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大御所様をお迎えした特別な夜から数日が過ぎ、やわらぎ亭はまたいつもの穏やかな日常を取り戻していた。『日ノ本一』と記された看板は、私と良太の胸の中にだけ誇らしく掲げられ、私たちの仕事に静かな張りを与えてくれている。
秋もすっかり深まり、木々の葉が赤や黄色に色づき始めた頃、店の常連であるお初ちゃんの様子が少しおかしいことに、私は気がついていた。いつもなら店に入ってくるなり「おし乃さーん!」と元気いっぱいに駆け寄ってくる彼女が、ここ数日はどこかそわそわと落ち着かない。それに、時々こっそりと懐から何かを取り出しては、誰にも見られないようにこそこそと口に運んでいるのだ。
「お初ちゃん、何か隠しているでしょう」
ある日の昼下がり、客足が途絶えたのを見計らって、私はにっこりと尋ねてみた。
お初ちゃんはびくりと肩を震わせ、ぶんぶんと首を横に振る。
「な、なにも隠してなんかないよ!」
その言い草が、かえって怪しい。
私がじっと彼女の目を見つめると、お初ちゃんは観念したように、はあと小さくため息をついた。
「……わかったよ。言うよ。でも、絶対に父ちゃんには内緒だからね?」
そう言って、お初ちゃんが懐から取り出したのは、小さな布にくるまれた一匹の子猫だった。まだ手のひらに乗るほどの大きさで、白と茶色のぶち模様。ミィ、と頼りなげに鳴く声はか細くて、今にも消えてしまいそうだ。
「三日前に、裏の空き家に捨てられていたんだ。お腹を空かせて鳴いているから、放っておけなくて……」
お初ちゃんは、こっそり自分のご飯を分け与えたり、人目につかないように世話をしたりしていたらしい。
「でも、あばら家だから雨が降ると大変だし……。それに、父ちゃん、動物はあんまり好きじゃないから、家に連れて帰ったらきっと怒られちゃう……」
しょんぼりと俯くお初ちゃんの顔には、子猫を想う優しさと、どうにもできないもどかしさが浮かんでいた。桶屋の親方であるお初ちゃんの父は、腕は良いが昔気質の頑固者だ。確かに、猫を飼うことを簡単に許してはくれないかもしれない。
「そう……。それは、困ったわね」
私は思案するように腕を組んだ。
こういう時は、正面から説得しても頑固な親方の心を動かすのは難しいだろう。何か、良い手はないものか……。そうだ。こういう時こそ、料理の出番だ。人の心をじんわりと温め、解きほぐすような、そんな一品を。
「お初ちゃん。今夜、お父様とこちらにいらっしゃいな。美味しいものを、ご馳走するわ」
「え? でも……」
「大丈夫。私に良い考えがありますから」
私は、お初ちゃんににっこりと微笑みかけた。
その日の夜。お初ちゃんは、仕事終わりの父親の腕を引き、やわらぎ亭へとやってきた。
「よう、おし乃さん。娘がどうしてもって言うもんでな」
桶屋の親方は、照れくさそうに頭を掻きながら席に着いた。
私は二人の前に、湯気の立つ土鍋をことりと置く。
「今夜は少し肌寒くなりましたから。温かいものでも、いかがかと思いまして」
土鍋の蓋を開けると、ふわりと優しい出汁の香りが立ち上った。
中に入っているのは、雑炊だ。
冷やご飯をさらりと水で洗い、ぬめりを取る。鰹と昆布で引いた出汁でそのご飯をことことと煮込み、細かく刻んだ鶏肉と人参、椎茸を加える。塩と薄口醤油でごく薄く味を調え、最後に溶き卵を細く、円を描くように回し入れる。ふわりと卵が花のように咲き、火を止めて刻み葱を散らせば、出来上がりだ。体調が悪い時や食欲がない時でも、するすると喉を通る体に優しい一品。
「ほう、雑炊か。こいつは、温まりそうだ」
親方は嬉しそうに言い、れんげで雑炊をすくって、ふうふうと冷ましながら口に運んだ。
「……うん。うめえな。優しい味だ。なんだか、子供の頃にお袋が作ってくれた雑炊を思い出すぜ」
親方の頑固な顔が、ふっと和らいだ。心が、一番無防備になる瞬間。今だ。
「お父ちゃん……」
お初ちゃんが、意を決したように口を開いた。私はそっと彼女の背中を押してやる。お初ちゃんは今日一日の出来事、そして子猫への想いを、ぽつりぽつりと、しかし一生懸命に語り始めた。
親方は、黙って娘の話を聞いていた。その顔はいつものように険しかったが、その目の奥には戸惑いと、そして娘を想う愛情の色が浮かんでいるのが、私にはわかった。
全てを話し終えたお初ちゃんは、目に涙をためて深々と父親に頭を下げた。
「お願いします、お父ちゃん! あの子を、助けてあげて!」
しばらくの、沈黙。
親方は腕を組み、ううむ、と唸っていたが、やがて観念したように大きなため息をついた。
「……しょうがねえなあ。お前がそこまで言うんなら」
「えっ……! ほんと、お父ちゃん!?」
「ただし、世話はてめえがちゃんとやるんだぞ。仕事の邪魔になるようなことがあったら、承知しねえからな!」
ぶっきらぼうな、しかし愛情に満ちた許可の言葉。
お初ちゃんの顔が、ぱあっと輝いた。
「うん! ありがとう、お父ちゃん! 大好き!」
お初ちゃんは、親方の首に思いっきり抱きついた。
親方は「やめろ、ひっつくな!」と照れながらも、その顔は満更でもなさそうだ。
一杯の温かい雑炊が、頑固な職人の心を娘への愛情でじんわりと溶かしてくれた。やがて、その子猫は「タマ」と名付けられ、桶屋の仕事場で親方の足元をちょろちょろと走り回る、看板猫になったという。やわらぎ亭にまた一つ、心温まる物語が生まれた瞬間だった。
秋もすっかり深まり、木々の葉が赤や黄色に色づき始めた頃、店の常連であるお初ちゃんの様子が少しおかしいことに、私は気がついていた。いつもなら店に入ってくるなり「おし乃さーん!」と元気いっぱいに駆け寄ってくる彼女が、ここ数日はどこかそわそわと落ち着かない。それに、時々こっそりと懐から何かを取り出しては、誰にも見られないようにこそこそと口に運んでいるのだ。
「お初ちゃん、何か隠しているでしょう」
ある日の昼下がり、客足が途絶えたのを見計らって、私はにっこりと尋ねてみた。
お初ちゃんはびくりと肩を震わせ、ぶんぶんと首を横に振る。
「な、なにも隠してなんかないよ!」
その言い草が、かえって怪しい。
私がじっと彼女の目を見つめると、お初ちゃんは観念したように、はあと小さくため息をついた。
「……わかったよ。言うよ。でも、絶対に父ちゃんには内緒だからね?」
そう言って、お初ちゃんが懐から取り出したのは、小さな布にくるまれた一匹の子猫だった。まだ手のひらに乗るほどの大きさで、白と茶色のぶち模様。ミィ、と頼りなげに鳴く声はか細くて、今にも消えてしまいそうだ。
「三日前に、裏の空き家に捨てられていたんだ。お腹を空かせて鳴いているから、放っておけなくて……」
お初ちゃんは、こっそり自分のご飯を分け与えたり、人目につかないように世話をしたりしていたらしい。
「でも、あばら家だから雨が降ると大変だし……。それに、父ちゃん、動物はあんまり好きじゃないから、家に連れて帰ったらきっと怒られちゃう……」
しょんぼりと俯くお初ちゃんの顔には、子猫を想う優しさと、どうにもできないもどかしさが浮かんでいた。桶屋の親方であるお初ちゃんの父は、腕は良いが昔気質の頑固者だ。確かに、猫を飼うことを簡単に許してはくれないかもしれない。
「そう……。それは、困ったわね」
私は思案するように腕を組んだ。
こういう時は、正面から説得しても頑固な親方の心を動かすのは難しいだろう。何か、良い手はないものか……。そうだ。こういう時こそ、料理の出番だ。人の心をじんわりと温め、解きほぐすような、そんな一品を。
「お初ちゃん。今夜、お父様とこちらにいらっしゃいな。美味しいものを、ご馳走するわ」
「え? でも……」
「大丈夫。私に良い考えがありますから」
私は、お初ちゃんににっこりと微笑みかけた。
その日の夜。お初ちゃんは、仕事終わりの父親の腕を引き、やわらぎ亭へとやってきた。
「よう、おし乃さん。娘がどうしてもって言うもんでな」
桶屋の親方は、照れくさそうに頭を掻きながら席に着いた。
私は二人の前に、湯気の立つ土鍋をことりと置く。
「今夜は少し肌寒くなりましたから。温かいものでも、いかがかと思いまして」
土鍋の蓋を開けると、ふわりと優しい出汁の香りが立ち上った。
中に入っているのは、雑炊だ。
冷やご飯をさらりと水で洗い、ぬめりを取る。鰹と昆布で引いた出汁でそのご飯をことことと煮込み、細かく刻んだ鶏肉と人参、椎茸を加える。塩と薄口醤油でごく薄く味を調え、最後に溶き卵を細く、円を描くように回し入れる。ふわりと卵が花のように咲き、火を止めて刻み葱を散らせば、出来上がりだ。体調が悪い時や食欲がない時でも、するすると喉を通る体に優しい一品。
「ほう、雑炊か。こいつは、温まりそうだ」
親方は嬉しそうに言い、れんげで雑炊をすくって、ふうふうと冷ましながら口に運んだ。
「……うん。うめえな。優しい味だ。なんだか、子供の頃にお袋が作ってくれた雑炊を思い出すぜ」
親方の頑固な顔が、ふっと和らいだ。心が、一番無防備になる瞬間。今だ。
「お父ちゃん……」
お初ちゃんが、意を決したように口を開いた。私はそっと彼女の背中を押してやる。お初ちゃんは今日一日の出来事、そして子猫への想いを、ぽつりぽつりと、しかし一生懸命に語り始めた。
親方は、黙って娘の話を聞いていた。その顔はいつものように険しかったが、その目の奥には戸惑いと、そして娘を想う愛情の色が浮かんでいるのが、私にはわかった。
全てを話し終えたお初ちゃんは、目に涙をためて深々と父親に頭を下げた。
「お願いします、お父ちゃん! あの子を、助けてあげて!」
しばらくの、沈黙。
親方は腕を組み、ううむ、と唸っていたが、やがて観念したように大きなため息をついた。
「……しょうがねえなあ。お前がそこまで言うんなら」
「えっ……! ほんと、お父ちゃん!?」
「ただし、世話はてめえがちゃんとやるんだぞ。仕事の邪魔になるようなことがあったら、承知しねえからな!」
ぶっきらぼうな、しかし愛情に満ちた許可の言葉。
お初ちゃんの顔が、ぱあっと輝いた。
「うん! ありがとう、お父ちゃん! 大好き!」
お初ちゃんは、親方の首に思いっきり抱きついた。
親方は「やめろ、ひっつくな!」と照れながらも、その顔は満更でもなさそうだ。
一杯の温かい雑炊が、頑固な職人の心を娘への愛情でじんわりと溶かしてくれた。やがて、その子猫は「タマ」と名付けられ、桶屋の仕事場で親方の足元をちょろちょろと走り回る、看板猫になったという。やわらぎ亭にまた一つ、心温まる物語が生まれた瞬間だった。
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