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第19章 おじさんと燻製
第244話
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その日は風も静かで、煙の流れがゆるやかだった。
焙煎を終えた豆を瓶に詰め、燻製器の中では鶏の胸肉が最後の仕上げに入っていた。
外気の温度と煙の濃さがぴたりと噛み合い、扉を開けなくても中の様子が手に取るようにわかる。
店の裏手に腰を下ろし、革張りのスツールに深く沈み込む。
煙草に火をつけ、ゆっくりと吸い込んだ。
鼻腔に入った煙が舌の裏をくすぐり、肺を通って、しばらくしてからふわりと吐き出される。
その感覚が、燻製と重なる。
煙草の煙も、燻製の煙も、急いだところでいい香りにはならない。
火を入れた直後はまだ粗い。焦げ臭さや雑味が立ちすぎる。
だが、そこから時間をかけて熱が芯に通り、香りが満ちてくると、不思議と空気そのものが柔らかくなる。
ふと、手元の煙草と、燻製器からわずかに漏れる香りを交互に嗅ぎ比べて、気づいた。
「時間と香りは、どちらも“満ちてから漂う”」
そんな言葉が口を突いて出た。
煙というのは、目に見えるけれども、実体を掴めないものだ。
だが、その煙の裏には、火と木と空気と時間がある。
それがすべて重なって、ようやくひとつの“香り”になる。
煙草も、燻製も同じだった。
焦って吸っても味は出ない。ゆっくりと燃やし、煙を育てる。
素材に火を通して、香りだけを残す。
味わいの根っこは、見えないところにある。
焙煎も、珈琲も、煙草も、燻製も。
俺の手元にあるものは、全部そういう性質だった。
派手な火花はない。大声も出さない。
ただ、静かに火を扱い、時間を受け入れて、香りを育てる。
そのすべてが、いま目の前の煙に結実している。
ゆっくりと燻された鶏肉は、香ばしい皮に薄く皺を寄せていた。
火を止めて、扉を開けると、煙の残り香がふわりと抜ける。
包丁で薄く切ると、断面からはほのかに白い湯気と、深く染みた煙の層が現れた。
一口味見する。
噛んだ瞬間に立つ香り。
舌の上でゆっくりと広がり、飲み込んだあとも余韻が長く残る。
煙草の香りと違って、喉を刺すようなものではないが、芯に響く。
「……ああ、こういうのが、いい」
独り言のように漏らして、煙草をもう一口。
日が傾きはじめ、屋根の影が長くなってくる。
店の周囲は静かだ。
誰かが来るわけでもない。
だが、それでいい。
この空間、この時間、この匂い──全部が揃ったとき、俺はようやく「今」に満たされる。
空になったカップをカウンターに置き、最後の煙を吐き出す。
燻製器の扉を閉じ、片づけを終えてから、窓の隙間から店の中を見渡す。
棚には瓶詰めの豆と、数枚の干しパン。
カウンターには革のトレイに置かれた煙草と、削り出したマドラー。
椅子の革はしっとりと柔らかく、ランタンの持ち手は馴染んだ手垢で光っている。
この店には、俺が積み重ねた香りの層がある。
訪れた者がその匂いに気づくかどうかは、どうでもいい。
ただ、俺にはわかる。
この空気は、ちゃんと“育っている”。
焙煎も、燻製も、煙草も、革細工も、全部が火と時間の果てに生まれたものだ。
そういうものに囲まれて、俺は生きている。
「……今日も、いい煙だ」
そう呟いて、ランタンの火を落とした。
焙煎を終えた豆を瓶に詰め、燻製器の中では鶏の胸肉が最後の仕上げに入っていた。
外気の温度と煙の濃さがぴたりと噛み合い、扉を開けなくても中の様子が手に取るようにわかる。
店の裏手に腰を下ろし、革張りのスツールに深く沈み込む。
煙草に火をつけ、ゆっくりと吸い込んだ。
鼻腔に入った煙が舌の裏をくすぐり、肺を通って、しばらくしてからふわりと吐き出される。
その感覚が、燻製と重なる。
煙草の煙も、燻製の煙も、急いだところでいい香りにはならない。
火を入れた直後はまだ粗い。焦げ臭さや雑味が立ちすぎる。
だが、そこから時間をかけて熱が芯に通り、香りが満ちてくると、不思議と空気そのものが柔らかくなる。
ふと、手元の煙草と、燻製器からわずかに漏れる香りを交互に嗅ぎ比べて、気づいた。
「時間と香りは、どちらも“満ちてから漂う”」
そんな言葉が口を突いて出た。
煙というのは、目に見えるけれども、実体を掴めないものだ。
だが、その煙の裏には、火と木と空気と時間がある。
それがすべて重なって、ようやくひとつの“香り”になる。
煙草も、燻製も同じだった。
焦って吸っても味は出ない。ゆっくりと燃やし、煙を育てる。
素材に火を通して、香りだけを残す。
味わいの根っこは、見えないところにある。
焙煎も、珈琲も、煙草も、燻製も。
俺の手元にあるものは、全部そういう性質だった。
派手な火花はない。大声も出さない。
ただ、静かに火を扱い、時間を受け入れて、香りを育てる。
そのすべてが、いま目の前の煙に結実している。
ゆっくりと燻された鶏肉は、香ばしい皮に薄く皺を寄せていた。
火を止めて、扉を開けると、煙の残り香がふわりと抜ける。
包丁で薄く切ると、断面からはほのかに白い湯気と、深く染みた煙の層が現れた。
一口味見する。
噛んだ瞬間に立つ香り。
舌の上でゆっくりと広がり、飲み込んだあとも余韻が長く残る。
煙草の香りと違って、喉を刺すようなものではないが、芯に響く。
「……ああ、こういうのが、いい」
独り言のように漏らして、煙草をもう一口。
日が傾きはじめ、屋根の影が長くなってくる。
店の周囲は静かだ。
誰かが来るわけでもない。
だが、それでいい。
この空間、この時間、この匂い──全部が揃ったとき、俺はようやく「今」に満たされる。
空になったカップをカウンターに置き、最後の煙を吐き出す。
燻製器の扉を閉じ、片づけを終えてから、窓の隙間から店の中を見渡す。
棚には瓶詰めの豆と、数枚の干しパン。
カウンターには革のトレイに置かれた煙草と、削り出したマドラー。
椅子の革はしっとりと柔らかく、ランタンの持ち手は馴染んだ手垢で光っている。
この店には、俺が積み重ねた香りの層がある。
訪れた者がその匂いに気づくかどうかは、どうでもいい。
ただ、俺にはわかる。
この空気は、ちゃんと“育っている”。
焙煎も、燻製も、煙草も、革細工も、全部が火と時間の果てに生まれたものだ。
そういうものに囲まれて、俺は生きている。
「……今日も、いい煙だ」
そう呟いて、ランタンの火を落とした。
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