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第4話 呪いの庭園が、おやつ片手に極楽浄土に変わるまで
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公爵城での生活は、王都のそれとは比較にならないほど贅沢なものだ。
朝は小鳥の囀りで目覚め、最高級の羽毛布団から這い出す。
肌触りの良いシルクの寝間着は、私の体温を完璧に調整し、不快な寝汗など一滴もかかせない。
ミーナが運んできた温かい果実水を一口飲めば、喉の奥から生命力が湧き上がってくるのを感じる。
まさに、至れり尽くせり。
けれど、何もしないでただ寵愛されるだけの生活というのは、どうにも私の性には合わないらしかった。
「……うーん。暇ね」
テラスに出て、大きく伸びをする。
北の辺境特有の、肺が凍りつきそうなほど冷たく澄んだ空気が心地よい。
私の身体を巡る魔力回路が、大気中のマナと共鳴し、指先から金色の粒子がサラサラとこぼれ落ちる。
それが手すりに積もった雪に触れると、一瞬にして雪が解け、そこから季節外れのアイビーが勢いよく芽吹いた。
緑の蔦は私の魔力を吸ってぐんぐんと伸び、瞬く間にテラス全体を美しい緑のカーテンで覆い尽くしてしまう。
「あら、またやっちゃった。……まあ、緑があるのは目に良いことだし、このままでいいかしら」
王都では「枯れた」と罵られ続けた私の魔力だが、どうやらこの土地との相性が良すぎるらしい。
あるいは、あの黒い釜――『創世の器』だったかしら?――を触り続けているせいで、私の魔力回路そのものが変質しているのかもしれない。
まあ、細かいことはいい。
私が快適なら、それで全てよしだ。
ふと、視線を遠くに向ける。
城の北側に、そこだけ切り取られたように陽光を拒絶している一画があった。
どろりとした闇が滞留し、見るからに不吉な空気を漂わせている。
「ねえ、ミーナ。あそこの黒い森はなにかしら? お散歩コースには少し暗そうだけれど」
洗濯物を干していたミーナが、私の指差す方向を見て、ひっと小さく息を呑んだ。
「あ、あそこは……『沈黙の庭園』と呼ばれている場所です」
彼女は声を潜め、まるで口にするのも恐ろしい怪談話をするかのように顔を曇らせた。
「数百年前の大戦で、敵国の魔術師部隊が最後に放った『禁忌の呪毒』を浴びた土地なんです。以来、草一本生えず、魔物さえ寄り付かない死地と化しています。閣下も、あそこだけはどうにもできないと、結界で封鎖して諦めておいでで……」
「へえ、死地……。もったいないわね、あんなに広い場所があるのに」
私は自分の手のひらをじっと見つめる。
内側で暴れ回る黄金の魔力が、出口を求めてうずうずしているのが分かった。
今の私なら、ちょっとした掃除くらいはできるかもしれない。
「ミーナ、私、少しお部屋で休んでいるわね。お昼寝でもしようかしら」
「はい! ゆっくりお休みください、エル様」
ミーナが部屋を出て行ったのを確認し、私はベッドの下に隠していた相棒の黒い釜を引っ張り出した。
ずしりと重いその感触に、自然と笑みがこぼれる。
「よし、ちょっとお散歩に行きましょうか」
衛兵たちの目を盗む必要さえない。
今の私には、自身の存在感を希釈する程度の隠密魔法なら、呼吸をするように瞬時に構築できる。
光の屈折率を操作し、音を遮断する膜を張る。
私は誰にも気づかれることなく、ふわりとテラスから飛び降りた。
*
城の裏手を抜け、朽ち果てた鉄柵を越えると、空気の味が変わった。
鼻を突くのは、硫黄と腐敗が混ざり合ったような、肺が焼ける悪臭。
地面は真っ黒にひび割れ、そこかしこから紫色の毒霧がシューシューと音を立てて噴き出している。
空を見上げれば、ここだけ雲が鉛色に淀み、太陽の光を遮っていた。
「うわあ……これはひどい。植物たちが窒息して泣いているのが聞こえるわ」
私は足元にあった、炭のように黒く変色した切り株に触れた。
瞬間、私の指先から溢れたマナが、枯れ木に吸い込まれていく。
ドクン、と大地が心臓の鼓動を打つような音を立てた。
まだ、死んでいない。
この土地は、ただ汚れすぎて呼吸ができなくなっているだけだ。
「さあ、お掃除の時間よ」
私はおもむろに黒い釜を地面に置いた。
地面がジュワリと音を立てて釜の底を溶かそうとするが、神話級のアーティファクトであるこの釜には傷一つつかない。
さて、材料だ。
周りを見渡しても、あるのは毒々しい色の石と、泥、そして漂う瘴気だけ。
普通なら、これらは触れるだけで皮膚がただれる猛毒の廃棄物だ。
けれど、錬金術の極意は「等価交換」ではなく「概念の置換」にある。
毒も薬も、構成要素を分解してしまえばただのエネルギーの塊に過ぎない。
「えっと、このドロドロの泥と、紫色の霧を……こうして、ぎゅっと」
私は素手で猛毒のヘドロを鷲掴みにし、釜の中に放り込んだ。
さらに、空中を漂う瘴気を手でかき集め、無理やり釜の中に押し込める。
客観的に見れば、子供が泥遊びをしているようにしか見えないだろう。
最後に、仕上げの隠し味。
「お水が足りないわね。私の魔力でいいかしら」
釜の中に、自分の指先から黄金のマナを直接流し込む。
私の魔力は、触媒を通すことであらゆる性質に変化する万能の液体だ。
釜の中身が、ドロリと重く渦を巻く。
「ふふーん、ふふふーん♪」
私は適当な鼻歌を歌いながら、道端で拾った木の枝で釜をかき混ぜた。
難しい理論や、複雑な術式なんていらない。
ただ、「綺麗になあれ」と願うだけでいい。
私の無邪気なイメージを、この釜――『創世の器』が勝手に汲み取り、物理法則をねじ曲げて出力してくれるのだから。
「美味しくなーれ、綺麗になーれ。……えいっ!」
最後の一混ぜと共に、私が枝を振るう。
カッッッッッ!!
釜の底から、視界を白く染め上げるほどの閃光が爆発した。
キィィィィィィンッ!
鼓膜を突き刺すような高周波が響き、釜から溢れ出した白銀の波紋が、庭園全体を津波のように飲み込んでいく。
ドォォォォォンッ!!
衝撃波が毒霧を吹き飛ばし、鉛色の空をこじ開けた。
降り注ぐ太陽の光。
どろりとした闇の霧は、光の波紋に触れた端から、キラキラと輝く虹色の粒子へと昇華されていく。
ひび割れた大地は、見る間に潤いを取り戻して瑞々しい黒土へと変わり、そこから緑の芽が爆発的な速度で噴き出した。
「あらあら、すごい勢い」
ボボボボボッ!
私の目の前で、背丈ほどの高さまで成長した植物が、大輪の花を咲かせた。
花弁の一枚一枚がダイヤモンドのように輝く、透き通るような白銀の薔薇。
それは、一輪で城が一つ買えると言われる伝説の霊花『天界の薔薇』だったが、私には「ちょっと綺麗な白い花」にしか見えていない。
それが、雑草のような生命力で庭園の隅々まで咲き乱れていく。
さらに、庭園の中央にあった枯れ果てた噴水が、ゴゴゴと音を立てて震え出した。
バシャァァァァァッ!!
突如として、轟音と共に水が天高く噴き上がった。
虹がかかるその水しぶきは、ただの水ではない。
一口飲めば寿命が百年延び、あらゆる欠損部位を瞬時に再生させると言われる聖水『神の雫』そのものだ。
噴水から溢れた聖水は小川となって庭園を巡り、さらさらと心地よい音を奏で始める。
「うん、さっぱりしたわね」
硫黄の臭いは消え失せ、今は芳醇な花の香りと、清涼な水の匂いが満ちている。
私は満足して額の汗を拭うと、ポケットからハンカチに包んだクッキーを取り出した。
昨日、私が厨房を借りて焼いた手作りクッキーだ。
聖水の川のほとりにある、ちょうどいい大きさの岩に腰掛ける。
「ふう。やっぱり、お外で食べるおやつは格別ね」
サクサクとクッキーを齧りながら、満開の天界の薔薇を眺める。
なんて優雅な午後のひとときだろう。
あまりの心地よさに、私はそのままうとうとと微睡んでしまった。
「……エル。おい、エル!!」
遠くから、切羽詰まった声が聞こえる。
誰かが私の名前を叫んでいるような。
重い瞼をこすりながら目を開けると、そこには蒼白な顔をしたゼノス様が立っていた。
軍服の襟は乱れ、肩で息をしている。
その後ろには、抜剣した騎士たちが十数名、呆然と立ち尽くしていた。
「あ、ゼノス様。おはようございます……じゃなくて、こんにちは。ここのお庭、とっても静かで気持ちいいですよ」
「……気持ちいい、だと? 私はお前の気配が呪界の方向へ消えたと聞いて、心臓が止まるかと……」
ゼノス様が私の方へ駆け寄ろうとして、ピタリと足を止めた。
彼は周囲を見渡し、そして自分の目を疑うように何度も瞬きをした。
「……ガイル。私の目は、ついに狂ったか? ここは、数百年もの間、何人たりとも生きて帰れなかった『沈黙の庭園』だったはずだ」
ゼノス様の視線の先では、絶滅したはずの光る蝶が優雅に舞い、噴水からは神々しいオーラを纏った水が噴き出し続けている。
「か、閣下……。残念ながら、私の目にもここが天国にしか見えません」
ガイル団長が、夢遊病者のようにふらふらと噴水に近づいた。
彼は震える手で、川の水をすくい、恐る恐る口に含んだ。
「……っ!!?」
カッッッッッ!!
ガイル団長の身体が、内側から発光した。
バチバチと音が鳴り、彼が長年患っていた古傷――背中の巨大な火傷痕が、光の粒子となって霧散する。
それだけではない。
彼の筋肉が風船のように膨張し、着ていたミスリルの鎧が悲鳴を上げて弾け飛びそうになった。
「うおおおおおっ! な、なんだこれは!? 痛みが消えたどころの話ではない! 全身の細胞が若返り、魔力がマグマのように溢れてくる!」
「団長!? ズルいですぞ! 俺も!」
「俺も飲む!」
騎士たちが次々と聖水の川に飛び込み、水をガブ飲みし始めた。
「目が! 視力が良くなりすぎて、空気中のマナの流れまで見える!」
「ハゲていた頭皮から、剛毛が生えてきたぞ! しかも金色に輝いている!」
「俺の剣が、聖水を浴びただけで『聖剣』に進化した! なんだこの波動は!」
狂喜乱舞する騎士たち。
泥遊びのような光景だが、彼らの放つ魔力は一人一人が国家戦力級に跳ね上がっている。
「……エル。お前、まさか一人でここを……?」
ゼノス様が、私の目の前に膝をつき、両肩を掴んだ。
その手は小刻みに震えている。
見上げれば、彼の銀色の瞳には、畏怖と、そしてそれ以上に深く、重い熱情が渦巻いていた。
「少しだけ、お掃除をしただけです。雑草を抜いて、お水を撒いただけなんですけど」
「掃除……。お前の掃除は、世界の理を根底から書き換えることなのか」
ゼノス様は頭を抱え、深いため息をついた。
だが、すぐに顔を上げると、その瞳孔を獲物を狙う獣のように細めた。
「あの花は『天界の薔薇』……一輪あれば国が傾くほどの富をもたらす伝説の花だ。そしてあの水は『神の雫』……神話の時代に失われたはずの万能薬だ」
「えっ、そんなに高いものなんですか? 雑草みたいに生えてきましたけど」
「……雑草だと? 無自覚もそこまでいくと、もはや一種の暴力だぞ」
ゼノス様は私を強く抱き寄せた。
彼の心臓の音が、ドクン、ドクンと激しく打っているのが伝わってくる。
それは恐怖によるものではない。
目の前にある「奇跡」を、誰にも渡したくないという強烈な独占欲による動悸だ。
「もういい、決めた。お前を城から一歩も出さん」
「ええっ? お散歩もダメですか?」
「ダメだ。こんな奇跡を無防備に撒き散らすなど、正気の沙汰ではない。この庭も、この力も……すべて私だけのものだ」
彼の腕に力がこもる。
逃げ場などないと言わんばかりの抱擁。
彼は私の首筋に顔を埋め、所有の印を刻むように熱い口づけを落とした。
「誰にも見せない。……誰にも触れさせない。お前は私の、私だけの聖女だ」
耳元で囁かれたその声は、甘く、そして背筋が震えるほどに執拗だった。
私は抵抗する気力もなく、ただ彼の体温に包まれて顔を赤くするしかなかった。
背後では、若返った騎士たちが「ヒューッ!」と指笛を鳴らして盛り上がっているが、今の私にはゼノス様の熱しか感じられなかった。
*
一方その頃、私が捨てられた王国では、さらなる絶望が進行していた。
「ぎゃああああああっ!!」
王太子ジュリアスの絶叫が、王城の最奥にある寝室に響き渡る。
豪華な天蓋付きベッドの上で、彼は獣のようにのたうち回っていた。
「痛い、痛いッ! 誰か、この痛みを止めてくれ! 身体が……身体が腐っていく!」
彼の美しい顔は見る影もなく崩れ、全身にどす黒い斑点が浮かび上がっていた。
皮膚は乾燥してひび割れ、そこから膿のような悪臭を放つ体液がシーツを汚している。
原因不明の奇病。
王抱えの医師たちが総出で治療にあたっているが、どんな薬も魔法も効果がない。
それどころか、回復魔法をかければかけるほど、呪いは勢いを増して彼の身体を蝕んでいく。
「ど、どういうことだ! なぜ治らない! リン! 聖女リンはどうした!?」
ジュリアスが血走った目で叫ぶ。
「も、申し訳ございません殿下……! リン様の浄化魔法では、殿下の呪いを解くどころか、逆流して被害が拡大しております! リン様ご自身も、魔力枯渇で倒れられました!」
侍従が床に頭を擦り付けながら報告する。
「役立たずめ! ええい、王都の作物はどうなった!? 民草の献上はどうなっている!」
「ぜ、全滅です……! 国内の結界が完全に崩壊し、西の砦からはオークの群れが、東の森からはワイバーンが侵入を開始しました! もはや、王都陥落も時間の問題かと……!」
ジュリアスの怒号が虚しく響く。
窓の外を見れば、かつて「豊穣の都」と謳われた王都の空が、呪いの黒い雲に完全に覆い尽くされようとしていた。
大地は腐り、水は濁り、生命の息吹が急速に失われていく。
聖女である私を「ゴミ」として捨てた報いが、大地そのものから返ってきているのだ。
「なぜだ……なぜこんなことに……! エル……エルはどこだ!?」
ジュリアスは爪を立てて自身の顔を掻きむしる。
彼が追い出した私こそが、この国の生命線を繋ぎ止めていた唯一の楔だったということに、彼はまだ気づいていない。
そして、その希望はすでに、世界最強の神獣の手によって、二度と手の届かない場所へと囲い込まれてしまったということに。
私の焼いたクッキーの甘い香りなど、この地獄には永遠に届くことはないのだ。
朝は小鳥の囀りで目覚め、最高級の羽毛布団から這い出す。
肌触りの良いシルクの寝間着は、私の体温を完璧に調整し、不快な寝汗など一滴もかかせない。
ミーナが運んできた温かい果実水を一口飲めば、喉の奥から生命力が湧き上がってくるのを感じる。
まさに、至れり尽くせり。
けれど、何もしないでただ寵愛されるだけの生活というのは、どうにも私の性には合わないらしかった。
「……うーん。暇ね」
テラスに出て、大きく伸びをする。
北の辺境特有の、肺が凍りつきそうなほど冷たく澄んだ空気が心地よい。
私の身体を巡る魔力回路が、大気中のマナと共鳴し、指先から金色の粒子がサラサラとこぼれ落ちる。
それが手すりに積もった雪に触れると、一瞬にして雪が解け、そこから季節外れのアイビーが勢いよく芽吹いた。
緑の蔦は私の魔力を吸ってぐんぐんと伸び、瞬く間にテラス全体を美しい緑のカーテンで覆い尽くしてしまう。
「あら、またやっちゃった。……まあ、緑があるのは目に良いことだし、このままでいいかしら」
王都では「枯れた」と罵られ続けた私の魔力だが、どうやらこの土地との相性が良すぎるらしい。
あるいは、あの黒い釜――『創世の器』だったかしら?――を触り続けているせいで、私の魔力回路そのものが変質しているのかもしれない。
まあ、細かいことはいい。
私が快適なら、それで全てよしだ。
ふと、視線を遠くに向ける。
城の北側に、そこだけ切り取られたように陽光を拒絶している一画があった。
どろりとした闇が滞留し、見るからに不吉な空気を漂わせている。
「ねえ、ミーナ。あそこの黒い森はなにかしら? お散歩コースには少し暗そうだけれど」
洗濯物を干していたミーナが、私の指差す方向を見て、ひっと小さく息を呑んだ。
「あ、あそこは……『沈黙の庭園』と呼ばれている場所です」
彼女は声を潜め、まるで口にするのも恐ろしい怪談話をするかのように顔を曇らせた。
「数百年前の大戦で、敵国の魔術師部隊が最後に放った『禁忌の呪毒』を浴びた土地なんです。以来、草一本生えず、魔物さえ寄り付かない死地と化しています。閣下も、あそこだけはどうにもできないと、結界で封鎖して諦めておいでで……」
「へえ、死地……。もったいないわね、あんなに広い場所があるのに」
私は自分の手のひらをじっと見つめる。
内側で暴れ回る黄金の魔力が、出口を求めてうずうずしているのが分かった。
今の私なら、ちょっとした掃除くらいはできるかもしれない。
「ミーナ、私、少しお部屋で休んでいるわね。お昼寝でもしようかしら」
「はい! ゆっくりお休みください、エル様」
ミーナが部屋を出て行ったのを確認し、私はベッドの下に隠していた相棒の黒い釜を引っ張り出した。
ずしりと重いその感触に、自然と笑みがこぼれる。
「よし、ちょっとお散歩に行きましょうか」
衛兵たちの目を盗む必要さえない。
今の私には、自身の存在感を希釈する程度の隠密魔法なら、呼吸をするように瞬時に構築できる。
光の屈折率を操作し、音を遮断する膜を張る。
私は誰にも気づかれることなく、ふわりとテラスから飛び降りた。
*
城の裏手を抜け、朽ち果てた鉄柵を越えると、空気の味が変わった。
鼻を突くのは、硫黄と腐敗が混ざり合ったような、肺が焼ける悪臭。
地面は真っ黒にひび割れ、そこかしこから紫色の毒霧がシューシューと音を立てて噴き出している。
空を見上げれば、ここだけ雲が鉛色に淀み、太陽の光を遮っていた。
「うわあ……これはひどい。植物たちが窒息して泣いているのが聞こえるわ」
私は足元にあった、炭のように黒く変色した切り株に触れた。
瞬間、私の指先から溢れたマナが、枯れ木に吸い込まれていく。
ドクン、と大地が心臓の鼓動を打つような音を立てた。
まだ、死んでいない。
この土地は、ただ汚れすぎて呼吸ができなくなっているだけだ。
「さあ、お掃除の時間よ」
私はおもむろに黒い釜を地面に置いた。
地面がジュワリと音を立てて釜の底を溶かそうとするが、神話級のアーティファクトであるこの釜には傷一つつかない。
さて、材料だ。
周りを見渡しても、あるのは毒々しい色の石と、泥、そして漂う瘴気だけ。
普通なら、これらは触れるだけで皮膚がただれる猛毒の廃棄物だ。
けれど、錬金術の極意は「等価交換」ではなく「概念の置換」にある。
毒も薬も、構成要素を分解してしまえばただのエネルギーの塊に過ぎない。
「えっと、このドロドロの泥と、紫色の霧を……こうして、ぎゅっと」
私は素手で猛毒のヘドロを鷲掴みにし、釜の中に放り込んだ。
さらに、空中を漂う瘴気を手でかき集め、無理やり釜の中に押し込める。
客観的に見れば、子供が泥遊びをしているようにしか見えないだろう。
最後に、仕上げの隠し味。
「お水が足りないわね。私の魔力でいいかしら」
釜の中に、自分の指先から黄金のマナを直接流し込む。
私の魔力は、触媒を通すことであらゆる性質に変化する万能の液体だ。
釜の中身が、ドロリと重く渦を巻く。
「ふふーん、ふふふーん♪」
私は適当な鼻歌を歌いながら、道端で拾った木の枝で釜をかき混ぜた。
難しい理論や、複雑な術式なんていらない。
ただ、「綺麗になあれ」と願うだけでいい。
私の無邪気なイメージを、この釜――『創世の器』が勝手に汲み取り、物理法則をねじ曲げて出力してくれるのだから。
「美味しくなーれ、綺麗になーれ。……えいっ!」
最後の一混ぜと共に、私が枝を振るう。
カッッッッッ!!
釜の底から、視界を白く染め上げるほどの閃光が爆発した。
キィィィィィィンッ!
鼓膜を突き刺すような高周波が響き、釜から溢れ出した白銀の波紋が、庭園全体を津波のように飲み込んでいく。
ドォォォォォンッ!!
衝撃波が毒霧を吹き飛ばし、鉛色の空をこじ開けた。
降り注ぐ太陽の光。
どろりとした闇の霧は、光の波紋に触れた端から、キラキラと輝く虹色の粒子へと昇華されていく。
ひび割れた大地は、見る間に潤いを取り戻して瑞々しい黒土へと変わり、そこから緑の芽が爆発的な速度で噴き出した。
「あらあら、すごい勢い」
ボボボボボッ!
私の目の前で、背丈ほどの高さまで成長した植物が、大輪の花を咲かせた。
花弁の一枚一枚がダイヤモンドのように輝く、透き通るような白銀の薔薇。
それは、一輪で城が一つ買えると言われる伝説の霊花『天界の薔薇』だったが、私には「ちょっと綺麗な白い花」にしか見えていない。
それが、雑草のような生命力で庭園の隅々まで咲き乱れていく。
さらに、庭園の中央にあった枯れ果てた噴水が、ゴゴゴと音を立てて震え出した。
バシャァァァァァッ!!
突如として、轟音と共に水が天高く噴き上がった。
虹がかかるその水しぶきは、ただの水ではない。
一口飲めば寿命が百年延び、あらゆる欠損部位を瞬時に再生させると言われる聖水『神の雫』そのものだ。
噴水から溢れた聖水は小川となって庭園を巡り、さらさらと心地よい音を奏で始める。
「うん、さっぱりしたわね」
硫黄の臭いは消え失せ、今は芳醇な花の香りと、清涼な水の匂いが満ちている。
私は満足して額の汗を拭うと、ポケットからハンカチに包んだクッキーを取り出した。
昨日、私が厨房を借りて焼いた手作りクッキーだ。
聖水の川のほとりにある、ちょうどいい大きさの岩に腰掛ける。
「ふう。やっぱり、お外で食べるおやつは格別ね」
サクサクとクッキーを齧りながら、満開の天界の薔薇を眺める。
なんて優雅な午後のひとときだろう。
あまりの心地よさに、私はそのままうとうとと微睡んでしまった。
「……エル。おい、エル!!」
遠くから、切羽詰まった声が聞こえる。
誰かが私の名前を叫んでいるような。
重い瞼をこすりながら目を開けると、そこには蒼白な顔をしたゼノス様が立っていた。
軍服の襟は乱れ、肩で息をしている。
その後ろには、抜剣した騎士たちが十数名、呆然と立ち尽くしていた。
「あ、ゼノス様。おはようございます……じゃなくて、こんにちは。ここのお庭、とっても静かで気持ちいいですよ」
「……気持ちいい、だと? 私はお前の気配が呪界の方向へ消えたと聞いて、心臓が止まるかと……」
ゼノス様が私の方へ駆け寄ろうとして、ピタリと足を止めた。
彼は周囲を見渡し、そして自分の目を疑うように何度も瞬きをした。
「……ガイル。私の目は、ついに狂ったか? ここは、数百年もの間、何人たりとも生きて帰れなかった『沈黙の庭園』だったはずだ」
ゼノス様の視線の先では、絶滅したはずの光る蝶が優雅に舞い、噴水からは神々しいオーラを纏った水が噴き出し続けている。
「か、閣下……。残念ながら、私の目にもここが天国にしか見えません」
ガイル団長が、夢遊病者のようにふらふらと噴水に近づいた。
彼は震える手で、川の水をすくい、恐る恐る口に含んだ。
「……っ!!?」
カッッッッッ!!
ガイル団長の身体が、内側から発光した。
バチバチと音が鳴り、彼が長年患っていた古傷――背中の巨大な火傷痕が、光の粒子となって霧散する。
それだけではない。
彼の筋肉が風船のように膨張し、着ていたミスリルの鎧が悲鳴を上げて弾け飛びそうになった。
「うおおおおおっ! な、なんだこれは!? 痛みが消えたどころの話ではない! 全身の細胞が若返り、魔力がマグマのように溢れてくる!」
「団長!? ズルいですぞ! 俺も!」
「俺も飲む!」
騎士たちが次々と聖水の川に飛び込み、水をガブ飲みし始めた。
「目が! 視力が良くなりすぎて、空気中のマナの流れまで見える!」
「ハゲていた頭皮から、剛毛が生えてきたぞ! しかも金色に輝いている!」
「俺の剣が、聖水を浴びただけで『聖剣』に進化した! なんだこの波動は!」
狂喜乱舞する騎士たち。
泥遊びのような光景だが、彼らの放つ魔力は一人一人が国家戦力級に跳ね上がっている。
「……エル。お前、まさか一人でここを……?」
ゼノス様が、私の目の前に膝をつき、両肩を掴んだ。
その手は小刻みに震えている。
見上げれば、彼の銀色の瞳には、畏怖と、そしてそれ以上に深く、重い熱情が渦巻いていた。
「少しだけ、お掃除をしただけです。雑草を抜いて、お水を撒いただけなんですけど」
「掃除……。お前の掃除は、世界の理を根底から書き換えることなのか」
ゼノス様は頭を抱え、深いため息をついた。
だが、すぐに顔を上げると、その瞳孔を獲物を狙う獣のように細めた。
「あの花は『天界の薔薇』……一輪あれば国が傾くほどの富をもたらす伝説の花だ。そしてあの水は『神の雫』……神話の時代に失われたはずの万能薬だ」
「えっ、そんなに高いものなんですか? 雑草みたいに生えてきましたけど」
「……雑草だと? 無自覚もそこまでいくと、もはや一種の暴力だぞ」
ゼノス様は私を強く抱き寄せた。
彼の心臓の音が、ドクン、ドクンと激しく打っているのが伝わってくる。
それは恐怖によるものではない。
目の前にある「奇跡」を、誰にも渡したくないという強烈な独占欲による動悸だ。
「もういい、決めた。お前を城から一歩も出さん」
「ええっ? お散歩もダメですか?」
「ダメだ。こんな奇跡を無防備に撒き散らすなど、正気の沙汰ではない。この庭も、この力も……すべて私だけのものだ」
彼の腕に力がこもる。
逃げ場などないと言わんばかりの抱擁。
彼は私の首筋に顔を埋め、所有の印を刻むように熱い口づけを落とした。
「誰にも見せない。……誰にも触れさせない。お前は私の、私だけの聖女だ」
耳元で囁かれたその声は、甘く、そして背筋が震えるほどに執拗だった。
私は抵抗する気力もなく、ただ彼の体温に包まれて顔を赤くするしかなかった。
背後では、若返った騎士たちが「ヒューッ!」と指笛を鳴らして盛り上がっているが、今の私にはゼノス様の熱しか感じられなかった。
*
一方その頃、私が捨てられた王国では、さらなる絶望が進行していた。
「ぎゃああああああっ!!」
王太子ジュリアスの絶叫が、王城の最奥にある寝室に響き渡る。
豪華な天蓋付きベッドの上で、彼は獣のようにのたうち回っていた。
「痛い、痛いッ! 誰か、この痛みを止めてくれ! 身体が……身体が腐っていく!」
彼の美しい顔は見る影もなく崩れ、全身にどす黒い斑点が浮かび上がっていた。
皮膚は乾燥してひび割れ、そこから膿のような悪臭を放つ体液がシーツを汚している。
原因不明の奇病。
王抱えの医師たちが総出で治療にあたっているが、どんな薬も魔法も効果がない。
それどころか、回復魔法をかければかけるほど、呪いは勢いを増して彼の身体を蝕んでいく。
「ど、どういうことだ! なぜ治らない! リン! 聖女リンはどうした!?」
ジュリアスが血走った目で叫ぶ。
「も、申し訳ございません殿下……! リン様の浄化魔法では、殿下の呪いを解くどころか、逆流して被害が拡大しております! リン様ご自身も、魔力枯渇で倒れられました!」
侍従が床に頭を擦り付けながら報告する。
「役立たずめ! ええい、王都の作物はどうなった!? 民草の献上はどうなっている!」
「ぜ、全滅です……! 国内の結界が完全に崩壊し、西の砦からはオークの群れが、東の森からはワイバーンが侵入を開始しました! もはや、王都陥落も時間の問題かと……!」
ジュリアスの怒号が虚しく響く。
窓の外を見れば、かつて「豊穣の都」と謳われた王都の空が、呪いの黒い雲に完全に覆い尽くされようとしていた。
大地は腐り、水は濁り、生命の息吹が急速に失われていく。
聖女である私を「ゴミ」として捨てた報いが、大地そのものから返ってきているのだ。
「なぜだ……なぜこんなことに……! エル……エルはどこだ!?」
ジュリアスは爪を立てて自身の顔を掻きむしる。
彼が追い出した私こそが、この国の生命線を繋ぎ止めていた唯一の楔だったということに、彼はまだ気づいていない。
そして、その希望はすでに、世界最強の神獣の手によって、二度と手の届かない場所へと囲い込まれてしまったということに。
私の焼いたクッキーの甘い香りなど、この地獄には永遠に届くことはないのだ。
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※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
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