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江戸の町を襲った病の嵐が過ぎ去り、やわらぎ亭にはまたいつもの穏やかな日常が戻ってきた。
「やわらぎ粥」の伝説は江戸中の人々の心に温かい記憶として刻まれたが、私自身はそんな大層なことをしたつもりは毛頭ない。ただ目の前で苦しむ人々のために、料理人としてできることをした。それだけのことだ。
秋も終わりに近づき、冬の気配が感じられるようになったある日のこと。
店の暖簾を、一人の若者が少し緊張した面持ちでくぐってきた。
年の頃は二十歳そこそこだろうか。旅の途中なのか少し着古した着物を着ているが、その瞳は澄んでいて真面目そうな人柄が窺える。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」
私が声をかけると若者は深々と頭を下げ、店の隅の席にちょこんと座った。
「何か召し上がりますか? 今なら温かいけんちん汁がご用意できますが」
「……あ、いえ……。あの、わたくし食事をいただきに参ったのでは……」
若者はおずおずと口を開いた。
「実は……。こちらの女将様、おし乃様にお目にかかりたく参上つかまつりました」
「まあ私に? 何かご用件でしょうか」
「はい。……わたくし、公方様にお仕えする御典医の助手、橘蒼馬と申します」
公方様の御典医。
その思いがけない言葉に、私と隣で洗い物をしていた良太は思わず顔を見合わせた。
将軍様のお医者様が、わざわざこの江戸の片隅の飯屋に、一体何の用だろうか。
「実は……。先日江戸を襲った病の噂と、それを鎮めたという『やわらぎ粥』の話を、大御所様がお聞き及びになられまして」
「大御所様が……?」
にわかには信じがたい言葉に私は息をのんだ。
「はい。大御所様は民の苦しみを救ったその粥と、それを作ったという料理人に大変なご興味をお持ちなのでございます。そしてこう仰せになりました。『その者の真心、ぜひとも味わってみたい』と」
大御所様からの、お言葉。
私はあまりのことに、言葉を失ってしまった。
「そ、そのような……! 私のようなしがない町の飯屋の女将が、大御所様の御前に……!?」
「いえ、御前に、というわけではございません。大御所様は、お忍びでこのやわらぎ亭を訪れたいと仰せなのです。民と同じ場所で、民を救った粥を味わってみたいと」
橘蒼馬と名乗る若き医師は私に向かって、深々と頭を下げた。
その顔には羨望と、そしてほんの少しの嫉妬のような複雑な色が浮かんでいるように見えた。
あまりにも突然の、そしてあまりにも大きな話。
私の頭の中は真っ白になってしまった。
このやわらぎ亭に、大御所様が?
そんなこと考えたこともなかった。
「……おし乃さん……」
良太が不安そうな顔で私の袖を引く。
店の常連たちも固唾をのんで、ことの成り行きを見守っていた。
私はしばらくの間言葉もなく立ち尽くしていたが、やがて一つの決意が私の胸の中に固まっていった。
これは料理人として、これ以上ない誉れだ。そして父から受け継いだこの料理の心が、大御所様にまで届いたというのなら、そのお心に誠心誠意お応えするのが私の務めだ。
「……かしこまりました」
私は静かに、しかし凛とした声で答えた。
「大御所様からの御召とあらばお断りするわけにはまいりません。……このおし乃、謹んでお迎えいたします」
私のその言葉に橘蒼馬の顔がぱっと輝いた。
しかし店の常連たちからは、どよめきとそして心配そうな声が上がる。
「おし乃ちゃん、大丈夫かい!?」
「万が一、粗相でもあったら……!」
「大丈夫です皆さん」
私は不安そうな顔の常連たちに、にっこりと微笑みかけた。
「私には、私の心を継ぐ立派な料理人がおりますから」
そう言って私は隣に立つ良太の肩をぽんと叩いた。
良太は驚いたように私を見つめている。
「良太。その日は、あなたは私の右腕です。二人で力を合わせ、このやわらぎ亭の全てをかけて、大御所様をお迎えいたしましょう」
「お、おし乃さん……! 俺も、ご一緒に……!?」
「ええ。あなたがいなくては、やわらぎ亭の味は完成しませんわ。あなたはもう、私の自慢の一番弟子なのだから」
私の力強い言葉に、良太の瞳に熱いものがこみ上げてくるのがわかった。
彼は何度も何度も頷くと、やがて震える声でしかしはっきりと答えた。
「……はい! この良太、命に代えましてもお役目を果たしてご覧にいれます!」
その頼もしい返事に私は満足して頷いた。
こうして私たちの、そしてやわらぎ亭の、新たな挑戦が決まったのだった。
「やわらぎ粥」の伝説は江戸中の人々の心に温かい記憶として刻まれたが、私自身はそんな大層なことをしたつもりは毛頭ない。ただ目の前で苦しむ人々のために、料理人としてできることをした。それだけのことだ。
秋も終わりに近づき、冬の気配が感じられるようになったある日のこと。
店の暖簾を、一人の若者が少し緊張した面持ちでくぐってきた。
年の頃は二十歳そこそこだろうか。旅の途中なのか少し着古した着物を着ているが、その瞳は澄んでいて真面目そうな人柄が窺える。
「いらっしゃいませ。どうぞこちらへ」
私が声をかけると若者は深々と頭を下げ、店の隅の席にちょこんと座った。
「何か召し上がりますか? 今なら温かいけんちん汁がご用意できますが」
「……あ、いえ……。あの、わたくし食事をいただきに参ったのでは……」
若者はおずおずと口を開いた。
「実は……。こちらの女将様、おし乃様にお目にかかりたく参上つかまつりました」
「まあ私に? 何かご用件でしょうか」
「はい。……わたくし、公方様にお仕えする御典医の助手、橘蒼馬と申します」
公方様の御典医。
その思いがけない言葉に、私と隣で洗い物をしていた良太は思わず顔を見合わせた。
将軍様のお医者様が、わざわざこの江戸の片隅の飯屋に、一体何の用だろうか。
「実は……。先日江戸を襲った病の噂と、それを鎮めたという『やわらぎ粥』の話を、大御所様がお聞き及びになられまして」
「大御所様が……?」
にわかには信じがたい言葉に私は息をのんだ。
「はい。大御所様は民の苦しみを救ったその粥と、それを作ったという料理人に大変なご興味をお持ちなのでございます。そしてこう仰せになりました。『その者の真心、ぜひとも味わってみたい』と」
大御所様からの、お言葉。
私はあまりのことに、言葉を失ってしまった。
「そ、そのような……! 私のようなしがない町の飯屋の女将が、大御所様の御前に……!?」
「いえ、御前に、というわけではございません。大御所様は、お忍びでこのやわらぎ亭を訪れたいと仰せなのです。民と同じ場所で、民を救った粥を味わってみたいと」
橘蒼馬と名乗る若き医師は私に向かって、深々と頭を下げた。
その顔には羨望と、そしてほんの少しの嫉妬のような複雑な色が浮かんでいるように見えた。
あまりにも突然の、そしてあまりにも大きな話。
私の頭の中は真っ白になってしまった。
このやわらぎ亭に、大御所様が?
そんなこと考えたこともなかった。
「……おし乃さん……」
良太が不安そうな顔で私の袖を引く。
店の常連たちも固唾をのんで、ことの成り行きを見守っていた。
私はしばらくの間言葉もなく立ち尽くしていたが、やがて一つの決意が私の胸の中に固まっていった。
これは料理人として、これ以上ない誉れだ。そして父から受け継いだこの料理の心が、大御所様にまで届いたというのなら、そのお心に誠心誠意お応えするのが私の務めだ。
「……かしこまりました」
私は静かに、しかし凛とした声で答えた。
「大御所様からの御召とあらばお断りするわけにはまいりません。……このおし乃、謹んでお迎えいたします」
私のその言葉に橘蒼馬の顔がぱっと輝いた。
しかし店の常連たちからは、どよめきとそして心配そうな声が上がる。
「おし乃ちゃん、大丈夫かい!?」
「万が一、粗相でもあったら……!」
「大丈夫です皆さん」
私は不安そうな顔の常連たちに、にっこりと微笑みかけた。
「私には、私の心を継ぐ立派な料理人がおりますから」
そう言って私は隣に立つ良太の肩をぽんと叩いた。
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「良太。その日は、あなたは私の右腕です。二人で力を合わせ、このやわらぎ亭の全てをかけて、大御所様をお迎えいたしましょう」
「お、おし乃さん……! 俺も、ご一緒に……!?」
「ええ。あなたがいなくては、やわらぎ亭の味は完成しませんわ。あなたはもう、私の自慢の一番弟子なのだから」
私の力強い言葉に、良太の瞳に熱いものがこみ上げてくるのがわかった。
彼は何度も何度も頷くと、やがて震える声でしかしはっきりと答えた。
「……はい! この良太、命に代えましてもお役目を果たしてご覧にいれます!」
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