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夜が近づくにつれ、町の喧騒はさらに熱を帯びていった。通りの屋台はどこも混み合い、太鼓の音が高く響き渡っていた。祭りの匂い、焼き魚と団子と酒の匂いが交じって鼻を突く。私は少し離れた場所に立ち、屋台を見つめていた。人々の顔が赤く染まり、笑い声が絶えなかった。酒が、確かにこの町を変えていた。
「佐竹様、ここにいたのかい」
沙夜の声が背後からかかった。振り返ると、袖をたくし上げ、手ぬぐいで額の汗を拭いながら、こちらを見ていた。
「やっぱり、あんたはこういうとき、ちょっと離れたところにいるんだね」
「騒がしすぎるのは性に合わん」
「でも、悪くないでしょ? 皆、酔って、笑って、あんたの酒で」
「……俺の、じゃない。俺たちのだ」
「ふふ。まあ、そうだね」
沙夜は私の隣に並び、しばらく屋台の方を見ていた。少し口角を上げて、肩を落とし、疲れたようで、どこか満たされたような顔をしていた。
「あたしさ、昔、蔵が燃えたときに思ったんだ。もう終わりだって。鶴屋も、商いも、この町も、あたし自身も、何もかも、燃えてなくなったって」
「……そうか」
「でもさ、今思えば、あれは終わりじゃなくて、始まりだったのかもしれない」
「そう思えるなら、それが答えだ」
「答え、か……あんたが蔵に来たとき、あたしはほんとはね、“この人には無理だろう”って思ってた」
「正しい判断だ」
「違う。間違いだった。あんたは、誰よりも真っすぐだった。ぶっきらぼうで、融通がきかなくて、情に流されない癖に、気づけば一番近くにいた」
「……褒めているのか、貶しているのか分からん」
「両方だよ。でも、あたしにとっては、あんたが必要だったってことだけは、間違いない」
そのとき、屋台の方から庄三が駆けてきた。息を切らせ、眉を釣り上げている。
「おい、佐竹様、沙夜! 坂崎屋の奴らが来てる!」
「……何?」
「今度は親父の方だ。あの横柄な坂崎屋の主だよ。しかも、町役人を連れてる。どうも“営業許可の再確認”だとか言ってる」
「……強引に潰しに来たか」
「たぶんな。酔客の前で騒ぎを起こせば、こっちの信用が落ちるって腹だろう」
「行くぞ」
屋台に戻ると、坂崎屋の主が悠然と立っていた。五十を過ぎた体だが、背筋はしゃんとしており、鼻の下には手入れされた髭があった。後ろに控える町役人が、気まずげな顔をしている。
「これはこれは、佐竹殿。まさかこんな場所で再会するとは」
「こちらも、まさか町の祭りに“視察”とは思いもせなんだ」
「お上の命でな、町の治安と商いの均衡を見て回っている。で、この酒屋、届け出が少し不備でな」
「届け出? あの紙は三日前に通したはずだ」
沙夜が前に出た。
「役所にも確認済み。問題はなかったはずです」
「“記録上”はな。だが、現場確認が済んでいない以上、営業停止もあり得るという話だ」
「……それが筋なら、仕方ない。だが、“筋”の仮面をかぶって私怨を通すなら、話は別だ」
私は一歩前に出た。周囲の町人たちがざわめく。坂崎屋の主は目を細めた。
「私怨とは穏やかでない。根拠は?」
「お前の倅が、昨日ここで“女の仕込みは不浄だ”と言った。それが坂崎屋の意志でなければ、どこの誰の意志だ?」
「……なるほど、あれは行き過ぎたかもしれんな。だが、酒造りの伝統というものは、守るべきものでもある」
「伝統とは、過去に縛られることではない。未来に繋ぐために選ばれた道が、たまたま今と違うだけだ」
「佐竹様……」
沙夜が小さく呟いた。坂崎屋の主は一瞬だけ口を噤み、次に笑った。
「弁が立つな。さすがはかつての筆頭家老といったところか。しかし、役所がどう判断するかは別の話だ。なに、明日までには、帳簿の再確認を……」
「なら、こうしよう。今ここで、飲め」
「……は?」
「この酒が“町に相応しくない”と本気で思うなら、それでも構わん。だが、口だけで潰すな。自分の舌で潰せ」
「馬鹿を言うな」
「怖いのか?」
「な……!」
「お前が恐れているのは、町がこの酒を“選ぶ”ことだ」
空気が張り詰めた。町人たちが息を呑み、町役人ですら一歩退いた。坂崎屋の主は、盃を手に取った。周囲の視線が集中する中、ゆっくりと口に運ぶ。
酒が喉を通る音が、聞こえた気がした。
そして、彼は黙って盃を置いた。
「……さて。では、記録の確認は後日、役所で行うとしよう」
町人たちから、小さな歓声が上がった。私はその瞬間、ようやく息を吐いた。隣の沙夜が、無言で私の袖を掴んでいた。
彼女の手のひらが、じっとりと汗ばんでいたのを、私はそっと握り返した。坂崎屋の背が、群衆の向こうに消えていった。私はそれを見送りながら、再び屋台の酒瓶を手に取った。
注がれた盃は、ひとつ、またひとつと笑い声の中で空になっていった。
「佐竹様、ここにいたのかい」
沙夜の声が背後からかかった。振り返ると、袖をたくし上げ、手ぬぐいで額の汗を拭いながら、こちらを見ていた。
「やっぱり、あんたはこういうとき、ちょっと離れたところにいるんだね」
「騒がしすぎるのは性に合わん」
「でも、悪くないでしょ? 皆、酔って、笑って、あんたの酒で」
「……俺の、じゃない。俺たちのだ」
「ふふ。まあ、そうだね」
沙夜は私の隣に並び、しばらく屋台の方を見ていた。少し口角を上げて、肩を落とし、疲れたようで、どこか満たされたような顔をしていた。
「あたしさ、昔、蔵が燃えたときに思ったんだ。もう終わりだって。鶴屋も、商いも、この町も、あたし自身も、何もかも、燃えてなくなったって」
「……そうか」
「でもさ、今思えば、あれは終わりじゃなくて、始まりだったのかもしれない」
「そう思えるなら、それが答えだ」
「答え、か……あんたが蔵に来たとき、あたしはほんとはね、“この人には無理だろう”って思ってた」
「正しい判断だ」
「違う。間違いだった。あんたは、誰よりも真っすぐだった。ぶっきらぼうで、融通がきかなくて、情に流されない癖に、気づけば一番近くにいた」
「……褒めているのか、貶しているのか分からん」
「両方だよ。でも、あたしにとっては、あんたが必要だったってことだけは、間違いない」
そのとき、屋台の方から庄三が駆けてきた。息を切らせ、眉を釣り上げている。
「おい、佐竹様、沙夜! 坂崎屋の奴らが来てる!」
「……何?」
「今度は親父の方だ。あの横柄な坂崎屋の主だよ。しかも、町役人を連れてる。どうも“営業許可の再確認”だとか言ってる」
「……強引に潰しに来たか」
「たぶんな。酔客の前で騒ぎを起こせば、こっちの信用が落ちるって腹だろう」
「行くぞ」
屋台に戻ると、坂崎屋の主が悠然と立っていた。五十を過ぎた体だが、背筋はしゃんとしており、鼻の下には手入れされた髭があった。後ろに控える町役人が、気まずげな顔をしている。
「これはこれは、佐竹殿。まさかこんな場所で再会するとは」
「こちらも、まさか町の祭りに“視察”とは思いもせなんだ」
「お上の命でな、町の治安と商いの均衡を見て回っている。で、この酒屋、届け出が少し不備でな」
「届け出? あの紙は三日前に通したはずだ」
沙夜が前に出た。
「役所にも確認済み。問題はなかったはずです」
「“記録上”はな。だが、現場確認が済んでいない以上、営業停止もあり得るという話だ」
「……それが筋なら、仕方ない。だが、“筋”の仮面をかぶって私怨を通すなら、話は別だ」
私は一歩前に出た。周囲の町人たちがざわめく。坂崎屋の主は目を細めた。
「私怨とは穏やかでない。根拠は?」
「お前の倅が、昨日ここで“女の仕込みは不浄だ”と言った。それが坂崎屋の意志でなければ、どこの誰の意志だ?」
「……なるほど、あれは行き過ぎたかもしれんな。だが、酒造りの伝統というものは、守るべきものでもある」
「伝統とは、過去に縛られることではない。未来に繋ぐために選ばれた道が、たまたま今と違うだけだ」
「佐竹様……」
沙夜が小さく呟いた。坂崎屋の主は一瞬だけ口を噤み、次に笑った。
「弁が立つな。さすがはかつての筆頭家老といったところか。しかし、役所がどう判断するかは別の話だ。なに、明日までには、帳簿の再確認を……」
「なら、こうしよう。今ここで、飲め」
「……は?」
「この酒が“町に相応しくない”と本気で思うなら、それでも構わん。だが、口だけで潰すな。自分の舌で潰せ」
「馬鹿を言うな」
「怖いのか?」
「な……!」
「お前が恐れているのは、町がこの酒を“選ぶ”ことだ」
空気が張り詰めた。町人たちが息を呑み、町役人ですら一歩退いた。坂崎屋の主は、盃を手に取った。周囲の視線が集中する中、ゆっくりと口に運ぶ。
酒が喉を通る音が、聞こえた気がした。
そして、彼は黙って盃を置いた。
「……さて。では、記録の確認は後日、役所で行うとしよう」
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彼女の手のひらが、じっとりと汗ばんでいたのを、私はそっと握り返した。坂崎屋の背が、群衆の向こうに消えていった。私はそれを見送りながら、再び屋台の酒瓶を手に取った。
注がれた盃は、ひとつ、またひとつと笑い声の中で空になっていった。
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