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雨脚が強まってきた。
サリスト王国の国境付近、鬱蒼と茂る「迷いの森」を、私は一人で歩いていた。
普通、追放されたか弱い令嬢であれば、絶望に打ちひしがれて立ち止まるところだろう。
だが、私の足取りは驚くほど軽い。
「はぁ、空気が濁ってる……」
森の奥から漂ってくるのは、魔物の死臭と、腐敗した大気の淀みだ。
この森は数年前から強力な障気に覆われ、誰も足を踏み入れることができない死の土地と化している。
王国の魔導師たちが何度浄化を試みても、一向に改善されなかった難所だ。
だが、私の目から見れば、ここは単なる「長年放置された大掃除が必要な部屋」に過ぎない。
私はカバンから、使い古した霧吹きを取り出した。
中に入っているのは、さっき川で汲んだただの水だ。
そこに私の魔力をひと回しして、空中にシュッと吹きかける。
「お掃除開始」
霧状の粒子が障気に触れた瞬間、森の景色が一変した。
どろりと重く垂れ込めていた灰色の霧が、まるで魔法の消しゴムで消されたかのように、一気に晴れ渡っていく。
腐りかけていた大樹の幹からは瑞々しい若芽が吹き出し、地面を覆っていたどす黒い苔が、鮮やかな緑の絨毯へと姿を変える。
私の歩く後ろから、森が「再起動」していく。
本来、浄化魔法とは祈りを捧げ、膨大な魔力を消費して行う儀式だ。
けれど、私の【洗濯】は違う。
ただ「不純物」を取り除き、「本来あるべき姿」に戻すだけ。
エネルギーの変換効率が、根本的に異なっている。
私が森の中を数百メートル進んだ頃には、周囲はまるでおとぎ話に出てくるような神聖な森へと変貌していた。
「……あ、あそこに何か落ちてる」
ふと、視界の端に大きな「シミ」のようなものが見えた。
近づいてみると、それは一人の騎士だった。
銀色の鎧はボロボロに砕け、隙間からはどす黒い血が溢れ出している。
それ以上に酷いのは、彼の身体を侵食している強力な「呪い」の紋様だ。
心臓を中心に、全身に血管のような黒い筋が浮き出ている。
「う、ぐ……。来るな……、触れるな……」
騎士が、意識が混濁した状態で呻く。
彼の瞳は赤く染まり、自我が崩壊しかけているのが分かった。
おそらく、この森の奥に潜む強力な魔物と戦い、その呪いを受けたのだろう。
このままでは数分もしないうちに、彼は理性を失った魔人へと成り果てる。
「ひどい汚れ方ね。ここまで放置しちゃダメじゃない」
私は顔をしかめた。
彼が死ぬことよりも、その美しいはずの銀の鎧が血と呪いで汚れていることの方が、私にとっては耐えがたい苦痛だった。
私は膝をつき、カバンから一枚の清潔な白い布を取り出した。
「おい、何を……。逃げ……ろ……」
騎士の手が、震えながら私の手首を掴もうとする。
だが、彼の指先が私に触れる前に、私の身体から溢れ出た無意識の浄化波動が、彼の腕の呪いを弾き飛ばした。
「じっとしていて。汚れが広がるわ」
私はバケツに水を出し、布を浸して固く絞った。
そして、彼の額に浮き出た醜い黒筋を、キュッ、とひと拭きする。
「なっ……!?」
騎士の目が、驚愕で見開かれた。
私が布を滑らせた場所から、呪いが「剥がれて」いくのだ。
まるで、こびりついた焦げ付きが、高級な洗剤で一瞬にして落ちるかのように。
「あ、あぁ……。熱が……、痛みが消えていく……?」
私は黙々と作業を続けた。
額、頬、首筋。
布が触れるたびに、彼の肉体を蝕んでいた死の呪詛が、シュワシュワと白い泡となって消えていく。
鎧の隙間から溢れていた毒血も、私が布で押さえると、ただの綺麗な真水へと浄化された。
最後に、彼が必死に握りしめていた折れた剣に目を向ける。
「これも洗っておくわね。サービスよ」
私は剣の断面に手を当て、優しく撫でた。
瞬間、砕け散っていた破片が虚空から集まり、まるで時間が巻き戻ったかのように接合される。
ただ直っただけではない。
剣の強度は以前の数倍に高まり、持ち主の魔力を何倍にも増幅する特級の魔剣へと「洗濯(アップグレード)」されていた。
数分後。
そこには、呪いに苦しんでいた瀕死の男などいなかった。
血色が戻り、超絶的な美貌を露わにした若き騎士が、呆然と自分の手を見つめて座り込んでいた。
「信じられん……。大陸最悪の呪いと言われた『深淵の蛇』が、ただの布で拭き取られたというのか……?」
彼は震える声で呟き、私を見上げた。
その瞳には、先ほどの狂気は微塵もなく、ただ圧倒的な畏怖と、言いようのない感動が宿っている。
「君は……、一体何者なんだ? 聖教会の最高司教か? それとも、降臨した女神か?」
「ただの洗濯侍女よ。もう行くから、そこにある汚れ物は自分で片付けてね」
私は、彼が倒れていた場所の血痕(だったもの)を指差した。
そこには今、なぜか真っ白な百合の花が咲き乱れている。
浄化されすぎた因果が、過剰な生命力となって溢れ出した結果だ。
「待ってくれ! 君をこのまま行かせるわけにはいかない! 俺は……隣国グレンツェ帝国の親衛隊長、アルベルトだ。我が主君は、君のような力を求めている!」
アルベルトと名乗った騎士が、慌てて立ち上がり、私の前に膝をついた。
「いいえ、結構よ。私は静かに洗濯がしたいだけなの」
「主君は重度の潔癖症で、他人の魔力を一切受け付けない方なんだ! だが、君のこの清らかな気配なら……、きっと!」
潔癖症。
その言葉に、私の足が止まった。
この世には、私と同じように「汚れ」を憎む同志がいるのだろうか。
サリスト王国のあのゴミ屋敷のような王宮とは違い、帝国の宮廷はもっと清潔なのかもしれない。
「……その主君のところに行けば、新しい洗濯機……いえ、もっと良い洗濯板は手に入るかしら?」
「洗濯板どころか、世界中の名水も、最高級の石鹸も、君の望むままに用意しよう!」
アルベルトが必死の形相で叫ぶ。
彼の背後では、浄化された森の木々が、まるで私を祝福するようにサワサワと揺れていた。
「いいわ。案内して。ただし、もし汚れていたらすぐに帰るから」
私はそう言って、彼の差し出した手を取ることなく、帝国の方向へと歩き出した。
サリスト王国の国境付近、鬱蒼と茂る「迷いの森」を、私は一人で歩いていた。
普通、追放されたか弱い令嬢であれば、絶望に打ちひしがれて立ち止まるところだろう。
だが、私の足取りは驚くほど軽い。
「はぁ、空気が濁ってる……」
森の奥から漂ってくるのは、魔物の死臭と、腐敗した大気の淀みだ。
この森は数年前から強力な障気に覆われ、誰も足を踏み入れることができない死の土地と化している。
王国の魔導師たちが何度浄化を試みても、一向に改善されなかった難所だ。
だが、私の目から見れば、ここは単なる「長年放置された大掃除が必要な部屋」に過ぎない。
私はカバンから、使い古した霧吹きを取り出した。
中に入っているのは、さっき川で汲んだただの水だ。
そこに私の魔力をひと回しして、空中にシュッと吹きかける。
「お掃除開始」
霧状の粒子が障気に触れた瞬間、森の景色が一変した。
どろりと重く垂れ込めていた灰色の霧が、まるで魔法の消しゴムで消されたかのように、一気に晴れ渡っていく。
腐りかけていた大樹の幹からは瑞々しい若芽が吹き出し、地面を覆っていたどす黒い苔が、鮮やかな緑の絨毯へと姿を変える。
私の歩く後ろから、森が「再起動」していく。
本来、浄化魔法とは祈りを捧げ、膨大な魔力を消費して行う儀式だ。
けれど、私の【洗濯】は違う。
ただ「不純物」を取り除き、「本来あるべき姿」に戻すだけ。
エネルギーの変換効率が、根本的に異なっている。
私が森の中を数百メートル進んだ頃には、周囲はまるでおとぎ話に出てくるような神聖な森へと変貌していた。
「……あ、あそこに何か落ちてる」
ふと、視界の端に大きな「シミ」のようなものが見えた。
近づいてみると、それは一人の騎士だった。
銀色の鎧はボロボロに砕け、隙間からはどす黒い血が溢れ出している。
それ以上に酷いのは、彼の身体を侵食している強力な「呪い」の紋様だ。
心臓を中心に、全身に血管のような黒い筋が浮き出ている。
「う、ぐ……。来るな……、触れるな……」
騎士が、意識が混濁した状態で呻く。
彼の瞳は赤く染まり、自我が崩壊しかけているのが分かった。
おそらく、この森の奥に潜む強力な魔物と戦い、その呪いを受けたのだろう。
このままでは数分もしないうちに、彼は理性を失った魔人へと成り果てる。
「ひどい汚れ方ね。ここまで放置しちゃダメじゃない」
私は顔をしかめた。
彼が死ぬことよりも、その美しいはずの銀の鎧が血と呪いで汚れていることの方が、私にとっては耐えがたい苦痛だった。
私は膝をつき、カバンから一枚の清潔な白い布を取り出した。
「おい、何を……。逃げ……ろ……」
騎士の手が、震えながら私の手首を掴もうとする。
だが、彼の指先が私に触れる前に、私の身体から溢れ出た無意識の浄化波動が、彼の腕の呪いを弾き飛ばした。
「じっとしていて。汚れが広がるわ」
私はバケツに水を出し、布を浸して固く絞った。
そして、彼の額に浮き出た醜い黒筋を、キュッ、とひと拭きする。
「なっ……!?」
騎士の目が、驚愕で見開かれた。
私が布を滑らせた場所から、呪いが「剥がれて」いくのだ。
まるで、こびりついた焦げ付きが、高級な洗剤で一瞬にして落ちるかのように。
「あ、あぁ……。熱が……、痛みが消えていく……?」
私は黙々と作業を続けた。
額、頬、首筋。
布が触れるたびに、彼の肉体を蝕んでいた死の呪詛が、シュワシュワと白い泡となって消えていく。
鎧の隙間から溢れていた毒血も、私が布で押さえると、ただの綺麗な真水へと浄化された。
最後に、彼が必死に握りしめていた折れた剣に目を向ける。
「これも洗っておくわね。サービスよ」
私は剣の断面に手を当て、優しく撫でた。
瞬間、砕け散っていた破片が虚空から集まり、まるで時間が巻き戻ったかのように接合される。
ただ直っただけではない。
剣の強度は以前の数倍に高まり、持ち主の魔力を何倍にも増幅する特級の魔剣へと「洗濯(アップグレード)」されていた。
数分後。
そこには、呪いに苦しんでいた瀕死の男などいなかった。
血色が戻り、超絶的な美貌を露わにした若き騎士が、呆然と自分の手を見つめて座り込んでいた。
「信じられん……。大陸最悪の呪いと言われた『深淵の蛇』が、ただの布で拭き取られたというのか……?」
彼は震える声で呟き、私を見上げた。
その瞳には、先ほどの狂気は微塵もなく、ただ圧倒的な畏怖と、言いようのない感動が宿っている。
「君は……、一体何者なんだ? 聖教会の最高司教か? それとも、降臨した女神か?」
「ただの洗濯侍女よ。もう行くから、そこにある汚れ物は自分で片付けてね」
私は、彼が倒れていた場所の血痕(だったもの)を指差した。
そこには今、なぜか真っ白な百合の花が咲き乱れている。
浄化されすぎた因果が、過剰な生命力となって溢れ出した結果だ。
「待ってくれ! 君をこのまま行かせるわけにはいかない! 俺は……隣国グレンツェ帝国の親衛隊長、アルベルトだ。我が主君は、君のような力を求めている!」
アルベルトと名乗った騎士が、慌てて立ち上がり、私の前に膝をついた。
「いいえ、結構よ。私は静かに洗濯がしたいだけなの」
「主君は重度の潔癖症で、他人の魔力を一切受け付けない方なんだ! だが、君のこの清らかな気配なら……、きっと!」
潔癖症。
その言葉に、私の足が止まった。
この世には、私と同じように「汚れ」を憎む同志がいるのだろうか。
サリスト王国のあのゴミ屋敷のような王宮とは違い、帝国の宮廷はもっと清潔なのかもしれない。
「……その主君のところに行けば、新しい洗濯機……いえ、もっと良い洗濯板は手に入るかしら?」
「洗濯板どころか、世界中の名水も、最高級の石鹸も、君の望むままに用意しよう!」
アルベルトが必死の形相で叫ぶ。
彼の背後では、浄化された森の木々が、まるで私を祝福するようにサワサワと揺れていた。
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