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夏が過ぎ、江戸の町に秋の気配が訪れると、やわらぎ亭の周りでも金木犀が甘くどこか切ない香りを漂わせ始めた。炊き場の食材も、きのこや根菜、そして脂の乗った秋刀魚といった、秋ならではの味覚で賑わいを見せるようになる。
良太は今や私の片腕として、なくてはならない存在となっていた。私が若君様のお料理にかかりきりだった間も、彼が一人で店の味を立派に守ってくれたおかげで、常連客たちからの信頼もますます厚くなっている。
そんな穏やかな秋の日が続く、ある日のことだった。
店の隅の席で一人の初老の男性が、毎日同じ時間にやってきては難しい顔で書物を睨み、深いため息をついているのが私の気にかかっていた。
年の頃は六十を過ぎているだろうか。身なりは質素だがその眼光は鋭く、いかにも学者といった風情だ。
名を、荻生宗助というらしい。
近所でも有名な気難しい歴史学者で、今は長年取り組んでいるという古代史に関する書物の執筆に行き詰まっているのだと、常連客たちがこっそり教えてくれた。
「先生、また根を詰めてるな。あんなんじゃ、身体を壊しちまうぜ」
「違えねえ。おし乃さん、何か美味いもんでも食わせて、先生の固い頭をほぐしてやってくれよ」
弥之助さんたちが、心配そうに囁き合う。
私も同じ気持ちだった。宗助先生は店に来ても食事はいつも上の空。せっかくの料理も、ただ腹に入れるためだけの作業のようで、味など少しも感じていないご様子。
これでは料理人として黙って見ているわけにはいかない。
私は意を決すると、宗助先生のために特別な一品を用意することにした。
彼の凝り固まった頭と心をぴりりと刺激し、解きほぐすような、そんな一皿を。
私が選んだのは、今が旬の「秋刀魚の有馬煮」だった。
新鮮で脂の乗った秋刀魚を大きな筒切りにする。これを醤油、みりん、酒、そしてたっぷりの実山椒と共に、圧力のかかる厚手の鍋で骨まで柔らかくなるまで、ことことと時間をかけて煮込んでいく。
山椒はただの山椒ではない。紀州で採れた、特別に香りが高く痺れるような辛味を持つ「ぶどう山椒」だ。
やがて、炊き場には甘辛い香りと山椒の爽やかで鮮烈な香りが満ち満ちていく。
その香ばしい匂いに、店の中にいた他の客たちもごくりと喉を鳴らしていた。
私は炊きたての玉響のご飯を丼によそい、その上にこっくりと飴色に煮上がった秋刀魚の有馬煮をごろりと乗せた。仕上げに、追い討ちをかけるように粉山椒をぱらりと振りかける。
「宗助先生。お待たせいたしましたわ」
私はその丼を宗助先生の前に、ことりと置いた。
先生はいつも通り書物から顔も上げずに、面倒くさそうに箸を取る。
そして、その秋刀魚を一口、無造作に口に放り込んだ。
その瞬間。
宗助先生の動きが、ぴたりと止まった。
険しい顔つきが、驚愕の色に変わる。
「……む! こ、これは……!」
彼は信じられないといった顔で、丼の中の秋刀魚を見つめている。
そしてもう一口、今度は確かめるようにじっくりと味わう。
「な、なんだ、この味は……! 秋刀魚の濃厚な旨味とこの甘辛い味付けもさることながら……。この、舌が痺れるような鮮烈な山椒の刺激は……! 眠っていた頭が、しゃっきりと覚醒するようだ……!」
宗助先生は我を忘れたように、夢中で有馬煮とご飯をかき込んでいく。
その食べっぷりは、いつもの彼とはまるで別人のようだった。
ぴりりとした山椒の刺激が、彼の凝り固まっていた思考回路に新たな風穴を開けてくれたのだろう。
やがて丼が空になる頃。
宗助先生の顔には、これまでに見たこともないような晴れやかな輝きが宿っていた。
彼は何か大きな発見をしたかのように、目をきらきらと輝かせている。
「……そうだ。……そうだったのか……!」
彼は何かをぶつぶつと呟きながら、目の前の書物をこれまでとは全く違う、新しい視点で読み解き始めた。
その手は、まるで何かに導かれるようにすらすらと筆を走らせていく。
今までどうしても解けなかった、古代史の大きな謎。
それが今、この一杯の秋刀魚の有馬煮をきっかけに、面白いように解き明かされようとしていた。
「……見えたぞ! 見えたぞ、おし乃殿! 長年の謎がようやく解けたわい!」
宗助先生は子供のようにはしゃぎながら、私に向かって叫んだ。
その顔は喜びと興奮で、真っ赤になっている。
私はそんな彼の姿を、ただ微笑ましく見守っていた。
一杯の料理が、一人の学者の人生を賭けた研究を大きく前進させたのだ。
料理人として、これ以上の喜びはない。
数日後。
宗助先生が、晴れやかな顔でやわらぎ亭にお礼を言いに来てくださった。
「おし乃殿。この度はまことに世話になった。君のあの一皿がなければ、儂の研究は永遠に完成しなかったやもしれん」
「とんでもないことでございます。私など、何も」
「いや。これは儂からの心ばかりの礼じゃ。受け取ってくれ」
そう言って先生が差し出したのは、彼が長年の研究の末に完成させたという、新しい歴史書の一番初めの巻だった。
その真新しい本の見返しには、達筆な文字でこう記されていた。
『やわらぎ亭の賢女、おし乃殿に、心からの感謝と敬意を込めて』
その、あまりにもったいない言葉。
私は少し顔が熱くなるのを感じながらも、その本を大切に、大切に受け取った。
やわらぎ亭にまた一つ、かけがえのない宝物が加わった瞬間だった。
秋の夜長。
私は宗助先生から頂いたその本を、良太と一緒に囲炉裏の火のそばで、ゆっくりと読み解いていた。
そこには私たちの知らない、遠い昔のこの国の物語が生き生きと綴られている。
「歴史の謎も、料理の極意も案外似たようなものかもしれんな」
宗助先生が帰り際にぽつりと言った言葉を、私は思い出していた。
そうだ、きっとそうなのだ。
どちらも過去から受け継がれてきた人々の想いを丁寧に、そして敬意を持って読み解き、未来へと繋げていく尊い仕事なのだから。
そんなことを考えながら、私はまた明日作る料理の献立に思いを馳せるのだった。
良太は今や私の片腕として、なくてはならない存在となっていた。私が若君様のお料理にかかりきりだった間も、彼が一人で店の味を立派に守ってくれたおかげで、常連客たちからの信頼もますます厚くなっている。
そんな穏やかな秋の日が続く、ある日のことだった。
店の隅の席で一人の初老の男性が、毎日同じ時間にやってきては難しい顔で書物を睨み、深いため息をついているのが私の気にかかっていた。
年の頃は六十を過ぎているだろうか。身なりは質素だがその眼光は鋭く、いかにも学者といった風情だ。
名を、荻生宗助というらしい。
近所でも有名な気難しい歴史学者で、今は長年取り組んでいるという古代史に関する書物の執筆に行き詰まっているのだと、常連客たちがこっそり教えてくれた。
「先生、また根を詰めてるな。あんなんじゃ、身体を壊しちまうぜ」
「違えねえ。おし乃さん、何か美味いもんでも食わせて、先生の固い頭をほぐしてやってくれよ」
弥之助さんたちが、心配そうに囁き合う。
私も同じ気持ちだった。宗助先生は店に来ても食事はいつも上の空。せっかくの料理も、ただ腹に入れるためだけの作業のようで、味など少しも感じていないご様子。
これでは料理人として黙って見ているわけにはいかない。
私は意を決すると、宗助先生のために特別な一品を用意することにした。
彼の凝り固まった頭と心をぴりりと刺激し、解きほぐすような、そんな一皿を。
私が選んだのは、今が旬の「秋刀魚の有馬煮」だった。
新鮮で脂の乗った秋刀魚を大きな筒切りにする。これを醤油、みりん、酒、そしてたっぷりの実山椒と共に、圧力のかかる厚手の鍋で骨まで柔らかくなるまで、ことことと時間をかけて煮込んでいく。
山椒はただの山椒ではない。紀州で採れた、特別に香りが高く痺れるような辛味を持つ「ぶどう山椒」だ。
やがて、炊き場には甘辛い香りと山椒の爽やかで鮮烈な香りが満ち満ちていく。
その香ばしい匂いに、店の中にいた他の客たちもごくりと喉を鳴らしていた。
私は炊きたての玉響のご飯を丼によそい、その上にこっくりと飴色に煮上がった秋刀魚の有馬煮をごろりと乗せた。仕上げに、追い討ちをかけるように粉山椒をぱらりと振りかける。
「宗助先生。お待たせいたしましたわ」
私はその丼を宗助先生の前に、ことりと置いた。
先生はいつも通り書物から顔も上げずに、面倒くさそうに箸を取る。
そして、その秋刀魚を一口、無造作に口に放り込んだ。
その瞬間。
宗助先生の動きが、ぴたりと止まった。
険しい顔つきが、驚愕の色に変わる。
「……む! こ、これは……!」
彼は信じられないといった顔で、丼の中の秋刀魚を見つめている。
そしてもう一口、今度は確かめるようにじっくりと味わう。
「な、なんだ、この味は……! 秋刀魚の濃厚な旨味とこの甘辛い味付けもさることながら……。この、舌が痺れるような鮮烈な山椒の刺激は……! 眠っていた頭が、しゃっきりと覚醒するようだ……!」
宗助先生は我を忘れたように、夢中で有馬煮とご飯をかき込んでいく。
その食べっぷりは、いつもの彼とはまるで別人のようだった。
ぴりりとした山椒の刺激が、彼の凝り固まっていた思考回路に新たな風穴を開けてくれたのだろう。
やがて丼が空になる頃。
宗助先生の顔には、これまでに見たこともないような晴れやかな輝きが宿っていた。
彼は何か大きな発見をしたかのように、目をきらきらと輝かせている。
「……そうだ。……そうだったのか……!」
彼は何かをぶつぶつと呟きながら、目の前の書物をこれまでとは全く違う、新しい視点で読み解き始めた。
その手は、まるで何かに導かれるようにすらすらと筆を走らせていく。
今までどうしても解けなかった、古代史の大きな謎。
それが今、この一杯の秋刀魚の有馬煮をきっかけに、面白いように解き明かされようとしていた。
「……見えたぞ! 見えたぞ、おし乃殿! 長年の謎がようやく解けたわい!」
宗助先生は子供のようにはしゃぎながら、私に向かって叫んだ。
その顔は喜びと興奮で、真っ赤になっている。
私はそんな彼の姿を、ただ微笑ましく見守っていた。
一杯の料理が、一人の学者の人生を賭けた研究を大きく前進させたのだ。
料理人として、これ以上の喜びはない。
数日後。
宗助先生が、晴れやかな顔でやわらぎ亭にお礼を言いに来てくださった。
「おし乃殿。この度はまことに世話になった。君のあの一皿がなければ、儂の研究は永遠に完成しなかったやもしれん」
「とんでもないことでございます。私など、何も」
「いや。これは儂からの心ばかりの礼じゃ。受け取ってくれ」
そう言って先生が差し出したのは、彼が長年の研究の末に完成させたという、新しい歴史書の一番初めの巻だった。
その真新しい本の見返しには、達筆な文字でこう記されていた。
『やわらぎ亭の賢女、おし乃殿に、心からの感謝と敬意を込めて』
その、あまりにもったいない言葉。
私は少し顔が熱くなるのを感じながらも、その本を大切に、大切に受け取った。
やわらぎ亭にまた一つ、かけがえのない宝物が加わった瞬間だった。
秋の夜長。
私は宗助先生から頂いたその本を、良太と一緒に囲炉裏の火のそばで、ゆっくりと読み解いていた。
そこには私たちの知らない、遠い昔のこの国の物語が生き生きと綴られている。
「歴史の謎も、料理の極意も案外似たようなものかもしれんな」
宗助先生が帰り際にぽつりと言った言葉を、私は思い出していた。
そうだ、きっとそうなのだ。
どちらも過去から受け継がれてきた人々の想いを丁寧に、そして敬意を持って読み解き、未来へと繋げていく尊い仕事なのだから。
そんなことを考えながら、私はまた明日作る料理の献立に思いを馳せるのだった。
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