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第3章 おじさんとパティシエ
第54話
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午前の柔らかな光が、厨房の木の床をじんわりと照らしている。
今日もまた、マリウスは作業台の前に立っていた。
ゆっくりと、けれど確かに、彼の手つきは変わり始めている。
まだぎこちないものの、指先はわずかにリズムを取り戻し、力加減も極端ではなくなった。
「……ふぅ……」
小さく息を吐きながら、マリウスはふるった粉を慎重にボウルに落とす。
その仕草は、まるで壊れ物を扱うような繊細さだ。
俺はカウンターの奥から煙草をくわえ、火を点けた。
マグにたっぷり注いだ珈琲を片手に、じっと様子を見ている。
「今日は、少し……配合を変えてみました」
マリウスがぽつりと呟いた。
手元には、何枚かのメモが重なっている。
彼なりに試行錯誤を重ねたらしい。
「へぇ」
俺は軽く相槌を打つだけだ。
マリウスは、ふとためらうように手を止めた。
そして、ぽつりと続ける。
「以前の私は……、技術に自信がありました。いや、過信していたのかもしれません」
こねる手がわずかに震える。
「誰よりも、美味しい菓子を作れると……思い込んでいた。──それが、傲慢だったのだと、今は……思います」
そんな告白を聞きながらも、俺は特に言葉を挟まない。
煙をくゆらせ、マグを傾け、ただ、耳を傾けるだけだ。
「味がわからなくなったとき……何もかも、終わったと思いました。……何を作っても、自分の中に『確信』が持てないのです」
「……」
「それでも……こうして、また作っているのは……。……きっと、私が、本当に好きだったのは……完成した菓子の味ではなく──作るという行為そのものだったから、でしょうね」
マリウスは、ふっと苦笑した。
力ない、けれどどこか穏やかな笑みだった。
俺は煙草の火を指先で弾き、灰皿に落とす。
そして、短く言った。
「続けりゃいいだろ」
マリウスは、少し驚いたように俺を見た。
だが、すぐに目を伏せ、またボウルに向き直る。
「……はい」
それだけ答えて、彼は再び粉をふるい、生地を練り始めた。
焼きあがったクッキーは、昨日よりもずっと良かった。
少しだけ、バターの香りがふわりと立ち上がり、甘みもまろやかに舌に広がる。
マリウスは、焼きたてのクッキーを皿に並べ、俺の前にそっと置いた。
昨日よりも、ほんのわずかに誇らしげな仕草で。
俺は無言で一枚を手に取り、口に運んだ。
ぽり、という軽い音が鳴る。
バターの香り。小麦の甘み。
──まだ完璧とは言えない。
だが、その向こうに、かすかな光が見えた気がした。
「……うん」
短くそう言って、もう一枚を取る。
マリウスの肩が、ほんのわずかに震えた。
「レンジ様……」
小さな声で、そう呼ばれる。
俺は黙って、マグを口に運ぶだけだ。
今日もうまくいったとは言えないかもしれない。
それでも、昨日より今日、今日より明日。
マリウスは、確かに歩み始めている。
その姿を見届けるだけで、今は十分だった。
今日もまた、マリウスは作業台の前に立っていた。
ゆっくりと、けれど確かに、彼の手つきは変わり始めている。
まだぎこちないものの、指先はわずかにリズムを取り戻し、力加減も極端ではなくなった。
「……ふぅ……」
小さく息を吐きながら、マリウスはふるった粉を慎重にボウルに落とす。
その仕草は、まるで壊れ物を扱うような繊細さだ。
俺はカウンターの奥から煙草をくわえ、火を点けた。
マグにたっぷり注いだ珈琲を片手に、じっと様子を見ている。
「今日は、少し……配合を変えてみました」
マリウスがぽつりと呟いた。
手元には、何枚かのメモが重なっている。
彼なりに試行錯誤を重ねたらしい。
「へぇ」
俺は軽く相槌を打つだけだ。
マリウスは、ふとためらうように手を止めた。
そして、ぽつりと続ける。
「以前の私は……、技術に自信がありました。いや、過信していたのかもしれません」
こねる手がわずかに震える。
「誰よりも、美味しい菓子を作れると……思い込んでいた。──それが、傲慢だったのだと、今は……思います」
そんな告白を聞きながらも、俺は特に言葉を挟まない。
煙をくゆらせ、マグを傾け、ただ、耳を傾けるだけだ。
「味がわからなくなったとき……何もかも、終わったと思いました。……何を作っても、自分の中に『確信』が持てないのです」
「……」
「それでも……こうして、また作っているのは……。……きっと、私が、本当に好きだったのは……完成した菓子の味ではなく──作るという行為そのものだったから、でしょうね」
マリウスは、ふっと苦笑した。
力ない、けれどどこか穏やかな笑みだった。
俺は煙草の火を指先で弾き、灰皿に落とす。
そして、短く言った。
「続けりゃいいだろ」
マリウスは、少し驚いたように俺を見た。
だが、すぐに目を伏せ、またボウルに向き直る。
「……はい」
それだけ答えて、彼は再び粉をふるい、生地を練り始めた。
焼きあがったクッキーは、昨日よりもずっと良かった。
少しだけ、バターの香りがふわりと立ち上がり、甘みもまろやかに舌に広がる。
マリウスは、焼きたてのクッキーを皿に並べ、俺の前にそっと置いた。
昨日よりも、ほんのわずかに誇らしげな仕草で。
俺は無言で一枚を手に取り、口に運んだ。
ぽり、という軽い音が鳴る。
バターの香り。小麦の甘み。
──まだ完璧とは言えない。
だが、その向こうに、かすかな光が見えた気がした。
「……うん」
短くそう言って、もう一枚を取る。
マリウスの肩が、ほんのわずかに震えた。
「レンジ様……」
小さな声で、そう呼ばれる。
俺は黙って、マグを口に運ぶだけだ。
今日もうまくいったとは言えないかもしれない。
それでも、昨日より今日、今日より明日。
マリウスは、確かに歩み始めている。
その姿を見届けるだけで、今は十分だった。
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