、様々な表情が浮かんでいく。
 恐れ、不安、困惑――それから少しの安堵。
 まるで人間みたいに。
 地獄の亡者たちが人間に還ったということは。
 ヨハンの部下であるピエロ人形たちも、元に戻っているはずだ。
 彼は上着の内ポケットから端末水晶を取り出した。
 ボタンを押して、呼びかける。
「ハーレークイン――ハーレークイン。こちらシックスだ、応答しろ」
 少しだけ間をおいて返答がくる。
〝……クス、シックス――こちらはハーレークイン・ファイブ。ご無沙汰ですね、大尉。みんな聞いておりますよ。どうぞ、ご命令を〟
 部下の筆頭――小隊軍曹を務める上級曹長から応答があった。
 懐かしい、穏やかな声だった。
 通信が繋がると、ヨハンは命令を伝える前に息をつく。
「シニア――待たせたな」
 あらためて彼は部下に命じる。
「ハーレークイン全隊へ――シックスより告ぐ。これより一方通信で通達するから、聞け。ブレイク……」
 ヨハンはこれから起き得るであろう、混乱の対策を部下に指示した。
「確認したら送れ」
 上級曹長、シニアの応答が返ってくる。
〝シックスへ――ファイブです。ただちに命令を実行します。大尉、どうかお任せを。どうぞ〟
 全幅の信頼を置く下士官の言葉ほど、勇気を貰えるものはない。
「シックス、アウト」
 ヨハンは通信を切ってから、両手を上にあげながら背中を伸ばして言う。
「やってくれたなあ――メスガキ妖精ちゃん」
 ソフィアの蔑称を口にしたヨハンの顔は見えない。
 その背中から、悪魔の象徴であるカラスよりも真っ黒な翼が空気に溶けていく。
「これじゃもう、俺様――ああ、違った。俺はもう〝ヒャッハー〟できねえや」
 ヨハンの言葉とともに、地獄のディスコは終演した。
 看板とネオンサインの明かりが消える。
 もう、点けている意味がなくなったから。


 地獄に朝日が昇ったのとほぼ同時刻。
「ああ――そんな。なんということでしょう」
 天国にいた天使ミリアムが狼狽した。
 誰もいない、孤独の白亜の国が闇に呑まれつつある。
 ただ1人の――最後の天使として、彼女は剣を抜いて振るう。
 闇を追い払おうとして。
 光を凝縮した聖なる剣は闇を次から次に切り裂いていく。
 しかし、上段から真っ2つに斬れば闇はそのまま2つに増え。
 そのまま横薙ぎに払うと4つに増えてしまう。
 その上、前を斬れば後ろから。
 右を斬れば左から。
 下を斬れば上から。
 闇は常にミリアムの反対から侵食してくる。
「はあ――はあ」
 天使は肩で息をつきながらも剣を振るった。
「っ!」
 不意に背中が冷たくなった。
 闇が――彼女の翼に触れたらしい。
 天使の証である白鳥よりも純白な翼が――
 光の粒子となって霧散していく。
 剣も折れた。
 翼を失ったミリアムは跪いて、両手を組み合わせるようにして頭を下げる。
 最後の一瞬まで、天国を守るために。
「……」
 目を閉じて祈りを捧げる彼女に、
〝わたくしの可愛い天使――ミリアム〟と優しい女性の声が聞こえた。
「!」
〝天国はその役目を終えたのです〟
「そんな――女神様!」
〝悲しむことはありません――これは因果律を越えた事象で、そもそも誰の手にも負えないのです。このわたくしにも〟
「……」
〝地上にお戻りなさい――あなたにはまだ使命が残っています。それから、個人的な伝言をお願いします。ヴィクトリアは永遠にヨハンお兄様をお慕いしていますと〟
「はい――必ずや」
〝では、おゆきなさい――最後に、天地開闢より初めて自由を得た天使を寿ぎます。証に私の羽を1枚だけ授けましょう。それで地上に降りられますから〟
 天啓に代わって、空から1枚の透き通った白い羽が降ってくる。
 ミリアムは涙を止められないまま――それを押し頂き、胸に抱いた。
 彼女は天国で真の孤独になってしまった。
「……」
 ヨハンに会わなくては。
 粗野で下品で不遜で不愉快にして不倶戴天の悪魔だが。
「ご神託ですもの――やむを得ません」
 そう独り言を呟いてから、
「大尉――今、参ります」と彼女はつづけた。
 なぜだろう。
 地獄の軍隊の階級など、汚らわしい称号なのに。
 呼び慣れている気がするのは。
 口にした瞬間、恐怖や悲しみが消し飛んだ気がする。
「いえ――錯覚です」
 跪いていたミリアムは立ちあがって跳んだ。
 闇が天国を包んでいくのを眼下に見ながら。
 最後の天使は悪魔の姿を求めて降りていく。

 そして、地上でミリアムは間もなくヨハンを見つけた。
 人里に降りて、井戸を汚染していたスライムの群れを蹂躙した悪魔を。


「……」
 ソフィアの家の前、誰も来ない郵便受けの上で〝ちびドラ〟はひと休みしていた。
 不意に小さな飛竜が顔を上げた。
 聞き覚えのある声がしたためだ。
 ただし、ソフィアではない。
「どうせまた、あなたのせいでしょう! 白状なさい!」
「濡れ衣だ! 俺は生まれて一度も悪いことしちゃいねえ!」
「嘘おっしゃい! だいいち――前に、私の翼を盗んだじゃありませんか!」
「高く売れたぜ――お前さんの真っ白パンツと、Fカップのブラとセットでな!」
「このぉお! 破廉恥悪魔め! そこになおりなさい!」
「あ! 待って! コブラツイストはもうやめて! もっとエロい攻撃がいい! 寝技とかどうだ? それだったら、夜通し付き合ってやる!」
「おだまりなさい!」
「やなこった!」
 騒がしい口喧嘩をしながら歩いてくるのは、悪魔のヨハンと天使のミリアム。
 緊急時だというのに、この2人は相変わらずだ。
 あの迷路で何を学んだのか。
 それとも忘れてしまったのか。
〝ちびドラ〟は大きくため息をついた。
 どうやら、思い知らせるときが来たようだ。
「……」
〝ちびドラ〟が氣を練ると、小さかった幼体の飛竜はみるみるうちに大きくなっていく。
〝大概にするのじゃ――小さき翼を失いし、女神の子ら〟
 成体まで大きくなった飛竜が両翼を広げた。
 かつて〝ちびドラ〟と呼ばれていた巨大な飛竜。
 天使も悪魔もいない世界での最後の絶対者。
 それが厳かで有無を言わせない声で言う。
〝我が名はマイア――ヨルムンガンドを祖にもつ竜である。かそけき賢者の庇護を仕る者にして力の調停者であり、大空を翔る竜と大地を這う竜を治める真の覇者である。ちなみにピッチピチの乙女じゃ〟
 マイアと名乗った、山を思わせるほど大きな飛竜は体を屈めて、ヨハンとミリアムに目線を合わせてくる。
「前にもまして雄大な――これが真の飛竜にして竜の王」
 天使――ミリアムが感嘆して言った。
「なあ、おババ」
「ちょっ!」
 ヨハンは悔い改めたようで、まったくそんなことはなかった。
 よりにもよって竜の王に〝おババ〟と呼びかけるなど。
 不敬にもほどがある。
 悪魔の翼を失っても、ヨハンはヨハンのままだった。
「言葉を慎みなさい――お聞きなさいまし」
 ミリアムが慌てて小声で咎めた。
 隣の天使に肘で小突かれながら、彼は構わず訊く。
「俺たちはメスガキ妖精に用事で来た――どっかにお散歩か?」
 マイアは首を振る。
 弱者の無礼など竜は一顧だにしないようだ。
 ミリアムは気配を悟られないよう、静かに安堵した。
〝存ぜぬ――浴室の鏡には、待つとだけ残されておった。ところで、そなたらは何故にこなたへ集ったのじゃ? 翼を失ったところを見るに、大方は察するが〟
 ヨハンとミリアムは口々に、地獄と天国が崩壊したことをマイアに告げた。
「ってわけで、ここはいっちょ〝叡智〟様の出番かなって」
「ソフィアならば、この事態に対処する策を考えてくれるものかと」
〝ふむ――〟
「探したか?」
〝千里眼で周囲を見渡しただけじゃ――人手が足りぬでな〟
 ヨハンとミリアムは顔を見合わせた。
「手を貸せって?」
「わかりました――ソフィアを探しましょう」
〝感謝を申す〟
 マイアが告げたところで、3人は善後策を練ることに。

 ヨハンとミリアムはマイアの背に乗っている。
「なあ、静かすぎねえか? 盛り上がりが足んねえよ、このシーン――いつもならBGMを流すとこだろ?」
 ヨハンは古臭い赤いラジカセを引っ張り出す。
〝悪魔のビルボード〟と書かれたカセットテープを挿入した。
 ボタンを押すなり、けたたましいシンセサイザーのイントロとともに、甲高い男の叫び声のようなシャウトが虚空にこだまする。
「ちょっと! うるさいです!」
「文句ならヴァン・ヘイレンに言え!」
「責任転嫁しない!」
 例によってミリアムが注意した。
「なんだよ――我儘なのは、そのスケベな乳袋とナイスボディだけじゃねえのか? いいぜ、そんじゃ次だ。ハイウェイスターは好きか? 好きだよな!」
 ヨハンはカセットテープを早送りする。
 タイミングを見計らって、
「ポチッとな!」と再生ボタンに切り替えた。
 リズミカルなイントロとともに、ギターリフが重なって歌に入ろうとする。
 しかし邪魔が入る。
「このぉおお! こんなもの、こうしてやります!」
 ミリアムはそう言って、ヨハンからラジカセを奪う。
 彼女はそれを迷わず海に捨てた。
 他の人に対しては決してそうしないはずだが。
 ヨハンが相手ならば彼女も遠慮をしないということか。
「俺のTDKのテープとAIWAがぁああ! 助けてソニーィイイイ!」
〝やかましいのう〟


 そのとき、ソフィアは地上のどこにもいなかった。
 彼女は〝世界の卵〟を叩き割った後。
 卵の白身と黄身が潰れて混ざった際の混沌相克の余波を浴びた。
 その爆心地から、別の場所に飛ばされてしまったのだ。
 そこで妖精の少女は先住者たちに、
〝旅人さん、どうか火を分けて〟と頼まれた。

……むかしむかし。
……あるところに、ウサギとカワウソと。
……ヤマイヌとサルがいたの。

 彼らは神々に捧げるお供えを、それぞれに集めることにした。
 カワウソは魚を獲り、ヤマイヌは肉とオオトカゲ、それから牛乳を見つけた。
 サルは山を飛び回って、マンゴーを山ほど採ってきた。
 そこにやってきた乞食は、最初にカワウソへ物乞いした。
 快く応じたカワウソのもてなしを逆に断り、ヤマイヌとサルにも同じことをした。
……本当は乞食のフリをした女神。
 ところが、ウサギだけがお供え物を見つけられずにいた。
 困り果てていた彼らの前で、乞食が火を焚いて暖を取っていた。
 ウサギは自分から火に飛び込んで供物になろうとした。
 雪よりも冷たい火に驚いていると、
〝なんて尊い行いでしょう〟と乞食はボロ布をとって、女神の姿を顕した。
 それから、彼女はウサギを天地どちらでもない国へいざなった。
 その最初の住人として迎えるために。

……意地が悪い。
……女神はいつもそう。
……信仰心の確認のために。
……弱者の犠牲を欲しがる。
……だから双子の兄は家出したの。

 そして今。
 天国と地獄がなくなって。
 この世から女神の加護が消失した。
 それにウサギたちも気づいたらしい。
 彼らは再び女神をここへ呼ぶための〝儀式〟を準備していた。
 ただ、古代と同じく火が起こせずに困っていた。
 通りすがりのソフィアが、火種を頼まれたのはそういう事情だ。
 しかし、
「それは無駄」と言って彼女は断ってしまった。
 さらに付け足す。
「女神はもういない」
 ソフィアはウサギたちをそう説得するが、彼らの長い耳は聞き入れない。
……そうだった。
……忘れてた。
 妖精の少女は地面に立つと足を踏み鳴らす。
 まるでタップダンスのように。
   ツー・ト・ツー・ト・ト ――キ
   ト・ツー ―――――――――イ
   ト・ツー・ト・ト ―――――テ
「聞いて」
 同じ言葉をソフィアは口からも伝えた。
 身振り手振りを交えながら、彼女は地獄と天国がなくなったこと。
 それから女神の不在を教えた。
 原因を作ったのは自分だと。
 それらを踏まえて、これからやることを手伝ってくれないかと頼んだ。
「……」
 1羽のウサギが足を踏み鳴らした。
   ツー・ト・ツー・ト ――――――ナ
   ト・ツー・ト・ツー・ト ――――ン
   ツー・ト・ツー・ト トト ―――デ
   ト・ト・ツー・ツー・ト・ト ――?
〝なんで?〟
 そう訊かれた。
「やらなきゃいけないことなの」
 ソフィアがそう答えたところで、また別のウサギが訊く。
〝何を捧げればいい?〟
〝我らは持たざる者〟
〝故に自らを焼く〟
「チーズでもお餅でも――なんでもいい。自分を犠牲にしないで。これはお祭りなんだから。材料と道具はこっちで用意する」
 そう言ってソフィアは指を鳴らした。
 たちまち、背後に巨大なウスとキネが現れる。
「どっちがいい? お祭りか、血祭りか――ちなみに、もうすぐ竜の王がここに来る。断れば、誰を犠牲にするか迷わずに済むようにしてあげる。全員、友だちの晩御飯として貪り食われるってこと。いいの?」
 ウサギたちは顔を見合わせた。
 まさか妖精の女の子に脅迫されるとは思わなかったようだ。
……こういうときはアメとムチが大事だって。
……悪魔に聞いたことがある。
……軍の大尉だったかも。
……どっちでもいいや。
……どっちもヨハンだし。
 ソフィアはまたしても指を鳴らした。
「手伝ってくれたら、これをあげる」
 それは小さな粒――種だった。
 イチゴやバナナ、リンゴなどの果物。
 ウサギがニンジンよりも好む大好物。
「生の牧草の密輸ルートも教えてあげる――今ならニンジンもおまけする。どう?」
「……」
 1羽のウサギが足を踏み鳴らした。
 いつのまにか集まっていた他のウサギたち。
 何万羽の群衆が一斉に各々の意志を表明してくる。
「まいどあり」
 ソフィアはそう言って、取引の成立を確認した。

 こうして妖精の少女は、仲間たちを迎える準備――
 お祭りの支度にとりかかることができた。
「おーらい、おーらい」
 ソフィアは小さな手を広げて揺らすように動かし、何かを誘導している。
 巨大なサブウーハーのようだ。
 かと思えば、
「ピピー! ピピー! ピーっ!」と魔法の笛を鳴らした。
 妖精の少女は輝く青い髪を揺らして。
 彼女にしては珍しく額に汗の玉を浮かべ――せわしなく翔びまわる。
 一体、この妖精の少女は何をしているのだろう。
 そもそも彼女はどこにいるのか。
 答えがわかるまで、もう少しだけかかる。


 静けさをとりもどしたところで。
 ここは地上の海原を見おろす上空。
 成層圏。
 雄飛とはかくあるべきと能弁よりも体現する。
 マイアはほとんど翼を動かさずに飛ぶ。
 ソフィアの家から朝に飛び立って、時刻は昼をすぎる頃だ。
「千里眼で周囲を見たって言ってたが――」
「言い伝えでは走査範囲は1千マイルでしたか?」
 ヨハンとミリアムが口々に訊いた。
〝さよう〟
「地表の面積がおよそ2億平方マイルとして――1.6パーセント強ですね。全域走査で周回に必要なのはおよそ13周です。」
 ミリアムの算出した残酷な数字にヨハンが喚く。
「本気だせやぁああ! 逆鱗もポチッとイクぞ! このババア!」
 向こう見ずな元悪魔の青年は、マイアの後頭部を平手で何度も叩く。
 小気味いい音を聞くたびに、ミリアムの神経がすり減った。
 堕落した道化の茶々を飛竜は無視した。
 隣にいた清楚な天使は気を取り直して言う。
「残りの地表の面積は1億8000万平方マイルとして――この時間で、あと9割なら順調というより、もはやありえないくらい驚異的ですよ」
 本気を出しているマイアの飛行速度は、音速の21倍を超えていた。
 ただし本人いわく、これは〝制限速度〟らしい。
「充分ですよ――20時間足らずなら」
 ミリアムがさらに、
「音速の23倍に達したら、星の外へ飛び出してしまいますもの」と補足した。
〝1日がかりじゃのう――やれやれ〟
「いやいや、世界13周を1日かそこらで飛べるのは、クレイジーサイコ女神の初期設定がバグったあんただけだろ! ボケてんじゃねえか? このババア――」
〝ふっ!〟
 ヨハンの嘲弄に、マイアは不意に巨体を揺らした。
「のぉおおお!」
 飛竜の女王の背中から尻尾へと、ヨハンは転がり落ちていく。
〝許すがよい、坊や――正直ちとツボった〟
 マイアは怒ったのではなく、単に吹き出したようだ。
「この期に及んで女神様まで愚弄した不心得者には、そこがお似合いです!」
「なんで俺だけこんな目に遭うの?」
 ヨハンはマイアの尻尾にしがみついて、不満げな声を漏らした。
「自業自得のきわみです」
〝自業自得じゃい〟
 元天使の乙女と、もうひとりの強大な自称乙女が異口同音に告げた。
 こうして3人は約20時間ほどかけて、世界の端から端のちょっと先までを旅する。
 かつてのソフィアが〝ちびドラ〟とそうしたように。
〝のう――天使のお嬢ちゃんや〟
「はい」
〝坊やが大人しくなったでな――ひとつ妾に謡を捧げてくれぬか? 久しく天使どもの歌声を聴いておらぬゆえ〟
「……」
 女神の永劫や人々の信仰、教義や道徳。
 それらを天使たちは歌にして捧げる。
 かつてマイアもそれを聴いていたのだろうか。
 地上を睥睨する飛竜の王として君臨していた時代に。
 天国が賑やかだった頃――幼いミリアムは聖堂でよく讃美歌を耳にした。
「未熟者ですが――」
 彼女は息を整えてから、お腹に力を溜めた。
 どんな歌がマイアに相応しいものか、ミリアムにはわからなかった。
 ただ、心と向き合って、正直になれればいい。
 たとえば、今見ている景色――気持ちをそのまま口から伝えれば。

   素直に歌うのは苦手だった
   でも今夜だけ心にまかせる
   星は昇り、また沈んでいく
   星の軌道はいつも気まぐれ
   燃え尽きる太陽みたいな光
   栄光を掴んだら燃え尽きる
   ひとりぼっちはただ寂しい
   この物語を分かち合えたら
   私も誰かといられるのかな

 そこまでで、天使の歌声が途切れた。
 なぜかわからないが――夕日が目に染みて涙が止まらない。
 子供の頃のことを思い出してしまった。
 女神――ヴィクトリアに手を引かれて。
 天国の聖堂に参内したときのことを。
 鮮明に思い出してしまったのだ。
 そのとき、
〝いずれこの人を助けて〟と頼まれた。
 最初の天使として生まれた大理石の像。
 天の軍団を束ねていた――かつての熾天使の形代に触れることを許された。
 像には――ヨハンと名が記されていた。
 ミリアムの様子など知る由もないマイアが訊く。
〝いかがした――続けるがよい〟
「すみません――でも」
〝妾が所望しておる〟
 マイアの冷たい声が詰め寄った。
 そこへ、良くも悪くも空気を読まないヨハンがよじ登ってくる。
 それとともに、間髪入れずに別の歌声が風に混じりだす。
 マイアの尻尾から這い上がりながら、ヨハンが歌い出したようだ。
 往年のスタンダード・ナンバーを。
 両手を翼のかわりに広げて、大きく息を吸ってから高らかに声を響かせる。
「っ!」
 ミリアムは思わず背を向けてしまった。
 なぜか――元悪魔の背中に、光でできた翼の幻影を見てしまった気がした。
 後ろを向いたミリアムに構わず、歌が風にのって届いてくる。
 とにかく明るい、朗々とした声がミリアムの涙を払う。

   詩を放り出して月へ飛ぼう♪
   星々の海に溺れて歌いたい♪
   きっと春より賑やかだろう♪
   木星と火星まで届くように♪

 そこでヨハンは区切って、ミリアムの背中にもたれてきた。
〝ほれ――お嬢ちゃんや。かわりばんこじゃ〟
 そう飛竜の王に促され、
「あ――はい」とミリアムは続きを引き受ける。
 背中を通して――なくした翼の付け根が温かい。

   わがままに、手をつないで
   わがままな、キスがほしい
   私を月まで導いてほしいの

 ミリアムが一瞥すると、再びヨハンが合わせてくる。

   僕の心を歌で溢れさせたい♪
   ずっと歌っていられるよう♪
   君を待ち望んでたんだから♪
   全て独り占めにしたいんだ♪

 最後は歌声が重なる。

   わがままな、嘘はやめてね♫
   わがままに、愛していたい♫
   2人で歌を溢れさせたいの♫
   ずっと歌っていられるよう♫
   君を待ち望んでたんだから♫
   全て独り占めにしたいんだ♫
   わがままな、嘘でもいいや♫
   わがままに、愛してくれた♫
   死ぬほど月が綺麗だからね♫

「……」
 ミリアムは背中が少し温かいと感じた。
 なぜだろう。
 自分の後ろで歌っていたのはかつての悪魔。
 不倶戴天の敵――だった相手。
 今ではただの道化だというのに。
 彼に無防備な背中を晒していたのに。
 どうして、むしろ心強いと感じてしまったのだろうか。
 お互いに天使や悪魔の翼をなくしただけで。
「私たちは変わらないのに――こんなの変です」
 ミリアムは小声で呟いた。
「あの! 女神様が――」
 振り向いた拍子に、彼女は足もとのバランスを崩してしまった。
「おっと」
 ヨハンが素早く動いて、反対からミリアムを支えてその場に座らせた。
「どこにも行かさないぜ」
「……」
 結局、伝言は伝えそびれてしまった。


わっかのまんなか―A面





次回予告

ヨハンとミリアム、それからマイアは世界を13周したが、ソフィアはいない!
妖精の少女がいるのは次元の狭間か、はたまた別の異世界か!?
彼らは残された手がかりを追いかけて、とうとう月面へ!
ようやく見つけたソフィアと出会うと叡智の妖精は「宇宙の滅亡」を予言!?
月の住人、ウサギたちとともに4人は協力して〝第3の道〟に賭ける!
〝世界の卵〟を割った壮大な後始末のためには、大きな力をひとつに!
「ロックンロールのラブアンドピース抜き?」っておい! なんだそりゃっ!?
次回、最終話〝わっかのまんなか―B面〟をお楽しみに。
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