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皇帝ジークフリート様に抱きしめられたまま、私の鼻を突いたのは「極上の石鹸」の香りではなかった。
彼から漂うのは、長年蓄積された鉄錆の匂いと、どこか焦げ付いたような魔力の残滓だ。
「……あの、陛下。まずはその、私を物理的に洗わせていただけませんか?」
私の台詞に、周囲の近衛騎士たちが一斉に「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
皇帝を「洗う」など、不敬を通り越して狂気の沙汰だと思われたのだろう。
だが、ジークフリート様は私の肩に顔を埋めたまま、低く愉しげな笑い声を漏らした。
「いいだろう。貴様の望むままに私を磨け。その代わり、一点の曇りも残すなよ」
こうして私は、帝国の「特別一等客室」という名の、豪華絢爛な監禁……もとい、居住スペースを与えられた。
翌朝、私が最初に案内されたのは、帝宮の深部にある「聖なる洗濯場」だった。
そこはサリスト王国の湿った地下室とは正反対の、純白の大理石で囲まれた広大な空間だった。
「あなたが、陛下が連れてこられたという例の娘ね。私は洗濯局長のマルタ。以後、お見知りおきを」
現れたのは、銀縁の眼鏡を光らせた、見るからに厳格そうな初老の女性だった。
彼女の背後には、数十人の侍女たちが整然と並び、私を値踏みするような冷ややかな視線を送ってくる。
「陛下を呪いから救ったという噂は聞いているわ。けれど、ここは帝宮。伝統と格式があるの」
マルタ局長が指し示したのは、洗濯場の奥に鎮座する、黒ずんだ巨大な布の塊だった。
それはかつて帝国の建国祭で使われたという、伝説の「神鳥のタペストリー」だった。
「三百年もの間、魔力の乱れによって腐食し、今や触れるだけで崩れ落ちると言われている呪物。これを今日中に『完璧に』仕上げてみなさい」
周りの侍女たちが、クスクスと意地悪な笑みを漏らす。
彼女たちからすれば、皇帝の寵愛を突然受けた「得体の知れない女」への洗礼のつもりなのだろう。
私はそのタペストリーの前に立ち、そっと指先を触れさせた。
……うわあ、これはひどい。
表面を覆っているのは、ただの埃ではない。
帝国の歴史の中で積み上げられてきた「負の感情」が、繊維の一本一本にまで入り込み、ヘドロのように固着している。
私の目には、そのタペストリーから黒い触手のような霧が這い出し、空気を汚染しているのがはっきり見えた。
「これを洗えばいいんですね? わかりました。ちょうど『頑固なシミ』専用の洗剤を作りたかったところなんです」
私はカバンから、道中で採取した薬草の絞り汁と、自らの魔力を練り合わせた特製の石鹸を取り出した。
マルタ局長が鼻で笑う。
「ふん、そんな安物で何ができるというの。これは国中の魔導師が匙を投げた代物よ?」
私は返事をせず、巨大な水槽に神聖な魔力を注ぎ込んだ。
水がシュワシュワと白く発光し、微細な泡が次々と生まれていく。
私はタペストリーを容赦なくその水槽に放り込み、袖を捲り上げて直接手を突っ込んだ。
「なっ……! 何を! 乱暴に扱えば粉々になるわよ!」
「大丈夫です。汚れが『痛い』って叫んでいるだけですから」
私は【洗濯】のスキルを全開にした。
指先から溢れ出す因果浄化の奔流が、三百年分の呪詛を根こそぎ剥ぎ取っていく。
ギィィィィィッ!
タペストリーから、人間のものではない絶叫が響き渡った。
黒い霧が水槽の中で暴れ回り、周囲に腐敗した毒気を撒き散らす。
侍女たちが悲鳴を上げて後退する中、私は無表情でその「黒い塊」を握りつぶした。
「……しつこいわね。洗濯物の分際で、抵抗しないで」
私の言葉と同時に、水槽の色が真っ黒から純白へと一気に転じた。
ジュウウッという音と共に、呪詛が蒸発していく。
数分後。
私が水槽から引き揚げたのは、かつてのボロ布ではなかった。
神鳥の羽が一枚一枚、宝石のような輝きを放ち、見る者の魂を揺さぶるような神々しい光を宿した至宝。
三百年前に織られた当時の、いや、それ以上の品質を持って蘇った伝説のタペストリーだった。
「……う、嘘でしょう? 私たちの家系が何代もかけて守れなかった汚れが……」
マルタ局長が膝をつき、震える手でその布に触れようとする。
だが、彼女の手が触れる前に、タペストリーから溢れた清浄な波動が、彼女自身の心の澱みさえも軽やかに洗い流してしまった。
「ああ……。なんて、なんて清々しいのかしら。私、今まで何を意地を張っていたの……」
局長が涙を流しながら私を拝み始め、周囲の侍女たちもその圧倒的な輝きに、戦意を喪失して呆然と立ち尽くしている。
「スッキリしましたね。次は、その奥にある『呪われた礼服』も洗ってしまいましょうか」
私が笑顔で提案すると、洗濯場の空気は、もはや恐怖ではなく「狂信的な期待」へと塗り替えられていた。
その頃、帝宮の執務室では、ジークフリート様が窓の外を見つめていた。
彼の前には、血相を変えた主席魔導師が報告に訪れていた。
「陛下! 帝都全体の魔力濃度が、突如として浄化されています! 汚染されていた地下水脈までもが、最上級の聖水に変化しているとの情報が!」
ジークフリート様は、満足げに口角を上げた。
「……ふん、私の見込んだ通りだ。彼女は単なる洗濯屋ではない。世界の不浄を食らう、無邪気な断罪者だな」
皇帝の瞳に宿る熱は、もはや一時の興味を通り越し、世界そのものを彼女の望む色に塗り替えようとする執念に近いものになっていた。
一方、私を追放したサリスト王国では。
エリーゼが「聖女の儀式」を行おうとして、祭壇に手を触れた瞬間。
家宝の聖具が、腐った泥のように崩れ落ちるという大惨事が起きていた。
彼から漂うのは、長年蓄積された鉄錆の匂いと、どこか焦げ付いたような魔力の残滓だ。
「……あの、陛下。まずはその、私を物理的に洗わせていただけませんか?」
私の台詞に、周囲の近衛騎士たちが一斉に「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
皇帝を「洗う」など、不敬を通り越して狂気の沙汰だと思われたのだろう。
だが、ジークフリート様は私の肩に顔を埋めたまま、低く愉しげな笑い声を漏らした。
「いいだろう。貴様の望むままに私を磨け。その代わり、一点の曇りも残すなよ」
こうして私は、帝国の「特別一等客室」という名の、豪華絢爛な監禁……もとい、居住スペースを与えられた。
翌朝、私が最初に案内されたのは、帝宮の深部にある「聖なる洗濯場」だった。
そこはサリスト王国の湿った地下室とは正反対の、純白の大理石で囲まれた広大な空間だった。
「あなたが、陛下が連れてこられたという例の娘ね。私は洗濯局長のマルタ。以後、お見知りおきを」
現れたのは、銀縁の眼鏡を光らせた、見るからに厳格そうな初老の女性だった。
彼女の背後には、数十人の侍女たちが整然と並び、私を値踏みするような冷ややかな視線を送ってくる。
「陛下を呪いから救ったという噂は聞いているわ。けれど、ここは帝宮。伝統と格式があるの」
マルタ局長が指し示したのは、洗濯場の奥に鎮座する、黒ずんだ巨大な布の塊だった。
それはかつて帝国の建国祭で使われたという、伝説の「神鳥のタペストリー」だった。
「三百年もの間、魔力の乱れによって腐食し、今や触れるだけで崩れ落ちると言われている呪物。これを今日中に『完璧に』仕上げてみなさい」
周りの侍女たちが、クスクスと意地悪な笑みを漏らす。
彼女たちからすれば、皇帝の寵愛を突然受けた「得体の知れない女」への洗礼のつもりなのだろう。
私はそのタペストリーの前に立ち、そっと指先を触れさせた。
……うわあ、これはひどい。
表面を覆っているのは、ただの埃ではない。
帝国の歴史の中で積み上げられてきた「負の感情」が、繊維の一本一本にまで入り込み、ヘドロのように固着している。
私の目には、そのタペストリーから黒い触手のような霧が這い出し、空気を汚染しているのがはっきり見えた。
「これを洗えばいいんですね? わかりました。ちょうど『頑固なシミ』専用の洗剤を作りたかったところなんです」
私はカバンから、道中で採取した薬草の絞り汁と、自らの魔力を練り合わせた特製の石鹸を取り出した。
マルタ局長が鼻で笑う。
「ふん、そんな安物で何ができるというの。これは国中の魔導師が匙を投げた代物よ?」
私は返事をせず、巨大な水槽に神聖な魔力を注ぎ込んだ。
水がシュワシュワと白く発光し、微細な泡が次々と生まれていく。
私はタペストリーを容赦なくその水槽に放り込み、袖を捲り上げて直接手を突っ込んだ。
「なっ……! 何を! 乱暴に扱えば粉々になるわよ!」
「大丈夫です。汚れが『痛い』って叫んでいるだけですから」
私は【洗濯】のスキルを全開にした。
指先から溢れ出す因果浄化の奔流が、三百年分の呪詛を根こそぎ剥ぎ取っていく。
ギィィィィィッ!
タペストリーから、人間のものではない絶叫が響き渡った。
黒い霧が水槽の中で暴れ回り、周囲に腐敗した毒気を撒き散らす。
侍女たちが悲鳴を上げて後退する中、私は無表情でその「黒い塊」を握りつぶした。
「……しつこいわね。洗濯物の分際で、抵抗しないで」
私の言葉と同時に、水槽の色が真っ黒から純白へと一気に転じた。
ジュウウッという音と共に、呪詛が蒸発していく。
数分後。
私が水槽から引き揚げたのは、かつてのボロ布ではなかった。
神鳥の羽が一枚一枚、宝石のような輝きを放ち、見る者の魂を揺さぶるような神々しい光を宿した至宝。
三百年前に織られた当時の、いや、それ以上の品質を持って蘇った伝説のタペストリーだった。
「……う、嘘でしょう? 私たちの家系が何代もかけて守れなかった汚れが……」
マルタ局長が膝をつき、震える手でその布に触れようとする。
だが、彼女の手が触れる前に、タペストリーから溢れた清浄な波動が、彼女自身の心の澱みさえも軽やかに洗い流してしまった。
「ああ……。なんて、なんて清々しいのかしら。私、今まで何を意地を張っていたの……」
局長が涙を流しながら私を拝み始め、周囲の侍女たちもその圧倒的な輝きに、戦意を喪失して呆然と立ち尽くしている。
「スッキリしましたね。次は、その奥にある『呪われた礼服』も洗ってしまいましょうか」
私が笑顔で提案すると、洗濯場の空気は、もはや恐怖ではなく「狂信的な期待」へと塗り替えられていた。
その頃、帝宮の執務室では、ジークフリート様が窓の外を見つめていた。
彼の前には、血相を変えた主席魔導師が報告に訪れていた。
「陛下! 帝都全体の魔力濃度が、突如として浄化されています! 汚染されていた地下水脈までもが、最上級の聖水に変化しているとの情報が!」
ジークフリート様は、満足げに口角を上げた。
「……ふん、私の見込んだ通りだ。彼女は単なる洗濯屋ではない。世界の不浄を食らう、無邪気な断罪者だな」
皇帝の瞳に宿る熱は、もはや一時の興味を通り越し、世界そのものを彼女の望む色に塗り替えようとする執念に近いものになっていた。
一方、私を追放したサリスト王国では。
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