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夜が完全に降りた頃には、酒の匂いが町中に染み渡っていた。屋台にはまだ人が群がり、灯りの下で交わされる笑い声が絶えなかった。還山の酒は静かに、しかし確かに、人の心をほどいていた。ひとくち飲めば背筋が緩み、ふたくち目には頬が緩む。三くち目には言葉が出て、誰かの背を叩く。その連鎖が、蔵を出て町を巡り、今この場を形作っていた。
「佐竹様、あんたやったよ」
庄三が背後から声をかけてきた。両手に盃を持ち、片方を差し出してくる。
「これは祝い酒だ。誰よりもあんたが飲むべきだろ」
「……蔵に戻るまで、俺は飲まん」
「まじめだねえ。いいじゃねえか、今夜くらい。源十の爺さんはもう酔いつぶれて寝てるぜ? 蔵の入口で、酒瓶抱いて寝言言ってたぞ。“次は山田錦を使うか”ってな」
「……明日になれば冷める酒だ」
「それでも、今夜は酔っていい夜だろ? 町が、あんたを見直してる。鶴屋の焼け跡に立った“還山”が、こんなにも早く立ち上がったんだ。これは奇跡だよ」
「奇跡じゃない。積み重ねただけだ」
「その積み重ねができる奴が、今の世にどれだけいるか」
私は盃を受け取った。口に含むと、昼間と同じ味だった。だが、少し違う。熱気を帯びた町の空気と、人々の笑い声が、酒にうつっている気がした。
「……悪くない」
「だろ?」
「これなら、町で勝負できる」
「もう十分に勝ってるさ。なあ、あんた、城に戻る気はねぇのか?」
「戻ってどうする。椅子に座って人を裁き、紙を回して権を振るうか?」
「それが、あんたのもとの仕事だろ」
「それは“役”だった。俺がやっていたのは、“役目”じゃない。“責”だ。だが、いまは違う。いま俺は、ただの人間だ。蔵を守り、町を見て、酒を仕込む。それでいい」
「……そうか。じゃあもう一杯、飲もう」
「勝手にしろ」
「ふふ、そりゃこっちの台詞だ」
沙夜が戻ってきた。手には帳簿を抱えている。祭りの最中だというのに、帳面と墨壺を手放さないその姿は、もはや職人に近かった。
「何をしている」
「売上の記録。どの店がいくら払って、どの盃をどう運んだか、全部書き留めてる。酒は、売れた数だけが価値じゃない。どう飲まれたか、誰が求めたか、それを記録しなきゃ、次に繋がらない」
「商人の顔だな」
「そうだよ。あたしはあんたみたいに立場がない分、数字が武器なのさ」
「その数字、いくつになる」
「振舞い酒、合計で五十四杯。呑み屋からの注文、初回だけで十四升。地元の問屋が七本、明日以降の契約を検討中。それから、大黒屋が樽一本を“祝いの品”として買いたいって」
「……上出来だ」
「でしょ? でも、あたしは満足してない」
「何が足りない」
「蔵が生きてるってだけじゃだめ。この町が、“還山”を自分の誇りに思えるようになって初めて、意味がある」
「つまり、酒だけじゃ足りないということか」
「そう。祭りが終わったら、もっと“人”に目を向ける。蔵に関わる人、仕込みに来る人、売り先で話す人、その全部に、あたしらの名前が届くようにしなきゃいけない」
「……ならば、名刺でも作るか?」
「冗談に聞こえないから困るんだよ、あんたのそういうとこ」
「真面目に言ったつもりだ」
「やれやれ。まあ、嫌いじゃないけどさ」
沙夜は少し笑って、焚き火の近くに座り込んだ。火の粉が舞い上がり、帳面に影を落とした。その横顔が、奇妙なほど穏やかだった。
「庄三、明日から町の東の酒場に話をつけてくれ。新酒の試飲会をやる」
「お、また出張か? あそこの親父は手強いぞ?」
「だからお前が行け。顔の広さを生かせ」
「……ま、佐竹様の頼みなら、仕方ねぇか」
「それと源十には、次の仕込みで“香り”を重視するよう伝えてくれ。今の原酒は味はいいが、鼻先にもう一段階欲しい」
「了解。あいつ、香りにうるさいから、ちょうどいい目標になるだろうさ」
「沙夜、問屋には配達条件を一度再確認しろ。“条件付き納品”と“一括引き取り”では、蔵の負担が違いすぎる」
「それも、もうやってる」
「流石だな」
「でしょ」
私たちは、もはや何も言わずとも、ひとつの蔵として動いていた。それぞれのやるべきことを、それぞれが理解していた。誰も指示を仰がず、誰も迷わず、ただ“還山”の酒を世に出すことだけを考えていた。
風が強くなってきた。紙灯篭が揺れ、ひとつふたつと倒れた。だが、誰も気に留めなかった。人々の声は、灯りよりも明るく、祭りの音は、闇を押し返していた。
「佐竹様。……次、どこまで行く?」
「決まっているだろう。越前全域に、還山の名を響かせる」
「……やっぱ、あんたは夢見がちだよ」
「違う。“計画的”というんだ」
「はいはい。じゃ、計画的に、今夜はもう一杯いっとこ」
「……付き合ってやるよ」
「やった」
「佐竹様、あんたやったよ」
庄三が背後から声をかけてきた。両手に盃を持ち、片方を差し出してくる。
「これは祝い酒だ。誰よりもあんたが飲むべきだろ」
「……蔵に戻るまで、俺は飲まん」
「まじめだねえ。いいじゃねえか、今夜くらい。源十の爺さんはもう酔いつぶれて寝てるぜ? 蔵の入口で、酒瓶抱いて寝言言ってたぞ。“次は山田錦を使うか”ってな」
「……明日になれば冷める酒だ」
「それでも、今夜は酔っていい夜だろ? 町が、あんたを見直してる。鶴屋の焼け跡に立った“還山”が、こんなにも早く立ち上がったんだ。これは奇跡だよ」
「奇跡じゃない。積み重ねただけだ」
「その積み重ねができる奴が、今の世にどれだけいるか」
私は盃を受け取った。口に含むと、昼間と同じ味だった。だが、少し違う。熱気を帯びた町の空気と、人々の笑い声が、酒にうつっている気がした。
「……悪くない」
「だろ?」
「これなら、町で勝負できる」
「もう十分に勝ってるさ。なあ、あんた、城に戻る気はねぇのか?」
「戻ってどうする。椅子に座って人を裁き、紙を回して権を振るうか?」
「それが、あんたのもとの仕事だろ」
「それは“役”だった。俺がやっていたのは、“役目”じゃない。“責”だ。だが、いまは違う。いま俺は、ただの人間だ。蔵を守り、町を見て、酒を仕込む。それでいい」
「……そうか。じゃあもう一杯、飲もう」
「勝手にしろ」
「ふふ、そりゃこっちの台詞だ」
沙夜が戻ってきた。手には帳簿を抱えている。祭りの最中だというのに、帳面と墨壺を手放さないその姿は、もはや職人に近かった。
「何をしている」
「売上の記録。どの店がいくら払って、どの盃をどう運んだか、全部書き留めてる。酒は、売れた数だけが価値じゃない。どう飲まれたか、誰が求めたか、それを記録しなきゃ、次に繋がらない」
「商人の顔だな」
「そうだよ。あたしはあんたみたいに立場がない分、数字が武器なのさ」
「その数字、いくつになる」
「振舞い酒、合計で五十四杯。呑み屋からの注文、初回だけで十四升。地元の問屋が七本、明日以降の契約を検討中。それから、大黒屋が樽一本を“祝いの品”として買いたいって」
「……上出来だ」
「でしょ? でも、あたしは満足してない」
「何が足りない」
「蔵が生きてるってだけじゃだめ。この町が、“還山”を自分の誇りに思えるようになって初めて、意味がある」
「つまり、酒だけじゃ足りないということか」
「そう。祭りが終わったら、もっと“人”に目を向ける。蔵に関わる人、仕込みに来る人、売り先で話す人、その全部に、あたしらの名前が届くようにしなきゃいけない」
「……ならば、名刺でも作るか?」
「冗談に聞こえないから困るんだよ、あんたのそういうとこ」
「真面目に言ったつもりだ」
「やれやれ。まあ、嫌いじゃないけどさ」
沙夜は少し笑って、焚き火の近くに座り込んだ。火の粉が舞い上がり、帳面に影を落とした。その横顔が、奇妙なほど穏やかだった。
「庄三、明日から町の東の酒場に話をつけてくれ。新酒の試飲会をやる」
「お、また出張か? あそこの親父は手強いぞ?」
「だからお前が行け。顔の広さを生かせ」
「……ま、佐竹様の頼みなら、仕方ねぇか」
「それと源十には、次の仕込みで“香り”を重視するよう伝えてくれ。今の原酒は味はいいが、鼻先にもう一段階欲しい」
「了解。あいつ、香りにうるさいから、ちょうどいい目標になるだろうさ」
「沙夜、問屋には配達条件を一度再確認しろ。“条件付き納品”と“一括引き取り”では、蔵の負担が違いすぎる」
「それも、もうやってる」
「流石だな」
「でしょ」
私たちは、もはや何も言わずとも、ひとつの蔵として動いていた。それぞれのやるべきことを、それぞれが理解していた。誰も指示を仰がず、誰も迷わず、ただ“還山”の酒を世に出すことだけを考えていた。
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「……やっぱ、あんたは夢見がちだよ」
「違う。“計画的”というんだ」
「はいはい。じゃ、計画的に、今夜はもう一杯いっとこ」
「……付き合ってやるよ」
「やった」
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