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第87話 赤字国家の救済と七色の特製ソース
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屋敷の応接室は、西方の冷房魔法によって常に完璧な室温に保たれている。
私は上座の最高級革張りソファに深く腰を沈め、隣に控えるカシアンから手渡された分厚い資料をバサリと開いた。
目の前には、先ほどまでの傲慢な態度が嘘のように縮こまり、小さくなって座っているサッカラム連合の司祭、メルがいる。
彼の取り巻きであった白装束の従者や護衛の兵士たちは、全て部屋の外だ。
扉の前に立ち塞がるレオンが放つ、王宮騎士団筆頭としての圧倒的な威圧感と殺気に当てられ、誰一人として中に入ることは愚か、抗議の声すら上げられなかったのだ。
室内にいるのは、私、カシアン、レオン、そして足元で寛ぐフェンとノクスだけ。
完全なるアークライト商会のホームグラウンドである。
「結論から申し上げますわ。あなたの国の経営状態は、救いようのない完全な赤字です」
私は開いた資料の数字を一瞥し、メルの顔に容赦のない現実を叩きつけた。
氷点下の声が、冷房の効いた室内の温度をさらに数度下げたように錯覚させる。
「……な、何を根拠にそのような妄言を吐くのだ。我がサッカラム連合は、数千年の歴史と伝統を持つ甘味の聖地だぞ。ぽっと出の商人が、我が国の経済を理解できるはずがない」
メルは額に脂汗を浮かべ、震える声で必死に反論を試みる。
だが、彼の視線は私の手元にある分厚い帳簿の束を泳ぎ、全く定まっていない。
自分が乗ってきた船の底を覗かれた時点で、彼はすでに私の計算能力に底知れぬ恐怖を抱いているのだ。
「歴史や伝統なんて、損益計算書の前では一カッパーの価値もありませんわ。大事なのは、今現在いくら稼ぎ、いくら垂れ流しているか。それだけよ」
私は扇をパチリと閉じ、テーブルの上に一枚の書類を滑らせた。
昨日、ゼロ兄様に命じて彼らの船の奥深くからこっそりと盗み出させた、サッカラム連合の『虹の蜜』の製造マニュアルとその原価計算書の写しだ。
「この『虹の蜜』。魔力を用いた抽出効率が、たったの三パーセントしかありませんわね」
「なっ……!?」
メルの顔色が一瞬にして白紙のように抜け落ちた。
「なぜ、我が国の門外不出の秘伝が、お前の手元にあるのだ……!」
「情報収集は商売の基本ですわ。それよりも、この数字の惨状はどういうことかしら。百キロの原料から、たった三キロの蜜しか抽出できない。残りの九十七キロは全て廃棄。あまりにも歩留まりが悪すぎるわ」
私はペン先で、グラフの急激な下降線をトントンとリズミカルになぞる。
「さらに、あなたがたが乗ってきたあの無駄に豪華な船。あれの維持費だけで、あなた方の国の年間利益の四割が吹き飛んでいますわね。見栄を張るためだけに、莫大な魔力と資金を垂れ流している。愚かの極みよ」
メルは酸素を求める陸に上がった魚のように、口をパクパクと開閉させている。
彼は自分の国の本当の「数字」を、今まで一度も客観的に見たことがなかったのだろう。
伝統と神聖という言葉のベールに甘え、どんぶり勘定で国家を運営してきた代償が、今ここにつきつけられている。
「リリア様。彼らの状況は、さらに切迫しております」
隣に立つカシアンが、銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、感情の欠落した冷徹な声で追撃を加えた。
「当商会の分析部が弾き出したデータによれば、彼らが船底に抱え込んでいる大量の在庫は、あと一ヶ月で完全に品質保持期限を迎えます」
「これほどの高濃度の魔力を含んだ蜜を劣化させずに保つための保存魔法。その維持コストも、彼らの資金繰りではもはや限界を超えているとの結果が出ております」
カシアンの容赦ない言葉が、メルの心臓を正確に抉っていく。
「つまり、来月になればその自慢の蜜は、ただの色のついた腐った砂糖水に変わる。そして、あなた方の国は完全に不渡りを出し、破産する。……違って?」
私の冷たい問いかけに、メルはついに耐えきれず、膝から崩れ落ちて豪華なペルシャ絨毯の上に両手をついた。
肩をガタガタと震わせ、荒い息を吐き出している。
「……負けだ。お前の言う通り、我が国は今、死の淵の真上に立っている」
メルはうなだれ、老いた声をさらに掠れさせて事実を認めた。
「この大量の蜜が売れなければ、国家のキャッシュフローは完全に停止する。民は飢え、国は内側から瓦解し、暴動が起きるだろう」
「それを防ぐために、他国の王族や大貴族に、この至宝を高値で売りつけようと必死になっていたのですわね」
「だ、だが、これほどの味はこの大陸のどこを探しても存在しない! 価値はあるはずだ! 絶対に、高値で売れるはずなのだ!」
メルが最後に残ったプライドを振り絞り、顔を上げて叫んだ。
その顔は涙と汗でぐしゃぐしゃになり、もはや高貴な司祭の面影はどこにもない。
私はふうと小さくため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「価値を決めるのは、あなたではありませんわ。市場であり、そして何より、この私の舌です」
私は窓際の白亜のテーブルに用意されていた、試食用の小皿を指差した。
そこには、白い陶器の中央に「虹の蜜」が一滴だけ、大切に垂らされている。
粘度の高いその液体は、窓から差し込む太陽の光を複雑に反射し、見る角度によって赤から青、そして黄金色へと幻想的に姿を変えていた。
ただの一滴であるにも関わらず、部屋中に強烈で官能的な甘い香りを放っている。
私は純銀の小さなスプーンを手に取り、その一滴を慎重にすくい上げ、ゆっくりと口へと運んだ。
「……っ」
舌の上に乗せた瞬間、私の脳髄を強烈な電撃が貫いた。
脳細胞が溶けてしまいそうなほどの、暴力的なまでの甘み。
砂糖や蜂蜜といった既存の甘味料とは全く次元が違う、魔力そのものが結晶化したような極上の甘さだ。
それなのに、後味は驚くほどに澄み渡っており、高貴で清らかな花の香りがスッと鼻腔を抜けていく。
くどさや嫌な粘り気は一切なく、ただ純粋な「幸福感」だけが口の中に残り続ける。
前世で口にしたどんな高級スイーツのシロップも、この蜜の足元にも及ばない。
「合格よ。味だけは、アークライト商会の厳しい基準を完全に満たしているわ」
私はスプーンを置き、ナプキンで優雅に口元を拭ってから、再びソファに座り直した。
「司祭様。私はあなたに、たった一つの提案を差し上げますわ」
私の言葉に、メルが絶望の淵に細い蜘蛛の糸を見出したような顔で顔を上げる。
「我がアークライト商会が、サッカラム連合の経営コンサルタントになって差し上げます」
「コンサルタント……? それは一体、どのような役職なのだ……」
「経営のやり方、お金の流れ、生産のシステム。その全てを、この私が根本から作り変えてあげるということですわ」
私は手帳を開き、流れるような動作で新しい図面を描き始めた。
「まず、その時代遅れで非効率な抽出魔法を全て廃止し、私の考案した最新の『魔導遠心圧縮機』に置き換えます」
私がササッと描いた概略図をメルの前に突きつける。
「これを使えば、魔力のロスを極限まで減らし、歩留まりは現在の十倍以上になる。原価は一気に十分の一まで下がりますわ」
「じゅ、十分の一だと……!? そんな魔法のような機械が、存在するのか!」
「ええ。私が設計したのだから当然よ。次に、あの港に停泊している豪華すぎる船。あれは即刻解体して、装飾品の黄金や宝石は全て換金しなさい。船体は実用的な大型貨物船に改造するのよ」
「ま、待て! あれは我が国の神聖なる……」
「見栄で腹は膨れませんわ。利益を出して、民を食わせ、初めて国は自立するのです。無駄な装飾に魔力を使う暇があるなら、一滴でも多くの蜜を絞り出しなさい」
私の矢継ぎ早な、しかし完璧な論理に裏打ちされた指示に、メルは反論の言葉を見つけられず、ただ呆然と頷くしかなかった。
「そして、ここからが一番重要な条件よ」
私は不敵な笑みを浮かべ、カシアンに合図を送った。
カシアンが鞄から真新しい最高級羊皮紙の契約書を取り出し、テーブルの上を滑らせてメルの目の前で止める。
「『虹の蜜』の全世界における独占販売権。これを全て、アークライト商会に無償で譲渡しなさい」
「なっ……!?」
メルの目が、限界まで見開かれた。
「独占販売権の譲渡……。それは、我が国の産業の首根っこを、命運の全てを、お前に預けるということか!」
「いいえ。私が、あなたの沈みかけた国を、私の豊かで巨大な『財布』の一部にしてあげるということですわ」
私は純銀のペンを、メルの震える手の前に差し出した。
「今後、あなたがたは私の用意したシステムで、生産だけに集中するの。マーケティングも、流通も、価格設定も、売るための戦略は全て私がやってあげる。あなたたちは、私がもたらす莫大な利益の分け前を受け取って、平和に暮らせばいいのよ」
「……」
「選ぶ時間は五秒よ。このままプライドを抱き抱えて国ごと海に沈むか、私の傘下に入って永遠の繁栄を手に入れるか。五、四、三……」
「わ、分かった! 書く! サインするから、どうか我が国を救ってくれ!」
メルは半狂乱になりながらペンをひったくり、契約書の署名欄に自らの名前を深く、強く刻み込んだ。
インクが紙に染み込む音と共に、サッカラム連合という古い歴史を持つ国の運命が、完全に私の指先一つで書き換えられたのだ。
「賢明な判断ですわ、司祭様。これで、私たちはお互いに手を取り合うビジネスパートナーね」
私は署名された契約書をカシアンに渡し、完璧な商人の笑顔を浮かべた。
これで、世界一の甘味料は私の独占状態となった。
これをどう使って新しいスイーツを開発し、どれほどの利益を上げるか。
私の脳内には、無限の黄金のシナリオが広がっている。
「商談成立ね。さて、セバスチャン。新しい門出を祝う、とびきりのお祝いの料理を運んでちょうだい」
私は手をパンパンと二回叩き、待機していた使用人たちに合図を送った。
重厚な扉がゆっくりと開き、この世の贅を全て尽くしたかのような、暴力的なまでに食欲を刺激する香りが部屋の中へと流れ込んできた。
銀のワゴンに乗せられて運ばれてきたのは、北のアイゼン領から特急列車で今朝届いたばかりの、最高級『雪原カモ』のローストだ。
丸々と太ったカモの皮は、魔導オーブンで極限までパリパリに香ばしく焼き上げられ、表面には黄金色の脂がふつふつと泡立っている。
分厚い胸肉の断面からは、見るも鮮やかな薔薇色の肉汁がとめどなく溢れ出していた。
そして、その極上のお肉の横には、今日契約したばかりの「虹の蜜」と、西方のレモン果汁、そして数種類のスパイスを絶妙な黄金比でブレンドした、特製の七色ソースがたっぷりと添えられている。
「どうぞ、召し上がれ。これが、私の作る『利益の味』ですわ」
私は純銀のナイフとフォークを手に取り、カモ肉を一切れ、スッと切り分けた。
刃が皮を破るパリッという小気味よい音の直後、柔らかな肉質が抵抗なく切れていく。
その一切れに、七色に輝く特製ソースをたっぷりと絡め、大きく口を開けて優雅に頬張った。
「……んんっ!」
口に入れた瞬間、雪原カモの持つ野生味あふれる重厚な旨味と、濃厚な脂の甘みが爆発する。
そこへ、虹の蜜の高貴で突き抜けるような甘さと、レモンの爽やかな酸味が完璧なタイミングで合流し、肉の脂の重さを一瞬で消し去ってしまった。
甘味、酸味、塩味、そして旨味。
全ての味覚が舌の上で複雑に絡み合い、噛むたびに新しい美味しさの宇宙が広がっていく。
脳の報酬系が激しく刺激され、多幸感が全身の細胞に行き渡るのを感じた。
「素晴らしい。カモの野性味を、この蜜が芸術品の領域まで洗練させているわ。この組み合わせ、まさに金貨を無限に産み出す宝石のようだわ」
私が恍惚の表情で食事を楽しんでいると、足元から不満そうな声が上がった。
「わんっ! リリアさま! そのキラキラしたお肉、ぼくも絶対に食べたいです! よだれが止まりません!」
フェンが前足をバタバタとさせ、尻尾をちぎれんばかりに振って猛烈にアピールしてくる。
「にゃあ。そのソースの輝き、とても素敵ね。これを食べたら、私の毛並みもこれくらい光り輝くかしら」
ノクスも目を細め、ピンク色の舌で鼻先を舐めながら、私の膝にすり寄ってきた。
「ふふ、もちろんあなたたちの分もあるわよ」
二匹の相棒にも、特別に切り分けた一皿を差し出した。
メルの顔に、ようやく生気が戻り、驚きと感動の色が混ざり合った。
私は上座の最高級革張りソファに深く腰を沈め、隣に控えるカシアンから手渡された分厚い資料をバサリと開いた。
目の前には、先ほどまでの傲慢な態度が嘘のように縮こまり、小さくなって座っているサッカラム連合の司祭、メルがいる。
彼の取り巻きであった白装束の従者や護衛の兵士たちは、全て部屋の外だ。
扉の前に立ち塞がるレオンが放つ、王宮騎士団筆頭としての圧倒的な威圧感と殺気に当てられ、誰一人として中に入ることは愚か、抗議の声すら上げられなかったのだ。
室内にいるのは、私、カシアン、レオン、そして足元で寛ぐフェンとノクスだけ。
完全なるアークライト商会のホームグラウンドである。
「結論から申し上げますわ。あなたの国の経営状態は、救いようのない完全な赤字です」
私は開いた資料の数字を一瞥し、メルの顔に容赦のない現実を叩きつけた。
氷点下の声が、冷房の効いた室内の温度をさらに数度下げたように錯覚させる。
「……な、何を根拠にそのような妄言を吐くのだ。我がサッカラム連合は、数千年の歴史と伝統を持つ甘味の聖地だぞ。ぽっと出の商人が、我が国の経済を理解できるはずがない」
メルは額に脂汗を浮かべ、震える声で必死に反論を試みる。
だが、彼の視線は私の手元にある分厚い帳簿の束を泳ぎ、全く定まっていない。
自分が乗ってきた船の底を覗かれた時点で、彼はすでに私の計算能力に底知れぬ恐怖を抱いているのだ。
「歴史や伝統なんて、損益計算書の前では一カッパーの価値もありませんわ。大事なのは、今現在いくら稼ぎ、いくら垂れ流しているか。それだけよ」
私は扇をパチリと閉じ、テーブルの上に一枚の書類を滑らせた。
昨日、ゼロ兄様に命じて彼らの船の奥深くからこっそりと盗み出させた、サッカラム連合の『虹の蜜』の製造マニュアルとその原価計算書の写しだ。
「この『虹の蜜』。魔力を用いた抽出効率が、たったの三パーセントしかありませんわね」
「なっ……!?」
メルの顔色が一瞬にして白紙のように抜け落ちた。
「なぜ、我が国の門外不出の秘伝が、お前の手元にあるのだ……!」
「情報収集は商売の基本ですわ。それよりも、この数字の惨状はどういうことかしら。百キロの原料から、たった三キロの蜜しか抽出できない。残りの九十七キロは全て廃棄。あまりにも歩留まりが悪すぎるわ」
私はペン先で、グラフの急激な下降線をトントンとリズミカルになぞる。
「さらに、あなたがたが乗ってきたあの無駄に豪華な船。あれの維持費だけで、あなた方の国の年間利益の四割が吹き飛んでいますわね。見栄を張るためだけに、莫大な魔力と資金を垂れ流している。愚かの極みよ」
メルは酸素を求める陸に上がった魚のように、口をパクパクと開閉させている。
彼は自分の国の本当の「数字」を、今まで一度も客観的に見たことがなかったのだろう。
伝統と神聖という言葉のベールに甘え、どんぶり勘定で国家を運営してきた代償が、今ここにつきつけられている。
「リリア様。彼らの状況は、さらに切迫しております」
隣に立つカシアンが、銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、感情の欠落した冷徹な声で追撃を加えた。
「当商会の分析部が弾き出したデータによれば、彼らが船底に抱え込んでいる大量の在庫は、あと一ヶ月で完全に品質保持期限を迎えます」
「これほどの高濃度の魔力を含んだ蜜を劣化させずに保つための保存魔法。その維持コストも、彼らの資金繰りではもはや限界を超えているとの結果が出ております」
カシアンの容赦ない言葉が、メルの心臓を正確に抉っていく。
「つまり、来月になればその自慢の蜜は、ただの色のついた腐った砂糖水に変わる。そして、あなた方の国は完全に不渡りを出し、破産する。……違って?」
私の冷たい問いかけに、メルはついに耐えきれず、膝から崩れ落ちて豪華なペルシャ絨毯の上に両手をついた。
肩をガタガタと震わせ、荒い息を吐き出している。
「……負けだ。お前の言う通り、我が国は今、死の淵の真上に立っている」
メルはうなだれ、老いた声をさらに掠れさせて事実を認めた。
「この大量の蜜が売れなければ、国家のキャッシュフローは完全に停止する。民は飢え、国は内側から瓦解し、暴動が起きるだろう」
「それを防ぐために、他国の王族や大貴族に、この至宝を高値で売りつけようと必死になっていたのですわね」
「だ、だが、これほどの味はこの大陸のどこを探しても存在しない! 価値はあるはずだ! 絶対に、高値で売れるはずなのだ!」
メルが最後に残ったプライドを振り絞り、顔を上げて叫んだ。
その顔は涙と汗でぐしゃぐしゃになり、もはや高貴な司祭の面影はどこにもない。
私はふうと小さくため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「価値を決めるのは、あなたではありませんわ。市場であり、そして何より、この私の舌です」
私は窓際の白亜のテーブルに用意されていた、試食用の小皿を指差した。
そこには、白い陶器の中央に「虹の蜜」が一滴だけ、大切に垂らされている。
粘度の高いその液体は、窓から差し込む太陽の光を複雑に反射し、見る角度によって赤から青、そして黄金色へと幻想的に姿を変えていた。
ただの一滴であるにも関わらず、部屋中に強烈で官能的な甘い香りを放っている。
私は純銀の小さなスプーンを手に取り、その一滴を慎重にすくい上げ、ゆっくりと口へと運んだ。
「……っ」
舌の上に乗せた瞬間、私の脳髄を強烈な電撃が貫いた。
脳細胞が溶けてしまいそうなほどの、暴力的なまでの甘み。
砂糖や蜂蜜といった既存の甘味料とは全く次元が違う、魔力そのものが結晶化したような極上の甘さだ。
それなのに、後味は驚くほどに澄み渡っており、高貴で清らかな花の香りがスッと鼻腔を抜けていく。
くどさや嫌な粘り気は一切なく、ただ純粋な「幸福感」だけが口の中に残り続ける。
前世で口にしたどんな高級スイーツのシロップも、この蜜の足元にも及ばない。
「合格よ。味だけは、アークライト商会の厳しい基準を完全に満たしているわ」
私はスプーンを置き、ナプキンで優雅に口元を拭ってから、再びソファに座り直した。
「司祭様。私はあなたに、たった一つの提案を差し上げますわ」
私の言葉に、メルが絶望の淵に細い蜘蛛の糸を見出したような顔で顔を上げる。
「我がアークライト商会が、サッカラム連合の経営コンサルタントになって差し上げます」
「コンサルタント……? それは一体、どのような役職なのだ……」
「経営のやり方、お金の流れ、生産のシステム。その全てを、この私が根本から作り変えてあげるということですわ」
私は手帳を開き、流れるような動作で新しい図面を描き始めた。
「まず、その時代遅れで非効率な抽出魔法を全て廃止し、私の考案した最新の『魔導遠心圧縮機』に置き換えます」
私がササッと描いた概略図をメルの前に突きつける。
「これを使えば、魔力のロスを極限まで減らし、歩留まりは現在の十倍以上になる。原価は一気に十分の一まで下がりますわ」
「じゅ、十分の一だと……!? そんな魔法のような機械が、存在するのか!」
「ええ。私が設計したのだから当然よ。次に、あの港に停泊している豪華すぎる船。あれは即刻解体して、装飾品の黄金や宝石は全て換金しなさい。船体は実用的な大型貨物船に改造するのよ」
「ま、待て! あれは我が国の神聖なる……」
「見栄で腹は膨れませんわ。利益を出して、民を食わせ、初めて国は自立するのです。無駄な装飾に魔力を使う暇があるなら、一滴でも多くの蜜を絞り出しなさい」
私の矢継ぎ早な、しかし完璧な論理に裏打ちされた指示に、メルは反論の言葉を見つけられず、ただ呆然と頷くしかなかった。
「そして、ここからが一番重要な条件よ」
私は不敵な笑みを浮かべ、カシアンに合図を送った。
カシアンが鞄から真新しい最高級羊皮紙の契約書を取り出し、テーブルの上を滑らせてメルの目の前で止める。
「『虹の蜜』の全世界における独占販売権。これを全て、アークライト商会に無償で譲渡しなさい」
「なっ……!?」
メルの目が、限界まで見開かれた。
「独占販売権の譲渡……。それは、我が国の産業の首根っこを、命運の全てを、お前に預けるということか!」
「いいえ。私が、あなたの沈みかけた国を、私の豊かで巨大な『財布』の一部にしてあげるということですわ」
私は純銀のペンを、メルの震える手の前に差し出した。
「今後、あなたがたは私の用意したシステムで、生産だけに集中するの。マーケティングも、流通も、価格設定も、売るための戦略は全て私がやってあげる。あなたたちは、私がもたらす莫大な利益の分け前を受け取って、平和に暮らせばいいのよ」
「……」
「選ぶ時間は五秒よ。このままプライドを抱き抱えて国ごと海に沈むか、私の傘下に入って永遠の繁栄を手に入れるか。五、四、三……」
「わ、分かった! 書く! サインするから、どうか我が国を救ってくれ!」
メルは半狂乱になりながらペンをひったくり、契約書の署名欄に自らの名前を深く、強く刻み込んだ。
インクが紙に染み込む音と共に、サッカラム連合という古い歴史を持つ国の運命が、完全に私の指先一つで書き換えられたのだ。
「賢明な判断ですわ、司祭様。これで、私たちはお互いに手を取り合うビジネスパートナーね」
私は署名された契約書をカシアンに渡し、完璧な商人の笑顔を浮かべた。
これで、世界一の甘味料は私の独占状態となった。
これをどう使って新しいスイーツを開発し、どれほどの利益を上げるか。
私の脳内には、無限の黄金のシナリオが広がっている。
「商談成立ね。さて、セバスチャン。新しい門出を祝う、とびきりのお祝いの料理を運んでちょうだい」
私は手をパンパンと二回叩き、待機していた使用人たちに合図を送った。
重厚な扉がゆっくりと開き、この世の贅を全て尽くしたかのような、暴力的なまでに食欲を刺激する香りが部屋の中へと流れ込んできた。
銀のワゴンに乗せられて運ばれてきたのは、北のアイゼン領から特急列車で今朝届いたばかりの、最高級『雪原カモ』のローストだ。
丸々と太ったカモの皮は、魔導オーブンで極限までパリパリに香ばしく焼き上げられ、表面には黄金色の脂がふつふつと泡立っている。
分厚い胸肉の断面からは、見るも鮮やかな薔薇色の肉汁がとめどなく溢れ出していた。
そして、その極上のお肉の横には、今日契約したばかりの「虹の蜜」と、西方のレモン果汁、そして数種類のスパイスを絶妙な黄金比でブレンドした、特製の七色ソースがたっぷりと添えられている。
「どうぞ、召し上がれ。これが、私の作る『利益の味』ですわ」
私は純銀のナイフとフォークを手に取り、カモ肉を一切れ、スッと切り分けた。
刃が皮を破るパリッという小気味よい音の直後、柔らかな肉質が抵抗なく切れていく。
その一切れに、七色に輝く特製ソースをたっぷりと絡め、大きく口を開けて優雅に頬張った。
「……んんっ!」
口に入れた瞬間、雪原カモの持つ野生味あふれる重厚な旨味と、濃厚な脂の甘みが爆発する。
そこへ、虹の蜜の高貴で突き抜けるような甘さと、レモンの爽やかな酸味が完璧なタイミングで合流し、肉の脂の重さを一瞬で消し去ってしまった。
甘味、酸味、塩味、そして旨味。
全ての味覚が舌の上で複雑に絡み合い、噛むたびに新しい美味しさの宇宙が広がっていく。
脳の報酬系が激しく刺激され、多幸感が全身の細胞に行き渡るのを感じた。
「素晴らしい。カモの野性味を、この蜜が芸術品の領域まで洗練させているわ。この組み合わせ、まさに金貨を無限に産み出す宝石のようだわ」
私が恍惚の表情で食事を楽しんでいると、足元から不満そうな声が上がった。
「わんっ! リリアさま! そのキラキラしたお肉、ぼくも絶対に食べたいです! よだれが止まりません!」
フェンが前足をバタバタとさせ、尻尾をちぎれんばかりに振って猛烈にアピールしてくる。
「にゃあ。そのソースの輝き、とても素敵ね。これを食べたら、私の毛並みもこれくらい光り輝くかしら」
ノクスも目を細め、ピンク色の舌で鼻先を舐めながら、私の膝にすり寄ってきた。
「ふふ、もちろんあなたたちの分もあるわよ」
二匹の相棒にも、特別に切り分けた一皿を差し出した。
メルの顔に、ようやく生気が戻り、驚きと感動の色が混ざり合った。
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やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり――
白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。
身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。
姉の忘れ形見を育てたいだけなのに、公爵閣下の執着が重いんですが!?~まっすぐ突き進み系令嬢の公爵家再建計画
及川えり
ファンタジー
突然届いた双子の姉からの手紙。
【これをあなたが読んでいるころにはわたしはもう死んでいることでしょう。わたしのことは探さないでね。双子を引き取ってもらえないかしら?】
姉の遺言通り双子を育てようと姉の嫁ぎ先へと突入する。
双子を顧みなかったという元夫のウィルバート公爵に何とか双子を引き取れるよう掛け合うが、話の流れからそのまま公爵家に滞在して双子を育てる羽目に。
だが、この公爵家、何かおかしい?
異常に気付いたハンナは公爵家に巣くう膿をとりのぞくべく、奮闘しはじめる。
一方ハンナを最初は適当にあしらっていたウィルバートだったが、ハンナの魅力に気付き始め……。
ハンナ・キャロライン・バーディナ 22歳
バーディナ伯爵家令嬢
✖️
ウィルバート・アドルファス・キングスフォード 26歳
キングスフォード公爵
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