【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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江戸の町を救ったとまで噂されるようになった「やわらぎ粥」。
その一杯が、ついには大御所様のお耳にまで届いたというのだから、人の口というのは恐ろしいものである。

「おし乃さん……。ど、どうしましょう……。手が、手が震えて止まりません……」

約束の日。店の戸に「本日休業」の札を下げた炊き場で、良太は生まれたての小鹿のようにわなわなと震えていた。
無理もない。この江戸の片隅にある小さな飯屋に、この日ノ本で最も高貴なお方がお忍びで足を運ばれるのだ。平常心でいろと言う方が無理な相談だろう。

「大丈夫よ、良太。いつも通りにすれば良いのです。私たちがすることは、何も変わりませんわ」

私はそんな彼の肩をぽんと叩き、にっこりと微笑みかけた。

「心を込めて、美味しい一膳を作る。ただ、それだけのこと。相手がどなたであろうと、私たちの仕事はそれだけです」

「……はい!」

私の落ち着いた声に、良太も少しだけ気を取り直したようだった。
ごくりと喉を鳴らし、きゅっと前掛けの紐を結び直す。その目には、緊張の中にも料理人としての覚悟の光が宿っていた。

私と良太は、店の隅々まで丁寧に掃き清め、打ち水をし、今日という特別な日のお客様をお迎えする準備を整えた。
炊き場には、ことことと湯気を立てる土鍋。中には、心を込めて炊き上げた「やわらぎ粥」。
囲炉裏の火も、ぱちぱちと穏やかな音を立てて、静かにその時を待っている。

やがて、店の戸が静かに開かれた。
入ってこられたのは、若き御典医の助手、橘蒼馬殿に先導された、一人の初老の男性だった。
質素な縮緬の着流しに、頭には深編笠。一見すれば、どこぞの裕福なご隠居といった風情だ。
けれど、その穏やかな物腰の奥に隠された、揺るぎない威厳と、全てを見通すかのような深い眼光。
この方こそが、大御所様。
私と良太は、息をのんでその場に深々と膝をついた。

「面を上げよ」

穏やかで、しかしどこまでもよく通る声。
私たちが顔を上げると、大御所様はにこりと人の好さそうな笑みを浮かべておられた。
その後ろには、いつもの遊び人の風体ながら、どこか緊張した面持ちの金さんが控えている。

「そなたが、おし乃か。噂に違わぬ、凛とした良い女じゃな」

「は。……身に余るお言葉、恐れ入ります」

「うむ。して、そちらの若者が、噂の甘露湯を作り出したという良太か」

「は、はい! 良太と申します!」

良太の声が、情けなく裏返った。
大御所様は、その初々しい反応に、楽しそうにくすくすと笑われる。

「良い目をしておる。正直で、真っ直ぐな目じゃ。……さて、今日は堅苦しい挨拶は抜きじゃ。儂は、そなたたちの料理を味わいに参った。金四郎が、それはもう口を酸っぱくして自慢するものでな」

「滅相もございません」

金さんが、恐縮したように頭を下げる。

「おし乃、良太。今日は、民を救ったという『やわらぎ粥』、そして、普段この店の者たちが食べておるものを、そのまま儂にも食わせてはくれぬか。特別なものは要らぬ。この江戸に生きる民の息吹を、その食を通して感じてみたいのじゃ」

そのお言葉に、私は静かに、しかし力強く頷いた。
これこそが、私が最も望んでいたこと。
やわらぎ亭の真髄を、存分に味わっていただく。

「かしこまりました。それでは、今宵はやわらぎ亭の日常の味を、心ゆくまでお楽しみくださいませ」

私は良太に目配せをし、まずはお客様の体を温めるための一杯を用意した。
それは、ただの白湯。
けれど、鉄瓶でじっくりと沸かしたまろやかな湯を、丁寧に温めた湯呑みに注いだ、心を込めた一杯だ。

「まずは、旅の疲れを癒してくださいませ」

「うむ。……ほう、ただの白湯が、これほどまでに甘露なものとは。……そなたの真心、確かに受け取ったぞ」

大御所様は、満足そうに目を細められた。
そして、いよいよ主役の登場だ。

私は、湯気の立つ土鍋を盆に乗せ、大御所様の前に運んだ。
蓋を開けると、ふわりと優しい湯気と共に、米と野菜、そして梅の香りが立ち上る。

「こちらが、先日江戸の町を救ったと噂の……」

「いいえ。江戸の町を救ったのは、このお粥ではございません」

私は、きっぱりとそう言った。

「町を救ったのは、苦しい時に互いを思いやり、助け合った、江戸の人々の温かい心そのもの。このお粥は、そのお手伝いをほんの少しだけ、させていただいただけにございます」

私の言葉に、大御所様はほう、と感心したように息を漏らした。
そして、深く、深く頷かれる。

「……見事な心掛けじゃ。……では、その江戸の心が詰まった一杯、とくと味わわせていただこうかのう」

大御所様は、ゆっくりと匙を取り、粥を一口、口に運ばれた。
その瞬間、穏やかだったそのお顔に、深い感動の色が浮かぶ。
しばしの間、目を閉じ、その滋味深い味わいを噛み締めておられるかのようだった。

「……うまい」

ぽつりと漏れたのは、万感の思いが込められた、心の底からの一言だった。

「……優しい。……どこまでも、優しい味じゃ……。米の甘み、野菜の滋味、そして梅の爽やかな酸味。その全てが、弱った身体にじんわりと染み渡るようだ……。これぞ、まことの『仁』の味。……おし乃、そなたは、料理を通して儂に、為政者として最も大切なことを教えてくれたやもしれぬな」

その、あまりにもったいないお言葉。
私と良太は、ただただ恐縮して、頭を下げることしかできなかった。

粥を綺麗に平らげられた大御所様は、満足そうに息をつかれると、今度は悪戯っ子のような目で、私を見つめられた。

「さて、おし乃。この滋味深い粥で、すっかり腹の虫が目を覚ましてしまったわい。次は何を食わせてくれるのじゃ? 楽しみにしているぞ」

そのお言葉に、私はにっこりと微笑んだ。

「はい。次は、この江戸の土の香りがする、素朴な一品をご用意させていただきます」

私はそう言うと、良太と共に炊き場へと向かった。
用意するのは、今朝、八百屋の忠吉さんが届けてくれたばかりの、泥付きの大きなごぼうを使ったきんぴらごぼうだ。
ごぼうは、たわしで丁寧に泥を洗い落とすが、皮は剥かない。この皮の近くにこそ、土の力強い香りと旨味が凝縮されているのだ。
ごぼうを笹がきにし、人参は細切りに。
熱した鉄鍋に胡麻油をひき、まずは鷹の爪を炒めて香りを出す。そこにごぼうと人参を加え、しゃっきりと歯ごたえが残るように、手早く炒めていく。
醤油とみりん、酒を合わせた調味料をじゅわっと回しかけ、汁気がなくなるまで一気に炒り煮にする。
最後に、たっぷりの白胡麻を振りかければ、香ばしい香りがたまらない、きんぴらごぼうの完成だ。
派手さはない。けれど、ご飯が進むこと請け合いの、江戸の母の味だ。

「さあ、どうぞ。炊きたての白いご飯と、ご一緒にお召し上がりください」

私は、湯気の立つきんぴらごぼうと、玉響で炊いたつやつやのご飯を、大御所様の前に差し出した。
大御所様は、その素朴な一皿をじっと見つめ、そして、ふっと懐かしそうに目を細められた。

「……きんぴら、か。……儂がまだ、ほんの子供であった頃。城を抜け出しては、腹を空かせて駆け込んだ、足軽の長屋の飯を思い出すのう……」

その言葉に、私ははっとした。
まさか、大御所様が、そのような過去をお持ちだったとは。
大御所様は、ゆっくりと箸を取ると、きんぴらを一口、口に運ばれた。
しゃき、という心地よい歯触りが、静かな店内に響く。
そして、そのお顔が、驚きと、そして何よりも深い郷愁の色に染まっていく。

「……うまい。……ああ、うまいぞ、これ……。ごぼうの力強い香りと、ぴりりとした唐辛子の辛み。そして、この甘辛い味付け……。そうだ、この味じゃ。あの頃、腹を空かせた儂に、長屋のおかみさんが握ってくれた、きんぴらのおむすびの味じゃ……!」

大御所様の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
一杯のきんぴらごぼうが、この国の頂点に立つ方の、遠い日の温かい記憶を呼び覚ましたのだ。

私は、何も言わずに、ただ静かにその光景を見守っていた。
料理とは、時に何よりも雄弁に、人の心を語るものなのだ。
大御所様は、まるで少年に返ったかのように、夢中でご飯ときんぴらを交互に口に運んでおられた。
そのお姿は、もはやこの国の為政者ではなく、ただの、美味しいものを心から愛する一人の男の姿だった。

その夜のやわらぎ亭は、江戸で最も贅沢で、そして最も心温まる食卓となったに違いない。
お帰りになる際、大御所様は私の手をとり、力強くこう仰った。

「おし乃。そなたの料理は、まことに素晴らしい。儂は今日、そなたの一膳を通して、民の心の温かさに、改めて触れることができた。……礼を言うぞ」

「もったいのうございます」

「このご恩は、決して忘れぬ。近いうちに、必ずや礼をさせてもらうとしよう」

そう言い残し、大御所様は満足そうな笑顔で、夜の闇へと消えていかれた。
後に残されたのは、私と良太、そして、にわかには信じがたいほどの、大きな出来事の余韻だけだった。

それから数日後。
やわらぎ亭に、城からの使いがやってきた。
大御所様からの、お礼の品だという。
届けられたのは、大きな桐の箱が三つ。
私と良太が、恐る恐るその蓋を開けてみると……。
一つ目の箱には、この国の各地から取り寄せたという、最高級の米や豆、乾物などの食材が、ぎっしりと詰められていた。
二つ目の箱には、見事な輪島塗の椀や皿が、これもまた、何十客と納められている。
そして、三つ目の箱。
その中に入っていたものを見て、私と良太は、思わず息をのんだ。
そこには、一枚の、木の看板が静かに横たわっていた。
磨き上げられた欅の一枚板に、力強い、達筆な文字で、こう彫られている。

『日ノ本一』

そして、その下には、大御所様の花押が、くっきりと記されていたのだ。
「ひ、日ノ本一……!」
良太の声が、震えている。
私も、言葉を失って、ただその看板を見つめていた。
この国の頂点に立つお方から、これ以上ないほどの、栄誉を賜ってしまったのだ。

「……おし乃さん。……どうしましょう、これ……」

「……どう、するべきか……」

私は、腕を組み、しばらく考え込んだ。
この看板を、店の前に掲げるべきか、否か。
掲げれば、やわらぎ亭の名は、江戸中に、いや日ノ本中に轟くことになるだろう。
客は、これまで以上に押し寄せるに違いない。
けれど、それは、私が本当に望むことなのだろうか。
私が守りたいのは、大きな名声ではない。
この江戸の片隅で、一人一人のお客様と心を通わせる、ささやかで、温かいこの場所だ。
私は、意を決すると、良太に向き直った。

「良太。この看板は、掲げません」

「え……!?」

「この看板は、私たちの心の中にだけ、大切に掲げておきましょう。そして、この栄誉に恥じぬよう、これからもただひたすらに、心を込めた一膳を作り続けていく。……それが、大御所様のお心に、一番お応えすることになるはずですわ」

私の言葉に、良太はしばらくきょとんとしていたが、やがて、深く、深く頷いた。
その顔には、一点の曇りもない、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。

「はい! おし乃さん!」

こうして、やわらぎ亭の『日ノ本一』の看板は、店の奥の、誰の目にも触れぬ場所に、そっと仕舞われることになった。
けれど、その誇らしい輝きは、私と良太の胸の中で、いつまでも、いつまでも温かい光を放ち続けるのだった。
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