【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜

旅する書斎(☆ほしい)

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翌日。やわらぎ亭の炊き場には、朝から心地よい緊張感が漂っていた。
女流剣士、巴。彼女の心を解きほぐすための一膳。それは、私にとって料理人人生を賭けた大勝負と言っても過言ではなかった。

「良太。手伝ってくれるわね」

「はい、おし乃さん! 俺にできることなら、何でも!」

良太の力強い返事が、私の背中を押してくれる。
私がこの日のために選んだ食材は、もちろん「筍」だ。
しかし、季節はまだ春が始まったばかり。江戸の市場に出回る筍は、まだ細く、香りも弱い。これでは、巴の、そして亡き師匠の魂を揺さぶることはできない。

私は、八百屋の忠吉さんに無理を言って、特別な筍を用意してもらった。
それは、遥か南の、薩摩の国から早馬で届けられたばかりの「早掘りの孟宗竹」。
江戸の筍よりもずっと太く、そして土の香りが強く、生命力に満ち溢れている。
これならば、いける。

私はその筍を、丁寧に、そして大胆に調理していく。
まずは、米糠を入れた大鍋で、時間をかけてじっくりと下茹でをする。えぐみを完全に取り去り、筍本来の甘みと香りを最大限に引き出すためだ。
茹で上がった筍は、冷水にさらし、きゅっと身を引き締める。
そして、その穂先の、一番柔らかくて美味しい部分だけを、贅沢に使う。

合わせる若布も、ただのものではない。三陸の荒波にもまれて育った、肉厚で歯ごたえの良い、極上のものだ。
この二つの最高の食材を結びつけるのは、もちろん、やわらぎ亭の命である、一番出汁。
昆布と鰹節の旨味を極限まで引き出した、黄金色の澄んだ出汁。
味付けは、ごくごく薄味に。塩と、ほんの少しの薄口醤油だけ。
素材の持つ、生命力そのものを味わってもらうためだ。

土鍋に筍と若布を入れ、出汁を張る。
火にかけ、煮立つ直前で火を止める。
あとは、余熱でゆっくりと味を含ませていくだけ。
ふわりと立ち上る、春の息吹そのもののような、気品のある香り。
これぞ、私が作りたかった、最高の「若竹煮」だった。

約束の昼。
巴は、昨日と変わらぬ、氷のような表情で店にやってきた。

「……待たせたな」

「いいえ。ちょうど、できたところですわ」

私は、湯気の立つ若竹煮の入った椀を、巴の前に静かに置いた。
吸い口には、木の芽を一枚。
その、あまりにも素朴で、しかし完璧な一膳を、巴は無言で見つめている。

「……さあ、どうぞ。冷めないうちに」

促されるままに、巴はゆっくりと箸を取った。
そして、まずはその透き通った汁を、一口。
その瞬間。
彼女の身体が、びくりと震えた。
氷のようだったその表情に、亀裂が入る。

「……なんだ、この汁は……」

次に、筍を一口。
しゃくり、という心地よい歯触り。
その途端。
巴の大きな瞳から、堰を切ったように、涙が溢れ出した。

「……師匠……」

それは、心の底から絞り出すような、か細い声だった。

「……師匠……! これが……これが、あなたが最後に食べたがっていた、故郷の味……!」

彼女は、子供のようにわんわんと泣きじゃくりながら、それでも夢中で、若竹煮を口に運んでいく。
その一匙、一匙が、彼女の凍てついていた心を、ゆっくりと、温かく解かしていく。
それはもはや、悲しみや後悔の涙ではなかった。
忘れかけていた師匠の温もりを、そして、叶えてやれなかった最後の願いを、今、この一杯の若竹煮を通して、確かに感じ取っている。
そんな、安堵と感謝の涙だった。

私は、そんな彼女の姿を、ただ黙って、優しく見守っていた。
良太も、炊き場の隅で、もらい泣きをしている。

やがて、椀の中が綺麗に空になる頃。
巴の涙も、止まっていた。
その顔は、まるで憑き物が落ちたかのように、晴れやかで、そして穏やかだった。

「……女将殿」

巴は、すっくと立ち上がると、私に向かって深々と、それはもう床に額がつくほどに、頭を下げた。

「……礼を、言う。……私は、目が覚めた。……師匠が本当に望んでおられたのは、儂がただひたすらに強くなることではなかった。……儂が、幸せに、己の道を生きることだったのだと。……この若竹煮が、儂に思い出させてくれた」

その凛とした声。その真っ直ぐな瞳。
そこにはもう、過去に囚われた剣士の姿はなかった。
一人の、自立した女性としての、力強い覚悟と決意がみなぎっていた。

「……巴様。あなた様ならきっと、素晴らしい道を歩んでいかれることでしょう」

「うむ。……儂は、まだ旅を続ける。だが、この旅の目的は、もう変わった。師匠の教えを胸に、この剣で誰かを守れるような、そんな生き方を探したいと思う」

その言葉に、私はにっこりと微笑んで頷いた。

「……では、行ってくる。……今日の一膳の恩は、生涯忘れぬ」

巴は、晴れやかな笑顔で店を後にした。
その頼もしい後ろ姿を、私と良太は、いつまでも見送っていた。

店の窓から見える満開の桜が、風に吹かれてはらはらと舞い、まるで彼女の新たな門出を、祝福しているかのようだった。
一杯の若竹煮が、女剣士の心を救い、未来への道を照らし出してくれた。
料理の力とは、本当に不思議で、そして偉大なものだ。
やわらぎ亭に、また一つ、忘れられない物語が生まれた。
そんな春爛漫の、穏やかな昼下がりのことであった。

春が過ぎ、江戸の町に夏の気配が訪れる頃。
やわらぎ亭の日常は、相変わらずの賑わいを見せていた。

良太は、すっかり店の主戦力となり、今では昼の献立のいくつかを、彼に任せるようにもなっていた。
彼が作る「夏野菜の揚げ浸し」は、そのさっぱりとした味わいで、夏バテ気味の職人たちから絶大な人気を博している。

そんなある日のこと。
店の戸がからりと開き、一人の見慣れない、しかしどこかで見たことがあるような気がする、上品な身なりの女性が姿を現した。

年の頃は三十代後半だろうか。涼しげな絽の着物をしっとりと着こなし、その佇まいには、武家の奥方のような気品が漂っている。

「いらっしゃいませ」

私が声をかけると、女性は私を見て、ふわりと花の綻ぶような笑みを浮かべた。

「ご無沙汰しております、おし乃様」

その、涼やかで美しい声。
私は、はっとして記憶の糸をたぐり寄せた。

「まあ……! あなた様は、以前、若君様のお声がれを治すために、この店を訪ねてくださった……」

「はい。奥勤めの、時子と申します。その節は、本当にお世話になりました」

時子様。そうだ、確かそんなお名前だった。
若君様のために、良太の「甘露湯」と私の「金柑の蜂蜜漬け」を届けに来てくださった、あのお方だ。

「まあ、時子様。よくお越しくださいました。ささ、どうぞこちらへ。若君様は、その後お変わりなく?」

「はい。お陰様で、すっかりお健やかにお過ごしでございます。……それもこれも、おし乃様と良太様のおかげ。若君様も、常々感謝しておられました」

時子様は、そう言うと、少しだけ声を潜めた。

「実は……今日参りましたのは、他でもございません。その若君様が、また少し、お心を悩ませておられるご様子でして……」

その言葉に、私の背筋がぴんと伸びた。
あの聡明で、心優しい若君様が、また。

「……詳しく、お聞かせ願えますか?」

私は、時子様を店の奥の静かな席へと案内した。
良太も、心配そうな顔で、私たちの会話に耳を傾けている。
やわらぎ亭に、また新たな物語の風が、吹いてこようとしていた。
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