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蘭方医の玄斎先生が、西洋医学と日本の食の知恵を融合させた新しい医療の道を見出して以来、やわらぎ亭にはまた一つ、新たな縁が生まれていた。
先生は時折ふらりと店に立ち寄っては、薬草談義に花を咲かせたり、私の作る季節の料理に舌鼓を打ったりと、すっかり店の常連の一人となっていた。
江戸の町に長かった冬が終わりを告げ、梅の蕾がほころび、隅田川の水面にも春の柔らかな日差しがきらきらと反射し始める頃。やわらぎ亭の炊き場も、ふきのとうや菜の花といった春の息吹を感じさせる食材で賑わい始めていた。
「おし乃さん、この菜の花、見事なもんですねえ。おひたしにするのが楽しみです」
良太は、八百屋の忠吉さんが届けてくれたばかりの、つやつやとした緑の菜の花を手に取り、嬉しそうに目を輝かせている。
彼がこの店に来て、もう一年以上が経つ。だし巻き玉子を焼かせれば、今では私よりも手際が良いかもしれないと常連たちの間で評判になるほど、その腕は確かなものになっていた。
「ええ、本当に。おひたしも良いけれど、からし和えにして、ぴりりとさせるのもまた一興よ」
「なるほど! それも美味しそうです!」
そんな穏やかな会話を交わしながら、昼餉の支度に精を出していた、ある日のことだった。
店の暖簾を、少し変わった風体の二人組が威勢よくくぐってきた。
年の頃は二十代半ばだろうか。揃いの派でな柄の着物を着て、一人は三味線を抱え、もう一人は小さな鼓を手にしている。その陽気な佇まいは、どこかの寄席にでも出演している芸人なのだろうとすぐに察しがついた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
私が声をかけると、三味線を抱えた兄らしい方が、にかりと人の好さそうな笑みを浮かべた。
「へい、女将さん。噂に聞くやわらぎ亭は、ここで間違いねえかい?」
「ええ、さようでございます」
「よしきた! 俺たちは、ちとこの辺りで俄師なんぞをやってるもんでね。名を、福助、喜助の兄弟ってんだ。ひとつ、お見知りおきを!」
福助と名乗った兄がそう言うと、喜助と呼ばれた弟の方が、ひょいと面白い顔をして鼓をぽんと叩いた。その息の合った様子に、店の中にいた他の客たちから、くすくすと笑い声が漏れる。
「今日は、この店の美味い飯で景気づけに来たってわけよ! 何か、とびきり威勢のつくようなもんを頼むぜ!」
「かしこまりました。では、すぐに支度いたしますわ」
私はにこやかに応じ、炊き場へと向かった。
しかし、二人の陽気な笑顔の裏に、どこか晴れない曇りのようなものがあるのを、私は見逃さなかった。時折、ふとした瞬間に交わされる視線の中には、焦りと、そして互いへの苛立ちのようなものが、微かに見て取れたのだ。
私は、そんな二人のために特別な一膳を用意することにした。
主役は、今が旬の春キャベツと、駿河湾で獲れたばかりの桜海老。
まずは、春キャベツを柔らかく茹で、細かく刻む。そこに、すり鉢ですり潰した白身魚のすり身と、香ばしく煎った桜海老を混ぜ合わせ、塩と酒でほんの少しだけ味を調える。
これを、一口大に丸めて、ふわりと蒸し上げる。
出来上がったのは、雪のように白く、そして桜色が見え隠れする、美しい「春キャベツと桜海老のしんじょ」。
これを、丁寧に引いた一番出汁を張ったお椀にそっと浮かべ、吸い口に木の芽を一枚添える。
「さあ、お二人とも。お待たせいたしましたわ」
湯気の立つお椀を二人の前に置くと、その気品のある香りに、福助と喜助はほう、と感心したように息を漏らした。
「なんだい、こりゃあ。ずいぶんと上品なもんだな」
「まあ、まずは一口、お汁からどうぞ」
二人は、おずおずと椀を手に取り、その透き通った汁をすする。
その瞬間、二人の動きがぴたりと止まった。
「……なんだ、この汁は……」
「うめえ……。ただの澄まし汁じゃねえ。口に入れた瞬間、身体中にじんわりと、優しい味が染み渡っていくようだ……」
次に、ふわふわのしんじょを、蓮華ですくって口に運ぶ。
その途端、二人の目が驚きに大きく見開かれた。
「こ、この白いやつ! ふわっふわだ! まるで雲を食ってるみてえだぜ!」
「本当だ! それに、このキャベツの甘みと、桜海老の香ばしさがたまらねえ! こんなに美味いもん、食ったことねえや!」
二人は、まるで子供のようにはしゃぎながら、夢中でしんじょ椀を平らげていく。
その顔には、店に来た時の妙な強がりや苛立ちは、もうどこにもなかった。
やがて、椀の底が見える頃。
兄の福助が、ぽつりと呟いた。
「……なあ、喜助」
「……なんだい、兄貴」
「俺たち、忘れちまってたのかもしれねえな。一番、大切なことをよ」
福助は、空になったお椀をじっと見つめながら、静かに語り始めた。
二人は最近、どうにも芸がうまくいかず、スランプに陥っていたのだという。
観客の笑い声も少なくなり、自信を失いかけていた。
「俺は、焦ってたんだ。もっと派手で、新しい芸をやらなきゃ、江戸の客には飽きられちまうってな。だから、お前に無理ばかり言っちまった」
「俺の方こそ、すまなかった、兄貴。俺は、昔ながらの俺たちの芸にこだわりすぎて、兄貴の言うことに耳を貸そうとしなかった。……だから、いつも喧嘩ばかり……」
互いに俯いてしまう、兄弟。
私は、そんな二人の前に、新しいお茶をそっと差し出した。
「お二人とも」
「……女将さん」
「どんなに見事な芸でも、それを支える『基礎』がしっかりしていなければ、人の心には届きませぬ。このお椀も、同じこと。丁寧に引いた一番出汁という、揺るぎない基礎があるからこそ、春キャベツや桜海老といった『華』が、見事に生きるのですわ」
私の静かな言葉に、二人ははっとしたように顔を上げた。
「俺たちの、基礎……」
「ええ。お二人がこれまで、二人で力を合わせて築き上げてきた、その絆と、芸の心。それこそが、何物にも代えがたい、お二人の『一番出汁』なのではございませんか?」
私の言葉は、二人の胸に深く、深く染み渡ったようだった。
彼らはしばらくの間、言葉もなく互いの顔を見つめていたが、やがて、どちらからともなく、ふっと笑い出した。
「……そうか。そうだよな! 俺たち、何やってたんだろうな!」
「はっはっは! まったくだぜ! こんな美味いしんじょ椀を食ったら、目が覚めたわい!」
吹っ切れたような、晴れやかな笑顔。
二人の間にはもう、わだかまりはなかった。
「女将さん! ありがとうよ! あんたのおかげで、俺たちはもう一度、やり直せそうだ!」
「俺たちの『一番出汁』の上に、とびっきりの『華』を咲かせてみせるぜ!」
そう言って力強く立ち上がった二人の背中は、店に来た時とは比べ物にならないほど、大きく、そして頼もしく見えた。
一杯のお椀が、兄弟芸人の絆と芸の心を、再び固く結びつけてくれたのだ。
やわらぎ亭に、また一つ、温かい物語が生まれた瞬間だった。
それから数日後。
やわらぎ亭に、すっかり自信を取り戻した福助と喜助が、満面の笑みでやってきた。
「女将さん! 聞いてくれよ! 俺たちの俄、この間の寄席で大うけだったんだぜ!」
「お客さんたちが、腹を抱えて笑ってくれてよ。あんなに気持ち良かったのは、久しぶりだ!」
二人は、自分のことのように喜びながら、その時の様子を語ってくれた。
私も、自分のことのように嬉しく、心から二人を祝福した。
「これもみんな、おし乃さんのあのお椀のおかげだ。礼と言っちゃあ何だが、これ、受け取ってくれ」
そう言って二人が差し出したのは、次の寄席の木戸札だった。
「俺たちの、今の精一杯の芸だ。ぜひ、見に来ておくんなさい」
「まあ、ご丁寧に。……はい、喜んで。必ず、伺わせていただきますわ」
私は、その木戸札を大切に受け取った。
彼らの芸を見るのが、今から楽しみでならなかった。
春爛漫の江戸。隅田川の桜も満開となり、町は花見客で賑わっていた。
やわらぎ亭も、花見弁当の注文で大忙しの日々を送っていた。
良太もすっかり頼もしくなり、今では弁当の仕込みのほとんどを、彼に任せられるようになっていた。
そんなある日の昼下がり。
店の賑わいが一段落した頃、暖簾をくぐって、一人の見慣れない女性が姿を現した。
年の頃は二十代後半だろうか。男物の着流しを粋に着こなし、腰には大小の刀を差している。日に焼けた肌に、短く結った髪。その佇まいは、そこらの侍よりもずっと凛々しく、そして力強い。
しかし、その鋭い瞳の奥には、深い悲しみの色が、氷のように凍りついているのを、私は見逃さなかった。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、女性は私をじろりと一瞥し、店の隅の席にどかりと腰を下ろした。
「酒だ。それと、何か腹にたまるものを」
短く、そして低い声。
私は静かに頷き、彼女のために昼餉の支度を始めた。
炊きたての白いご飯に、焼き魚、そして具沢山の味噌汁。
ありふれた定食だが、心を込めて作った。
女性は、それを無言で、そして驚くほどの速さで平らげていく。その食べ方は、味わうというよりも、ただ空腹を満たすための作業のようだった。
食事を終えると、彼女は勘定を済ませ、一言も発さずに店を出て行こうとした。
「お客様」
私は、思わず彼女を呼び止めていた。
「はい?」
「失礼ながら、何かお探しものでも?」
私の言葉に、女性はぴたりと足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
その目は、まるで鞘から抜かれた刃のように、鋭く光っていた。
「……なぜ、そう思う」
「あなた様からは、ただならぬ気配がいたします。それは、何かを渇望し、追い求める者の気配。……もし、私でお役に立てることがございましたら」
女性はしばらくの間、私を値踏みするような目で見ていたが、やがて、ふっと息を吐くと、自嘲するように笑った。
「……面白い女だ。ただの飯屋の女将ではないな。……いかにも。私は、探している。私よりも、強い者を」
彼女は、巴と名乗った。
諸国を旅する、腕利きの女流剣士。
彼女は、今は亡き師匠を超えるために、そして、師匠の最後の願いを叶えられなかった己を許すために、ただひたすらに強さを求め、終わりのない武者修行の旅を続けているのだという。
「師匠は、病で亡くなる直前、故郷の筍を使った若竹煮が食べたい、とそう仰った。だが、折悪しく季節は冬。私は、師匠にそれを食べさせてやることができなかった。……その心残りが、私をこの旅へと駆り立てるのだ」
その瞳の奥にある、深い悲しみと後悔。
私は、彼女の心を救いたいと、強く思った。
「……巴様」
私は、意を決して口を開いた。
「明日、もう一度、こちらにお越しいただけませんか。私が、あなた様のその凍てついた心を溶かす、最高の一膳をご用意いたしますわ」
私の真っ直ぐな言葉に、巴は少し驚いたように眉を上げたが、やがて、ふんと鼻を鳴らした。
「……よかろう。そこまで言うのなら、その腕前、見せてもらおうではないか」
そう言い残し、巴は風のように去っていった。
先生は時折ふらりと店に立ち寄っては、薬草談義に花を咲かせたり、私の作る季節の料理に舌鼓を打ったりと、すっかり店の常連の一人となっていた。
江戸の町に長かった冬が終わりを告げ、梅の蕾がほころび、隅田川の水面にも春の柔らかな日差しがきらきらと反射し始める頃。やわらぎ亭の炊き場も、ふきのとうや菜の花といった春の息吹を感じさせる食材で賑わい始めていた。
「おし乃さん、この菜の花、見事なもんですねえ。おひたしにするのが楽しみです」
良太は、八百屋の忠吉さんが届けてくれたばかりの、つやつやとした緑の菜の花を手に取り、嬉しそうに目を輝かせている。
彼がこの店に来て、もう一年以上が経つ。だし巻き玉子を焼かせれば、今では私よりも手際が良いかもしれないと常連たちの間で評判になるほど、その腕は確かなものになっていた。
「ええ、本当に。おひたしも良いけれど、からし和えにして、ぴりりとさせるのもまた一興よ」
「なるほど! それも美味しそうです!」
そんな穏やかな会話を交わしながら、昼餉の支度に精を出していた、ある日のことだった。
店の暖簾を、少し変わった風体の二人組が威勢よくくぐってきた。
年の頃は二十代半ばだろうか。揃いの派でな柄の着物を着て、一人は三味線を抱え、もう一人は小さな鼓を手にしている。その陽気な佇まいは、どこかの寄席にでも出演している芸人なのだろうとすぐに察しがついた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
私が声をかけると、三味線を抱えた兄らしい方が、にかりと人の好さそうな笑みを浮かべた。
「へい、女将さん。噂に聞くやわらぎ亭は、ここで間違いねえかい?」
「ええ、さようでございます」
「よしきた! 俺たちは、ちとこの辺りで俄師なんぞをやってるもんでね。名を、福助、喜助の兄弟ってんだ。ひとつ、お見知りおきを!」
福助と名乗った兄がそう言うと、喜助と呼ばれた弟の方が、ひょいと面白い顔をして鼓をぽんと叩いた。その息の合った様子に、店の中にいた他の客たちから、くすくすと笑い声が漏れる。
「今日は、この店の美味い飯で景気づけに来たってわけよ! 何か、とびきり威勢のつくようなもんを頼むぜ!」
「かしこまりました。では、すぐに支度いたしますわ」
私はにこやかに応じ、炊き場へと向かった。
しかし、二人の陽気な笑顔の裏に、どこか晴れない曇りのようなものがあるのを、私は見逃さなかった。時折、ふとした瞬間に交わされる視線の中には、焦りと、そして互いへの苛立ちのようなものが、微かに見て取れたのだ。
私は、そんな二人のために特別な一膳を用意することにした。
主役は、今が旬の春キャベツと、駿河湾で獲れたばかりの桜海老。
まずは、春キャベツを柔らかく茹で、細かく刻む。そこに、すり鉢ですり潰した白身魚のすり身と、香ばしく煎った桜海老を混ぜ合わせ、塩と酒でほんの少しだけ味を調える。
これを、一口大に丸めて、ふわりと蒸し上げる。
出来上がったのは、雪のように白く、そして桜色が見え隠れする、美しい「春キャベツと桜海老のしんじょ」。
これを、丁寧に引いた一番出汁を張ったお椀にそっと浮かべ、吸い口に木の芽を一枚添える。
「さあ、お二人とも。お待たせいたしましたわ」
湯気の立つお椀を二人の前に置くと、その気品のある香りに、福助と喜助はほう、と感心したように息を漏らした。
「なんだい、こりゃあ。ずいぶんと上品なもんだな」
「まあ、まずは一口、お汁からどうぞ」
二人は、おずおずと椀を手に取り、その透き通った汁をすする。
その瞬間、二人の動きがぴたりと止まった。
「……なんだ、この汁は……」
「うめえ……。ただの澄まし汁じゃねえ。口に入れた瞬間、身体中にじんわりと、優しい味が染み渡っていくようだ……」
次に、ふわふわのしんじょを、蓮華ですくって口に運ぶ。
その途端、二人の目が驚きに大きく見開かれた。
「こ、この白いやつ! ふわっふわだ! まるで雲を食ってるみてえだぜ!」
「本当だ! それに、このキャベツの甘みと、桜海老の香ばしさがたまらねえ! こんなに美味いもん、食ったことねえや!」
二人は、まるで子供のようにはしゃぎながら、夢中でしんじょ椀を平らげていく。
その顔には、店に来た時の妙な強がりや苛立ちは、もうどこにもなかった。
やがて、椀の底が見える頃。
兄の福助が、ぽつりと呟いた。
「……なあ、喜助」
「……なんだい、兄貴」
「俺たち、忘れちまってたのかもしれねえな。一番、大切なことをよ」
福助は、空になったお椀をじっと見つめながら、静かに語り始めた。
二人は最近、どうにも芸がうまくいかず、スランプに陥っていたのだという。
観客の笑い声も少なくなり、自信を失いかけていた。
「俺は、焦ってたんだ。もっと派手で、新しい芸をやらなきゃ、江戸の客には飽きられちまうってな。だから、お前に無理ばかり言っちまった」
「俺の方こそ、すまなかった、兄貴。俺は、昔ながらの俺たちの芸にこだわりすぎて、兄貴の言うことに耳を貸そうとしなかった。……だから、いつも喧嘩ばかり……」
互いに俯いてしまう、兄弟。
私は、そんな二人の前に、新しいお茶をそっと差し出した。
「お二人とも」
「……女将さん」
「どんなに見事な芸でも、それを支える『基礎』がしっかりしていなければ、人の心には届きませぬ。このお椀も、同じこと。丁寧に引いた一番出汁という、揺るぎない基礎があるからこそ、春キャベツや桜海老といった『華』が、見事に生きるのですわ」
私の静かな言葉に、二人ははっとしたように顔を上げた。
「俺たちの、基礎……」
「ええ。お二人がこれまで、二人で力を合わせて築き上げてきた、その絆と、芸の心。それこそが、何物にも代えがたい、お二人の『一番出汁』なのではございませんか?」
私の言葉は、二人の胸に深く、深く染み渡ったようだった。
彼らはしばらくの間、言葉もなく互いの顔を見つめていたが、やがて、どちらからともなく、ふっと笑い出した。
「……そうか。そうだよな! 俺たち、何やってたんだろうな!」
「はっはっは! まったくだぜ! こんな美味いしんじょ椀を食ったら、目が覚めたわい!」
吹っ切れたような、晴れやかな笑顔。
二人の間にはもう、わだかまりはなかった。
「女将さん! ありがとうよ! あんたのおかげで、俺たちはもう一度、やり直せそうだ!」
「俺たちの『一番出汁』の上に、とびっきりの『華』を咲かせてみせるぜ!」
そう言って力強く立ち上がった二人の背中は、店に来た時とは比べ物にならないほど、大きく、そして頼もしく見えた。
一杯のお椀が、兄弟芸人の絆と芸の心を、再び固く結びつけてくれたのだ。
やわらぎ亭に、また一つ、温かい物語が生まれた瞬間だった。
それから数日後。
やわらぎ亭に、すっかり自信を取り戻した福助と喜助が、満面の笑みでやってきた。
「女将さん! 聞いてくれよ! 俺たちの俄、この間の寄席で大うけだったんだぜ!」
「お客さんたちが、腹を抱えて笑ってくれてよ。あんなに気持ち良かったのは、久しぶりだ!」
二人は、自分のことのように喜びながら、その時の様子を語ってくれた。
私も、自分のことのように嬉しく、心から二人を祝福した。
「これもみんな、おし乃さんのあのお椀のおかげだ。礼と言っちゃあ何だが、これ、受け取ってくれ」
そう言って二人が差し出したのは、次の寄席の木戸札だった。
「俺たちの、今の精一杯の芸だ。ぜひ、見に来ておくんなさい」
「まあ、ご丁寧に。……はい、喜んで。必ず、伺わせていただきますわ」
私は、その木戸札を大切に受け取った。
彼らの芸を見るのが、今から楽しみでならなかった。
春爛漫の江戸。隅田川の桜も満開となり、町は花見客で賑わっていた。
やわらぎ亭も、花見弁当の注文で大忙しの日々を送っていた。
良太もすっかり頼もしくなり、今では弁当の仕込みのほとんどを、彼に任せられるようになっていた。
そんなある日の昼下がり。
店の賑わいが一段落した頃、暖簾をくぐって、一人の見慣れない女性が姿を現した。
年の頃は二十代後半だろうか。男物の着流しを粋に着こなし、腰には大小の刀を差している。日に焼けた肌に、短く結った髪。その佇まいは、そこらの侍よりもずっと凛々しく、そして力強い。
しかし、その鋭い瞳の奥には、深い悲しみの色が、氷のように凍りついているのを、私は見逃さなかった。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、女性は私をじろりと一瞥し、店の隅の席にどかりと腰を下ろした。
「酒だ。それと、何か腹にたまるものを」
短く、そして低い声。
私は静かに頷き、彼女のために昼餉の支度を始めた。
炊きたての白いご飯に、焼き魚、そして具沢山の味噌汁。
ありふれた定食だが、心を込めて作った。
女性は、それを無言で、そして驚くほどの速さで平らげていく。その食べ方は、味わうというよりも、ただ空腹を満たすための作業のようだった。
食事を終えると、彼女は勘定を済ませ、一言も発さずに店を出て行こうとした。
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私は、思わず彼女を呼び止めていた。
「はい?」
「失礼ながら、何かお探しものでも?」
私の言葉に、女性はぴたりと足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
その目は、まるで鞘から抜かれた刃のように、鋭く光っていた。
「……なぜ、そう思う」
「あなた様からは、ただならぬ気配がいたします。それは、何かを渇望し、追い求める者の気配。……もし、私でお役に立てることがございましたら」
女性はしばらくの間、私を値踏みするような目で見ていたが、やがて、ふっと息を吐くと、自嘲するように笑った。
「……面白い女だ。ただの飯屋の女将ではないな。……いかにも。私は、探している。私よりも、強い者を」
彼女は、巴と名乗った。
諸国を旅する、腕利きの女流剣士。
彼女は、今は亡き師匠を超えるために、そして、師匠の最後の願いを叶えられなかった己を許すために、ただひたすらに強さを求め、終わりのない武者修行の旅を続けているのだという。
「師匠は、病で亡くなる直前、故郷の筍を使った若竹煮が食べたい、とそう仰った。だが、折悪しく季節は冬。私は、師匠にそれを食べさせてやることができなかった。……その心残りが、私をこの旅へと駆り立てるのだ」
その瞳の奥にある、深い悲しみと後悔。
私は、彼女の心を救いたいと、強く思った。
「……巴様」
私は、意を決して口を開いた。
「明日、もう一度、こちらにお越しいただけませんか。私が、あなた様のその凍てついた心を溶かす、最高の一膳をご用意いたしますわ」
私の真っ直ぐな言葉に、巴は少し驚いたように眉を上げたが、やがて、ふんと鼻を鳴らした。
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