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ルゥフさんの後を追い、私たちは森のさらに奥深くへと進んでいった。陽が落ちるにつれて、森は昼間とは全く違う顔を見せ始める。木々の影は長く伸び、足元は薄暗くて歩きにくい。夜行性の獣が立てる微かな物音が、張り詰めた空気を揺らす。時折、遠くで響く鳴き声に、私の肩がびくりと震えた。
「大丈夫だ。怖がることはない」
私の緊張を察したのか、ルゥフさんが低い声で言った。その声は風に紛れるほど静かだったが、不思議なほど心に届いた。
「森は、夜になると昼間とは違う生き物たちが活動を始めるだけだ。俺たちが彼らを尊重する限り、向こうから危害を加えてくることはない」
彼の落ち着いた声を聞いていると、強張っていた体が少しだけ軽くなる。彼は本当に森の一部なのだ。森の言葉を理解し、森と共に呼吸している。その隣を歩いているという事実が、何よりの安心材料になった。
私たちは、フェンウィック先生に借りた古地図と、ルゥフさんの記憶だけを頼りに、月光茸が生えるという場所を目指した。道は険しく、湿った落ち葉が滑りやすい。時には崖のような急斜面を、剥き出しになった木の根を掴んで登ることもあった。
「ユイ、手を」
足場が悪い場所では、いつもルゥフさんが先に登り、大きな手を差し伸べてくれた。その手に掴まると、私は安心して次の一歩を踏み出すことができた。彼の手のひらは硬い皮膚に覆われ、ごつごつとしていたが、その奥に確かな温かさが宿っていた。
しばらく進むと、ルゥフさんがぴたりと足を止めた。そして、人差し指を口に当てて静かに、と合図する。夜の闇に慣れた彼の瞳は、何かを捉えていた。
「どうしたんですか?」
私が小声で尋ねると、彼は森の暗闇の一点をじっと見つめていた。
「見てみろ。あそこだ」
彼が指さす方を見ても、最初は何も見えなかった。けれど、目を凝らしていると、太い枝の上で何かが小さく動いているのがわかった。それは、二つの光る目を持つ、小さなフクロウの雛だった。巣から落ちたのか、親とはぐれてしまったのか、心細そうに短く鳴いている。その声は夜の静寂に吸い込まれそうなくらい、か弱かった。
すると、ルゥフさんは口元に手を当て、フクロウの鳴き真似をした。ホー、ホー、と低く優しい声が、彼の喉から響く。それはただの物真似ではなかった。森の静寂に溶け込む、一つの音色そのものだった。彼が森に愛され、森を愛している理由が、その声だけで伝わってくるようだった。
驚いたことに、彼の声に応えるように、森の奥から同じ鳴き声が返ってきた。少し力強い、親鳥の声だ。
やがて、大きな影が音もなく私たちの頭上を飛び去り、雛のいる枝に止まった。親フクロウが迎えに来たのだ。雛は親鳥に寄り添い、安心したように羽を震わせる。親子のフクロウは、私たちの方を一度だけ振り返ると、感謝を告げるかのように小さく鳴いて、夜の森へと飛び去っていった。
「すごい……。動物と、話ができるんですね」
「話す、というのとは少し違う。ただ、彼らの気持ちが、なんとなくわかるだけだ」
ルゥフさんは、少し照れたようにそう言った。彼の優しさは、人間だけでなく、森のすべての生き物に向けられているのだと、改めて感じた。
私たちは、さらに歩き続けた。空には満月が昇り、木々の隙間から銀色の光が差し込んでいる。その光が、私たちの進む道をぼんやりと照らし出してくれた。
「この辺りのはずなんだが……」
ルゥフさんが、地図と周りの地形を見比べながら呟いた。月光茸は、清らかな水が流れる沢の近く、そして月の光が直接当たる、開けた場所にしか生えないという。
私たちは、耳を澄ませて水の音を探した。やがて、微かなせせらぎが聞こえてくる。その音を頼りに、沢沿いを進んでいった。すると、不意に森の木々が途切れ、目の前がぱっと開けた。
そこは、小さな滝壺のようになっていた。岩の上から、清らかな水が絶え間なく流れ落ち、その飛沫が月の光を浴びて、銀の粉のようにきらめいている。周りだけ、まるで天蓋が切り取られたかのように、満月の光がスポットライトのように降り注いでいた。
その光の中心で、私たちは信じられないほど美しい光景を目にした。
苔むした倒木や、湿った岩の隙間から、無数のキノコが顔を出している。そして、その一つ一つが、月の光を浴びて、淡い青色の光を、まるで蛍のように静かに放っていたのだ。
「……月光茸……!」
思わず、声が漏れた。それは、この世のものとは思えないほど幻想的で、美しい光景だった。一つ一つの光は小さいけれど、それらが集まって辺り一面を、優しい青色の光で満たしている。まるで、夜の森がそっと見せてくれた、秘密の宝物のようだった。
「見つけたな」
ルゥフさんが、満足そうに頷いた。私は、その場にしゃがみ込むと、そっと月光茸の一つに指で触れてみた。ひんやりとしていて、ベルベットのように滑らかな感触。そして、指先にほんのりと温かい、優しい生命力が伝わってくる。
「このキノコなら、きっと……」
フィンさんの閉ざされた心を、この優しい光で照らすことができるかもしれない。
私は、持ってきた籠に月光茸を一つ一つ、丁寧に摘み取っていった。摘み取った後も、その光が失われることはなかった。籠の中は、まるで小さな夜空を閉じ込めたように、青い光で満たされた。
帰り道、私たちはもう一つ、特別な場所に立ち寄った。アルヴィンさんが話していた、フィンさんがかつてその力で焼き払ってしまったという森の跡地だった。
ルゥフさんの案内でたどり着いたその場所は、周りの鬱蒼とした森とは明らかに違っていた。背の高い木はなく、地面には今でも生々しい焼け跡が残っている。黒く炭化した大地は、フィンの絶望そのものに見えた。
けれど、その絶望を突き破るように、たくさんの若木が力強く芽を出し、空に向かって懸命に葉を伸ばしていたのだ。破壊の終わりではなく、再生の始まりがここにあった。
「森は、再生しようとしているんですね」
「ああ。森は、フィンを恨んではいない。むしろ、彼が戻ってくるのを、ずっと待っている」
ルゥフさんは、その若木の一本を、愛おしそうに撫でた。その光景を見て、私の頭に新しいパンのアイデアが閃いた。私のパンに必要なのは、この光景そのものだ。
「ルゥフさん。この若木の新芽を、少しだけ分けてもらってもいいですか?」
「新芽を? パンに使うのか?」
「はい。フィンさんが傷つけてしまった場所から、新しく生まれてきた命。この新芽には、『再生』と『希望』の力が、きっと宿っているはずです。月光茸の『癒やし』の光と、この新芽の『希望』の力を合わせれば、きっと、フィンさんの心に届くパンが焼けます」
私の言葉に、ルゥフさんは静かに頷くと、一番元気の良い若木から、傷つけないようにそっと新芽を数枚、摘み取ってくれた。
館に戻った私たちは、すぐにパン作りの準備に取りかかった。アルヴィンさんは、私たちが持ち帰った月光茸と新芽を見て、驚きと感動で言葉を失っているようだった。
私は、携帯用のかまどに火を入れると、森の酵母を使って生地をこね始めた。月光茸を細かく刻んで生地に練り込むと、生地全体がまるで夜空に散らばる星々のように、淡い青色の光を帯び始めた。小麦粉という大地に、癒やしの夜空が生まれたかのようだった。
一次発酵が終わった生地の上に、若木の新芽をそっと乗せる。これは希望の種だ。彼の心に、再び朝が来るようにと祈りを込めた。
「フィンさん。森は、あなたを待っています。過去の過ちも、すべて受け入れて新しい命を育んでいる。だから、あなたも自分を許してあげてください」
私は、祈るように生地に生命魔法を注ぎ込んだ。私の持てる、すべての優しさと温かさを込めて。生地は、私の魔法に応えるようにふっくらと、そして力強く命の息吹を宿していくのがわかった。
焼き上がったパンは、今までで最高の出来栄えだった。パンの表面は美しい黄金色に輝き、練り込まれた月光茸が内側から淡い光を放っている。そして、パンの上に乗せた新芽は焼き上がってもなお、鮮やかな緑色を保っていた。パンからは、言葉では言い表せないほど優しくて、清らかな香りが立ち上っていた。
「さあ、フィン様の元へ」
私たちは、その「再生のパン」を皿に乗せ、フィンさんの眠る部屋へと運んだ。パンの香りが部屋に満ちた、その瞬間。それまでぴくりとも動かなかったフィンさんの瞼が、微かに震えたのがわかった。
アルヴィンさんが、フィンさんの上半身をそっと抱き起こす。私は、パンを一口サイズにちぎると、温かいスープに浸して彼の口元へと運んだ。
今度は、弾かれなかった。フィンさんの唇がかすかに開き、パンはゆっくりと、彼の口の中へと吸い込まれていった。パンに込められた、月光茸の癒やしの力と若木の新芽の希望の力が、彼の体の中へと優しく染み渡っていく。
すると、奇跡が起こった。一口、また一口とパンが彼の口に運ばれるたび、その青白い頬に、まるで夜明けの光が差すように温かい血の気が戻ってきた。失われていた生命の輝きが、体の中から蘇ってくるのが手に取るようにわかったのだ。
そして、何年も固く閉ざされていた彼の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。現れたのは、夜の森の湖のように深く、澄んだ翠色の瞳だった。固く閉ざされていた瞳の縁が微かに潤み、やがて一筋の雫が静かに頬を伝った。それは何百年もの間、彼の心に凍りついていた悲しみが、ようやく溶け出した瞬間だった。
「……この味は……。昔、私が……森と、共にあった頃の……」
弱々しいけれど、確かな声でフィンさんが呟いた。
「……ありがとう。見知らぬ、人の子よ。そして……ルゥフ。お前が、森の声を、私に届けてくれたのだな」
彼は、私たち一人一人の顔をゆっくりと見つめた。そして、何百年という長い時間、彼を縛り付けていた罪悪感からようやく解き放たれたかのように、穏やかに微笑んだ。
彼の目覚めは、館全体に、そして周りの森にまで喜びと共に伝わっていったようだった。窓の外で、鳥たちが一斉に祝福の歌を歌い始める。
私とルゥフさんは、顔を見合わせて心からの笑みを交わした。帰り支度をしながら、私はコリコの町の、賑やかで温かい日常に思いを馳せる。ルゥフさんの横顔を盗み見ると、彼もまたどこか満足げな、穏やかな表情を浮かべていた。
「大丈夫だ。怖がることはない」
私の緊張を察したのか、ルゥフさんが低い声で言った。その声は風に紛れるほど静かだったが、不思議なほど心に届いた。
「森は、夜になると昼間とは違う生き物たちが活動を始めるだけだ。俺たちが彼らを尊重する限り、向こうから危害を加えてくることはない」
彼の落ち着いた声を聞いていると、強張っていた体が少しだけ軽くなる。彼は本当に森の一部なのだ。森の言葉を理解し、森と共に呼吸している。その隣を歩いているという事実が、何よりの安心材料になった。
私たちは、フェンウィック先生に借りた古地図と、ルゥフさんの記憶だけを頼りに、月光茸が生えるという場所を目指した。道は険しく、湿った落ち葉が滑りやすい。時には崖のような急斜面を、剥き出しになった木の根を掴んで登ることもあった。
「ユイ、手を」
足場が悪い場所では、いつもルゥフさんが先に登り、大きな手を差し伸べてくれた。その手に掴まると、私は安心して次の一歩を踏み出すことができた。彼の手のひらは硬い皮膚に覆われ、ごつごつとしていたが、その奥に確かな温かさが宿っていた。
しばらく進むと、ルゥフさんがぴたりと足を止めた。そして、人差し指を口に当てて静かに、と合図する。夜の闇に慣れた彼の瞳は、何かを捉えていた。
「どうしたんですか?」
私が小声で尋ねると、彼は森の暗闇の一点をじっと見つめていた。
「見てみろ。あそこだ」
彼が指さす方を見ても、最初は何も見えなかった。けれど、目を凝らしていると、太い枝の上で何かが小さく動いているのがわかった。それは、二つの光る目を持つ、小さなフクロウの雛だった。巣から落ちたのか、親とはぐれてしまったのか、心細そうに短く鳴いている。その声は夜の静寂に吸い込まれそうなくらい、か弱かった。
すると、ルゥフさんは口元に手を当て、フクロウの鳴き真似をした。ホー、ホー、と低く優しい声が、彼の喉から響く。それはただの物真似ではなかった。森の静寂に溶け込む、一つの音色そのものだった。彼が森に愛され、森を愛している理由が、その声だけで伝わってくるようだった。
驚いたことに、彼の声に応えるように、森の奥から同じ鳴き声が返ってきた。少し力強い、親鳥の声だ。
やがて、大きな影が音もなく私たちの頭上を飛び去り、雛のいる枝に止まった。親フクロウが迎えに来たのだ。雛は親鳥に寄り添い、安心したように羽を震わせる。親子のフクロウは、私たちの方を一度だけ振り返ると、感謝を告げるかのように小さく鳴いて、夜の森へと飛び去っていった。
「すごい……。動物と、話ができるんですね」
「話す、というのとは少し違う。ただ、彼らの気持ちが、なんとなくわかるだけだ」
ルゥフさんは、少し照れたようにそう言った。彼の優しさは、人間だけでなく、森のすべての生き物に向けられているのだと、改めて感じた。
私たちは、さらに歩き続けた。空には満月が昇り、木々の隙間から銀色の光が差し込んでいる。その光が、私たちの進む道をぼんやりと照らし出してくれた。
「この辺りのはずなんだが……」
ルゥフさんが、地図と周りの地形を見比べながら呟いた。月光茸は、清らかな水が流れる沢の近く、そして月の光が直接当たる、開けた場所にしか生えないという。
私たちは、耳を澄ませて水の音を探した。やがて、微かなせせらぎが聞こえてくる。その音を頼りに、沢沿いを進んでいった。すると、不意に森の木々が途切れ、目の前がぱっと開けた。
そこは、小さな滝壺のようになっていた。岩の上から、清らかな水が絶え間なく流れ落ち、その飛沫が月の光を浴びて、銀の粉のようにきらめいている。周りだけ、まるで天蓋が切り取られたかのように、満月の光がスポットライトのように降り注いでいた。
その光の中心で、私たちは信じられないほど美しい光景を目にした。
苔むした倒木や、湿った岩の隙間から、無数のキノコが顔を出している。そして、その一つ一つが、月の光を浴びて、淡い青色の光を、まるで蛍のように静かに放っていたのだ。
「……月光茸……!」
思わず、声が漏れた。それは、この世のものとは思えないほど幻想的で、美しい光景だった。一つ一つの光は小さいけれど、それらが集まって辺り一面を、優しい青色の光で満たしている。まるで、夜の森がそっと見せてくれた、秘密の宝物のようだった。
「見つけたな」
ルゥフさんが、満足そうに頷いた。私は、その場にしゃがみ込むと、そっと月光茸の一つに指で触れてみた。ひんやりとしていて、ベルベットのように滑らかな感触。そして、指先にほんのりと温かい、優しい生命力が伝わってくる。
「このキノコなら、きっと……」
フィンさんの閉ざされた心を、この優しい光で照らすことができるかもしれない。
私は、持ってきた籠に月光茸を一つ一つ、丁寧に摘み取っていった。摘み取った後も、その光が失われることはなかった。籠の中は、まるで小さな夜空を閉じ込めたように、青い光で満たされた。
帰り道、私たちはもう一つ、特別な場所に立ち寄った。アルヴィンさんが話していた、フィンさんがかつてその力で焼き払ってしまったという森の跡地だった。
ルゥフさんの案内でたどり着いたその場所は、周りの鬱蒼とした森とは明らかに違っていた。背の高い木はなく、地面には今でも生々しい焼け跡が残っている。黒く炭化した大地は、フィンの絶望そのものに見えた。
けれど、その絶望を突き破るように、たくさんの若木が力強く芽を出し、空に向かって懸命に葉を伸ばしていたのだ。破壊の終わりではなく、再生の始まりがここにあった。
「森は、再生しようとしているんですね」
「ああ。森は、フィンを恨んではいない。むしろ、彼が戻ってくるのを、ずっと待っている」
ルゥフさんは、その若木の一本を、愛おしそうに撫でた。その光景を見て、私の頭に新しいパンのアイデアが閃いた。私のパンに必要なのは、この光景そのものだ。
「ルゥフさん。この若木の新芽を、少しだけ分けてもらってもいいですか?」
「新芽を? パンに使うのか?」
「はい。フィンさんが傷つけてしまった場所から、新しく生まれてきた命。この新芽には、『再生』と『希望』の力が、きっと宿っているはずです。月光茸の『癒やし』の光と、この新芽の『希望』の力を合わせれば、きっと、フィンさんの心に届くパンが焼けます」
私の言葉に、ルゥフさんは静かに頷くと、一番元気の良い若木から、傷つけないようにそっと新芽を数枚、摘み取ってくれた。
館に戻った私たちは、すぐにパン作りの準備に取りかかった。アルヴィンさんは、私たちが持ち帰った月光茸と新芽を見て、驚きと感動で言葉を失っているようだった。
私は、携帯用のかまどに火を入れると、森の酵母を使って生地をこね始めた。月光茸を細かく刻んで生地に練り込むと、生地全体がまるで夜空に散らばる星々のように、淡い青色の光を帯び始めた。小麦粉という大地に、癒やしの夜空が生まれたかのようだった。
一次発酵が終わった生地の上に、若木の新芽をそっと乗せる。これは希望の種だ。彼の心に、再び朝が来るようにと祈りを込めた。
「フィンさん。森は、あなたを待っています。過去の過ちも、すべて受け入れて新しい命を育んでいる。だから、あなたも自分を許してあげてください」
私は、祈るように生地に生命魔法を注ぎ込んだ。私の持てる、すべての優しさと温かさを込めて。生地は、私の魔法に応えるようにふっくらと、そして力強く命の息吹を宿していくのがわかった。
焼き上がったパンは、今までで最高の出来栄えだった。パンの表面は美しい黄金色に輝き、練り込まれた月光茸が内側から淡い光を放っている。そして、パンの上に乗せた新芽は焼き上がってもなお、鮮やかな緑色を保っていた。パンからは、言葉では言い表せないほど優しくて、清らかな香りが立ち上っていた。
「さあ、フィン様の元へ」
私たちは、その「再生のパン」を皿に乗せ、フィンさんの眠る部屋へと運んだ。パンの香りが部屋に満ちた、その瞬間。それまでぴくりとも動かなかったフィンさんの瞼が、微かに震えたのがわかった。
アルヴィンさんが、フィンさんの上半身をそっと抱き起こす。私は、パンを一口サイズにちぎると、温かいスープに浸して彼の口元へと運んだ。
今度は、弾かれなかった。フィンさんの唇がかすかに開き、パンはゆっくりと、彼の口の中へと吸い込まれていった。パンに込められた、月光茸の癒やしの力と若木の新芽の希望の力が、彼の体の中へと優しく染み渡っていく。
すると、奇跡が起こった。一口、また一口とパンが彼の口に運ばれるたび、その青白い頬に、まるで夜明けの光が差すように温かい血の気が戻ってきた。失われていた生命の輝きが、体の中から蘇ってくるのが手に取るようにわかったのだ。
そして、何年も固く閉ざされていた彼の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。現れたのは、夜の森の湖のように深く、澄んだ翠色の瞳だった。固く閉ざされていた瞳の縁が微かに潤み、やがて一筋の雫が静かに頬を伝った。それは何百年もの間、彼の心に凍りついていた悲しみが、ようやく溶け出した瞬間だった。
「……この味は……。昔、私が……森と、共にあった頃の……」
弱々しいけれど、確かな声でフィンさんが呟いた。
「……ありがとう。見知らぬ、人の子よ。そして……ルゥフ。お前が、森の声を、私に届けてくれたのだな」
彼は、私たち一人一人の顔をゆっくりと見つめた。そして、何百年という長い時間、彼を縛り付けていた罪悪感からようやく解き放たれたかのように、穏やかに微笑んだ。
彼の目覚めは、館全体に、そして周りの森にまで喜びと共に伝わっていったようだった。窓の外で、鳥たちが一斉に祝福の歌を歌い始める。
私とルゥフさんは、顔を見合わせて心からの笑みを交わした。帰り支度をしながら、私はコリコの町の、賑やかで温かい日常に思いを馳せる。ルゥフさんの横顔を盗み見ると、彼もまたどこか満足げな、穏やかな表情を浮かべていた。
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