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突然の声に、私の心臓が大きく跳ね上がった。
泥だらけの手を止め、私はゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、威圧感を放つ大男だった。
岩から削り出したような、ごつごつした体つきをしている。
厳しい日差しに焼かれた肌と、木の根のようにゴツゴツした指が見えた。
その見た目は、私が今まで会った誰とも明らかに違っていた。
「……何か、御用でしょうか」
私は過去のつらい経験から、他人に対して臆病になっていた。
特に、知らない男性への警戒心はとても強い。
声が震えないように、細心の注意を払って言葉を紡いだ。
男は私の警戒を、まるで気にしていない様子だった。
ずかずかと、大股でこちらに近づいてくる。
その足音一つ一つが、地面を揺らしているように感じられた。
そして私がこねていた粘土の塊を、太い指で無遠慮にぐにっと押した。
「いや、こんな場所で若い嬢ちゃんが泥遊びをしてるからな。気になっただけだ」
男の声は見た目と違って、低く落ち着いていた。
彼は私の顔を、じろりと見つめる。
「あんた、王都から追放された公爵令嬢様だろ」
その言葉には、馬鹿にするような響きは全くなかった。
ただ子供が珍しい虫を見るような、純粋な好奇心だけが感じられる。
張り詰めていた肩の力が、少しだけ抜けるのを感じた。
「……ええ、そうです。リディアと申します」
私は、改めて自分の名前を言った。
「これは、遊びではありません。家を直すための、煉瓦を作っているのです」
「煉瓦だと」
男は心から意外だというように、太い眉をぐっと上げた。
その大きな目が、驚きに大きく開かれる。
「こんなただの泥でか。やめておけ、そんなものは乾かしてもすぐに崩れるぞ」
男は、あきれたように首を振った。
「ちゃんとした石を積んだ方が、よっぽどましだぜ」
彼の言うことも、もっともなことだ。
この世界の普通の知識では、そう考えるのが当たり前だろう。
だが私の『目』には、この粘土がただの泥ではないと分かっている。
「ご忠告、ありがとうございます。ですが、大丈夫です」
私は、落ち着いて答えた。
「これは、ただの粘土ではありませんから」
私はそう言うと、再び粘土をこね始めた。
この粘土の主な成分は、私の『目』によればカオリナイトという物質だ。
いらない物も少なく、主にシリカとアルミナでできている。
この組み合わせは、高温で焼くと強いセラミックスに変わるのだ。
私が計画している高炉の材料には、まさにぴったりの素材だった。
「ただの粘土じゃないだと。一体、どう違うってんだ」
男は去る様子もなく、興味を深めたように私の手元をのぞき込む。
自分の手の内を、あまり明かしたくはない。
けれどこの土地で一人で生きるには、誰かと関係を築く必要もある。
この男は、少なくとも悪人ではなさそうだ。
私は、自分の直感を信じてみることにした。
「……これを、特別な方法で焼きます。そうすると、石よりもずっと硬くて熱に強い煉瓦になるんです」
「ほう、特別な方法ねえ」
男は面白そうに、ひげの生えたあごを親指でなでた。
「俺はギュンターだ。この村で、鍛冶屋みたいなことをしている。火と鉄のことなら、少しは詳しいつもりだがな。嬢ちゃんの言うような話は、聞いたことがねえな」
ギュンター、そして鍛冶屋。
その言葉は、私にとって天からの助けのようだった。
これから鉄を作ろうとしている私にとって、専門家の知識や経験はとても貴重だ。
「ギュンターさん、ですね。私はリディアです」
私は手を止め、彼の方を向いた。
「もしよろしければ、見ていきませんか。これから、その『特別な方法』でこの粘土を焼いてみますので」
私の提案に、ギュンターさんはにやりと口の端を上げた。
その笑顔は、まるで少年のように無邪気に見えた。
「そいつは面白そうだ。見せてもらおうじゃねえか、公爵令嬢様のお手並みをよ」
まずは、簡単な窯を作る必要があった。
私は地面にちょうどいい穴を掘り、空気が流れる道を作る。
そして形を整えて、少しだけ太陽の光で乾かした粘土煉瓦を積んだ。
ドーム状になるように、慎重に積み上げていく。
燃料は、森で集めた木から作った木炭だ。
普通の薪よりも火力が強く、高い温度を長く保つことができる。
窯の準備を整え、中に作った煉瓦を並べた。
崩れないように、そっと置いていく。
その一連の手際の良さに、ギュンターさんは少し驚いているようだった。
彼の視線が、私の動きを一つ一つ追っているのが分かる。
「嬢ちゃん、本当に貴族なのか。随分と、手慣れているじゃねえか」
「……ええ。本を読んで、たくさんの知識を得たのです」
それは、嘘ではなかった。
前の世界で、私は数えきれないほどの専門書を読んできたのだから。
準備が終わり、いよいよ窯に火を入れる。
窯の入り口に木炭を丁寧に置き、昨日と同じように火打石で火花を散らした。
パチパチと音を立てて燃え始めた火を、私は慎重に大きくしていく。
最初はゆっくり温度を上げ、粘土の中の水分を蒸発させるのだ。
ここで急に熱くすると、水蒸気爆発が起きてしまう。
そうなれば、煉瓦は粉々に割れてしまうだろう。
私の『目』は、窯の中の温度の変化を見ていた。
物質の分子の動きとして、正確に捉えていたのだ。
水分子が熱をもらって激しく動き、気体になって粘土から離れていく。
さらに温度を上げていくと、やがてカオリナイトの化学構造が変化し始めた。
水が抜ける反応が起こり、メタカオリンという物質に変わっていくのだ。
そして、摂氏九百二十五度以上。
その温度を超えた領域でさらに焼き続けると、ムライトという結晶構造が生まれる。
それは、とても頑丈で安定した結晶だ。
これこそが、私の目指す高性能な耐火煉瓦だった。
ギュンターさんは腕を組んで、ただ黙ってその様子を見ていた。
赤々と燃える窯の炎と、真剣な目で火力を調整する私を比べている。
彼には、私が何をしているのか科学的な理由は分からないだろう。
ただ目の前で起きている不思議な光景と、私の自信に満ちた態度。
そこに、何か得体の知れないものを感じているようだった。
数時間が過ぎ、焼く工程は無事に終わった。
あとは、窯が自然に冷えるのをじっくりと待つだけだ。
「……今日は、もう終わりか」
静けさを破って、ギュンターさんが尋ねた。
「ええ、急に冷やすと割れてしまいますから。明日まで、このままにしておきます」
「ふうん、なるほどな」
彼は、何か納得したようにうなずいた。
「まあ、明日、結果を楽しみにしているぜ」
ギュンターさんはそう言うと、少し名残惜しそうに村の方へ帰っていく。
彼の大きな背中を見送りながら、私は確かな手応えを感じていた。
次の日。
私は期待と少しの不安を胸に、冷えた窯の入り口をふさいでいた煉瓦を外した。
一つ、慎重に取り外す。
中から現れたのは、昨日までとは全く違うものだった。
湿った土の色だった粘土は、白に近い薄い赤茶色に変わっている。
表面は滑らかで、とても硬そうだ。
指で弾くと、キンと金属のような澄んだ音がした。
手に取るとずしりと重く、まるで石そのもののように硬い。
「……成功ね」
完璧な耐火煉瓦が、完成したのだった。
これなら、高炉の炉の壁の材料として十分に使えるだろう。
私が次々と煉瓦を窯から出していると、昨日と同じ時間にギュンターさんが来た。
「よう、嬢ちゃん。どうだった」
彼は私の手の中にある煉瓦を見ると、顔に驚きの色を浮かべた。
「な……なんだ、こりゃあ」
ギュンターさんは駆け寄ってくると、私の手から奪うように煉瓦を受け取った。
彼はそれを隅々まで熱心に眺め、指で何度も弾いている。
ついには腰に下げた斧の柄で、力任せに叩き始めた。
ガン、ガンと鈍い音が響くが、煉瓦には傷一つ付かない。
「……嘘だろ。あの泥んこが、こんなものに変わるのかよ」
彼は信じられないというように、煉瓦と私の顔を何度も見返した。
「まるで、魔法だ。いや、俺が知ってるどんな魔法よりも、ずっとすごい」
その言葉に、私は少しだけ胸がすく思いがした。
私を無能だと見下し、この土地に追放した王都の人々。
彼らが信じる『魔法』よりも、私の持つ『科学』の力の方が優れている。
それを、この無骨な鍛冶屋が今、証明してくれたのだ。
「これを、たくさん作るんです。そして、もっと大きな炉を」
「大きな炉。何に使うんだ、そんなものを」
「鉄を、作りたいんです」
私の言葉に、ギュンターさんは今度こそ完全に言葉を失った。
口をぽかんと開けたまま、私を見つめている。
まるで、理解できない化け物でも見るかのようだった。
「て、鉄を作るだと。嬢ちゃん、お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」
彼の声が、裏返った。
「鉄作りはな、国が管理するような大きな施設でやるもんだ。それに、熟練の職人が何人もいて、ようやくできることなんだぞ」
「ええ、もちろん知っています。ですが私には、もっと効率的な方法があるんです」
私は、地面に木の枝で簡単な図を描いてみせた。
高炉の、基本的な構造図だ。
「この煉瓦で、こういう筒状の炉を組み立てます。上から鉄鉱石と木炭を交互に入れ、下から空気を送って燃やすんです。そうすれば、溶けた鉄が下にたまる仕組みですよ」
私の説明は、この世界の常識ではありえない話に聞こえただろう。
だがギュンターさんは、目の前にある『魔法の煉瓦』という証拠を見た。
だから、私の言葉を完全に否定することができなくなっていた。
「……本気、なんだな」
彼の声には、まだ戸惑いが残っていた。
「はい、本気です」
私は、彼の目をまっすぐに見て答えた。
ギュンターさんは腕を組み、うーんと深くうなりながら考え込んでいる。
彼の顔には、疑いと好奇心、そして常識が複雑に混じっていた。
やがて彼は何かを決心したように顔を上げ、力強く言った。
「……分かった、面白え。嬢ちゃん、俺も手伝わせてくれ」
「え……、よろしいのですか」
予想外の申し出に、私は驚いた。
「おうよ。こんなわくわくする話は、久しぶりだぜ。自分の手で鉄が作れるなんて、鍛冶屋にとっては夢みたいな話だからな。それに、こんなか弱い嬢ちゃん一人に力仕事はさせられねえだろ」
ギュンターさんの申し出は、本当に心の底からありがたかった。
一人では、高炉の建設に途方もない時間がかかるだろう。
彼の強い腕力と鍛冶屋としての経験は、何よりも大きな助けになるはずだ。
「ありがとうございます、ギュンターさん。よろしくお願いします」
「おう、任せておけ」
力強く笑う彼の顔には、もう迷いはなかった。
こうして、私と無骨な鍛冶屋ギュンターさんの奇妙な共同作業が始まったのだ。
まずは、とにかく大量の耐火煉瓦を作ることからの開始だ。
私が粘土をこねて煉瓦の形にし、ギュンターさんが力仕事を担当する。
窯への運び入れや、大量に必要となる薪割りをしてくれた。
二人で作業すれば、効率は一人の時とは比べものにならないほど上がった。
黙々と作業を続ける私に、ギュンターさんが後ろからぽつりと尋ねる。
「なあ、嬢ちゃん。あんた、一体何者なんだ。俺が知ってる公爵令嬢ってのは、もっとか弱いもんじゃなかったのか」
「……私は、少しだけです。物事の仕組みが、他の人とは違う形で見えるだけです」
私の不思議な答えに、ギュンターさんはそれ以上何も聞いてこなかった。
ただ、「ふうん、そういうもんか」とだけつぶやく。
そして、目の前の作業に集中する。
彼のそういう、余計なことを聞かない優しさが私には心地よかった。
数日かけて、私たちは高炉を建てるのに十分な量の煉瓦を焼き上げた。
そして、いよいよ炉の建設そのものに取りかかる。
私の描いた設計図をもとに、ギュンターさんがその怪力で煉瓦を積んでいく。
一つ一つ、正確に積み上げてくれた。
煉瓦の継ぎ目には、同じ粘土を水で溶いたものを使う。
熱が漏れないように、隙間なく埋めていった。
少しずつ、少しずつだ。
異世界で最初の高炉が、その姿を現していく。
それは、私の新しい人生の始まりを告げる記念碑のようにも見えた。
王都で受けた屈辱的な日々は、もう遠い過去のことのように感じられる。
今の私には、確かな科学知識と信頼できる仲間がいる。
そして、無限に広がる可能性があった。
泥だらけの手を止め、私はゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、威圧感を放つ大男だった。
岩から削り出したような、ごつごつした体つきをしている。
厳しい日差しに焼かれた肌と、木の根のようにゴツゴツした指が見えた。
その見た目は、私が今まで会った誰とも明らかに違っていた。
「……何か、御用でしょうか」
私は過去のつらい経験から、他人に対して臆病になっていた。
特に、知らない男性への警戒心はとても強い。
声が震えないように、細心の注意を払って言葉を紡いだ。
男は私の警戒を、まるで気にしていない様子だった。
ずかずかと、大股でこちらに近づいてくる。
その足音一つ一つが、地面を揺らしているように感じられた。
そして私がこねていた粘土の塊を、太い指で無遠慮にぐにっと押した。
「いや、こんな場所で若い嬢ちゃんが泥遊びをしてるからな。気になっただけだ」
男の声は見た目と違って、低く落ち着いていた。
彼は私の顔を、じろりと見つめる。
「あんた、王都から追放された公爵令嬢様だろ」
その言葉には、馬鹿にするような響きは全くなかった。
ただ子供が珍しい虫を見るような、純粋な好奇心だけが感じられる。
張り詰めていた肩の力が、少しだけ抜けるのを感じた。
「……ええ、そうです。リディアと申します」
私は、改めて自分の名前を言った。
「これは、遊びではありません。家を直すための、煉瓦を作っているのです」
「煉瓦だと」
男は心から意外だというように、太い眉をぐっと上げた。
その大きな目が、驚きに大きく開かれる。
「こんなただの泥でか。やめておけ、そんなものは乾かしてもすぐに崩れるぞ」
男は、あきれたように首を振った。
「ちゃんとした石を積んだ方が、よっぽどましだぜ」
彼の言うことも、もっともなことだ。
この世界の普通の知識では、そう考えるのが当たり前だろう。
だが私の『目』には、この粘土がただの泥ではないと分かっている。
「ご忠告、ありがとうございます。ですが、大丈夫です」
私は、落ち着いて答えた。
「これは、ただの粘土ではありませんから」
私はそう言うと、再び粘土をこね始めた。
この粘土の主な成分は、私の『目』によればカオリナイトという物質だ。
いらない物も少なく、主にシリカとアルミナでできている。
この組み合わせは、高温で焼くと強いセラミックスに変わるのだ。
私が計画している高炉の材料には、まさにぴったりの素材だった。
「ただの粘土じゃないだと。一体、どう違うってんだ」
男は去る様子もなく、興味を深めたように私の手元をのぞき込む。
自分の手の内を、あまり明かしたくはない。
けれどこの土地で一人で生きるには、誰かと関係を築く必要もある。
この男は、少なくとも悪人ではなさそうだ。
私は、自分の直感を信じてみることにした。
「……これを、特別な方法で焼きます。そうすると、石よりもずっと硬くて熱に強い煉瓦になるんです」
「ほう、特別な方法ねえ」
男は面白そうに、ひげの生えたあごを親指でなでた。
「俺はギュンターだ。この村で、鍛冶屋みたいなことをしている。火と鉄のことなら、少しは詳しいつもりだがな。嬢ちゃんの言うような話は、聞いたことがねえな」
ギュンター、そして鍛冶屋。
その言葉は、私にとって天からの助けのようだった。
これから鉄を作ろうとしている私にとって、専門家の知識や経験はとても貴重だ。
「ギュンターさん、ですね。私はリディアです」
私は手を止め、彼の方を向いた。
「もしよろしければ、見ていきませんか。これから、その『特別な方法』でこの粘土を焼いてみますので」
私の提案に、ギュンターさんはにやりと口の端を上げた。
その笑顔は、まるで少年のように無邪気に見えた。
「そいつは面白そうだ。見せてもらおうじゃねえか、公爵令嬢様のお手並みをよ」
まずは、簡単な窯を作る必要があった。
私は地面にちょうどいい穴を掘り、空気が流れる道を作る。
そして形を整えて、少しだけ太陽の光で乾かした粘土煉瓦を積んだ。
ドーム状になるように、慎重に積み上げていく。
燃料は、森で集めた木から作った木炭だ。
普通の薪よりも火力が強く、高い温度を長く保つことができる。
窯の準備を整え、中に作った煉瓦を並べた。
崩れないように、そっと置いていく。
その一連の手際の良さに、ギュンターさんは少し驚いているようだった。
彼の視線が、私の動きを一つ一つ追っているのが分かる。
「嬢ちゃん、本当に貴族なのか。随分と、手慣れているじゃねえか」
「……ええ。本を読んで、たくさんの知識を得たのです」
それは、嘘ではなかった。
前の世界で、私は数えきれないほどの専門書を読んできたのだから。
準備が終わり、いよいよ窯に火を入れる。
窯の入り口に木炭を丁寧に置き、昨日と同じように火打石で火花を散らした。
パチパチと音を立てて燃え始めた火を、私は慎重に大きくしていく。
最初はゆっくり温度を上げ、粘土の中の水分を蒸発させるのだ。
ここで急に熱くすると、水蒸気爆発が起きてしまう。
そうなれば、煉瓦は粉々に割れてしまうだろう。
私の『目』は、窯の中の温度の変化を見ていた。
物質の分子の動きとして、正確に捉えていたのだ。
水分子が熱をもらって激しく動き、気体になって粘土から離れていく。
さらに温度を上げていくと、やがてカオリナイトの化学構造が変化し始めた。
水が抜ける反応が起こり、メタカオリンという物質に変わっていくのだ。
そして、摂氏九百二十五度以上。
その温度を超えた領域でさらに焼き続けると、ムライトという結晶構造が生まれる。
それは、とても頑丈で安定した結晶だ。
これこそが、私の目指す高性能な耐火煉瓦だった。
ギュンターさんは腕を組んで、ただ黙ってその様子を見ていた。
赤々と燃える窯の炎と、真剣な目で火力を調整する私を比べている。
彼には、私が何をしているのか科学的な理由は分からないだろう。
ただ目の前で起きている不思議な光景と、私の自信に満ちた態度。
そこに、何か得体の知れないものを感じているようだった。
数時間が過ぎ、焼く工程は無事に終わった。
あとは、窯が自然に冷えるのをじっくりと待つだけだ。
「……今日は、もう終わりか」
静けさを破って、ギュンターさんが尋ねた。
「ええ、急に冷やすと割れてしまいますから。明日まで、このままにしておきます」
「ふうん、なるほどな」
彼は、何か納得したようにうなずいた。
「まあ、明日、結果を楽しみにしているぜ」
ギュンターさんはそう言うと、少し名残惜しそうに村の方へ帰っていく。
彼の大きな背中を見送りながら、私は確かな手応えを感じていた。
次の日。
私は期待と少しの不安を胸に、冷えた窯の入り口をふさいでいた煉瓦を外した。
一つ、慎重に取り外す。
中から現れたのは、昨日までとは全く違うものだった。
湿った土の色だった粘土は、白に近い薄い赤茶色に変わっている。
表面は滑らかで、とても硬そうだ。
指で弾くと、キンと金属のような澄んだ音がした。
手に取るとずしりと重く、まるで石そのもののように硬い。
「……成功ね」
完璧な耐火煉瓦が、完成したのだった。
これなら、高炉の炉の壁の材料として十分に使えるだろう。
私が次々と煉瓦を窯から出していると、昨日と同じ時間にギュンターさんが来た。
「よう、嬢ちゃん。どうだった」
彼は私の手の中にある煉瓦を見ると、顔に驚きの色を浮かべた。
「な……なんだ、こりゃあ」
ギュンターさんは駆け寄ってくると、私の手から奪うように煉瓦を受け取った。
彼はそれを隅々まで熱心に眺め、指で何度も弾いている。
ついには腰に下げた斧の柄で、力任せに叩き始めた。
ガン、ガンと鈍い音が響くが、煉瓦には傷一つ付かない。
「……嘘だろ。あの泥んこが、こんなものに変わるのかよ」
彼は信じられないというように、煉瓦と私の顔を何度も見返した。
「まるで、魔法だ。いや、俺が知ってるどんな魔法よりも、ずっとすごい」
その言葉に、私は少しだけ胸がすく思いがした。
私を無能だと見下し、この土地に追放した王都の人々。
彼らが信じる『魔法』よりも、私の持つ『科学』の力の方が優れている。
それを、この無骨な鍛冶屋が今、証明してくれたのだ。
「これを、たくさん作るんです。そして、もっと大きな炉を」
「大きな炉。何に使うんだ、そんなものを」
「鉄を、作りたいんです」
私の言葉に、ギュンターさんは今度こそ完全に言葉を失った。
口をぽかんと開けたまま、私を見つめている。
まるで、理解できない化け物でも見るかのようだった。
「て、鉄を作るだと。嬢ちゃん、お前、自分が何を言ってるか分かってるのか」
彼の声が、裏返った。
「鉄作りはな、国が管理するような大きな施設でやるもんだ。それに、熟練の職人が何人もいて、ようやくできることなんだぞ」
「ええ、もちろん知っています。ですが私には、もっと効率的な方法があるんです」
私は、地面に木の枝で簡単な図を描いてみせた。
高炉の、基本的な構造図だ。
「この煉瓦で、こういう筒状の炉を組み立てます。上から鉄鉱石と木炭を交互に入れ、下から空気を送って燃やすんです。そうすれば、溶けた鉄が下にたまる仕組みですよ」
私の説明は、この世界の常識ではありえない話に聞こえただろう。
だがギュンターさんは、目の前にある『魔法の煉瓦』という証拠を見た。
だから、私の言葉を完全に否定することができなくなっていた。
「……本気、なんだな」
彼の声には、まだ戸惑いが残っていた。
「はい、本気です」
私は、彼の目をまっすぐに見て答えた。
ギュンターさんは腕を組み、うーんと深くうなりながら考え込んでいる。
彼の顔には、疑いと好奇心、そして常識が複雑に混じっていた。
やがて彼は何かを決心したように顔を上げ、力強く言った。
「……分かった、面白え。嬢ちゃん、俺も手伝わせてくれ」
「え……、よろしいのですか」
予想外の申し出に、私は驚いた。
「おうよ。こんなわくわくする話は、久しぶりだぜ。自分の手で鉄が作れるなんて、鍛冶屋にとっては夢みたいな話だからな。それに、こんなか弱い嬢ちゃん一人に力仕事はさせられねえだろ」
ギュンターさんの申し出は、本当に心の底からありがたかった。
一人では、高炉の建設に途方もない時間がかかるだろう。
彼の強い腕力と鍛冶屋としての経験は、何よりも大きな助けになるはずだ。
「ありがとうございます、ギュンターさん。よろしくお願いします」
「おう、任せておけ」
力強く笑う彼の顔には、もう迷いはなかった。
こうして、私と無骨な鍛冶屋ギュンターさんの奇妙な共同作業が始まったのだ。
まずは、とにかく大量の耐火煉瓦を作ることからの開始だ。
私が粘土をこねて煉瓦の形にし、ギュンターさんが力仕事を担当する。
窯への運び入れや、大量に必要となる薪割りをしてくれた。
二人で作業すれば、効率は一人の時とは比べものにならないほど上がった。
黙々と作業を続ける私に、ギュンターさんが後ろからぽつりと尋ねる。
「なあ、嬢ちゃん。あんた、一体何者なんだ。俺が知ってる公爵令嬢ってのは、もっとか弱いもんじゃなかったのか」
「……私は、少しだけです。物事の仕組みが、他の人とは違う形で見えるだけです」
私の不思議な答えに、ギュンターさんはそれ以上何も聞いてこなかった。
ただ、「ふうん、そういうもんか」とだけつぶやく。
そして、目の前の作業に集中する。
彼のそういう、余計なことを聞かない優しさが私には心地よかった。
数日かけて、私たちは高炉を建てるのに十分な量の煉瓦を焼き上げた。
そして、いよいよ炉の建設そのものに取りかかる。
私の描いた設計図をもとに、ギュンターさんがその怪力で煉瓦を積んでいく。
一つ一つ、正確に積み上げてくれた。
煉瓦の継ぎ目には、同じ粘土を水で溶いたものを使う。
熱が漏れないように、隙間なく埋めていった。
少しずつ、少しずつだ。
異世界で最初の高炉が、その姿を現していく。
それは、私の新しい人生の始まりを告げる記念碑のようにも見えた。
王都で受けた屈辱的な日々は、もう遠い過去のことのように感じられる。
今の私には、確かな科学知識と信頼できる仲間がいる。
そして、無限に広がる可能性があった。
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地味で目立たぬ薬師だった彼女は、ある日貴族の陰謀で“冤罪”を着せられ、王都の冒険者ギルドを追放されてしまう。
「――もう、草とだけ暮らせればいい」
絶望の果てにたどり着いた辺境の村で、レイナはひっそりと薬を作り始める。だが、彼女の薬はどんな難病さえ癒す“奇跡の薬”だった。
やがて重病の王子を治したことで、彼女の正体が王家の“隠し子”だと判明し、王都からの使者が訪れる――
「あなたの薬に、国を救ってほしい」
導かれるように再び王都へと向かうレイナ。
医療改革を志し、“薬師局”を創設して仲間たちと共に奔走する日々が始まる。
薬草にしか心を開けなかった少女が、やがて王国の未来を変える――
これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
掃除婦に追いやられた私、城のゴミ山から古代兵器を次々と発掘して国中、世界中?がざわつく
タマ マコト
ファンタジー
王立工房の魔導測量師見習いリーナは、誰にも測れない“失われた魔力波長”を感じ取れるせいで奇人扱いされ、派閥争いのスケープゴートにされて掃除婦として城のゴミ置き場に追いやられる。
最底辺の仕事に落ちた彼女は、ゴミ山の中から自分にだけ見える微かな光を見つけ、それを磨き上げた結果、朽ちた金属片が古代兵器アークレールとして完全復活し、世界の均衡を揺るがす存在としての第一歩を踏み出す。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
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婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
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冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
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未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
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これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
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