【完結】元Sランク受付嬢の、路地裏ひとり酒とまかない飯

旅する書斎(☆ほしい)

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「佐倉さん、聞きました?また〈モンス飯亭〉の女将さんが、新しい魔獣料理の試作に成功したって!」

お昼休憩、給湯室でナナミちゃんが目を輝かせながら話しかけてくる。彼女の情報網は、ギルドの公式掲示板より早いんじゃないかと思う時がある。

「あら、そうなの?今度はどんな料理なのかしら」

「なんでも、『深海のクラーケンを使ったカルパッチョ』ですって!クラーケンですよ、クラーケン!伝説の魔獣じゃないですか!」

(クラーケン……確かに、Sランク時代の討伐対象リストで見たことがあるような……)

そんな物騒な魔獣さえも、女将さんの手にかかれば絶品料理に変わってしまうのだから、本当に頭が下がる。私の胃袋は、もうすっかり女将さんに掴まれてしまっている。

「それは楽しみね。今日の仕事終わり、さっそく行ってみようかな」

「いいなー!私も行きたいですけど、今日は同期と約束が……。佐倉さん、私の分まで味わってきてくださいね!」

「ふふ、任せてちょうだい」

ナナミちゃんの期待を背負い、私は午後の業務にも身を入れた。定時を告げる鐘の音が、今日はいつもより待ち遠しく感じられる。

そして、待ちに待った終業時間。私は誰よりも早くギルドを飛び出し、夕暮れの路地裏へと足を向けた。

しかし、〈モンス飯亭〉へと続く見慣れた路地の角を曲がった時、私は思わず足を止めてしまった。

いつもなら、女将さんの店の温かい灯りだけが優しく迎えてくれるはずのその場所に、不釣り合いなほど煌びやかな光が溢れていたからだ。

〈モンス飯亭〉の二軒隣、少し前まで空き店舗だったはずの場所に、真新しい看板が掲げられている。

『Magical Cuisine “AETHER” (マジカル・キュイジーヌ・エーテル)』

ガラス張りの壁面からは、青白い光が漏れ出し、道行く人々の注目を集めている。店の前には、開店祝いであろう華やかな花がずらりと並び、スーツ姿のスタッフが客の呼び込みをしていた。

「……何、あのお店……」

明らかに、この路地裏の風情にはそぐわない、モダンで高級そうな店構えだ。興味本位で店の前に置かれたメニューボードを覗き込むと、そこには目を疑うような料理名が並んでいた。

『炎の精霊イフリートが焼き上げる フェニックスのグリル』
『水の精霊ウンディーネが織りなす リヴァイアサンのポワレ』
『風の精霊シルフのダンスと共に エアルーム野菜のサラダ』

(……精霊?調理魔法ってことかしら……)

Sランク時代、精霊を使役する魔法使いもいたけれど、それを料理に応用するなんて聞いたことがない。しかも、使われている食材もフェニックスやリヴァイサンと、神話級のものばかり。

「お客様、当店は最新の調理魔法と、最高級の魔獣食材を使った新感覚のレストランでございます。ただいま、オープン記念の特別コースもご用意しておりますので、ぜひ一度、お立ち寄りください」

スーツ姿のスタッフが、私に気づいて慇懃に声をかけてくる。そのスマートな物腰は、この路地裏というより、王都の一等地にある高級レストランのそれに近い。

私は曖昧に会釈してその場を離れ、目的の〈モンス飯亭〉の暖簾をくぐった。

「いらっしゃい、レナちゃん。……おや、なんだか不思議そうな顔をしてるじゃないか」

カウンターの向こうで、女将さんがいつものように笑顔で迎えてくれた。

「女将さん、お隣……すごいお店ができましたね」

「ああ、“エーテル”さんのことかい。今日がオープンだったみたいだねぇ。なんだか、すごい人気みたいじゃないか」

女将さんは、特に気にした風もなく、大根の桂剥きを続けながら答える。その落ち着き払った様子に、私は少しだけ拍子抜けしてしまった。

「人気みたい、って……。あんな派手なお店が近くにできたら、こっちのお客さん、減っちゃいませんか?」

「さあ、どうだろうねぇ。うちはうち、よそはよそだよ。それよりレナちゃん、今日は何にするんだい?ナナミちゃんから聞いたかい?クラーケンのカルパッチョ、いいのができてるよ」

私の心配をよそに、女将さんはいつも通りだ。その変わらない態度に、私は少しだけ安心感を覚えた。

そうだ、何を心配することがあるだろう。この〈モンス飯亭〉の味が、よそに負けるはずがない。

「はい!そのクラーケンのカルパッチョ、お願いします!あと、ビールも!」

「はいよ、お待ちどうさま」

すぐに運ばれてきたキンキンに冷えたビールを一口。ぷはーっ、と息を吐き出すと、心のざわめきがすっと消えていくようだった。これだ、この一杯のために私は生きている。

そして、目の前に差し出された『深海のクラーケンのカルパッチョ』は、私の想像を遥かに超える美しさだった。

薄くスライスされたクラーケンの身が、まるで白い大輪の花のように皿の上に盛り付けられている。その上には、色とりどりのハーブと、キラキラと輝く岩塩、そして黄金色に輝くオリーブオイルがかけられている。

「うわぁ……綺麗……」

フォークで一切れ口に運ぶと、まずその弾力のある食感に驚かされた。クラーケンというと、硬くて大味なイメージがあったけれど、これは全く違う。プリプリとしていながら、歯切れが良く、噛むほどに上品な甘みと旨みがじゅわっと口の中に広がる。

ハーブの爽やかな香りと、岩塩のミネラル感、そしてオリーブオイルのフルーティーな風味が、クラーケンの繊細な味わいを完璧に引き立てていた。

「美味しい……!女将さん、これ、本当にクラーケンなんですか?信じられないくらい、繊細な味……」

「ふふ、下処理に丸一日かけたからね。クラーケンは、魔力の塊みたいなもんだから、丁寧にその力を抜いてやらないと、こうはならないのさ。力強さを、いかにして旨さに変えるか。それが、料理人の腕の見せ所だよ」

女将さんは、こともなげにそう言ってのける。その言葉には、長年料理と向き合ってきた者だけが持つ、静かな自信と矜持が感じられた。

(そうよ、これだわ……)

隣の店の派手な演出や、聞こえの良い食材の名前だけが、料理の価値を決めるわけじゃない。

一つ一つの食材に真摯に向き合い、手間暇を惜しまず、その持ち味を最大限に引き出す。女将さんの料理には、その哲学が息づいている。だからこそ、私の心と胃袋は、こんなにも満たされるのだ。

カルパッチョを堪能し、ビールをもう一杯おかわりした頃には、隣の新しい店の存在など、すっかり頭から消え去っていた。

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