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第7話 伝説の小麦粉で焼くパンは、一噛みで寿命が数百年延びるらしい
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「エル様! お願いですから、その場から動かないでください! いえ、やっぱり動いてください! ああもう、どっちにすればいいんですか!」
朝の爽やかな光が差し込む廊下に、ミーナの悲鳴に近い叫び声が反響する。
私は困惑して、上げた右足を下ろすべきか迷ったまま空中で停止させた。
視線を足元に落とす。
磨き上げられた大理石の床。
そこに、私の足跡をなぞるようにして、白銀の花弁を持つ可憐な花が咲き乱れている。
しかも、ただ咲いているだけではない。
花の中心からは蛍のような淡い光の粒子が立ち昇り、周囲の空気を清浄なマナで満たしていた。
「……あら。また咲いちゃった」
「『あら』じゃありませんよぉ! これ、図鑑で見ました! 『聖霊の吐息』と呼ばれる、一輪で城壁の修理費が賄えるレベルの超希少薬草です! それが雑草みたいにボコボコと!」
ミーナが腰に下げた麻袋を広げ、必死の形相で花を摘み取っていく。
彼女の目は血走り、口元からは涎が垂れそうになっていた。
公爵家のメイド長ともあろう者が、いささか品がない気もするが、彼女の忠誠心(と家計への執着)は本物だ。
「昨日の冠の一件以来、エル様の魔力漏れが天井知らずです! 歩く空気清浄機どころか、歩く国家予算ですよ!」
「そんなこと言われても。蛇口の壊れた水道みたいに、勝手に出てきちゃうんだもの」
私はため息をつき、諦めて足を下ろした。
カツン、という靴音と共に、パァァァッと新たな花畑が廊下に爆誕する。
光の粒子が舞い散り、廊下の窓ガラスが拭いてもいないのにダイヤモンドのような輝きを帯び始めた。
天井のシャンデリアは魔力を吸って勝手に回転し始め、飾られていた甲冑が楽しそうにタップダンスを踊っている。
どうやら私の魔力は、無機物にさえ擬似的な生命を与えてしまうらしい。
「まあ、綺麗だからいいじゃない。掃除の手間も省けるでしょう?」
「確かに埃一つ残りませんけど、代わりに私の心臓が持ちません!」
ミーナの嘆きをBGMに、私は食堂へと向かった。
今日の朝食は、楽しみにしていた焼き立てパンだ。
席に着くと、ゼノス様がすでに優雅にコーヒーを飲んでいた。
相変わらず、朝から彫刻のように整った顔立ちだ。
銀色の髪が朝日に透けて輝き、組んだ足の長いことと言ったら。
「おはよう、エル。……今日も盛大に咲かせているな」
「おはようございます、ゼノス様。少し制御が難しくて」
「構わん。お前が歩いた後の空気は美味い。城中の騎士たちが、お前の残り香を嗅ぐために廊下を這いずり回っているのが少し鬱陶しいがな」
ゼノス様が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
嫉妬深い彼は、私の気配が他人に吸われるのさえ許せないらしい。
私は苦笑しながら、バスケットに盛られたパンに手を伸ばした。
王国の職人が焼いたという、最高級の白パン。
表面はキツネ色に焼け、香ばしい匂いが漂っている。
期待に胸を膨らませて、一口齧る。
「……」
咀嚼する。
もう一度、咀嚼する。
飲み込む。
「……硬い」
思わず本音が漏れた。
いや、一般的に見れば十分に柔らかいし、味も悪くはない。
だが、今の私にはまるで石を齧っているように感じられた。
私の味覚が、魔力の向上と共に鋭敏になりすぎているせいかもしれない。
もっとこう、口に入れた瞬間に雲のように溶けて、全身の細胞が歓喜の歌を歌い出すような、そんなパンが食べたい。
「どうした? 気に入らないか?」
「いえ、美味しいんですけど……少しだけ、元気が足りない気がして」
「元気?」
「はい。食べた瞬間に、こう、身体の奥から太陽が昇るようなエネルギーが欲しいんです」
私はナプキンで口を拭い、立ち上がった。
「ゼノス様、少し厨房をお借りしても?」
「お前が料理を? ……厨房の連中が心臓麻痺を起こさなければいいが」
*
公爵城の厨房は、戦場のような熱気に包まれていた。
数十人の料理人たちが、巨大な肉を焼き、スープを煮込んでいる。
私が姿を現すと、全員が作業を止め、直立不動で敬礼した。
彼らの視線は、畏怖と尊敬、そして「今日は何が起きるんだ」という期待に満ちている。
「エ、エル様! 本日はどのようなご用件で!?」
料理長である熊のような大男が、震える声で尋ねてきた。
「朝食のパンを少し焼きたくて。材料をお借りできる?」
「はっ! こちらに王国最高品質の『黄金小麦』をご用意しております! 一キログラムで金貨十枚は下らない最高級品です!」
料理長が恭しく差し出したのは、絹のような光沢を持つ白い粉だった。
確かに質は良さそうだ。
だが、私の目には不純物が混じっているのが見えてしまった。
製粉の過程で混入した微細な鉄粉や、栽培中に浴びた微弱な瘴気。
それらが、小麦本来の輝きを曇らせている。
「うーん……少し、色がくすんでいるわね」
「は……? い、いえ、これは純白も純白、これ以上の白さは……」
「大丈夫、すぐに綺麗にしてあげるから」
私はボウルに粉を入れ、右手をかざした。
意識するのは、原子レベルでの選別と再構築。
不要な物質を排除し、小麦の持つ生命力だけを抽出する。
「美味しくなーれ、綺麗になーれ」
指先から、金色のマナをパラパラと振りかける。
塩を振るような気軽さで、私は神域の魔力を注入した。
シュオォォォォ……!
ボウルの中身が、呼吸をするように脈動を始めた。
粉の一粒一粒が内側から発光し、厨房全体をホワイトアウトさせるほどの閃光を放つ。
「め、目がぁぁぁっ! 粉が! 粉が発光していますぅぅぅ!」
「鑑定スキルが弾かれた!? 『測定不能』だと!?」
「ただの小麦粉から、聖剣以上の神聖属性を感じるぞ!」
料理人たちが悲鳴を上げて目を覆う。
料理長の持っていた高級な鑑定用の水晶が、パリンと音を立てて砕け散った。
「あら、水晶が寿命だったのかしら? 気にしないで」
私は光り輝く粉に、水を加えることにした。
もちろん、ただの水ではない。
ポケットから取り出した水筒には、庭の噴水から汲んできた『神の雫』がなみなみと入っている。
それを惜しげもなくボウルに注ぐ。
ジュワァァァァッ!
水と粉が混ざり合った瞬間、賛美歌のような重厚な和音が響き渡った。
え、何この音?
まあいいか。
生地をこねる。
普通なら力を込めて捏ねる作業だが、この生地はまるで生き物のように私の手の動きに合わせて形を変える。
吸い付くような弾力。
赤ちゃんの肌よりも滑らかで、真珠のような艶。
「あとは、膨らませるためのイースト菌ね」
私は調合鞄を探る。
あ、イーストがない。
代わりに、小瓶に入った琥珀色の液体が目に入った。
第一話で銀狼(ゼノス様)を治した時に余った『神の涙』だ。
発酵作用があるかは知らないが、まあ、生命力を活性化させる薬なのだから、パン生地くらい元気にできるだろう。
「えいっ」
数滴、垂らす。
ドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
厨房の空気が、物理的な質量を持って爆発した。
衝撃波が壁を叩き、鍋やフライパンが吹き飛んで天井に突き刺さる。
オーブンが勝手に口を開け、紅蓮の炎ではなく、プラズマのような青白い光を吐き出し始めた。
「ひいいいいいっ! 爆発だ! 退避ぃぃぃ!」
「違う! これは爆発じゃない! 命の……命の誕生の波動だ!」
料理人たちが床に伏せて祈りを捧げ始める中、私は呑気に生地をオーブンへ放り込んだ。
「ふふーん、美味しく焼けるかな」
数分後。
オーブンの扉が、内側からの圧力でガァン! と弾け飛んだ。
中から漂い出したのは、暴力的なまでに芳醇な香り。
それは、嗅いだだけで脳内麻薬が分泌され、過去の幸せな記憶が走馬灯のように駆け巡る、禁断の香りだった。
「……何事だ!!」
ドガァッ!
厨房の扉が蹴破られ、ゼノス様が飛び込んできた。
手には氷の魔剣が握られ、その瞳は殺気立っている。
背後には、完全武装したガイル団長と騎士たちが雪崩れ込んできた。
「敵襲か!? 城の結界が内部から飽和攻撃を受けていると報告が……!」
「あ、ゼノス様。ちょうどいいところに」
私は焼き上がったパンをトレイに乗せ、笑顔で振り返った。
パンは黄金色に輝き、表面には天使の輪のような光沢が浮かんでいる。
湯気の一筋一筋が、虹色に変化しながら立ち昇っていた。
「今、パンが焼き上がりましたよ」
「……は?」
ゼノス様が剣を下ろし、呆然とパンを見つめた。
騎士たちが、香りを吸い込んだ瞬間にガクガクと膝を震わせ、その場に崩れ落ちていく。
「な、なんだこの香りは……。母上……俺、天国に来たみたいだ……」
「古傷が……! 呼吸をするだけで、肺の病が治っていくぞ!」
「腹が減った……。これを食わねば死ぬ……。本能がそう叫んでいる……!」
ゾンビ映画のように手を伸ばして這いずってくる騎士たち。
ゼノス様はこめかみを押さえ、深いため息をついたが、すぐに鋭い眼光で騎士たちを威圧した。
「……貴様ら、下がれ。これはエルが私のために焼いたものだ。毒見は私がする」
「そ、そんな殺生な! 一口! パンの耳だけでも!」
ゼノス様は私に歩み寄り、トレイの上のパンを手に取った。
熱いはずなのに、彼の氷の魔力が中和し、ちょうどいい温度になる。
「……見た目は、ただのパンだな。光っていることを除けば」
「はい。自信作です。あーん、してください」
私がちぎって差し出すと、ゼノス様は少し躊躇い、そして意を決したようにパクりと口にした。
カッッッッッ!!
ゼノス様の身体が、内側から発光した。
銀色の髪が重力に逆らって逆立ち、全身から放たれるオーラが厨房の天井を突き抜ける。
「んぐっ……!?」
バリバリバリバリッ!
彼の周囲に雷撃のような魔力が走り、床の石畳が粉々に砕け散った。
背後に、城よりも巨大な銀狼の幻影が顕現し、天に向かって咆哮を上げる。
その声は衝撃波となって広がり、領地内の森に潜んでいた魔物たちが、恐怖のあまり一斉にショック死したという。
「……う、おおおおおおっ……!!」
ゼノス様が目を見開き、自身の両手を見つめる。
「力が……! 枯渇していた魔力が満ちるどころか、器そのものが限界突破して拡張されている! 血流がマグマのように熱い! 全身の細胞が、神話の時代に回帰していく感覚だ!」
「美味しかったですか?」
「美味しい、などという言葉で表現できるか! これは……凝縮された『概念』だ! 『生命』そのものを食らっているに等しい!」
彼は私を抱き寄せると、残りのパンを奪い取るように口に運んだ。
一噛みするごとに、彼の魔力値が倍々ゲームで跳ね上がっていく。
今なら、指先一つで大陸を割り、月を落とすことさえ可能だろう。
「……エル。お前、これに何を入れた」
「えっと、小麦粉と水と、あと余っていたポーションを少し」
「……余り物で、神を作るな」
ゼノス様は呆れ果てた顔をしたが、すぐにその瞳に暗い独占欲の炎を宿した。
彼は私の腰に回した腕に力を込め、耳元で低く唸るように囁く。
「約束しろ。このパンは、今後一切、私以外の男に食わせるな」
「えっ? でも、たくさん焼けちゃいましたし、騎士の皆さんにも……」
「駄目だ。こんなものを食わせたら、奴らは人間を辞めてしまう。それに……」
彼は私の首筋に唇を寄せ、甘く噛み付いた。
「お前の手料理で快楽を得ていいのは、世界で私一人だけでいい」
「……っ!」
その熱い吐息に、私は腰が砕けそうになった。
一方で、厨房の隅では、床に落ちたパン屑を舐めたガイル団長が、突然変異を起こしていた。
「うおおおっ! 背中が熱い! ……は、羽だ! 俺の背中から光の翼が生えてきたぞ!」
「俺もだ! 筋肉が鋼鉄のように硬化している! 今なら素手でドラゴンを引き裂ける!」
「視力が良くなりすぎて、空気中の微生物の挨拶まで聞こえる!」
パン屑一つで、公爵家騎士団が『神聖騎士団』へと進化してしまった。
彼らは互いの肉体美を見せつけ合い、謎のポーズを決めて歓喜している。
まあ、みんな元気になったのなら良かった。
*
その頃、遥か南の王国では。
地獄のような光景が広がっていた。
「あ、あぐっ……! ぎゃあああああっ!!」
王太子ジュリアスが、豪華な寝室の床を転げ回っている。
彼の身体は、どす黒いヘドロのような粘液に覆われていた。
皮膚が腐り落ち、再生し、また腐るという無限の苦痛。
王抱えの医師たちが遠巻きに見守る中、誰も彼に触れようとはしない。
触れれば、その呪いが伝染することを知っているからだ。
「水……水をくれ……! 喉が焼ける!」
「ど、どうぞ殿下!」
侍従が震える手で差し出した水杯を、ジュリアスはひったくった。
だが、口に含んだ瞬間、その水は沸騰した泥へと変わり、彼の喉を内側から焼き尽くした。
「ぐべぇっ!? 貴様ッ、私を殺す気かぁぁぁ!」
「ひいぃっ! め、滅相もございません!」
「エル……! エルはどこだ! あいつのパンだ! あいつが焼いたパンがあれば、こんな呪いすぐに消えるはずなんだ!」
ジュリアスは血走った目で虚空を睨む。
かつて、私が焼いたパンを「庶民の味で貧乏くさい」と床に叩きつけた記憶が、皮肉にも鮮明に蘇っていた。
あの時のパンの香り。
一口食べれば、どんな疲れも吹き飛んだ、あの魔法のような味。
「食べたい……食べたいぃぃぃ! エルのパンをよこせぇぇぇっ!!」
絶叫は、腐臭漂う部屋の天井に吸い込まれていく。
窓の外では、黒い雨が降り注ぎ、王国の終わりの時を告げていた。
彼が求める救済の光は、今や世界最強の神獣の腕の中で、甘い口づけと共に封印されているとも知らずに。
私はゼノス様の胸の中で、焼き立てのパンをもう一口、幸せそうに頬張った。
朝の爽やかな光が差し込む廊下に、ミーナの悲鳴に近い叫び声が反響する。
私は困惑して、上げた右足を下ろすべきか迷ったまま空中で停止させた。
視線を足元に落とす。
磨き上げられた大理石の床。
そこに、私の足跡をなぞるようにして、白銀の花弁を持つ可憐な花が咲き乱れている。
しかも、ただ咲いているだけではない。
花の中心からは蛍のような淡い光の粒子が立ち昇り、周囲の空気を清浄なマナで満たしていた。
「……あら。また咲いちゃった」
「『あら』じゃありませんよぉ! これ、図鑑で見ました! 『聖霊の吐息』と呼ばれる、一輪で城壁の修理費が賄えるレベルの超希少薬草です! それが雑草みたいにボコボコと!」
ミーナが腰に下げた麻袋を広げ、必死の形相で花を摘み取っていく。
彼女の目は血走り、口元からは涎が垂れそうになっていた。
公爵家のメイド長ともあろう者が、いささか品がない気もするが、彼女の忠誠心(と家計への執着)は本物だ。
「昨日の冠の一件以来、エル様の魔力漏れが天井知らずです! 歩く空気清浄機どころか、歩く国家予算ですよ!」
「そんなこと言われても。蛇口の壊れた水道みたいに、勝手に出てきちゃうんだもの」
私はため息をつき、諦めて足を下ろした。
カツン、という靴音と共に、パァァァッと新たな花畑が廊下に爆誕する。
光の粒子が舞い散り、廊下の窓ガラスが拭いてもいないのにダイヤモンドのような輝きを帯び始めた。
天井のシャンデリアは魔力を吸って勝手に回転し始め、飾られていた甲冑が楽しそうにタップダンスを踊っている。
どうやら私の魔力は、無機物にさえ擬似的な生命を与えてしまうらしい。
「まあ、綺麗だからいいじゃない。掃除の手間も省けるでしょう?」
「確かに埃一つ残りませんけど、代わりに私の心臓が持ちません!」
ミーナの嘆きをBGMに、私は食堂へと向かった。
今日の朝食は、楽しみにしていた焼き立てパンだ。
席に着くと、ゼノス様がすでに優雅にコーヒーを飲んでいた。
相変わらず、朝から彫刻のように整った顔立ちだ。
銀色の髪が朝日に透けて輝き、組んだ足の長いことと言ったら。
「おはよう、エル。……今日も盛大に咲かせているな」
「おはようございます、ゼノス様。少し制御が難しくて」
「構わん。お前が歩いた後の空気は美味い。城中の騎士たちが、お前の残り香を嗅ぐために廊下を這いずり回っているのが少し鬱陶しいがな」
ゼノス様が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
嫉妬深い彼は、私の気配が他人に吸われるのさえ許せないらしい。
私は苦笑しながら、バスケットに盛られたパンに手を伸ばした。
王国の職人が焼いたという、最高級の白パン。
表面はキツネ色に焼け、香ばしい匂いが漂っている。
期待に胸を膨らませて、一口齧る。
「……」
咀嚼する。
もう一度、咀嚼する。
飲み込む。
「……硬い」
思わず本音が漏れた。
いや、一般的に見れば十分に柔らかいし、味も悪くはない。
だが、今の私にはまるで石を齧っているように感じられた。
私の味覚が、魔力の向上と共に鋭敏になりすぎているせいかもしれない。
もっとこう、口に入れた瞬間に雲のように溶けて、全身の細胞が歓喜の歌を歌い出すような、そんなパンが食べたい。
「どうした? 気に入らないか?」
「いえ、美味しいんですけど……少しだけ、元気が足りない気がして」
「元気?」
「はい。食べた瞬間に、こう、身体の奥から太陽が昇るようなエネルギーが欲しいんです」
私はナプキンで口を拭い、立ち上がった。
「ゼノス様、少し厨房をお借りしても?」
「お前が料理を? ……厨房の連中が心臓麻痺を起こさなければいいが」
*
公爵城の厨房は、戦場のような熱気に包まれていた。
数十人の料理人たちが、巨大な肉を焼き、スープを煮込んでいる。
私が姿を現すと、全員が作業を止め、直立不動で敬礼した。
彼らの視線は、畏怖と尊敬、そして「今日は何が起きるんだ」という期待に満ちている。
「エ、エル様! 本日はどのようなご用件で!?」
料理長である熊のような大男が、震える声で尋ねてきた。
「朝食のパンを少し焼きたくて。材料をお借りできる?」
「はっ! こちらに王国最高品質の『黄金小麦』をご用意しております! 一キログラムで金貨十枚は下らない最高級品です!」
料理長が恭しく差し出したのは、絹のような光沢を持つ白い粉だった。
確かに質は良さそうだ。
だが、私の目には不純物が混じっているのが見えてしまった。
製粉の過程で混入した微細な鉄粉や、栽培中に浴びた微弱な瘴気。
それらが、小麦本来の輝きを曇らせている。
「うーん……少し、色がくすんでいるわね」
「は……? い、いえ、これは純白も純白、これ以上の白さは……」
「大丈夫、すぐに綺麗にしてあげるから」
私はボウルに粉を入れ、右手をかざした。
意識するのは、原子レベルでの選別と再構築。
不要な物質を排除し、小麦の持つ生命力だけを抽出する。
「美味しくなーれ、綺麗になーれ」
指先から、金色のマナをパラパラと振りかける。
塩を振るような気軽さで、私は神域の魔力を注入した。
シュオォォォォ……!
ボウルの中身が、呼吸をするように脈動を始めた。
粉の一粒一粒が内側から発光し、厨房全体をホワイトアウトさせるほどの閃光を放つ。
「め、目がぁぁぁっ! 粉が! 粉が発光していますぅぅぅ!」
「鑑定スキルが弾かれた!? 『測定不能』だと!?」
「ただの小麦粉から、聖剣以上の神聖属性を感じるぞ!」
料理人たちが悲鳴を上げて目を覆う。
料理長の持っていた高級な鑑定用の水晶が、パリンと音を立てて砕け散った。
「あら、水晶が寿命だったのかしら? 気にしないで」
私は光り輝く粉に、水を加えることにした。
もちろん、ただの水ではない。
ポケットから取り出した水筒には、庭の噴水から汲んできた『神の雫』がなみなみと入っている。
それを惜しげもなくボウルに注ぐ。
ジュワァァァァッ!
水と粉が混ざり合った瞬間、賛美歌のような重厚な和音が響き渡った。
え、何この音?
まあいいか。
生地をこねる。
普通なら力を込めて捏ねる作業だが、この生地はまるで生き物のように私の手の動きに合わせて形を変える。
吸い付くような弾力。
赤ちゃんの肌よりも滑らかで、真珠のような艶。
「あとは、膨らませるためのイースト菌ね」
私は調合鞄を探る。
あ、イーストがない。
代わりに、小瓶に入った琥珀色の液体が目に入った。
第一話で銀狼(ゼノス様)を治した時に余った『神の涙』だ。
発酵作用があるかは知らないが、まあ、生命力を活性化させる薬なのだから、パン生地くらい元気にできるだろう。
「えいっ」
数滴、垂らす。
ドォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
厨房の空気が、物理的な質量を持って爆発した。
衝撃波が壁を叩き、鍋やフライパンが吹き飛んで天井に突き刺さる。
オーブンが勝手に口を開け、紅蓮の炎ではなく、プラズマのような青白い光を吐き出し始めた。
「ひいいいいいっ! 爆発だ! 退避ぃぃぃ!」
「違う! これは爆発じゃない! 命の……命の誕生の波動だ!」
料理人たちが床に伏せて祈りを捧げ始める中、私は呑気に生地をオーブンへ放り込んだ。
「ふふーん、美味しく焼けるかな」
数分後。
オーブンの扉が、内側からの圧力でガァン! と弾け飛んだ。
中から漂い出したのは、暴力的なまでに芳醇な香り。
それは、嗅いだだけで脳内麻薬が分泌され、過去の幸せな記憶が走馬灯のように駆け巡る、禁断の香りだった。
「……何事だ!!」
ドガァッ!
厨房の扉が蹴破られ、ゼノス様が飛び込んできた。
手には氷の魔剣が握られ、その瞳は殺気立っている。
背後には、完全武装したガイル団長と騎士たちが雪崩れ込んできた。
「敵襲か!? 城の結界が内部から飽和攻撃を受けていると報告が……!」
「あ、ゼノス様。ちょうどいいところに」
私は焼き上がったパンをトレイに乗せ、笑顔で振り返った。
パンは黄金色に輝き、表面には天使の輪のような光沢が浮かんでいる。
湯気の一筋一筋が、虹色に変化しながら立ち昇っていた。
「今、パンが焼き上がりましたよ」
「……は?」
ゼノス様が剣を下ろし、呆然とパンを見つめた。
騎士たちが、香りを吸い込んだ瞬間にガクガクと膝を震わせ、その場に崩れ落ちていく。
「な、なんだこの香りは……。母上……俺、天国に来たみたいだ……」
「古傷が……! 呼吸をするだけで、肺の病が治っていくぞ!」
「腹が減った……。これを食わねば死ぬ……。本能がそう叫んでいる……!」
ゾンビ映画のように手を伸ばして這いずってくる騎士たち。
ゼノス様はこめかみを押さえ、深いため息をついたが、すぐに鋭い眼光で騎士たちを威圧した。
「……貴様ら、下がれ。これはエルが私のために焼いたものだ。毒見は私がする」
「そ、そんな殺生な! 一口! パンの耳だけでも!」
ゼノス様は私に歩み寄り、トレイの上のパンを手に取った。
熱いはずなのに、彼の氷の魔力が中和し、ちょうどいい温度になる。
「……見た目は、ただのパンだな。光っていることを除けば」
「はい。自信作です。あーん、してください」
私がちぎって差し出すと、ゼノス様は少し躊躇い、そして意を決したようにパクりと口にした。
カッッッッッ!!
ゼノス様の身体が、内側から発光した。
銀色の髪が重力に逆らって逆立ち、全身から放たれるオーラが厨房の天井を突き抜ける。
「んぐっ……!?」
バリバリバリバリッ!
彼の周囲に雷撃のような魔力が走り、床の石畳が粉々に砕け散った。
背後に、城よりも巨大な銀狼の幻影が顕現し、天に向かって咆哮を上げる。
その声は衝撃波となって広がり、領地内の森に潜んでいた魔物たちが、恐怖のあまり一斉にショック死したという。
「……う、おおおおおおっ……!!」
ゼノス様が目を見開き、自身の両手を見つめる。
「力が……! 枯渇していた魔力が満ちるどころか、器そのものが限界突破して拡張されている! 血流がマグマのように熱い! 全身の細胞が、神話の時代に回帰していく感覚だ!」
「美味しかったですか?」
「美味しい、などという言葉で表現できるか! これは……凝縮された『概念』だ! 『生命』そのものを食らっているに等しい!」
彼は私を抱き寄せると、残りのパンを奪い取るように口に運んだ。
一噛みするごとに、彼の魔力値が倍々ゲームで跳ね上がっていく。
今なら、指先一つで大陸を割り、月を落とすことさえ可能だろう。
「……エル。お前、これに何を入れた」
「えっと、小麦粉と水と、あと余っていたポーションを少し」
「……余り物で、神を作るな」
ゼノス様は呆れ果てた顔をしたが、すぐにその瞳に暗い独占欲の炎を宿した。
彼は私の腰に回した腕に力を込め、耳元で低く唸るように囁く。
「約束しろ。このパンは、今後一切、私以外の男に食わせるな」
「えっ? でも、たくさん焼けちゃいましたし、騎士の皆さんにも……」
「駄目だ。こんなものを食わせたら、奴らは人間を辞めてしまう。それに……」
彼は私の首筋に唇を寄せ、甘く噛み付いた。
「お前の手料理で快楽を得ていいのは、世界で私一人だけでいい」
「……っ!」
その熱い吐息に、私は腰が砕けそうになった。
一方で、厨房の隅では、床に落ちたパン屑を舐めたガイル団長が、突然変異を起こしていた。
「うおおおっ! 背中が熱い! ……は、羽だ! 俺の背中から光の翼が生えてきたぞ!」
「俺もだ! 筋肉が鋼鉄のように硬化している! 今なら素手でドラゴンを引き裂ける!」
「視力が良くなりすぎて、空気中の微生物の挨拶まで聞こえる!」
パン屑一つで、公爵家騎士団が『神聖騎士団』へと進化してしまった。
彼らは互いの肉体美を見せつけ合い、謎のポーズを決めて歓喜している。
まあ、みんな元気になったのなら良かった。
*
その頃、遥か南の王国では。
地獄のような光景が広がっていた。
「あ、あぐっ……! ぎゃあああああっ!!」
王太子ジュリアスが、豪華な寝室の床を転げ回っている。
彼の身体は、どす黒いヘドロのような粘液に覆われていた。
皮膚が腐り落ち、再生し、また腐るという無限の苦痛。
王抱えの医師たちが遠巻きに見守る中、誰も彼に触れようとはしない。
触れれば、その呪いが伝染することを知っているからだ。
「水……水をくれ……! 喉が焼ける!」
「ど、どうぞ殿下!」
侍従が震える手で差し出した水杯を、ジュリアスはひったくった。
だが、口に含んだ瞬間、その水は沸騰した泥へと変わり、彼の喉を内側から焼き尽くした。
「ぐべぇっ!? 貴様ッ、私を殺す気かぁぁぁ!」
「ひいぃっ! め、滅相もございません!」
「エル……! エルはどこだ! あいつのパンだ! あいつが焼いたパンがあれば、こんな呪いすぐに消えるはずなんだ!」
ジュリアスは血走った目で虚空を睨む。
かつて、私が焼いたパンを「庶民の味で貧乏くさい」と床に叩きつけた記憶が、皮肉にも鮮明に蘇っていた。
あの時のパンの香り。
一口食べれば、どんな疲れも吹き飛んだ、あの魔法のような味。
「食べたい……食べたいぃぃぃ! エルのパンをよこせぇぇぇっ!!」
絶叫は、腐臭漂う部屋の天井に吸い込まれていく。
窓の外では、黒い雨が降り注ぎ、王国の終わりの時を告げていた。
彼が求める救済の光は、今や世界最強の神獣の腕の中で、甘い口づけと共に封印されているとも知らずに。
私はゼノス様の胸の中で、焼き立てのパンをもう一口、幸せそうに頬張った。
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