転生三十路デザイナー、海辺の感情インク店でまったり恋と人生を再出発させる

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星祭りの幻想的な夜から一夜が明けた。
夢のような出来事が、まだ肌に、心に残っている。
フィンさんと繋いだ手の温もり。
夜の海を渡っていった、無数のランタンの光。
思い出すだけで、胸がきゅっと甘く痛んで、頬が熱くなるのを感じた。

店を開けると、さっそく町の人たちが祭りの余韻を語りにやってきた。

「シオリちゃんのインク、本当に星の川みたいだったわ!」
「あんなに美しい星祭りは初めてだよ。ありがとう」

みんなが口々に褒めてくれて、私は少し照れながらもお礼を言った。
この町に来てよかった。心からそう思える。
自分の作ったものが誰かを喜ばせ、町の思い出の一部になる。
それは、前世では決して得られなかった、温かくて確かな手応えだった。

一日中、頭の片隅にはフィンさんのことがあった。
今日は来てくれるだろうか。
祭りの後、彼は何を思っているんだろう。
いつもの時間が近づくにつれて、私は落ち着かなくなり、何度もドアベルの音を気にしてしまった。

そして、午後の日差しが店内に長く影を落とし始めた頃。
カラン、と待ちわびた音が鳴った。
フィンさんだった。
でも、彼の様子はいつもと明らかに違っていた。

その顔色は青白く、呼吸も少し荒い。
しっかりしているように見えて、その足取りはどこかおぼつかなかった。

「フィンさん! どうしたんですか、顔色が……」

私は慌ててカウンターから駆け寄る。
彼は私の顔を見て、安心したようにふっと表情を緩めた。

「……少し、陸に、いすぎたようだ」

彼の声はかすれていて、言葉を紡ぐのも辛そうだ。
次の瞬間、彼の身体がぐらりと傾く。

「危ない!」

私はとっさに彼の腕を掴み、全体重をかけて支えた。
触れた彼の身体は、驚くほど熱かった。
日に数時間しか陸にいられない。
その事実が、初めてずしりと重い現実となって私にのしかかってきた。

「お店の奥で休んでください。さあ、こちらへ」

私は彼の方を担ぐようにして、店の奥にある休憩用のソファまで運んだ。
彼は私のなすがままになりながら、苦しそうに息をついている。
ソファに彼を座らせ、急いで冷たい水を持ってきた。

「海に、帰らなくて大丈夫なんですか?」

彼の苦しそうな姿を見ていると、胸が張り裂けそうになる。
早く彼を楽な場所へ帰してあげたい。
でも、フィンは弱々しく首を横に振った。

「潮が……引いている。今は、戻れないんだ」

潮の満ち引き。
彼の言葉で、彼の活動が海のサイクルと深く結びついていることを理解した。
今はただ、潮が満ちるのを待つしかないのだ。

私に何かできることはないだろうか。
前世で、体調を崩した同僚を看病した時のことを思い出す。
熱がある時は、太い血管が通っている場所を冷やすと良い。
首筋や、脇の下、そして足の付け根。

「少し待っていてください。すぐに楽にしますから」

私はフィンさんにそう言うと、タオルを冷たい水で濡らし、固く絞った。
彼が横になっているソファに戻ると、その美しい顔は苦痛に歪んでいる。

私はまず、彼の額にそっと冷たいタオルを置いた。
「ひゃっ」と小さく彼が声を上げる。

「大丈夫ですか?」

「……ああ。冷たくて、気持ちがいい」

少しだけ彼の表情が和らいだのを見て、私は安堵した。
次は首筋。そして……足。
彼の足元を覆っていたゆったりとしたズボンの裾が、少しだけめくれている。
そこに何気なく視線を落とした私は、息をのんだ。

人間の肌ではなかった。
そこに覗いていたのは、月光のように淡い光を放つ、青みがかった銀色の鱗だった。
一枚一枚が完璧な曲線を描き、真珠のように滑らかな光沢を放っている。
それは、私が今まで見たどんな宝石よりも、ずっと美しかった。

人魚。
サミュエルさんの言っていた、おとぎ話。
それが、今、目の前で現実になっている。

驚きで心臓が大きく跳ねた。
でも、不思議と恐怖はなかった。
むしろ、彼の秘密の一端に触れられたことに、胸が締め付けられるような切なさと、愛しさを感じていた。
これが、彼の本当の姿なんだ。
私に音楽を聴かせたいと言ってくれた、優しい彼の一部なんだ。

私は何も見なかったふりをして、彼の額のタオルを新しく交換した。
私の落ち着いた態度に安心したのか、フィンさんはゆっくりと目を閉じた。
やがて、穏やかな寝息が聞こえ始める。
その寝顔は、いつも店で見せるミステリアスな雰囲気とはまるで違う。
無防備で、どこか幼い印象さえ受けた。

私は彼のそばに椅子を持ってきて、ただ彼の呼吸が落ち着くのを見守った。
彼が「人魚」であるという事実。
それは、私たち二人を隔てる大きな壁なのかもしれない。
でも、同時に、それは他の誰でもない、フィンという存在を形作る根源なのだ。

守りたい。
彼が安心して陸にいられる場所を、私が作ってあげたい。
私の心の中に、温かくて力強い決意が芽生えた。

どれくらいの時間が経っただろう。
夕方の潮が満ちてくる気配を、彼も感じ取ったのかもしれない。
フィンさんはゆっくりと瞼を開けた。

「……シオリ」

「気がつきましたか? 体調はどうですか?」

「ああ、だいぶ楽になった。……世話をかけたな」

彼はまだ少し気だるそうに身体を起こすと、私を見て申し訳なさそうに言った。

「ううん、気にしないでください。でも、もう絶対に無理はしないでくださいね」

私がそう言うと、フィンは私の手を弱々しく、しかし確かに握った。

「ありがとう」

その蒼い瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
そこには、深い感謝と、そして今まで以上に強い信頼の色が浮かんでいるように見えた。

彼が店を出て、海の方へ帰っていくのを見送った後も、私はしばらくその場から動けなかった。
手のひらに残る、彼の温もり。
そして、脳裏に焼き付いて離れない、あの美しい鱗の輝き。

彼の正体を知って、私の気持ちは揺らぐどころか、むしろ前よりもずっと強く、深く、彼に惹かれていくのを感じていた。
彼が抱える秘密も、弱さも、すべてを愛おしいと思う。

私は決めた。
彼がもう少しでも楽に、安全に陸で過ごせるように。
何か特別なインクを、あるいは魔法の道具を、この手で作ってみせよう。
それは、私の新しい人生における、新しい目標。
そして、彼への密かな恋心の、新しい表現方法だった。
二人の間にあった見えない壁が、少しだけ溶けたような気がした。
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