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第27話
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マルセルさんの鍛冶場に、清浄な香りが戻ってから数日後のことでございます。
その日、マルセルさんが少し照れくさそうなお顔で、焼きたてのパンと自家製だという干し肉を手に、わたくしの小屋を訪ねてくださいましたの。
「アナスタシアさま、この間は本当に世話になったな。おかげで、鍛冶場の空気がすっかりと変わったようだ」
「まあ、マルセルさん。それは何よりでございましたわ」
「ああ。ホワイトセージとかいうのを燻してみたら、何だかこう、長年こびりついていた煤や淀みが、煙と一緒にすーっと外へ出ていったような気がしてな。鎚の音も、前みたいに気持ちよく響くようになったんだ」
そうおっしゃるマルセルさんの表情は、以前の曇りが嘘のように晴れやかで、その大きな手にも力がみなぎっているように見えましたわ。
お持ちくださったパンは香ばしく、干し肉も良い塩梅で、心の込もったお礼の気持ちがじんわりと伝わってまいりました。
「嫁さんも喜んでくれてな。『アナスタシアさまは、まるで村の守り神さまだな』なんて言ってたぞ」
「ふふ、それは買いかぶりすぎですわ。わたくしはただ、香草たちの声に耳を傾け、その力を少しばかりお貸ししたに過ぎませんもの。マルセルさんご自身が、鍛冶場を大切に思うお気持ちが、良い変化を呼び込んだのですよ」
「そうかもしれねぇな。だが、あんたのおかげで、その気持ちをどう形にすりゃいいか分かったんだ。本当にありがとうよ」
マルセルさんは深々と頭を下げ、また仕事に戻るべく鍛冶場の方へと帰っていかれました。
その力強い背中を見送りながら、わたくしは改めて、香りというものが持つ不思議な力について思いを馳せておりましたの。
人の心だけでなく、場を清め、物に宿る記憶すらも調えることができる……。
それは、わたくしの「極上調合」のスキルが、単に茶葉やハーブを混ぜ合わせる以上の、もっと根源的な「調和」を生み出す力なのかもしれない、という予感にも繋がっておりました。
特に、ライナスさまとの出会い以来、わたくしの心をとらえて離さないのは、「香りなき香り」とでも申しましょうか、あるいは「始まりの空気」のような、極限まで研ぎ澄まされた清浄な気配でございます。
雨上がりの朝、子どもたちと話した「透明な香り」。
それは一体、どこへ行けば見つけられるのでしょう。
この湖のほとりも、十分に静かで清らかではございますけれど、もっと……もっと源に近い場所へ行けば、何か手がかりが見つかるのではないかしら。
そう思い立ちましたら、もう居ても立ってもいられなくなりましたの。
わたくしはこれまで、この小屋を中心としたごく狭い範囲でしか過ごしておりませんでしたけれど、今日は少しばかり足を延ばしてみることにいたしました。
この湖の水がどこから流れ着き、どこへ流れ去ってゆくのか。その源流の先にこそ、わたくしの求める「透明な香り」の秘密が隠されているような気がしたのです。
幸い、子どもたちは午前中に顔を見せてくれ、香草園の手入れも一通り済ませたところでございました。
「少しばかり、湖の上流の方へ散策に出かけてまいりますわ。夕餉の頃までには戻りますから、良い子でお留守番をしていらしてね」と、わたくしが普段あまり見せない行動に目を丸くする彼らに言い含め、最小限の道具を革の鞄に詰めました。
水筒、干し果実、小さなナイフ、そして記録用の帳面と筆記具。それから、万が一のために、数種類の基本的なハーブを詰めた小袋も。
小屋の扉に「少しの間、留守にいたします」と書いた木の札をかけ、わたくしは湖畔の小道を上流へと向かって歩き始めましたの。
いつもは小屋から眺めるだけの湖の景色も、その岸辺を辿ってゆくと、また違った表情を見せてくれます。
水鳥たちが羽を休める葦の茂み、岸辺に力強く根を張る古木、そして時折姿を見せる、森の小さな獣たちの足跡。
空気は進むにつれてひんやりと澄み渡り、水の音も、ざわざわとした湖面の音から、さらさらと岩を縫う瀬音へと変わってまいりました。
森は深まり、木々の種類も少しずつ変化してまいります。
陽光は高い梢に遮られ、足元には湿った腐葉土と、陽の光をあまり必要としないシダや苔が静かに息づいておりました。
時折、名前も知らぬ小さな花が、木漏れ日の中で懸命に咲いているのを見つけると、思わず足を止めてその可憐な姿に見入ってしまいますの。
それらの花に強い香りはございませんけれど、その色や形、そして健気な佇まいそのものが、静かな物語を語りかけてくるようでございました。
その日、マルセルさんが少し照れくさそうなお顔で、焼きたてのパンと自家製だという干し肉を手に、わたくしの小屋を訪ねてくださいましたの。
「アナスタシアさま、この間は本当に世話になったな。おかげで、鍛冶場の空気がすっかりと変わったようだ」
「まあ、マルセルさん。それは何よりでございましたわ」
「ああ。ホワイトセージとかいうのを燻してみたら、何だかこう、長年こびりついていた煤や淀みが、煙と一緒にすーっと外へ出ていったような気がしてな。鎚の音も、前みたいに気持ちよく響くようになったんだ」
そうおっしゃるマルセルさんの表情は、以前の曇りが嘘のように晴れやかで、その大きな手にも力がみなぎっているように見えましたわ。
お持ちくださったパンは香ばしく、干し肉も良い塩梅で、心の込もったお礼の気持ちがじんわりと伝わってまいりました。
「嫁さんも喜んでくれてな。『アナスタシアさまは、まるで村の守り神さまだな』なんて言ってたぞ」
「ふふ、それは買いかぶりすぎですわ。わたくしはただ、香草たちの声に耳を傾け、その力を少しばかりお貸ししたに過ぎませんもの。マルセルさんご自身が、鍛冶場を大切に思うお気持ちが、良い変化を呼び込んだのですよ」
「そうかもしれねぇな。だが、あんたのおかげで、その気持ちをどう形にすりゃいいか分かったんだ。本当にありがとうよ」
マルセルさんは深々と頭を下げ、また仕事に戻るべく鍛冶場の方へと帰っていかれました。
その力強い背中を見送りながら、わたくしは改めて、香りというものが持つ不思議な力について思いを馳せておりましたの。
人の心だけでなく、場を清め、物に宿る記憶すらも調えることができる……。
それは、わたくしの「極上調合」のスキルが、単に茶葉やハーブを混ぜ合わせる以上の、もっと根源的な「調和」を生み出す力なのかもしれない、という予感にも繋がっておりました。
特に、ライナスさまとの出会い以来、わたくしの心をとらえて離さないのは、「香りなき香り」とでも申しましょうか、あるいは「始まりの空気」のような、極限まで研ぎ澄まされた清浄な気配でございます。
雨上がりの朝、子どもたちと話した「透明な香り」。
それは一体、どこへ行けば見つけられるのでしょう。
この湖のほとりも、十分に静かで清らかではございますけれど、もっと……もっと源に近い場所へ行けば、何か手がかりが見つかるのではないかしら。
そう思い立ちましたら、もう居ても立ってもいられなくなりましたの。
わたくしはこれまで、この小屋を中心としたごく狭い範囲でしか過ごしておりませんでしたけれど、今日は少しばかり足を延ばしてみることにいたしました。
この湖の水がどこから流れ着き、どこへ流れ去ってゆくのか。その源流の先にこそ、わたくしの求める「透明な香り」の秘密が隠されているような気がしたのです。
幸い、子どもたちは午前中に顔を見せてくれ、香草園の手入れも一通り済ませたところでございました。
「少しばかり、湖の上流の方へ散策に出かけてまいりますわ。夕餉の頃までには戻りますから、良い子でお留守番をしていらしてね」と、わたくしが普段あまり見せない行動に目を丸くする彼らに言い含め、最小限の道具を革の鞄に詰めました。
水筒、干し果実、小さなナイフ、そして記録用の帳面と筆記具。それから、万が一のために、数種類の基本的なハーブを詰めた小袋も。
小屋の扉に「少しの間、留守にいたします」と書いた木の札をかけ、わたくしは湖畔の小道を上流へと向かって歩き始めましたの。
いつもは小屋から眺めるだけの湖の景色も、その岸辺を辿ってゆくと、また違った表情を見せてくれます。
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空気は進むにつれてひんやりと澄み渡り、水の音も、ざわざわとした湖面の音から、さらさらと岩を縫う瀬音へと変わってまいりました。
森は深まり、木々の種類も少しずつ変化してまいります。
陽光は高い梢に遮られ、足元には湿った腐葉土と、陽の光をあまり必要としないシダや苔が静かに息づいておりました。
時折、名前も知らぬ小さな花が、木漏れ日の中で懸命に咲いているのを見つけると、思わず足を止めてその可憐な姿に見入ってしまいますの。
それらの花に強い香りはございませんけれど、その色や形、そして健気な佇まいそのものが、静かな物語を語りかけてくるようでございました。
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