婚約破棄された【洗濯侍女】、実は汚れではなく呪いを落とす【因果浄化】の聖女でした。

旅する書斎(☆ほしい)

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地下室の空気は、いつも湿ったカビの臭いと、安物の石鹸のツンとした香りが混じり合っている。

石造りの壁は結露で濡れ、天井の隅には黒いシミが広がっていた。

私の視界にあるのは、山積みにされた衣類の山だ。

豪華な刺繍が施されたドレス、金糸の飾りがついた騎士団の制服、そして、吐き気がするほど香水の匂いが染み付いた夜会用のシャツ。

これら全てが、私の今日の「ノルマ」だった。

冷たい水に指先を浸す。

感覚が麻痺するような冷たさが、指の節々を刺した。

それでも私は、使い古された洗濯板に布を押し当て、一心不乱にこすり続ける。

私の固有スキルは【洗濯】だ。

聖女を何代にもわたって輩出してきた名門、エルフレイド公爵家に生まれたというのに、私に与えられたのは戦闘にも治癒にも役立たない、家庭内労働の延長線上の能力だった。

「ねえ、まだ終わらないの? お姉様」

背後から、鼓膜をなでるような甘ったるい声が響いた。

振り返らなくてもわかる。妹のエリーゼだ。

彼女はこの家が誇る「真の聖女候補」であり、私のすべてを奪った張本人だった。

ゆっくりと顔を上げると、そこには泥に汚れた白いドレスを抱えたエリーゼが立っていた。

その隣には、私の婚約者であるはずの第一王子、カイル・ヴァン・サリストが、彼女の腰に手を回して立っている。

二人の足元からは、ねっとりとした黒い霧のようなものが立ち昇っているのが見えた。

私にしか見えない「汚れ」だ。

それは単なる泥や埃ではない。

嫉妬、傲慢、嘘、そして他者を踏みにじることで得た快楽。

それらが物質化した「因果の澱み」が、彼らの全身を真っ黒に染め上げている。

「そんなに睨まないで。このドレス、庭でカイル様と追いかけっこをしていたら汚れちゃったの。お姉様のスキルなら、一瞬で綺麗にできるでしょう?」

エリーゼが、わざとらしく泥だらけのドレスを私の足元に放り捨てた。

跳ねた泥水が、私の頬を汚す。

「……追いかけっこ、ですか。公務の時間は過ぎているはずですが」

私の乾いた声に、カイル様が不機嫌そうに眉を寄せた。

「貴様に口を出す権利はない。リアナ、今日ここに来たのは洗濯を頼むためではない」

カイル様が一歩踏み出す。

彼の磨き上げられたブーツが、私が先ほどまで洗っていた清潔なシーツを無造作に踏みつけた。

「貴様との婚約を破棄する。サリスト王国の次期王妃に相応しいのは、慈愛の心と強力な神聖魔力を持つエリーゼだ。洗濯しか能のない女を隣に立たせるほど、私は物好きではない」

知っていた。

地下の洗濯場に閉じ込められ、家族の汚れ物を洗わされ続ける日々の中で、いつかこの日が来ることは分かっていた。

だが、心のどこかで期待していたのかもしれない。

幼い頃、怪我をした私の指に包帯を巻いてくれたあの少年が、どこかに残っているのではないかと。

「……承知いたしました。婚約破棄、謹んでお受けします」

私が淡々と答えると、カイル様は拍子抜けしたような顔をした後、鼻で笑った。

「ふん、物分かりが良いのは救いだな。だが、ただの婚約破棄ではない。貴様はこの国から追放だ」

追放。

その言葉が出た瞬間、エリーゼの口元が醜く吊り上がった。

「お父様もおっしゃっていたわ。聖女の血を引く者が、侍女のような真似をしているだけで家の恥だって。だから、お姉様はもうこの国にはいらないの」

彼女の手から、眩いばかりの光が溢れ出す。

それが「治癒」の光であることを、この場の誰もが信じて疑わない。

だが、私の目には見えていた。

その光の裏側で、エリーゼの魔力がドロドロに腐り果て、周囲の空気を汚染していく様を。

彼女が誰かを癒せば癒すほど、その相手には目に見えない「負の因果」が蓄積されていく。

そして、その蓄積された澱みを密かに「洗濯」して消し去っていたのは、他ならぬ私だった。

私がこの家で洗濯を続けていたからこそ、彼らは聖女の家系としての体裁を保てていたのだ。

「そんな顔で見ないで。お姉様が持っていけるのは、その古びた洗濯板と、着古した服だけよ。あ、それから、その中庭に転がっているゴミも一緒に持って行ったら?」

エリーゼが指差したのは、地下室の隅に放り出されていた、錆びてボロボロになった一本の剣だった。

公爵家の家宝と言われながらも、数百年前に「呪い」によってその輝きを失い、今はただの鉄屑として放置されているものだ。

「さあ、すぐに出て行け。聖女の光を汚す不浄な女め」

カイル様が吐き捨てるように言い、エリーゼを連れて地下室を去っていく。

残されたのは、冷たい湿気と、足元に捨てられた泥だらけのドレス。

そして、一振りの錆びた剣。

私は無言で立ち上がり、エリーゼが捨てたドレスを拾い上げた。

本来なら、もう洗う必要はない。

私は追放される身なのだから。

けれど、私の指が勝手に動く。

この「汚れ」が我慢できない。

あまりにも醜く、あまりにもドス黒い、この因果の澱みをそのままにしておくことが、生理的に耐えられないのだ。

私はタライの中に手を入れ、スキル【洗濯】を発動させた。

「……消えなさい。不浄な記憶も、歪んだ愛執も」

私の手から、純白の泡が溢れ出す。

それは魔法ではない。

この世界の理そのものを書き換える、因果の浄化だ。

泡がドレスに触れた瞬間、ジュウッという、肉を焼くような不気味な音が響いた。

黒い霧が、悲鳴を上げるようにして溶けていく。

泥だらけだったはずのドレスが、一瞬にして、織られたばかりのような輝きを取り戻した。

いや、それだけではない。

布地の繊維一本一本に宿っていた「劣化」という概念そのものが消滅し、この世のものとは思えないほど滑らかで、聖なる力を宿した聖衣へと変貌していた。

「……スッキリした」

私は小さく息を吐き、そのドレスを床に放り捨てた。

次に、隅に転がっていた錆びた剣を手に取る。

重い。そして、刺すような呪詛の冷気が掌に伝わってくる。

普通の人なら、触れた瞬間に精神を病み、命を落とすほどの猛毒だ。

だが、私にとっては、ただの「ひどく頑固な油汚れ」に過ぎない。

「あなたも、ずいぶん酷い扱いを受けてきたのね」

私はその剣をタライの縁に立てかけ、丁寧に、そして力強く布で磨き始めた。

表面を覆う分厚い錆が、ボロボロと剥がれ落ちていく。

その下から漏れ出すのは、黄金色の光。

剣の芯に眠っていた神聖な意志が、私の【洗濯】によって、数百年ぶりに呼吸を始めたのだ。

「ギギギ……ッ!」

剣に憑りついていた怨念が、黒い蛇のような形を成して私の腕に絡みつく。

だが、私はそれを冷ややかな目で見つめた。

「うるさいわね。今、綺麗にしている最中なの。邪魔しないで」

私の指先から溢れた泡が、黒い蛇を包み込む。

瞬間、蛇は光の粒となって霧散した。

磨き終えた剣は、もはや鉄の塊ではなかった。

刀身には星々の輝きが宿り、柄には神の祝福を思わせる緻密な紋様が浮かび上がっている。

かつて神話の英雄が振るったとされる、失われた神剣。

それが、私の掃除用具の一部として、今、完璧な状態で蘇った。

私は神剣を無造作に腰のベルトに差し、手垢一つない清潔なカバンに洗濯板を詰め込んだ。

この家には、もう思い残すことは何もない。

いや、むしろ清々しい。

これから私のいないこの館が、どれほどの「汚れ」に埋もれていくのか。

想像するだけで、少しだけ口角が上がってしまう。

私は一度も振り返ることなく、カビ臭い地下室を後にした。

雨の降りしきる夜の街へと、足を踏み出す。

頬を打つ雨粒さえも、私にとっては世界を洗うための恵みの水に見えた。
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