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歴史学者である荻生宗助先生が、長年の研究を成就させてより、やわらぎ亭にはまた穏やかな時間が流れていた。秋の日は釣瓶落とし。陽が落ちるのが早くなり、夕暮れ時には店の暖簾をくぐる客たちの吐く息も、白く色づくようになった。
炊き場の竈から立ち上る湯気が、ひときわ温かく感じられる。私と良太は、いつものように夜の支度に精を出していた。
「おし乃さん、この里芋、見事なもんですねえ。煮っころがしにするのが楽しみです」
良太が籠に山と盛られた里芋を眺めながら、感嘆の声を上げた。その顔は、極上の食材を前にした料理人としての喜びに輝いている。八百屋の忠吉さんが、今朝一番で届けてくれた土の香りがする逸品だ。
「ええ、本当に。人の頭ほどもある聖護院蕪も良いけれど、こういう素朴な芋こそ、人の心を温めるのかもしれないわね」
そんな穏やかな会話を交わしていた、ある日のことだった。やわらぎ亭の真向かい、しばらく空き店舗になっていた貸家が、にわかに活気づいたのだ。数日前から職人が出入りし、何やら新しい店ができるらしいと、町の噂になっていた。
「よう、おし乃さん! 見たかい、向かいの店!」
威勢のいい声と共に店に飛び込んできたのは、火消しの弥之助だった。彼は自分のことのように興奮している。
「なんでも、京で修行したっていう、若い料理人が腕を振るうらしいぜ。そりゃあもう、小綺麗な店構えでよ。俺たちみたいな野郎が気軽に入れる雰囲気じゃねえかもしれねえな」
弥之助に続いてやってきた忠吉さんも、興味深そうに向かいの店を眺めている。
「店の前に品書きが出てたが、なんだか難しい名前の料理ばかりだったなあ。『すずきのあらい、きもじょうゆじたて』? それに『かもとくじょうねぎのこなべだて』だとよ。一体、どんな味なんだろうな」
その日の夕方、やわらぎ亭の真向かいに、新しい暖簾が静かに掲げられた。
店の名は、『風のま』。
白木の格子戸に、藍色の真新しい暖簾。これまでの深川にはなかった、洗練された佇まいだった。
「深川が賑やかになるのは、良いことですわ」
私は静かにそう微笑んだが、私の隣でその光景を見ていた良太の表情が、少しだけ強張っているのを、私は見逃さなかった。
新しい店『風のま』は、あっという間に江戸の食通たちの間で評判となった。
店の主である剣心という若い料理人の腕前は確からしく、その美しく、そして斬新な料理は、新しいもの好きの江戸の人々の心を掴んだようだった。
やわらぎ亭の客足が、目に見えて減ったわけではない。有り難いことに、うちの店はうちの店で、変わらず多くの常連さんたちで賑わっていた。
けれど、良太の心は晴れないようだった。
これまでやわらぎ亭を訪れていた若い衆や、少しばかり粋な身なりの商人たちが、連れ立って『風のま』の暖簾をくぐっていく。その光景を目にするたびに、彼は炊き場の隅で、きゅっと唇を結んでいた。
「おし乃さん。……なんだか、悔しいです」
ある日の店じまい後、良太がぽつりと、そんな本音を漏らした。
「私たちは、何も間違ったことはしていないのでしょうか。……俺たちの料理は、もしかしたら、もう時代遅れなのかもしれません」
その声は、か細く震えていた。
私は、そんな彼の前に、温かいお茶を一杯、そっと置いた。
「良太。あなたは、誰のために料理を作っているのですか」
「え……?」
「流行りの料理を作りたいのですか? それとも、誰かの心を温める一膳を、作りたいのですか?」
私の静かな問いに、良太ははっとしたように顔を上げた。
「それは……もちろん、人の心を温める一膳を……」
「ならば、何も迷うことはありませんわ。私たちは、これまで通り、私たちの信じる料理を作り続ければ良い。ただ、それだけのことです」
私の言葉に、良太はこくりと頷いたが、その瞳の奥の迷いの色は、まだ完全には消えていないようだった。
そんなある日の昼下がり。
桶屋の娘さんであるお初ちゃんが、店に駆け込んできた。
「おし乃さーん! ねぇねぇ、向かいのお店、すっごく綺麗だね! 私、昨日こっそり中を覗いちゃった!」
元気いっぱいの声が、静かな店内に響き渡る。
「まあ、お行儀が悪いわよ、お初ちゃん」
「だって、気になるんだもん! 中で食べてる人たち、みんなお殿様みたいだったよ! それに、お料理がね、まるでお花みたいに綺麗なの!」
子供らしい素直な感想。
その言葉が、良太の心をちくりと刺したのが、私にはわかった。
「……お初ちゃん。そんなに気になるなら、今度良太にいちゃんと一緒に、こっそり見に行ってみるかい?」
良太が、少し無理をしたような笑顔で、お初ちゃんに言った。
「本当!? やったー!」
その日の夕暮れ時。良太は、お初ちゃんの手を引き、そっと『風のま』の様子を窺いに行った。
しばらくして店に戻ってきた良太の顔は、青ざめていた。
「どうだった、良太?」
「……すごかったです。……おし乃さん。……俺たちが今まで作ってきたものとは、全く違う。……料理の一つ一つが、まるで芸術品のようでした。お客さんたちも、皆、うっとりとした顔で……」
その夜の賄いで、良太は黙々と、大根の飾り切りをしていた。
菊の花を模した、繊細な細工。それは、明らかに『風のま』の料理を意識したものだった。
しかし、その手つきはぎこちなく、出来上がった飾り切りは、どこか形ばかりで、魂がこもっていないように見えた。
私は、そんな彼の前に、黙って一杯の澄まし汁を置いた。
「良太。そのお料理は、誰に食べさせたいのですか?」
私の静かな問いに、良太は顔を上げることができなかった。
そんな良太の心が、さらに揺れる出来事が起こった。
数日後、やわらぎ亭に、金さんがふらりとやってきたのだ。
「よう、おし乃さん。……おや、良太君。なんだか、元気がないじゃないか」
金さんは、良太の浮かない顔を見て、にやりと笑った。
「さては、向かいの店のことで、悩んでいるな?」
図星を指され、良太はびくりと肩を震わせた。
「いやなに、何を隠そう、この金さんも、先ほど向かいの『風のま』で、一杯やってきたところでしてな」
「えっ……!?」
思いがけない言葉に、良太は目を丸くする。
私も、少しだけ驚いた。
「どうでしたか、金さん。向かいのお店のお味は」
私が尋ねると、金さんは腕を組み、ううむ、と唸った。
「見事な腕でしたな。舌が喜ぶとは、まさにあのこと。京料理の粋を集めたような、繊細で、気品のある味わい。……江戸の食の景色も、これから変わっていくのかもしれませぬな」
金さんの、手放しの称賛。
良太の顔が、ますます曇っていく。
「……けれど」
金さんは、そこで意味ありげに言葉を切った。
「けれど……?」
「どうにも、腹の底に、ずしりと残るものがなかった。……美味い。実に美味いのだが、心が、温かくならなかった。……不思議なものですな」
金さんは、そう言うと、私の淹れた焙じ茶を一口すすり、ふう、と満足そうに息をついた。
「やはり、儂の腹と心には、おし乃さんのこの一杯が、何よりのご馳走のようだ」
その言葉に、良太の強張っていた顔が、ほんの少しだけ和らいだ。
けれど、彼の心の迷いは、まだ晴れてはいない。
その日の店じまい後。
良太が、意を決したように私の前にやってきて、深々と頭を下げた。
「おし乃さん。……俺も、もっと新しい料理を学んだ方がいいのでしょうか。京の料理のことも、もっと勉強した方が……」
その瞳には、これまで見たこともない、深い迷いの色が浮かんでいた。
私は、そんな良一の目を、まっすぐに見つめ返した。
そして、静かに、しかし力強く、微笑んだ。
「良太。迷うのは、あなたが真剣に料理と向き合っている証拠です。それは、とても良いことですよ」
「おし乃さん……」
「答えは、人の話や噂の中にはありませんわ。ましてや、私の言葉の中にも」
私は、きっぱりとそう言った。
「答えは、私たち自身の舌で、心で、確かめるしかありません」
「え……?」
「明日の昼、二人であの『風のま』に、客として食べに行きましょう。そして、私たちの料理と何が違うのか、何が同じなのかを、その舌で、その心で、感じてくるのです」
私の、あまりにも予想外の提案。
良太は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、ただ呆然と私を見つめていた。
「……い、良いのですか……?」
「ええ。これも、立派な修行ですわ」
やわらぎ亭の料理人として、初めての「敵情視察」。
良太の心に渦巻く黒い雲を吹き払うための、大きな賭けが、始まろうとしていた。
私の胸の中には、不思議と、一点の不安もなかった。
炊き場の竈から立ち上る湯気が、ひときわ温かく感じられる。私と良太は、いつものように夜の支度に精を出していた。
「おし乃さん、この里芋、見事なもんですねえ。煮っころがしにするのが楽しみです」
良太が籠に山と盛られた里芋を眺めながら、感嘆の声を上げた。その顔は、極上の食材を前にした料理人としての喜びに輝いている。八百屋の忠吉さんが、今朝一番で届けてくれた土の香りがする逸品だ。
「ええ、本当に。人の頭ほどもある聖護院蕪も良いけれど、こういう素朴な芋こそ、人の心を温めるのかもしれないわね」
そんな穏やかな会話を交わしていた、ある日のことだった。やわらぎ亭の真向かい、しばらく空き店舗になっていた貸家が、にわかに活気づいたのだ。数日前から職人が出入りし、何やら新しい店ができるらしいと、町の噂になっていた。
「よう、おし乃さん! 見たかい、向かいの店!」
威勢のいい声と共に店に飛び込んできたのは、火消しの弥之助だった。彼は自分のことのように興奮している。
「なんでも、京で修行したっていう、若い料理人が腕を振るうらしいぜ。そりゃあもう、小綺麗な店構えでよ。俺たちみたいな野郎が気軽に入れる雰囲気じゃねえかもしれねえな」
弥之助に続いてやってきた忠吉さんも、興味深そうに向かいの店を眺めている。
「店の前に品書きが出てたが、なんだか難しい名前の料理ばかりだったなあ。『すずきのあらい、きもじょうゆじたて』? それに『かもとくじょうねぎのこなべだて』だとよ。一体、どんな味なんだろうな」
その日の夕方、やわらぎ亭の真向かいに、新しい暖簾が静かに掲げられた。
店の名は、『風のま』。
白木の格子戸に、藍色の真新しい暖簾。これまでの深川にはなかった、洗練された佇まいだった。
「深川が賑やかになるのは、良いことですわ」
私は静かにそう微笑んだが、私の隣でその光景を見ていた良太の表情が、少しだけ強張っているのを、私は見逃さなかった。
新しい店『風のま』は、あっという間に江戸の食通たちの間で評判となった。
店の主である剣心という若い料理人の腕前は確からしく、その美しく、そして斬新な料理は、新しいもの好きの江戸の人々の心を掴んだようだった。
やわらぎ亭の客足が、目に見えて減ったわけではない。有り難いことに、うちの店はうちの店で、変わらず多くの常連さんたちで賑わっていた。
けれど、良太の心は晴れないようだった。
これまでやわらぎ亭を訪れていた若い衆や、少しばかり粋な身なりの商人たちが、連れ立って『風のま』の暖簾をくぐっていく。その光景を目にするたびに、彼は炊き場の隅で、きゅっと唇を結んでいた。
「おし乃さん。……なんだか、悔しいです」
ある日の店じまい後、良太がぽつりと、そんな本音を漏らした。
「私たちは、何も間違ったことはしていないのでしょうか。……俺たちの料理は、もしかしたら、もう時代遅れなのかもしれません」
その声は、か細く震えていた。
私は、そんな彼の前に、温かいお茶を一杯、そっと置いた。
「良太。あなたは、誰のために料理を作っているのですか」
「え……?」
「流行りの料理を作りたいのですか? それとも、誰かの心を温める一膳を、作りたいのですか?」
私の静かな問いに、良太ははっとしたように顔を上げた。
「それは……もちろん、人の心を温める一膳を……」
「ならば、何も迷うことはありませんわ。私たちは、これまで通り、私たちの信じる料理を作り続ければ良い。ただ、それだけのことです」
私の言葉に、良太はこくりと頷いたが、その瞳の奥の迷いの色は、まだ完全には消えていないようだった。
そんなある日の昼下がり。
桶屋の娘さんであるお初ちゃんが、店に駆け込んできた。
「おし乃さーん! ねぇねぇ、向かいのお店、すっごく綺麗だね! 私、昨日こっそり中を覗いちゃった!」
元気いっぱいの声が、静かな店内に響き渡る。
「まあ、お行儀が悪いわよ、お初ちゃん」
「だって、気になるんだもん! 中で食べてる人たち、みんなお殿様みたいだったよ! それに、お料理がね、まるでお花みたいに綺麗なの!」
子供らしい素直な感想。
その言葉が、良太の心をちくりと刺したのが、私にはわかった。
「……お初ちゃん。そんなに気になるなら、今度良太にいちゃんと一緒に、こっそり見に行ってみるかい?」
良太が、少し無理をしたような笑顔で、お初ちゃんに言った。
「本当!? やったー!」
その日の夕暮れ時。良太は、お初ちゃんの手を引き、そっと『風のま』の様子を窺いに行った。
しばらくして店に戻ってきた良太の顔は、青ざめていた。
「どうだった、良太?」
「……すごかったです。……おし乃さん。……俺たちが今まで作ってきたものとは、全く違う。……料理の一つ一つが、まるで芸術品のようでした。お客さんたちも、皆、うっとりとした顔で……」
その夜の賄いで、良太は黙々と、大根の飾り切りをしていた。
菊の花を模した、繊細な細工。それは、明らかに『風のま』の料理を意識したものだった。
しかし、その手つきはぎこちなく、出来上がった飾り切りは、どこか形ばかりで、魂がこもっていないように見えた。
私は、そんな彼の前に、黙って一杯の澄まし汁を置いた。
「良太。そのお料理は、誰に食べさせたいのですか?」
私の静かな問いに、良太は顔を上げることができなかった。
そんな良太の心が、さらに揺れる出来事が起こった。
数日後、やわらぎ亭に、金さんがふらりとやってきたのだ。
「よう、おし乃さん。……おや、良太君。なんだか、元気がないじゃないか」
金さんは、良太の浮かない顔を見て、にやりと笑った。
「さては、向かいの店のことで、悩んでいるな?」
図星を指され、良太はびくりと肩を震わせた。
「いやなに、何を隠そう、この金さんも、先ほど向かいの『風のま』で、一杯やってきたところでしてな」
「えっ……!?」
思いがけない言葉に、良太は目を丸くする。
私も、少しだけ驚いた。
「どうでしたか、金さん。向かいのお店のお味は」
私が尋ねると、金さんは腕を組み、ううむ、と唸った。
「見事な腕でしたな。舌が喜ぶとは、まさにあのこと。京料理の粋を集めたような、繊細で、気品のある味わい。……江戸の食の景色も、これから変わっていくのかもしれませぬな」
金さんの、手放しの称賛。
良太の顔が、ますます曇っていく。
「……けれど」
金さんは、そこで意味ありげに言葉を切った。
「けれど……?」
「どうにも、腹の底に、ずしりと残るものがなかった。……美味い。実に美味いのだが、心が、温かくならなかった。……不思議なものですな」
金さんは、そう言うと、私の淹れた焙じ茶を一口すすり、ふう、と満足そうに息をついた。
「やはり、儂の腹と心には、おし乃さんのこの一杯が、何よりのご馳走のようだ」
その言葉に、良太の強張っていた顔が、ほんの少しだけ和らいだ。
けれど、彼の心の迷いは、まだ晴れてはいない。
その日の店じまい後。
良太が、意を決したように私の前にやってきて、深々と頭を下げた。
「おし乃さん。……俺も、もっと新しい料理を学んだ方がいいのでしょうか。京の料理のことも、もっと勉強した方が……」
その瞳には、これまで見たこともない、深い迷いの色が浮かんでいた。
私は、そんな良一の目を、まっすぐに見つめ返した。
そして、静かに、しかし力強く、微笑んだ。
「良太。迷うのは、あなたが真剣に料理と向き合っている証拠です。それは、とても良いことですよ」
「おし乃さん……」
「答えは、人の話や噂の中にはありませんわ。ましてや、私の言葉の中にも」
私は、きっぱりとそう言った。
「答えは、私たち自身の舌で、心で、確かめるしかありません」
「え……?」
「明日の昼、二人であの『風のま』に、客として食べに行きましょう。そして、私たちの料理と何が違うのか、何が同じなのかを、その舌で、その心で、感じてくるのです」
私の、あまりにも予想外の提案。
良太は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、ただ呆然と私を見つめていた。
「……い、良いのですか……?」
「ええ。これも、立派な修行ですわ」
やわらぎ亭の料理人として、初めての「敵情視察」。
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